私も 一言 

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まだ仕事は残っています

2024-08-28 10:01:42 | 日記

「老いて聞く 安らぎへの法話」という 本の中に
最後の仕事という項目が ありますが、
その一つで、「まだ仕事が残っています」というお話です。

 本願寺派に雑賀正晃というとても立派な布教使さんが
おられました。
そのご法話で こういうお話を聞いたことがあります。

雑賀先生のお寺の檀家総代 Yさんが老齢で入院され、
もう末期になられた。
雑賀先生がお見舞いに行かれると、目に涙をためて、
「先生、もう私は何もできません。この家内と看護師さんの
お世話になるばかりで・・・・」と細い声で言います。

「いや、Yさん、あなたには まだ大事な仕事が残っています。」
「仕事って、どんなことですか」
「『ありがとう』って言うことですよ。奥さんにも、先生にも、
  看護師さんにも、お見舞いの人にも『ありがとう』とお礼を言うのが
  あなたの仕事です。もし声が出なかったら、手で、眼で
  言ってください」

「あぁ、そうでした、そうでした。本当ですね。『ありがとう』
  ございました」
「それにね、Yさん。どのようになっても、お救いくださる
  阿弥陀さまにお礼申しあげることが第一ですよ」
「あぁ、そうでした、そうでした。なもあみだぶつ、
  なもあみだぶつ、・・・・」

  藤枝宏壽著 老いて聞くやすらぎへの法話より 自照社出版


  まだ、まだ先は長いと思っていますが、明日がしれないこのいのち
 大切な人に、そして阿弥陀さまに ありがとうございますと
 お礼をする一日でありたいものです。

 

 


さいごの仕事

2024-08-21 09:47:47 | 日記

 あるご門徒さんが言われました。
「わたし、歳がいったらもう何もできません。
 あかんもん(だめなもの)になってしまいました」と

 そこで私は「いや、いや。まだ大事な仕事が残っていますよ」
と、言って次のようなお話をしました」

大阪府吹田市の光徳寺さんの掲示板にこういう詩がはってありました。
   病気になって 気付く 空の青さ 空の高さ 空の広さ
                     直海玄洋師

 ある日、中年の女性が、この人は薬剤師さんでしたが、
この詩を見て感動します。
実はガンの宣告を受けて、悩んでいたのです。
さっそく住職の直海先生にお会いしてお尋ねします。

「私は、余命いくばくもないと宣告されてから、身の回りの
  整理をしましたが、どうしても心の整理がつきません。
  人間、何のために生まれてきたのでしょうか」

すると直海先生が、
「仏法を聞いて、仏の世界に生まれ、仏のさとりを
  得るために生まれてきのです」
 と答えられます。

女性は目の前が明るくなるのを感じました。
それから、彼女は何回も仏法を聞かれましたが、
ついにこの世のご縁が尽きて亡くなられました。
すると、ベッドの下から遺書が見つかりました。

 私は間に合ってよかった。
  みんな、手遅れにならない中に、仏法に遇うておくれ。

 彼女は、自分自身のいのちの行き先をハッキリするという
大仕事をやり遂げ、さらに遺された若い人たちをも、
その人生の行き先に導くという さいごの仕事をされたのでした。

  藤枝宏壽著 老いて聞くやすらぎへの法話より 自照社出版

 

 


お母さんの 一言

2024-08-12 11:42:22 | 日記

 阿弥陀さまのお話をユーチューブで繰り返し聞きながら、
何故か、子どもの頃に見たモノクロの映画のことを断片的に

思い出しました。

 当時、「母もの映画」といっていたようですが、三益愛子という
俳優さんがいつも母親役で、食料事情も良くない戦後まもなく、
その日 その日、食べることにさえ苦労していた、大変な時代のこと、
苦労して苦労して一人息子を育てていた母親。

 しかし、子どもの方は、その親の心が分からず、反抗し悪い仲間と
つるんで問題ばかり起こして、心配をかけつづけていますが、ついに
警察につかまってしまいます。
それでも見捨てることのできない母親、連行されていく子どもが、
そこに母の姿を見て、はじめて「おかあさん」と、呼んだ時、観客は、
みんな一斉に涙を流していたのを思い出しています。

「お母さん」との息子の言葉、涙する母親、一緒に泣いている
満員の観客。
どの母もの映画を見ても みんな同じような物語だったように思います。
今思えば、脚本家か監督か制作者なのか、浄土真宗のご法話を聞き
阿弥陀さまのはたらきに、反抗する人が、その有り難さに気づいて
南無阿弥陀仏と口にお念仏するそのことを、母と子の関係で
表現したのではないかと、味わっています。

 反抗し 反抗し 困らせ続けた息子が 最後に一言 お母さんと
声に出す、それは、母親の苦労、心配に気づいて 有り難く
感じてた瞬間だったのでしょう。

 出来損ないの息子が、親のきもちに触れて、お母さん と
呼んだときと同じように 南無阿弥陀仏と 声を出したとき、
こころから喜んでくださる方あることを、改めて味わっています。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 私を思い よびかけ続ける
大きなはたらきがあることを、そして、その有り難さを
感じたときに、口から漏れ出る 大きな願いのことばなのでしょう。
仏さまが、親たちが 最も喜んでいただくことば、安心することばです。

 

 

 


未来は 前か 後ろか

2024-08-06 21:48:44 | 日記

 こんな話を聞きました。
私たちは、未来へ、あしたへ向かって精一杯生きていますが、
未来は 明日は、どちらの方向にあるのでしょうかとの質問です。

 多くの人が、前に進む 前向きに生きると 未来は自分の前にあると
イメージしています。
「眼の前に広がる」のが未来であり、「後ろは振り返らない」などと、
うしろにあるのは、過去のことです。
未来は 自分の前にあり、過去は、自分の後ろにあるものと思っています。

 しかし、「この後のご予定は」等と言うとき、私たちは
未来を前ではなく「あと(後ろ)」に置いています。
三日後にまたお会いしましょうとか、五年後にはこうなるとか、
未来は 前ではなく、 後ろにあるように話しています。

 そして、三日前に、一年前は などと、過去のことは 

前と表現しています。
日頃使う言葉では、過去のことは 前方にあり、未来のことは 後ろ、
後方で表しているのです。
ですから、「以前」は、前は過去で 「以後」、後ろは、未来のことです。

 私たちの気持ちの上では
 前が未来で 後が過去なのですが なぜか 言葉では
逆の 未来を後ろ 過去を前の 表現をしています。

ヨーロッパの国では、過去は前にあり、全部見えるが、
未来は 自分の後ろにあり、何も見えないという表現をするところが
あるようです。

蓮如上人のお手紙である 御文章にある 後生の一大事 も
後生とは、これから先、未来のことを意味します。
見えているようで、見えないのが未来です。

浄土真宗では、お釈迦さまが説いていただいたように
精一杯生きている人は、必ずお浄土へ生まれさせ 
自分と同じはたらきをさせる仏にすると、阿弥陀さまは、はたらきかけて
いただいている、後は任せればいいのだと、受け取っています。

 これから、老病死 沢山の苦難が訪れるものの、心配はいらない
かならず、お浄土へ、そこには両親をはじめご縁のあった
多くの方々が、待っていていただく世界へ 生まれていくのですと、
呼びかけてくださっているのです。

その呼び声が 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
見ることの出来ない未来 阿弥陀さまにおまかせして
今できることを 精一杯 生きていきたいものです。

お盆が近づきましたが、地獄へ落ちた人は、地獄の釜の蓋が開く
13日に、お帰り頂くのでしょうが、お浄土の人は いつでも
私のために、遠くではなく、今、ここではたらいていただいているんです。

 

 


気づかない 私が

2024-07-30 13:10:51 | 日記

 大阪のおばちゃんが、左足のしびれが出始めて、病院にいきました。
診察したお医者さんは、「うーん、これは残念ながら、高齢のためですね」

と告げました。
「でも、先生、この右足も同級生ですぜ」と、返事しました。
先生も負けず、「心配せんでええ、まもなく右足もしびれてきます」と。

 同級生という表現でいえば、右足だけではなく、私の手も頭も口も
心臓もみんな同級生なのです。
ところが、頼みもしないのに、みんなだまって働き続けてくれています。

 夜になれば、私自身は、眠って休んでいますが、
一日も、一刻もやすむことなく、働いてくれた同級生も沢山います。
心臓はその一つです。
頼みもしないのに、やすむことなく働づめで私を生かしてくれています。
私が気づかないところで多くの臓器が、精一杯、黙々と働いて
くれていたのです。

 そればかりではないといいます。
頼みもしないのに、阿弥陀さまは、この私のためにずっと
はたらきかけ続けていただいているというのです。
気づかないだけ、知らなかっただけで、私のために多くの同級生と
一緒になって、私を生かし続けていただいているのです。

 そう気づくとき、感謝しても感謝しきれないことが、いかに多いかが
知らされてきます。
当たり前になって気づかないことが、なんと多いことか、南無阿弥陀仏は
その多くのはたらきかけに、気づき、心から、感謝することばであり、
仏さまが、そして私の体のすべてがもっとも喜んでくれる言葉なのです。

 何事も当たり前では、何の感動もなく不平不満のつらく苦しい毎日になりますが、
多くのはたらきかけに気づき、味わうことができれば、なんと
ありがたく喜びいっぱいの、豊かな人生を味わうことができるものです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は、その喜びを、感謝を表す言葉、
「ありがとうございます」という言葉にもよく似た、親たちが受け継いで
残してくれた 有り難いことばです。
私に、多くの はたらきかけがあることに気づかせてくださる
仏さまの言葉です。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏