いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

声に出さないと話というのは通じないから

2020年04月21日 | 日記
確かに現在、まさかまさかのこの状況ですからね。
この期に及んで、いったい何を書いておけばいいか。
私のような身でも、ふと考えこんでしまうぐらい。
まあ、そんな時期だからこそ、この文面に目を通してもらう。
そんな好機かも知れないかなと気を取り直して、
こうして続きを書き記すべく、心あらたにしています。
これは養生していく上に、まず第一の信条とすべきが、
日常のコツコツとした積み重ねが大事で、一番大切だからですよ。

この私と違い自分の連れ合いには別な考えもあったりします。
でも、少なくとも今の世の中の習いを真に受けているだけじゃ、
あんまり自分たちにプラスの足しになる見方ばかりでもない。
そんなところは、お互いで意見は一致していたりもします。

要は呼び方であるとか、区分の仕方とか、そういうのは
ハッキリ言って大した役には立たないということです。
いいですか。時代が変われば言うことが違うんだし。

見方・見做し方というのは、一面これは決めつけです。
それが実際には何なのかということは、たぶん
きっとこれはラッキョウの皮むきに近いことでもある訳で
そんなの、むき続けていって芯があるとか、種が出てくる。
そういうことじゃあないんですからね。

ただ、どういう工夫で生活していこうかとか、
どんな対処をしていくと、過ごしていく上で助かることなのか。
結構、こうした面は思ったよりも実りがあるものなのですね。

だって、今こういうものは、何が原因なんだよとか、
どういう理由や理屈で起きているんだからって。
これは全部みんな仮説だし、説明に過ぎない話ですから。
だから誰にも証明はできないし、検証もし兼ねる意味だけど。
もしかしたら、こういうメカニズムも想定が可能ですよ。
つまり、これが「仮説」というやつの正体です。
研究者や、理論家は、それを「仮説」として据えるもありです。
でも、私ら本人が何もかも、自分を仮説に明け渡していたんじゃ、
これは現実の生活を放棄してお留守にしてしまうだけです。

人間は机の上で暮らしてるんじゃないですから。
机の上で組み立てた理論を、実際に用いることもするでしょうが。
でも理論に、私らが利用をされていたら、本末転倒なのです。

例えば、これは病気です。でも、原因がまだ十分にわかりません。
治療方法も完成までに、もっと時間を要すでしょう。

これは病気の研究を相手にした治療を考える基礎医学であれば、
では続きは、研究の継続で、という連なりに齟齬が起きないとしても
「病気」に罹った患者である私たちには、現実の生活があります。
人間ひとりの人生は、時間的にも空間的にも限りがあることで
誰も、研究の成果が出るまで途中で待つ猶予の持ち合わせはない。

治療の仕方がありませんと、生活の仕方がありませんは、
これらは、それぞれに次元の異なった、まったく別個の問題です。
そこを混同していちゃいけません。つまり、譬えて言うならばですね。
お金がありませんと、食べるものが買えないので食べる必要がないです。
これは、味噌と糞の区別が出来ていない見方だなと、誰にも理解できます。

また、別の人が言う。これは「障害」ですから。
そういう問題として社会の側における対処が要る事柄です。
今度は、そんな定義をされたのだとしましょう。

では、制度の改革や、社会を構成する人々の意識に
過去と異なった見方・受け止め方が一般の間で常識となるまで、
私たちは、どこか時間の止まった山の上で待てばいいのですか。
やがて時期が来れば、山を下りられる時代が訪れてきて
その時から、われわれは自分らしい生活をするようになる話かしら。
夢想するのは可能でも、そんな時間、待つのは無理な相談です。

これらを平気で強いるような世の中があったとしたら、
一言で「それは偏見・差別である」は、どうみても明らかです。

世の人が、「偏見・差別」をなかなか止めようとしないのもありがちで、
とても残念ですが。でも往々にして簡単には消えないことです。
ただ、そこを知っている者は、主張をしなきゃいけない部分だよね。
であればこそ、われわれ本人の側。あるいは家族の立場が、
もし「偏見・差別」を、自分の生き方へ取り入れたままにしていたら、
それでは、自分を卑下してみたり、自らの価値を否定してしまうことです。
いわれのない日陰に隠れるようにして息を潜めるみたいな暮らし方
それを自分にも、また自分の家族に対しても、強いてしまうだけです。
よく思い起こしてみてほしい。そうしろと命令をされましたか。
それとも「常識」だと、自分に言い聞かせて行っていませんでしたか。
もう一度、考えましょう。これは自分がした間違いとは意味が違う。
これは私たちを理解しようとはしていない側の価値観なんです。
私たちは経験して知っているから従う必要はない価値観です。
あなたや私が犯した悪事でもなければ、落ち度でこうなったのでもない。
そこには、いつまでも、自分で自分を一生涯責め続ける理由がありません。
これは無駄なことです。あとへ続く者に果たすべき責任もあります。
今まだ知らない人、勘違いをした人、誤った意識を持ったままの人、
それらは、ある程度まだ大勢いるだろうは、私でも知っています。
あなたも、それを恐れているんだと思う。でも間違っているのは、
自分たちじゃないと、今ここで胸を張らないと、その多くが気が付かない。
黙ったままに従うというのは、続けてくださって構いませんという
その意思表示と同じです。黙認という言葉があるでしょ。
違うぞという発言を、ある意味これは待たれていて期待されてると
そこを汲んで応えてやらないといけない。今われわれの役目です。
まだ今のこの時代は。一度声が届けば、話は早いはずだと思う。
でも最初から、投げていたのでは達成しないのも体験済みですよ。

窮鼠猫を噛むというのを知っていますよね。
われわれだって、ここまで追い詰められ、そのままにきたのは、
ひょっとしたらネズミの勇気にも、劣ってたかも知れないと。
身を守るのは鼠でもするんです。酷いことをすると相手に思ったなら、
われわれは、小動物以上のことをやり遂げる知恵と力を授かっています。
ましてや、ネコ対ネズミでもなく。同じ人間同士として言葉があるんです。
声に出さないと相手に伝わらないのは、ここでも同じなんだと。
それだけです。黙ってしまったら、これは続くだけですから。
働きかけるというのは、してもらうことだけじゃ済まないんです。
自分で、自らそれを行うのとで一対になっていますから。
だから、相手とこちらという、そういう関係が、そこにあるし。
これはコミュニケーションという関係性なんですよということです。











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