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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 七十週

 あまり『聖書』に親しみのない、ごく平均的
な日本人が、以下の聖句を読んで、二者択一
してもらったならば、どちらの人物がこの場合
の彼であると思うでしょうか

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない


     『ダニエル書』9:26

 1 獄中で首を刎ねられた洗礼者ヨハネ  
 2 十字架にかけられたナザレのイエス

 結果がどうなるのかはわかりませんが

 クリスチャン(キリスト教徒)たちは、

 イエス・キリストの初臨(洗礼者ヨハネ
の洗礼によって、膏そそがれて以来、三年半
にわたる宣教活動)を経て、十字架の上での
死による(あがな)いにおいて、この預言
が成就したと考えるのが一般的ですが、


   イエスの洗礼 www.diwanmsr.com

 レオナルド・ダ・ヴィンチは違いました。

 少なくともイエスには の子、あるいは
「神」に匹敵する存在、さらには彼の意志
からは大きく逸脱し変節したもののイエス
キリストであると教える「キリスト教」という
世界的宗教が残され、その影響力はあまねく
地域で、はかり知れないものとなっています。

 一方で、洗礼者ヨハネと言えば「神」
から遣わされたイエス・キリストのための
先導者としての位置づけはされていても、

   
 『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 ただの露払いの使いとして、イエスから

  「あなたがたによく言っておく。およそ女
 から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
 偉大な者は現れなかった。しかし天の国
 で最も小さい者でも彼よりは偉大である」

    (マタイの福音書11:11)

 とまでに言われてしまう存在なのです。

 今回は、

 『ダ・ヴィンチの罠 受膏者』

 の続きをお送りしますが、冒頭の聖句の
直前にある言葉は、

 「その六十二週の後」です。

 その六十二週の後、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


     『ダニエル書』9:26
 
 つまり、メシア(救世主)が断たれるのは、
その六十二週の後ですから、「その」が何を
指すかが重要な問題です。


  出典:www.mustardseedosaka.com

 それでは、この文脈の基点はどこかという
と、その前の25節の前半部分に

 「それゆえ、エルサレムを建て直せと
 いう命令が出てから、メシアなるひとり
 の君が来るまで、七週と六十二週ある
 ことを知り、かつ悟りなさい」

 とあるので、

 基点は「エルサレムの再建命令」
が出された年であることがわかります。

 そして、そこから、七週と六十二週を経て、
メシアとなるひとりの君が現れるわけです
から、「その」は七週と六十二週とに分けて
いるうちの最初の七週の後ということです。

 基点となる年から 69週(7週+62週)の後
メシアなるひとりの君が現れるのですが
わざわざ、7週と62週とに分けている「その」
には何があったというのでしょうか

 それには、聖書における年数の表現方法
(数え方)を知らなければなりません。

 たとえば、
 
 「あなたがたは、かの地を探った四十日の
 日数にしたがい、その一日を、一年として
 四十年のあいだ、自分の罪を負い ・・・・」

     『民数記』14:34

  
   出典:peparmintdiary3.biz
 
 あるいは、

 「あなたはその期間を終わったなら、また
 右わきを下にして寝て、ユダの家の
 負わなければならない。

 わたしは、一日を一年として、四十日を
 あなたのために定める」

    『エゼキエル書』4:6

 とあるように、

 聖書的には、1日を1年に換算して計算
するのが、正しい解釈のようですね

 そこで、1週は7日ですから、1週は7年
であり、7週は49年(7×7)、62週は434年
(62×7)ということになります。

 
     出典:rhccjpn.org

 次に、基点の特定ですが、エルサレムの
再建命令は都合4回出されています。

 1回目は、BC537年で、
 ペルシャのキュロス王による命令です。

 2回目は、BC520年で、
 ペルシャのダレイオス大王の命令です。

 3回目は、BC457年で、
 ペルシャのクセルクセス王の命令です。

 4回目は、BC444年で、
 同クセルクセス王による追加命令です。

 これら四つのうちのいずれが基点となる
再建命令なのかについて、

 『ダ・ヴィンチの罠 受膏者』

  の記事の最後に、

 「四択問題」として提示しましたが、
基点となり得る年を特定するには、

 「エルサレムを建て直せの意味
をどこまでのものとするかで違ってきます。

 文字通りであれば、上記の四つのうちの
いずれかの選別は困難ですが、常識的に
考えれば、その命令によって もとどおりの
姿に戻された時のものである、とするのが
最も妥当と言えるでしょう。

 有名な「バビロン捕囚」で知られる
エルサレムの崩壊は、神殿や城壁が破壊
され、火が放たれて廃墟となり、民は捕囚
となってバビロンへ引かれ、国家としての
主権も何もかもを失いました。


      バビロン捕囚

 すなわち、

 これを受けての「神」からの啓示
『ダニエル書9章』であり、その25節
にエルサレムの再建があって、失われた
ものをすべて回復した後に、メシアなる
ひとりの君が現れるわけです。

 要は、破壊され廃墟となったエルサレム
が再建され復興された時の命令でしょう。

 『エズラ記』によれば、

 神殿はダレイオス王の時に復建します。

 「この宮はダレイオス王の治世の六年、
 アダルの月の三日に完成した」

    (エズラ記6:15)


 エルサレム神殿の再建 blog.livedoor.jp

 しかしながら、神殿が再建されただけで、
街路も堀も 完全には整備されているわけ
ではありませんし、国としての主権の回復
も、まだなされてはいません。

 それらが一通りの復興・回復をみるのは、
3回目のクセルクセス王の再建命令後で、

 「そして、王の七年の五月に、エズラは
 エルサレムに来た」  (エズラ記7:8)

 に始まり、それ以降、

 「・・・・ すなわち、あなたの神の律法を
 知っている者たちを ことごとく裁かせよ。
 あなたがたはまた、これを知らない者を
 教えよ」   (エズラ記7:25)

 以下に記述されているように、

 「神の律法を知るすべての者を治める」と
いうことで、国としての主権の回復があった
ことが文面により窺えますので、この3回目
の命令(BC457年)を起点として定めるのが
もっとも正しいものと判断します。

 4回目は『ネヘミヤ書』2:1以下にある
ようにネヘミヤが、クセルクセス王に申し
出て、懇願の末に追加された命令であって、
実質的再建は すでにエズラたちによって
その主要部は完工されていたわけですが、


  『ネヘミヤ記』 www.youtube.com

 この後、ネヘミヤを含め、BC408年まで
36年の間、基点からは実に49年にわたって、
再建が継続されていたということです。

 要するに、

 これが、七週(49年)と六十二週(434年)と
を分けている理由だと思われますが、

 端的に言えば、

 わざわざ七週と六十二週とに分けたのは、
クセルクセス王による追加分の再建命令が
出されたからであると、ダ・ヴィンチは推理
したわけです

 エルサレムが名実ともに完全に復活する
には 基点年から七週(49年)の時間(とき)
が必要であったということですねpeace


 城壁を再建するネヘミヤ ippanseisho.nomaki.jp

 こうして、

 エルサレムの主要な機能が一応、復興した
「その」六十二週(434年)の後にメシア
来るわけです。

 基点年 right 3回目の再建命令 right BC457年
 追加令 right 主要部 再建完了 right BC444年
 7週後 right 残存部の再建終了 right BC408年

 そして、「その」

 62週後 right メシアの出現時期 right AD 27年

 ちょっと待って、

     
     (計算おかしくね)

 BC408年の434年後だと、434-408=26

 だから、AD 26年になるのでは

 と思った貴方、紀元は0年から始まるわけ
ではなく、紀元元年とは、AD1年ですので、
27年でいいのです。

 さて

 AD27年、この年がひとつの鍵を握って
いると申し上げてきましたが、この年は、

 洗礼者ヨハネイエスが 30歳の頃
で、イエスの公生涯のスタートの年です。

 それ故に、洗礼者ヨハネから洗礼
受けるこの有名なシーンとともに、


 イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp

 メシア預言成就があったとして人々
記憶されているわけですが、

 これこそが「何かおかしくね」
とダ・ヴィンチは思ったわけです。

 「洗礼」を授けているのはイエスでは
なくヨハネの方なのですよ

  だ・よ・ね

 そうした疑問を鑑賞者に投げかけたのが、


    『岩窟の聖母』(ルーブル版)

 『岩窟の聖母』ルーブル版であって、

     
     『岩窟の聖母』ロンドン版

 カトリック教会の意図によって、間違った
まま人々に伝えられ、誤認させられている
虚構事実がロンドン版なのです。


 洗礼者ヨハネとイエスが入れ替えられている

 しかし、

 洗礼者ヨハネの登場は、ヨルダン川
でのイエス洗礼よりも、ずっと以前だ
と言うかもしれませんね

 そこで、

 洗礼者ヨハネの登場を『福音書』
で確認してみることにしましょう。

 「皇帝ティベリウスの治世の第15年、
 ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、
 ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟
 フィリポが イトラヤとトラコン地方の
 領主、リサニアがアビレネの領主」

 「アンナスとカイアファとが大祭司で
 あったときに、神の言葉が荒れ野で
 ザカリヤの子ヨハネに降った」

 「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの
 地方一帯に行って、罪の赦しを得さ
 せるために 悔い改めの洗礼を宣べ
 伝えた」  (ルカの福音書3:1-3)

 ルカは洗礼者ヨハネの宣教活動が
いつから始まったのかについて、

 「皇帝ティベリウスの治世の第15年」で
あるとハッキリ明示しています。

   
ティベリウス 在位 AD14年9月18日-AD37年3月16日

 皇帝ティベリウスは西暦14年9月18日
(グレゴリオ暦)に帝位に就いているので、
15年と言うと西暦29年ということですが、
これでは、前述したAD27年の2年先に
なってしまいますが

 これは以下の事情によるのものです。

 当時は西暦という紀年方法(暦)はなく、
ローマ建国(BC753年)を紀元とした
だったり、皇帝の治世などを基準に各年
を定めていました。

 ルカは皇帝の治世を採用したのですが
問題は西暦の定め方にありました。

 6世紀にある神学者(ディオニュシウス)
イエスの誕生を人類史の中心に据え
ようと考えて、誕生したとされる年の翌年
(ローマ建国から754年目)を 西暦元年と
したわけですが、残念なことに、そこには
誤差があったのです。



 『マタイの福音書』ではヘロデ大王
の時代にイエスは生まれたことになって
いますが、ヘロデ大王はローマ紀元750年
に亡くなっていることが、ヨセフスが著した
『ユダヤ古代史』に記載されていますので、
遅くてもBC4年までにイエスは誕生して
いたことになります。

 しかも、ヘロデ大王は死ぬ前の半年ほど
の間、エルサレムを離れていたと記されて
いますので、東方の博士たちがエルサレム
で謁見した時にヘロデ大王は元気であった
ことに加え、有名な「幼児虐殺」が事実
であったとすると、イエスの誕生はさらに
前のBC5~6年頃であったことになります。

 そうなると、今度は、

 「イエスが宣教をはじめられたのは、年、
 およそ30歳のときであって、人々の考え
 によれば、ヨセフの子であった」

    (ルカの福音書3:23)



 とする記述に無理が生じてきます。

 先のヘロデ大王と東方の博士たちの話
に出てくる「幼児虐殺」とは、

 『マタイの福音書』2章16節~18節に
あらわれるエピソードで、


 『幼児虐殺』ピーテル・パウル・ルーベンス(1638年)

 Wikipediaによる概要によると、

 占星術博士の星に関するエピソードの中
で、博士たちはユダヤ人の王を訪ねてきた。
    (マタイの福音書2:1)

 その当時、

 ユダヤ人の王であったヘロデは、自分を
かしうる者がなのかを調べるために
策略を練り、帰りに立ち寄り知らせるよう、
博士たちに頼んだ。 博士たちが他の道を
通って帰ったことを知ると、

 「大いに怒った。そして、人を送り、学者
たちに確かめておいた時期にもとづいて、
ベルレヘムとその周辺一帯にいた
二歳以下の男子を一人残らず殺させた」
    (マタイの福音書2:16)

  

 この話からして眉唾物ではないかと
ダ・ヴィンチ自身は疑っていたようですし、
互いに齟齬をきたす『福音書』の内容
に 彼が信頼をおいていなかったことは
確かなようですが、

 そう言ってしまうと、何も書けなくなるし、
根拠をどこに求めるべきか、分からなく
なりますので、一応、『福音書』の記述
に準拠したかたちで話を進めます。

 多くの聖書研究家や学者たちが指摘
するように『福音書』の記述を相互に
読み合わせてみると、ヨハネの宣教の
開始時期(ヨルダン川での洗礼活動)と
「イエスの洗礼」との間に それほど
の時間的な差は見受けられません。

 そこで、

 ルカが記す皇帝ティベリウスの治世の
第15年(おそらくAD27年)が ヨハネ
洗礼活動の開始の時期であり、同時期
に少し遅れてイエスの宣教が始まった
とするのがダ・ヴィンチの見解ですが、


   イエスの宣教 wemmick3.com

 ある説によると、

 皇帝ティベリウスは、初代皇帝(前帝)
アウグストゥスの治世の晩年、AD12年
から共同統治者として 帝国に君臨して
いたので、その第15年目は AD27年に
あたるということも言えますが、

 もし、この年にイエスが宣教を始めた
のなら、その時、彼は31-32歳くらいです
ので、ルカの言う「およそ30歳」であった
という記述とも不都合なく符合します。

 また、ポンティオ・ピラトがユダヤ総督
の任にあったのは AD26年から36年の
ことですので、この点も合致しますね。

 さらに、

 『ヨハネの福音書』2:19-20

 「イエスは彼らに答えて言われた。

 『この神殿をこわしてみなさい。
   わたしは三日でそれを建てよう』」

   (ヨハネの福音書2:19)

 「そこで、ユダヤ人たちは言った。

 『この神殿は、建てるのに四十六年
  かかりました。  あなたは、
   それを三日で建てるのですか』」

   (ヨハネの福音書2:20)

 ヨセフスによれば、このときの神殿
建設はBC19-20年に着工されたもので、
そこから46年かかって完成したとすれば、
その時期はAD26-27年になるわけです。


  イエスの宣教 skk-tokyo.com

 それは、

 イエスの宣教開始の時期がAD27年
であったことの傍証になりますが ・・・

 しかしながら、

 同じAD27年には、洗礼者ヨハネ
ヨルダン川での洗礼による宣教を開始した
ことを決して見逃してはならないわけで、

 冒頭の

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない


     『ダニエル書』9:26

 と、預言されたメシアとは誰なのか

 1 獄中で首を刎ねられた洗礼者ヨハネ  
 2 十字架にかけられたナザレのイエス

 あなたは、否、クリスチャンの方々にも、
あらためて訊ねますが、

 この場合の彼を、上記、12 のうちの
どちらの人物であると思うのでしょうか

 ダ・ヴィンチは、

 1洗礼者ヨハネメシアである
として、自身の作品に数々の
仕掛けたものと小生は考えますが ・・・
  
    

 まあまあ、

 そう性急に結論を出すこともあるまいて、

   

 もともと、『ダニエル書』9章

 「あなたの民とあなたの聖なる都について
   は、七十週が定められている」

     (ダニエル書9:24)

 としているわけで、

 それを決定づけるものは六十九週の後に
メシアなるひとりの君が現れ、彼には何も
残らないまま無惨にも命を断たれた。



 だから、その後の最後一週(7年)に
重大な意味があるわけじゃな。

   

 その七十週目についての 

 「解説はいつになるの」

 

 「次回だと思うがのぉ」



   ・・・ っておいおい



  「勝手に仕切るな !!



    (ん !!

 

 「裏切者は〇〇〇じゃ」



     「え !!

 洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主で
あったヘロデ・アンティパスの手中に
嵌まり、「斬首」されることになったのは、
AD28~29年頃のことと思われますが、






      (ゲロゲロ ・・・)

 … to be continue !!
       (… to be continued !!)


  ドラゴン・レーダー(プロトタイプ)


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

コメント一覧

小吉
新約聖書はキリストの弟子たちが書いたんでしたよね。
ということは聖書でいうところのメシアというのはやはりキリストなのではないか、と思いました。

そういえば聖書は旧約と新約でつながりがあってその解釈で意味が全く違ってくるとかなんとか。

聖書がわかりずらいのはもしかしたらそれが「原文」でないからなのでしょうか。

小説でも翻訳ものは読みづらいしわかりずらい。

だれかものすごいわかりやすく翻訳してくれないかなあ。

飲茶さんみたいに。
トドのつまり
要するに我々は、洗礼者ヨハネではなく、イエスがキリストであるという世界線のなかに暮らす住人ということになるわけですか!?
やぶにらみ
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか・・・」

『申命記』のコメントにココナン君がよせているように、
諸行無常にして盛者必衰の理ということですかな!?
むらさき納言
わかりました。 どこまで行っても交わることのない不毛な問答を繰り返しても意味がないので、もう止めにしますが、神が本当に人間を愛しているなら、何としても全員を救おうと努力するはずですし、その方法を模索すると思うのです。

少なくとも全知全能なるパワーを持ってすれば、それも不可能ではないと思われるのにもかかわらず、そうしないのは、やはり神はいないか、すでに死んでしまったということなのでしょう。

栄枯盛衰は世の常、いずれ人類が滅びることは、決定されている決まり事なのです。
ビジターA
自由意志ゆえに、アダムもイヴも原罪を負ってしまったわけですが、魂の抜け殻のように、盲目的に神を信奉することを神は望まなかったのです。

全知全能の力をもってすれば、それはたやすいことでしたが、そんな人間ではロボット以下の存在にすぎず、愛することも出来ずに無視される対象になり果てていたでしょう。

人間が悔い改め、神と和解することを誰よりも待ち望んでいるのは神なのですよ。
むらさき納言
聖書解釈が様々あれば、それはもうバベルの塔と同じだよ。

意思の疎通やコンセンサスに問題を生じさせる以上、聖書は神の言葉たり得ないものに成り下がるわけで、ここで言う「ダ・ヴィンチの罠」なる解釈も十分にあり得ることになるのです。

ビジターAさんに訊ねます。

つまり、そういう余地を残していることにも、あえて、神は選択の自由意志を人間に与えたとして、突っぱねるのでしょうか?
ダメな便利屋
当初は意図して奇を衒うような言説を駆使してると思っていたが、ディスペンテーションにしろ、神学契約にしろ、日本人には馴染み難い部分を省いて、単純にイエスは本当に神の子でありメシアなのかを問うスタイルには共感する。

この場合、事実がどうかは二の次で、イエスが真のメシアであっても、そうでなくても一向に構わない。

なぜなら、ダ・ヴィンチがいかに考え、それをどう表現したかを解き明かしているのだから。
ガブリアス・マーレン
想像とは違っていましたが、期待した以上のものでした。

ダニエル書の70週預言には、様々な解釈があって、「エルサレム再建命令」からして複数回あり、どれを取るかで違ってくるし、62週がいつのことかにしても、イエスの公生涯のスタートの時なのか、エルサレム入城時なのか、十字架につけられた時なのかで分かれてきます。

ただ、ほとんどすべての解釈において一致しているのが「膏そそがれた者は断たれ」がイエスの十字架刑であるという点で、ここではそれを、洗礼者ヨハネの斬首としているのが、新鮮で興味深いですが、単に奇を衒うものでないことを祈って、先に進みたいと思います。
むらさき納言
キリスト教の教えの中に「隣人愛」に相当するディアコニア(奉仕)の精神というものがあるようですが、神が本当にすべての人間を愛していて、気に掛けて、心配しているのなら、むしろ、悪魔に誘惑され、操られて、繰り人形となっている哀れな人々にこそ、救いの手を差し伸べるべきで、無駄に長い猶予期間をもうけて、地獄行きの人数を増やすことではないと思うのですが、

きっと、人間の浅知恵では神の深淵なる考えが分かるはずもないと一蹴するのでしょうね!
ビジターA
神は人間に自由意志を与えていたので、最終的な裁きの結果は、各自がその責任において自ら選択に従って負うべきものです。

お二人が指摘するように、人類を創造する以前から、神は人類の多くが反抗することを予期していたと思われます。

前にも言ったと思いますが、人間が知り得る知識には限界があって、真理の全貌を理解できるわけではありません。

例えとして適当ではない(差別用語?)かもしれませんが、「群盲象を撫でる」に等しい知力では神を誤解したり矛盾に感じたりするのでしょう。

それゆえに選択するための自由意志が与えられ、回帰可能な限りにわたる和解のための猶予期間が用意されているのです。
ダメな便利屋
隠れキリシタンじゃなくて、隠れクリスチャンはウケルね!

天使であったルシファーでさえも反逆者になるんだから、
人間に自由意志を与えたら、こうなることは予見できた
はずだよな!
むらさき納言
スタンダードな聖書理解だと思いますが、クリスチャンではないとすると、要は、隠れクリスチャンということですね。

ビジターAさんに再度、お尋ねします。

ノアが作った箱舟に、まだ雨が降り出す以前に回心して、神の言葉を信じる人たちが押し寄せたなら、どうなっていたのでしょうか?

箱舟に乗れる人数は限られますし、動物のつがいも乗せなくてはなりません。

つまり、神はノアの家族しか乗らないことを最初から知っていたわけですよね。

同様に、自由意志による選択とか猶予期間とか、回帰可能な限界点とか、言っていますが、人類の大多数が悔い改めの改心も、神に心を向ける回心も、決してしないことを知っているはずです。

神が言う悪を蔓延させる自由意志を与える結果がわかっているのならば、自由意志など最初から与えるべきではなかったのです。

そう思いませんか?
ビジターA
先般のコメントでも申し上げたように神の意図など知る立場にありませんが、サタンとされるルシファーは、もとは明けの明星と呼ばれた天使長で神への叛乱に際しては3分の1の天使が彼に付き従っています。

神がサタン捕らえ、二度と背くことのないように裁く(消滅させる)ことは容易なことかもしれませんが、それでは他の天使たちに不信感や不審の芽が芽生えることにもなり兼ねません。

神は人間同様に天使たちにも自由意志を与えて、同じように愛しているからです。

サタン自身が罪を悔い改め、反省し忠誠を示さなければ、たとえサタンを滅ぼしたところで、第二第三のサタンなる天使の登場を許すことになります。

ですが、許容するにも限界があって、回帰不能となる時期(限界点)が近付いているのが現代から近未来までの期間であるとされています。

そして、それは人間についても同様の流れで、終末に向かって一直線に進んでいるというのが、現時点での推移です。
ダメな便利屋
二人の問答を拝見しているが、ビジターA氏に訊ねたい。

若干、むらさき納言氏ともダブルが、神はいつまでサタンを自由にして、好き勝手をさせているのか?

この間に、幾多の戦争が起こり、核兵器は出来るし、人口は増え続ける一方だし、疑獄行きの人間を増やしているだけだと思うが。
ビジターA
以前にも申し上げましたように、わたしは教会の関係者でもクリスチャンでもないので、神の意図や目的がわたしにわかるはずもありません。

ただ、神に倫理基準を決める権利があるからといって、人間を乱暴に扱っているわけではありません。

人間には自由意志が与えられているわけですが、むしろ、どんな人間よりも公平な裁きを人間に与えているのだと思います。

神が義であるということは、正しく生きる者には祝福を与え、悪いことをする者には罰を与える存在だということです。

人間社会を見渡せば、不法や嘘がまかり通っています。

ならば、なぜ、神はそれを見逃すのでしょうか?

神は義であるとともに愛でもあります。

どんな人間よりもわたしたちを愛しているわけで、その愛ゆえに、多くの場合、悪を行う者たちに、すぐに裁きを下すのではなく、悔い改める時間的猶予を与えているのだと思います。

クリスチャンの方や教会の人間ならば、もっと的確な返答が出来るのかもしれませんが、ただの訪問者としては、これで精一杯です。

わたしはこのブログを否定しているのではなく、SFとして楽しんでいます。

いろいろな考え方があってもいいと思うからですが、その点を、汲み取っていただけると幸いです。
むらさき納言
百歩譲って、人間には無慈悲で非道に見えることも、神にとっては義による正しい裁きであって、そうした人間には理解不能な部分が聖書にあるとしましょう。

ではなぜ、人間に理解不能なことが聖書に書かれているのでしょうか?

人間の理解と知性に限界があるのなら、その範囲内で十分に理解可能な箴言や戒めを与えるのなら、ともかく、学び続けても、いつまでも理解できないのであれば、そんなものは無価値だし、意味がありません。

理解できない神の言葉をわざわざ聖書として人間に伝える神の意図や目的は何ですか?
ビギナー兼ビジター
誤解をされているようですので、まずは、むらさき納言様の質問に答えると、わたしはクリスチャンではありませんし、教会の関係者でもありません。

ましてや、わたしに聖書の何たるかを語る資格などはありませんが、聖書の教えの中にはわたしたちの理性や限られた知性で理解できることとそうでない部分があると思います。

むらさき納言様の疑問は、そうした人間には理解不能な部分であって、神の永遠の裁きの理由を理解できないとしても、それは神の裁きが間違っているのではなく、人間の理解と知識に制約があるからです。

いずれ、天に召されるか、地に堕とされるかした時に、その答えが見つかるかもしれません。

なお、いつまでもビギナーを名乗っているのも変ですので、お邪魔でなければ、これ以後はビジターAとして、お目にかかりたいと存じます。
むらさき納言
まだ、質問には答えてもらえないのですが、コメントの内容から察するに、ビギナー兼ビジターさんは教会の関係の方でしょうか?

とりあえず、素朴な疑問です。 聖書によれば、イエスを信じない人間は地獄に行く運命にあるわけですが、わすか100年に満たない人生の中で、神を見つけることが出来なかった者に対して、永遠の責め苦を受けさせる合理的な理由を知りたいのです。

若くして夭折した人が、たまたま無神論者であっただけで、未来永劫にわたって地獄の業火に焼かれ続けなければならない理由を教えてください。
ビギナー兼ビジター
望んで生まれたわけでもなく、神の裁量で「悪」と判断された人々が大量に裁かれることは、神が愛であるならば、大きな矛盾であり、聖書の内容に疑問を感じるという、ご指摘のようですが、人間の知識や判断には限界があります。

言い方を換えれば、「有限の知」と「無限の知」の違いだと思ってください。

ですから、私たちにとって矛盾すると思えるような出来事でも、神の知からは当然のことであって、単に私たちが真理の全貌を知り得ないだけで、限られた知識による誤解かもしれないのです。

言うなれば、聖書は理解するものではなく、信じるべき神の言葉だということでしょう。
おじゃま虫
至高なる神の考えが人間に理解できるとは思いませんが、その神が与えてくれた聖書の内容に齟齬や疑問が生じるのはなぜですか?

誰一人として自分から望んで生まれてきたわけでもないのに、神に背いたとして殺されるのであれば、生まれて来ない方がマシなわけで、むらさき納言さんが言うように、自己中のエゴイストとしか思えません。
ビギナー兼ビジター
定期的ではなく、気が向いたときに立ち寄るので、まさか、こんなに反応があるとは思いませんでしたが、まずは、代弁してくださった江戸川ケイシ様にお礼を申し上げます。

いくつか、付け加えさせていただくと、むらさき納言様は、自分の都合で人類を創造して、勝手に絶滅させるのはエゴイスティックだと言いますが、神は愛であり、人類を誰よりも愛していたのです。

その愛ゆえに、すべての人の罪の身代わりとして、ひとり子であるイエスを与えたわけですが、神の裁きが批判されるのは誤解があるからです。

「ノアの大洪水」は、地上にネフィリムなる人間と堕天使との混血種がいて、彼らの影響で地上に悪が蔓延るようになったため、神はやむを得ず全地球規模での裁きを下したのであって、自己の都合ではありません。

ノアの家族を助けたのも正しい人を残すためで、その後のソドムとゴモラもその町の住人たちが背徳者となり腐敗していたからで、ロトの家族は妻を除いて救われます。

カナンでの征服戦争の背景はカナン人の偶像崇拝及び不道徳と性的堕落や悪魔的な儀式に対するカナン人の罪を裁くためにイスラエルの民を用いた宗教的なもので、これらの裁きにはすべて一定期間以上の時間的な猶予(120年~400年)を与えたうえで、最終的にその罪が回帰不能なる限界点を越えたことによる結果です。
むらさき納言
イエスに異を唱えてるんじゃなくて、ローマ・カトリックの欺瞞にでしょ!

結局、イエスはパウロに利用されただけだよ!

ココナンくんは人間の経済活動が温暖化を加速させていると思ってるみたいだけど、温暖化してるのか寒冷化してるのかは科学者でも意見の分かれる問題で、結論が出ているわけじゃありません。

ところで、ケイシさんの言わんとすることはわかります。

ヤハウェは民族神だから、イスラエルと契約した以上は、他の民族は敵であり、殺害にも躊躇はありません。

問題は契約のない段階で勝手に人類を創造しておきながら、気に食わなければ、絶滅に追い込むことを是としていることです。

エゴイスティックだと思いませんか?
ココナン
そこで、このシリーズでのダ・ヴィンチは、旧約の神には敬意を払いつつ、新約の神の子であるイエスには異を唱えているんですよね?

個人的な感想ですが、いま、台風19号が日本列島に迫っていて、恐らく甚大な被害に見舞われると思いますが、この台風のような自然の驚異の一因に、ディスペンセーションを無視する人間の経済活動があって、それによって、引き起こされているというようなことが、いい悪いを別にした神の裁量なのかもと?

何か支離滅裂ですが・・・
江戸川ケイシ
お節介ですが、ビギナー兼ビジターさんからの返信が来ないようですので、出しゃばらせていただくと、「神と人間との関係性」に答があると思います。

私たち日本人には理解しがたいことですが、神と人間との間には絶対的な隔たりがあって、万物を創造した神は人間や動物の命を含む、すべてにその所有権を有するわけで、適切な警告を与えたうえで、それに従わなければ命を奪ったとしても何の問題もないのです。

聖書が繰り返し語っていることは「神は万物の創造者(所有者)にして、支配者である」という事実です。

ですから、「従わない者は殺し、従順な者は救う」という神の行為に日本人は矛盾を感じたり、不満を抱くのかもしれませんが、キリスト教国など一神教の国においては「人間(生き物)の命を含む万物の所有権は完全に神の側にある」という厳然たる決まりがあるわけで、善悪の基準も当然、神の裁量に委ねられるわけです。

従って、私たち日本人が「善」だと思うことも、神にとって、「悪」ならば、それは「悪」であり、その反対に「悪」とされるものが「善」なることも、また、しかりなのです。

おじゃま虫
出エジプト記でも紅海において、エジプト兵を大量に溺死させてるし、旧約の神は殺人鬼のようにも見えます。

新約での神は、直接手を下すことはなくても、十字軍という魔物を生んで、異教徒の街々を滅ぼす遠征を繰り返しましたし、21世紀の現在では、同じ神であるはずのアッラーの名のもとに聖戦なるまやかしが横行していますが、私もクリスチャンや一部の過激な原理主義に走るムスリムたちに訊ねたいと思います。

「殺してはならない」んじゃないのですか!?
むらさき納言
ビギナー兼ビジターさんは、クリスチャンなのですか?

そうなら、是が非にも訊きたいことがあります。

神は「十戒」において、「殺してはならない」という戒めを人類に課しておきながら、自らは大洪水でノアの家族以外の人間を根絶やしにしたり、ソドムとゴモラでは、子どもを含め、その町の住民を全滅させたり、ヨシュア記では神の導きでエリコやアイを攻略し破壊の限りを尽くしていますが、これらは「十戒」と矛盾しないのですか?
ビギナー兼ビジター
完全なるSFとして、また、キリスト教へのアンチテーゼとして、時折、拝見しておりますが、完全無欠にして、全知全能の神がディスペンセーションを通して、人類救済計画を進めていることなど、信じられないとの由、

むらさき納言様は、そこに「神の矛盾」を感じられているようですね。

そして、神の子であるイエス・キリストを否定する展開に同調しているようにも見受けられますが、聖書研究者のみならずイエスの生涯は聖書の記述のとおりであり、それに異議を唱える人は、世界的にみても、少数であると言えます。

クリスチャンが、こちらのブログを読む機会は、まずないとは思いますが、

たとえ、ノンクリスチャンであっても、SFとして推理を楽しむことをお勧めします。
きくらげ
あまり、「D」の秘密には介入したくはないが、以前にも言ったように、何らかの信号である可能性が高いと思う。

このページのコメントからも「D」が頭文字のシグナル的な言葉がいくつも見つかる。

ディスペンセーションしかり、デルフォイの神託しかり、
さらには、聖書が預言するとされる大患難時代は、眞に
反キリストが支配するディストピアであって、復活した蛇、
すなわち、デビルやデーモンが跋扈する世界と思われるが、

おそらく、そのことへの反論が『ダ・ヴィンチの罠』の核
にあると想像される。
むらさき納言
オイコノミアと言うとEテレでの又吉直樹を思い出します。

経済に関する番組でしたが、あまり真剣には見ていませんでしたので、エコノミクス(経済学)の語源がオイコノミアやディスペンセーションにあったなんて知りませんでした。

人間に地球を管理(オイコノミア)させようとして、見事に失敗しつつある現状を見ると、完全無欠にして、全知全能なる神が、人間を創造して、ディスペンセーションしてるなど、到底、信じることが出来ませんよね。
江戸川ケイシ
罠の底流にあるものに、何かが何かに取って代わるという
それまでの体制・事物・事象などが大きく転換するような
エポック・メーキングな出来事があって、それを脱皮する
蛇と逃げる猫の姿にオーバーラップさせているのだと思い
ますよ!

振り返れば、ガイアとその娘たち(女神テミスとポイベ)
を守護するデルフォイでの大蛇ピュトンとアポロンの戦い
の逆転現象をイメージさせているようにも見えますが。
やぶにらみ
大患難時代に出現する反キリスト的イメージでしょうな!

ただし、記事の流れから見ると、おじゃま虫さんが最初に
イメージしていたイエスと洗礼者ヨハネのようでもあるが
多分にイメージの攪乱や誘導の如き操作性を感じますな。
おじゃま虫
復活した蛇、つまり、イエス(キリスト)でもあり、悪魔
(ルシファー)でもあるものが、猫であるイエスやマリア
を襲うということなのかな?
ダメな便利屋
脱皮した蛇、要は、新たに生まれ変わった蛇なるものが、
猫なるものに対峙するイメージだな。

蛇や猫は、それぞれ勝手に想像してくれ!
江戸川ケイシ
おそらくそれは『眉唾物』でのコメントにあるような天啓的なディスペンセーション(ギリシャ語での「オイコノミア」)をむらさき納言さんは想定していると思われますが、洗礼者ヨハネをメシアであると主張するからには、その前提は成り立ちません。

ただ、聖書を出来る限り文字通りに解釈するのは賛成です。
むらさき納言
最近の流れから見て、おじゃま虫さんは、蛇がイエスで、猫がヨハネのように感じるかもしれませんが、過去記事(猫のつくタイトルなど)では、猫は偽預言者のメタファであったり、マリアやイエスの化身であって、しかも龍蛇族、つまり、蛇でもあるような描かれ方をしています。

ですから、これは、蛇が猫を襲うシーンではなく、別の何かを意図しているんだと思いますが・・・
おじゃま虫
脱皮した蛇が猫を襲うシーンが想像されますが、これは、
イエスとヨハネですか?

それとも別のことをイメージしているのですか?
江戸川ドイル
考え過ぎですョ! きくらげさん。

単純に言って、イメージ操作だと思いますね。

『受膏者』の記事だけでは「ヨハネ・キリスト説」の説得力に欠けていて、続く『邪魔者』『神格化』でイエスに不利な印象を綴って、ヨハネへの心象を強化・補強しておいてから、今回のページにつなげているものと考えられます。

前回、新たに「偽預言者パウロ説」が飛び出したのも無関係ではなく、ここで言う最後の一週(7年)での布石や伏線になっている可能性が高いと思われますね!
きくらげ
なぜ、すんなりと『受膏者』から『七十週』へと繋げなかったのかを考えてみた時に、「D」の秘密を暴露した『濡れ衣』から、ワンステップ置いて、「D」である『斬首刑』に、そして、またワンステップ置いて、『邪魔者』『神格化』と頭文字が「D」となるタイトルを2回続けてから、また、ワンステップ置いたかのようにも見受けられる。

つまり、何らかのシグナルの可能性もあると思えるのだが。
ココナン
予想通りでしたね。 ドイルさん!

でも、タイトルに「D」の頭文字はないみたいです。

急遽、変更した可能性も否定できませんが・・・

たとえば、ダブルクロス(Double cross)⇒「裏切り」や
巷で問題の徴用工(Drafted worker)だったとか、

それにしても、「サロメ」の「サ」の字もないなんて、
この先、どうなっていくのでしょうか?
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