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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   26.愛知

2012年07月29日 | 高校野球名勝負

最も印象に残った球児

26.愛知



野中 徹博  投手  中京   1982年 春夏   1983年 夏   


甲子園での戦績

82年春   1回戦    〇  4-1     桜宮(大阪)
        2回戦    〇  1-0     大成(和歌山)      
        3回戦    〇   5-3     尾道商(広島)
        準々決勝  ●   1-3     二松学舎大付(東東京)
   夏    1回戦    〇  2-1     関西(岡山)
        2回戦    〇  3-0    佐世保工(長崎)
        3回戦     〇  5-0    益田(島根)
        準々決勝   〇  5-1    津久見(大分)
        準決勝    ●   0-1    広島商(広島)      
83年夏   1回戦    〇  11-1    北陸(福井)
        2回戦    〇   8-3    岡山南(岡山)
        3回戦    〇   1-0    宇都宮南(栃木)
        準々決勝  ●   1-3    池田(徳島)



第2回大会から代表校を送り続け、
全国屈指の野球王国の名前をほしいままにした愛知県の高校野球。
特にその代名詞と言える中京(現中京大中京)は、
選手権7回、選抜4回の優勝を誇り、
全国最多の131勝の甲子園での白星を積み上げる、
名門中の名門です。

その中京にあって、
昭和40年代中盤以降の最も輝いた選手をあげろと言われれば、
ワタシは迷わず野中投手をあげます。

ライバルの東邦にはバンビ坂本投手、選抜2年連続で決勝に進出した山田投手がおり、
愛工大名電には工藤投手の存在があります。
享栄にも近藤投手、そして新興の豊田大谷には1試合2ホーマーの古木選手などもいました。

名選手の宝庫である愛知県は、
どの選手でもそのストーリーに彩りが添えられそうですが、
ワタシはやはり、
『甲子園で輝いた』野中投手の印象が一番強いですね。


入学時から全国にその名を知られていた野中投手がその姿を初めて甲子園に現したのは2年春。
中京は優勝候補に挙がってはいなかったものの、
伝統の力は侮れないとの評価でした。

野中はピッチャーとしてはずんぐりむっくりの体型でした(当時はその体型の投手は珍しかった)が、
その体を使っていかにも重そうな球をビシビシと投げこんでいました。
見たところ球速は140キロにも満たなかったと思いますが、
何しろ打者が打っても詰まる姿を見るたび、
『いい球筋なんだなあ』
という思いを抱き見ていました。

桜宮、大成、尾道商と癖のある相手を次々に破り、
迎えた準決勝での相手は二松学舎。

勢いで上がってきたチームだったので、
中京の優位は動かないと思って見ていましたが、
肝心の味方打線が軟投の市原投手を捕らえきれず。

ズルズルと深みにはまるような試合展開で、
野中は”よくわからないうちに”敗れ去ってしまいました。


その野中が最も輝いたのは2年夏。

打線を強化して臨んだ中京のマウンドには、
春のセンバツより一回り成長した野中の姿がありました。

『球速がかなり出てきたな』
というのが夏の野中を見たワタシの印象。

優勝候補にも挙がっていた中京は、
1回戦から準々決勝までの4試合、
盤石の戦いぶりで勝ち上がりました。

野中は4試合でわずか2失点。

逆のブロックから勝ち上がる池田の猛打と中京の投手力。
この【頂上決戦】にファンは思いをはせていました。

が・・・・・・、


中京はまたも準決勝で、
選抜と同じような試合展開で”なんとなく”敗れ去ってしまいます。
相手は同じく創生期から高校野球界を引っ張ってきた広島商。
名門対決でした。

明らかに投打とも中京の力が上回っているとみられていましたが、
試合とはわからないもの。

広商は2回に挙げた1点を守りきり、
攻めども攻めどもホームが遠かった中京は、
13残塁という残塁の山を築きながら無得点で、
失意のままに甲子園を去ることになってしまいました。


野中はこの時2年生。
捲土重来を期すこの剛腕に、
世間の注目が集まってもしかるべきでした。

しかし世の中は、
決勝で広商を強打で粉砕した【史上最強】の池田を中心に回り始めます。

『当然出るはずの』選抜に出場できなかった中京・野中は、
軽々と夏春連覇を成し遂げたライバル・池田の姿を、
遠くから見守るしかありませんでした。

前年夏の大会後に行われた【高校野球選抜チーム】で池田のエース・水野らと親交を深めた野中は、
内心忸怩たる思いだったことでしょう。

その思いを最後の夏にぶつけ、
県内のライバル・藤王(享栄)を打ち破り、
2年連続の夏の甲子園切符を掴み取りました。


83年の夏。

世の中の注目は、
池田の高校野球史上初となる【夏・春・夏の3連覇】に注がれていました。

たくさんのテレビがその動向を追い、
ドキュメンタリーなどはいくつ作られたかわかりません。

しかし池田迎撃の刺客として、
野中は静かに腕を撫していました。


池田が勝ち進むと同様、
野中も1・2・3回戦を圧勝。

中京は野中を援護する打線が、
前年とは比較にならないほどの力を持ち、
大会が進むとともに、
『池田と中京。どっちが強いの?』
という話題が語られるようになるほど、
両校の戦力は充実していました。


果たして大会は終盤へ。


ここでクジのいたずらが起こります。

池田vs中京

この両雄の対決が、
準々決勝に決まったのです。

その早すぎる対決にワタシは落胆を隠せませんでした(決勝対決を想像していたため)が、
世間では当然のごとく『事実上の決勝戦』といわれ、
この朝8時からの第1試合に、
6万ともいわれる観衆が駆けつけて、
甲子園は満員札止めになりました。


そして始まったこの試合。


ワタシの【高校野球観戦史】の中で、
ベスト3に入る好ゲームとなりました。

両チームのエースの投げ合いの中、
4割を誇る両チームの強力打線は沈黙。

8回まで1-1と、
一歩も譲らない好試合となりました。

得点以上に、
ものすごいレベルの試合でした。

こんなレベル以上の試合は、
20年に一度ぐらいしかお目にかかれませんね。

『奇跡』

と呼ぶシーンはありませんでしたが、
ぞくぞくする力と力のぶつかり合いでした。

この【最高の試合】の決着は突然に訪れました。

池田・高橋が9回、
野中の失投を見逃さずレフト最上段まで叩き込む一発!!

『これが池田野球だ!!』

というのを満天下に見せつけての、
ものすごい勝ち方を見せた時、
甲子園全体が異様なほどの静けさに包まれていたという感覚を持ちました。

打たれた後マウンドで、
レフト方向を振り向きながら野中が、
あきれたように苦笑いを浮かべていた顔が、
忘れられません。


このものすごい試合で、
勝者と敗者は分かれましたが、
もともとよく知りあう仲だった野中と水野が、
攻守交代の合間にマウンドでお互いにボールを渡しあうシーン、
凄く印象深く残っています。

凄い試合でした。

野中は水野と並び、
この試合で”伝説”になりかけました。


しかし大会はこの後、
思わぬ展開となりました。

この試合で力を使い果たしたのではとは決して思いたくないのですが、
【絶対王者】池田は、
この【宿命のライバル】中京を破ったその翌日に、
特に気にもかけていなかった1年生コンビ、
桑田・清原のPL学園にボコボコニされて敗れ去ってしまいました。

王者交代は、
実にあっけないものでした。

高校野球の、
そして一発勝負の怖さというものを、
嫌というほど見せつけられました。

そしてPLはその後、
絶対王者を超える【絶対・絶対王者】として高校野球界に君臨し続けるのです。


しかしあの夏。

なんと言われようとも、
一番力があったのは池田と中京。
水野と野中だったと確信しています。


残念だったのは、
両投手ともにその秋ドラフト1位でプロ野球に進んだものの、
一度も高校時代のあのまばゆいばかりの輝きを見せることなく、
プロ野球を去ったことでした。

やはり高校時代に輝く選手とプロで輝く選手って、
いると強く感じた出来事でしたね。


最後に一言。

中京(時代)の野中は凄かった!
NO1投手でした。



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