『センセイの鞄』を読み返した。泣くためではなく
あらためて、とてもいい。
時々「書き写したくなる本」というのがあって、これもそう。
ツキコさんの心情が痛いほどよくわかる。
センセイの心情は書かれてないんだけど、なぜだかよくわかる。
ツキコさんとセンセイ、出会えてよかったねえとしみじみ思う。
センセイの、予想を裏切る行動がおかしい。
たとえば、まじめな話になりそうなとこで、
ツキコさんのポカンと開いてる口に指をひゅっと差し入れたり。
居酒屋で絡んできた男の、ピアスを盗んだり。
そして最後の方のこの一行。
一度だけ、センセイが携帯電話をかけてくれたときの話をしようか。
ここでもう、じわっとくる。
この一文だけ調子が変わるんだ。
「しようか」で、あ、過去のことなんだ、と
「袖すりあうも多生の縁」という言葉の意味を、この小説で知った。
ツキコさんと同じく、「多少」、つまりちょっとだけ縁がある、と思ってた。
多生とは、「生き物は何回も生まれ変わる」という仏教の考えからくる言葉なんですね。
「多生の縁」とは「前世で結ばれた縁」という意味だそう。
「人と人とは、誰もそうでしょう、たぶん」
たんたんと言うセンセイが、いいです。