いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

病気ではなく、障害(=障碍)である、とは。或いは、値踏みされる奴隷に見立てられて、甘んじるのか、について

2019年05月12日 | 闘病


今の用語で統合失調症(=症候群)

これは治すとか、治るとか、
そこを目指してると遠回りだし、空回りばかりしてしまいますからね。

基本的に、これは障害の状態にあることなのです。
ご存知のように、病気と違って障害(=障碍)というのは、
治療で回復させたり、治したりができない、そういう性質を備えた相手です。
でも、その同じ障害(=障碍)をかかえた状態にある人でも、
各々で、ケースバイケースの工夫や、取り組み方を編み出すことにより、
その人の生活の上に生じてる困難は、様々に対処が可能だったり、
無理に思えたことも、知恵を活かせば解決策が見付かったりする訳です。

つまり、障害(=障碍)それ自体は固定的でも、
その場合の暮し向きの持ち方に関しては十分な可塑性を発揮しうるのです。
そこを活かすためにも、表面的な「治る」に囚われてると、
失敗を繰り返すような結果に陥る話になることが続くのです。

いいですか。私は、病気じゃなくて、障害(=障碍)だと申しました。
具合よく物事が運んでも、それは治ってきたから良いのではないし、
何か状態が酷くなっても、これも病気が悪くなったからそうなると違うのです。

障害(=障碍)ということについては、かなり固定的な性質かもなのです。
しかし、適応力をどれくらい発揮できるかは、非常に流動的だから。
それによって引き起こされた変化が、あたかも良くなったり悪くなったりかと、
見た目に映るんで、まるで病気の病状の推移だなんて見誤っているのです。

結果、見た目に惑わされて、悪化したと思い落胆したり、
軽快して来たのだなと勘違いをするから、良くなってると思い込む。

でも、中身の性質上、本体は一定不変にも等しい相手だから、
それらの変化は、最初から備わった表現型の揺れ幅に過ぎないものを相手に、
一喜一憂を繰り返すたびに、周囲は深刻な落胆が強まるんだし。
本人にしたら、自信を失う度合いがますます激しくなっていきます。

むしろ、表面の良し悪しとは違う部分にこそ、このことの本体があるんで、
問題が違うんですよ。表面的な適応力とは、その時々の山谷があることでして
その表面的な適応力に目を奪われてるから、取り組み方で間違う。

これは、見かけの良い悪いの意味を考えていたのでは、対処などできないし、
気が付かないといけないのは、そんな部分じゃあないんですよね。

言うなれば、人間にとって本質的に重要なものは、
見せ掛けの幻を追うことなんですか、
富や名声を求めて競い合える強さなのですか。

そういう人間の根幹に関わる本質をシビアに見直せていないと不味いのです。

そういう背景がこのことの裏側には隠されているんだと思います。

だから、これはヒトの前に立ち現れては、われわれがこのことを忘れないように、
ヒトが地球にある限り、どの時代でも、どこの地域でも、
いつも想起させ続けていて、人類がクリアするかどうかを、試しているんです。

この資質は、そのために獲得した、必要にして欠かせない財産と知るべきだし
これを失うようでは、われわれの存続が危ういことになるのです。
このプログラミングを擁しているところにヒトたる由縁があることで、
勘違いをしてしまいがちな、我らであればこそ、この宝を授かったのですから。

それは、われわれは、自主的に活きるヒトであるのか。
それとも、役に立つか立たないか、皮相な物質的生産能力でしか測かれない
そういうモノサシしか頭にない愚かしい立場でしかないのか。

物質的な側面だけで、その価値の有無が問われるような
機械だとか道具、家畜だとか、奴隷扱いされる存在と同じなんだと、
自分のことを定義づけていて、命と物の区別を忘れてしまったのか。
そこが値踏みをされている、これはテストであり、問い掛けであるから。

そこが読めたのなら、これは何を処すべき問題か、自ずと明らかなはずなんだ。

 

 

 


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