もうかれこれ半世紀。
「高校野球オヤジ」として高校野球を見続けていますが、
昨日のニュースは、
ここ数年では最もうれしかったのではないでしょうか。
名門・高知商が、
第100回全国高校野球選手権高知大会の決勝で、
あの「絶対王者」明徳義塾を破って、
12年ぶりの代表の座を勝ち取りました。
しかも10-2という圧勝。
「高知商ファン」としては、
胸のすくような快勝でした。
これまで20年以上にわたり、
ずっと”1強”状態を許し続け、
ことこの選手権に関しては「どうしても勝てない」相手だった明徳義塾。
何回挑んでも、
その高く厚い壁に阻まれ、
いつも悔し涙にくれていた高知商。
「いつかは」
の思いは、
ついに結実しました。
高知県高校野球のファンとしては、
高知商・高知・土佐の”元祖3強”には、
特別な思い入れがあります。
特に高知商は、
正統派の豪腕投手に黒潮打線を絡める、
”いつでも全国制覇が狙える、全国レベルの強豪”
として位置づけられていて、
甲子園での戦いに高知としてのプライドをにじませながら、
応援していました。
ワタシが高知商に「はまった」のは、
何といっても昭和53年の選手権準優勝。
第60回大会のことですから、
もう40年も前のことになりますね。
それまで5,6年くすぶっていてライバルの後塵を拝していたのですが、
久しぶりの出場でこの高知商、
本当に甲子園で躍動しました。
エース左腕の森投手もすごかったが、
それを支える”黒潮打線”の迫力がすごかった。
今みたいにホームランがバンバン出る時代ではありませんでしたが、
高知商の打線は上位・下位むらなく鋭い打球を放ち、
「息を抜けない」というのがぴったりの打線でした。
特にトップを打った明神選手がすごかった。
ちなみに昨日、
NHKの「日本人のおなまえっ」という番組で甲子園球児の名前についてやっていたのですが、
その中で「明神」という名前が紹介されていました。
ワタシはてっきり・・・・というか、
高知県人のだれもが「おお・・・・あの高知商の明神が紹介されるのか!」
と思っていたところ、
出てきたのは宇和島東の明神くん。
そりゃ、ね~だろ!
と思った次第でした。
あの高知商の明神を紹介せず、どないすんねん!!!!
まあ、
そんなことはさておき。
その時の高知商で異彩を放っていたのは、
「ツキを落とさないために、ユニフォームは絶対に洗わない!!」
というチームの方針。
それゆえ、
試合をするたびに高知商のユニフォームは汚れていき、
ついに決勝戦では、
試合する前から真っ黒のユニフォームに身を包んで……という、
今では考えられないいでたちでの登場でした。
しかし幼かったワタシの眼には、
その姿は、
なんだかものすご~く強い侍の姿そのものに映って、
それから「何はなくとも高知商」という時代が長く続きました。
大体がワタシは、
四国のチームが大好き。
何というか、
たたずまいと言おうか、
雰囲気と言おうか、
そんなものが大好きでした。
この高知商、
そして池田は、
埼玉の上尾と並んで、
ワタシの「大好きな高校ビッグ3」です。
そして高知商は、
その大会では決勝で、
初優勝にあと1アウトと迫りながら、
あの「逆転のPL」のうっちゃりを食らって、
失意の大逆転サヨナラ負けを喫するのです。
しかしその悔しさを飲み込んで鍛えぬいたその時の1年生、
彼らが高知商に初めての「全国制覇」をもたらします。
それが昭和55年の選抜大会。
高知商は、
エース中西(元阪神)を擁して堂々の優勝候補に名を連ね大会に臨み、
黒潮打線は爆発しない試合が多かったものの、
接戦をしぶとく勝ち抜いて、
決勝では帝京をサヨナラで破って、初優勝を遂げました。
その時に中西とともにチームを引っ張ったのが、
現監督の上田監督。
そのチームには上田卓と上田修という「二人の上田」がいて、
両者ともに素晴らしい活躍でチームを引っ張り上げました。
素晴らしく強くて安定感のある高知商でしたが、
その「選抜優勝帰り」の高知商に、
「すい星のごとく現れた新興勢力」として敢然と立ちお向かったのが、
誰あろう明徳高校(現明徳義塾)なのです。
元高知商の名監督であった松田氏を監督に招聘し、
選手にはエースに河野(元日ハム・巨人)、主砲に横田(元ロッテ)と、
のちにプロ野球で活躍する選手をそろえ、
しかも設備は当時「自称日本一」を誇っていました。
そんな明徳が高知県の高校野球界に風穴を開けようとした元年に、
ライバルの高知商の主将として甲子園への道を譲らなかったのが上田修現監督。
なんだか40年経って、
今度は王者に長年君臨する明徳義塾、
特に今年は秋の明治神宮大会で「全国制覇」を成し遂げた、
まごうこと無き強豪の明徳義塾を倒して高知商が聖地に帰還するとは、
一つの壮大なドラマって感じがしますね。
高知商は、
この第100回大会の年に、
野球部創部100周年、そして学校は120周年を迎えるそうです。
「何としても甲子園へ」
という気迫が乗り移ったような昨日の戦いっぷり、
往年の「強かった」高知商を思い起こさせるもので、
本当に長年胸につかえていたものが取れたような、
感動が感動を呼ぶ戦いでした。
ドラマといえばもう一つ。
明徳は全寮制ですから、
全国から中学の有力選手が集ってくる環境です。
それゆえなかなか地元・高知からの選手がメンバー入りすることはないのですが、
今年の大エースである市川クンは、
明徳にしては珍しい地元高知出身。
ワタシも彼を、
甲子園では応援していました。
その市川クンがエースに君臨する明徳を高知商が破ったというのも、
なんだか一つのドラマのような気がしますね。
野球の神様は、
本当にいろいろな演出をしてくれます。
それにしても高知商。
昨日のような戦いができれば、
強豪集う甲子園でも、
かなり期待ができるのではないかと思っています。
明徳が甲子園で勝ち続けても、
どうしても何か盛り上がらなかった高知県にあって、
「ザ・地元」である高知商が出場して勝ち上がっていけば、
どれだけ盛り上がることでしょうか。
今年の夏は、
”よさこい”にもまして、
土佐の夏は盛り上がりまっせ!
なんだか「100回大会に華麗に復活」した高知商が、
あの第60回大会以来の快進撃を成し遂げるという姿を、
思わず夢想してしまいます。
いや~~~~
本当に楽しみだ。
頑張れ市商(高知商の地元での愛称)!!
精一杯、応援しまっせ~!
今回の高知商の優勝、夢のような出来事です。
今年はエースがいいので期待できるとは思っていたものの、明徳の野球力の前に最後は屈してしまうんではないかと、勝手に想像していましたが、見事にその大きな壁を突破してくれましたね。
明徳に勝ったということを自信にして、甲子園でも戦ってほしいと思います。
2008年からブログをやっていて、いつか高知商の事を書きたいとずっと思っていたので、嬉しいですね。
選抜で土佐、中村の復活があり、今度は高知商。応援のボルテージも上がります。
ずっと拝見させていただいていましたが、今日はどうしても投稿せずにはいられませんでした。
なぜなら自分は高知商業OBなのです。
管理人様が大の市商ファンであることは存じておりましたので、
今日のブログが楽しみで仕方ありませんでした。
思いの丈を発している言葉にいちいち共感している次第でございます。
(明神のくだり。ちーがーうーだーろー!!と思いましたね)
管理人様が市商にハマッたきっかけの昭和53年の夏の大会で、自分も高校野球にどっぷりハマり、市商大好き少年になりました。
初めて見た高校野球が、昭和52年春、
山沖投手徹する「二十四の瞳」中村高校。初出場ながら快進撃に心ときめかせ、
その後夏、53年春と連続出場したエンジのアンダーシャツが異様にかっこイイ高知高校のファンになりました。
そして53年の夏の県予選決勝で大好きだった高知高が市商に敗れ、
「クソッ。何だこの高知商業って?ユニホームも地味で普通のクセして!!」
それまでも高知県の雄として君臨していましたが、当時不振でしばらく遠ざかっており、まだ幼かった自分には全くの無名校でした。
満を持して挑んだ久々の大舞台。
躍動していましたねえ。
勝ち上がっていくにつれて泥だらけになっていくユニホーム。
子供心に「カッチョイイ!!」。
一番バッターの「切込み隊長」明神選手と三遊間を組むショート森田洋生選手。
特にこの2人はポジション柄とくに真っ黒でしたっけ笑
そして決勝。
「何?ピーエルガクエン?変な学校」大会当初そう思っていました。
結果はもういいですね。
ウチのおかんも泣いていましたっけ。
その後、55年選抜の優勝。
サヨナラ勝ち瞬間は家中転げまわって喜んだのは言うまでもありません。
(よくYoutubeで見かける○○を貰ったときの外人の子供みたいな)
キャッチャー堀川選手の好スライディングを当時通っていた病院の廊下で真似しました。
翌日の「ズームイン朝!」で徳光さんが「あれはノータッチだ」とクレームつけていましたのを覚えています笑(半分本気にもとれました)
長くなりましたが、今大会が非常に楽しみになりました。
短すぎて、校旗掲揚のスピードが異様に速い校歌を何回聴けることでしょう。
(あまりにも尺が短いので、2番まで流したこともありましたね。)
がんばれ市商!!
追記
明徳の市川投手のご両親は高知商業出身です。なので当然高知商業に進んでほしかった様子。
また高知商業側も打診はしましたが、あまり脈が感じられなかったので、それほど熱心に勧誘しなかったらしいですね。
ちなみに私は明徳のファンであり、管理人様が縁もゆかりもない高知県の市商が大好きなように
箕島高校の大ファンです。(№1)
今年も惜しかったなあァ…