阿倍野じゆう録

このページは、阿倍野を様々な角度から紹介していくページで
す。『時と遊んだり(時遊)、路と遊んだり(路遊)、耳で遊ん
だり(耳遊)などなど』様々な楽しみ方を紹介していきますので
お楽しみに。

阿倍野時遊録=阿倍野挽歌編=

2004-06-07 01:46:28 | 時遊=時と遊ぶ 阿倍野の歴史=
○梶井基次郎(1901-1932)
梶井基次郎が亡くなったのは現在の王子町2-17辺りの新居で死の前年かまえたものである。基次郎は明治34年(1901)2月17日に西区土佐堀で生まれた。江戸堀尋常小学校から府立北野中ー三高理科ー東大英文学科と進んだ。在学中、同人誌「青空」に処女作「檸檬(れもん)」を発表した。丸善に立ち寄り画集の上に檸檬を乗っけて立ち去るシーンは有名である。彼は生涯寡作だったが続いて「城のある町にて」「泥濘」などを著した。昭和3年(1929)肺結核が悪化し帰阪、「交尾」「のんきな患者」などの作品を阿倍野吉野通りの家で書き上げた。昭和6年(1931)初めて自分の家を構えたが翌7年3月(1932)肺結核により満31歳の短い生涯を閉じた。寡作ながらも鋭いアンテナを張り巡らせた作品は今も読み継がれている。

○関一(1874-1936)
言わずと知れた大大阪発展の恩人で「大阪の父」とも言われている清廉潔白な大阪市第7代市長である。
市長の業績としては、多岐に渡る。
1、大阪市第2次市域拡張実現(大正14年4月)
東成、西成両郡44村を編入。「これにより現住吉区、阿倍野区、東住吉区、都島区、東成区などの大阪市の大部分が市域に組み込まれる。」

2、大阪市民病院を開設
現大阪市立大学医学部付属病院の前身
大阪市は大正10年から予算50万で市民の為の病院を建てようとしていたが、資金面で難航していた。話を聞いた岸本吉衛門氏がぽんと百万円(現在の10億円)を寄付。岸本氏の希望により中産以下(一世帯年収3000円以下)が治療対象で、年収800円以下の世帯は食費以外はすべて無料だった。現在も岸本氏が寄付した絵がロビーにかかっている。

3大阪都市協会開設(大正14年12月)
都市について本格的に考えたシンクタンクにしては日本初。

4、市営バス運行開始(昭和2年2月)
昭和2年(1927年)2月26日阿倍野橋ー平野間に開通。
当時大阪市内には民間の会社である大阪乗合自動車(青バス)と市バス(銀バス)が大戦争をやっていたが
後に青バスは銀バスに吸収された。

5、大阪港の建設(昭和2年2月)
それまでの大阪港は安治川上流の川口にあったので安治川の土砂堆積により使えなくなってきた。そこで、現天保山の大阪港を作った。

6、大阪商科大学(現大阪市立大学の前身)を開設(昭和2年6月)
当時市が大学を持つことなど許されることではなかった。しかし、関さんは商業を勉強する為の専門大学の設置にこだわり大阪高等商業学校を改組し当時我國唯一の市立大学を作った。

7.第2次大阪都市計画
御堂筋がもともと現在の幅があったわけでない。大阪の道は伝統的に横を走る通のほうが道幅が広い。大阪の家は通(とおり)側に玄関を持ってくるので通は幅が広く、筋は家の脇を通る為に細かった。5m以上道幅がある筋としては、当時、紀州街道に当たる堺筋と谷町筋の天満橋ー谷町六間だけだった。御堂筋も5.4mの道幅しかなかったが一気に43.6mまで道幅を広げた。当時は、車の通行量も多くなく「飛行場を作るつもりか」とも揶揄された。それ以外にも淀屋橋の架け替え、大阪駅前の区画整理も行った。

8、地下鉄工事の開始(昭和5年1月)
日本初の市営地下鉄。竣工期間は御堂筋線梅田ー心斎橋間(3.1km)で昭和8年5月に開通。
最初から複線用地を取っておいてあるが、未だに複線化されていない。

9、中央卸売市場開業(昭和6年11月)
江戸時代から続いた天満青物市場、雑喉場魚市場、永代浜(靱)市場を合併し野田に開設。
のちに天満など5個所に分場を作った。

10.大阪城公園と天守閣の再建
大阪は、明治時代以降工業が発展し煙の都とも言われていた。また、人口の急増により都心部での緑は急速に失われつつあった。当時第37師団が大阪城に拠っていたので、関さんは師団長に頼み込んで一部を公園にすることを許可してもらった。その代わりに師団の為に建てたのが現大阪市立博物館である。大阪城は、幕末の火事により焼失して天守閣が無かったが、大阪のランドマークとして再建をすることになった。市民に寄付を呼びかけた結果150万円の資金を調達し、太閤さんの大阪城を復活させた。
 これだけ活躍した名市長だったが、晩年は妻を亡くし気落ちをしていた所に昭和11年(1936)に来襲した室戸台風の陣頭指揮に立っていた際、体調をくずし昭和11年1月26日現役の市長のまま亡くなった。葬儀には、8万人の市民が参列しNHKが一時間実況生放送をしその死を悼んだ。そして、南斎場に葬られた。

○五代友厚(1835-86)
実業家。薩摩出身。大阪の政治経済に寄与した。
川口運上所(税関)開設。造幣局(当時造幣寮)の大阪設置。
明治11年(1879)大阪株式取引所(現大証)、大阪商法会議所(現商工会議所)の建設。
明治13年(1881)大阪商業講習所(現大阪市立大学)開校。関西貿易、大阪製鋼、大阪商船、阪堺鉄道を発足。