いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

対処対策というのは現実に根差した組み立て方ですから。

2022年06月09日 | 闘病


今日は養生にまつわる考え方について、
少し書いてみたいと思います。

これは誰しもよくあることですけど、
こういう病気になった場合に、
どうしてこんなことになったんだろう、とか。
何が理由で起きたことなのかしら、とでもいった。
それらが頭に浮かんできたりしませんか。

そして、それらを発端のようにして、
いわゆる犯人探しの策を講じたりしたがる、
そんな考えを、ついついしてみたり。
その大元になっていったりもしますけれど。
これがでも結局たいして役に立たないばかりか、
むしろ遠回りにしか連れて行かない方法だったりします。

なぜなら、例えば、それは。
もし、「火事が起きました」でも、
「泥棒に入られたんですよ」でも同じことなのですが。

これにもやはり原因や理由というのを考えてみるなら、
何かしら、その元になるようなことを人というのは、
見付け出してきて、指摘をしてみたり致します。

でも。むしろ、この場合の優先すべきは、
仮に家が焼けたというなら、
だったら、どうしたらいいのかであって。
金品を盗まれた場合にでも、
その被害に対して、いかに応じていこうかで。
これこそが、まずそこで成すべき重大事なのです。
つまり、盗難でも、また火災にしても、
すでに現実に起きてしまってから、防止は不可能です。
不可逆な取り組みなんて実行は無理ですから。
今ここに実際があるのなら、その事柄に関して、
自分が、いかなる対処を図るのか。
これしか履行しえないのは自明であるし。
またそこが問われた課題でもありますから。
これに当たること。それが先決なはずなのです。
理由や原因、またその背景について、
これは同じことを再度また繰り返さないために、
将来、考えておくべき事柄ではあるにしても。
焼け出されたら、今夜どうするか、
大事なものを失えば、それはどうしたらいいのか。
そういう目前に現実のすでに持ち上がった、
そうした案件というものは、これを軸に据え、
じゃあ、ここはどうしていけばいいか、なのですよ。
これに対処する、が何にもまして欠かせません。

泥縄って言葉がありますよね。
あれは泥棒に入られてから藁で縄を作って、
それで泥棒さんを縛ってやろうでは、
手遅れだし、手順として間違っている意味合いで。

病気になってしまったら、原因探しより、
その治療や養生を考えるというのが、
順序として、まず今まさにすべきことですから。

仮想的に、どうしておけば、こうならなかった。
という構図に見立てるというのはですね、
そういうヒックリ返った格好になっているのであって、
言うなれば逆泥縄とでも申せましょうか。
あべこべな、目の付け所になってしまった。
そういうズレ過ぎた理屈に堕したことですから。

それは、どうしていいかが、皆目わからないので。
まるで何かに責を負わせたいみたいな心情から、
引き出されてくる屁理屈な言い逃れにも近いものです。

自分でどうしていいかが見付けられない、
解決方法が、サッパリわかりません。
そういうときには、少し専門性を身に着けていて、
自分より賢い知恵が使えるような相手に、
手を貸してくれるよう働きかけることが可能です。

誰にでも、自分にはできないことがある。

あなたが飯を喰うときの米粒だって、
お箸だって、お茶碗だって。
他の人が用意してくれるものを使うじゃないですか。

それなのに、自分は人の助けがなくても、
自分で全部できますから。
そんなこと言っちゃう人の頭がどうかしています。

お米を作っている人ですら、水でも、太陽でも、
自分で作り出しているんじゃないはずです。

あるもの、使えるものを、いかに活かすか。
そこを取り持つのが物事に充たる人の役目です。
これは、そういうことなんですから。
餅は餅屋といいます。
自分で餅をつかない人は、餅をつく人を介して、
その餅を手に入れるまで。
いつまでも、お馬鹿な堂々巡りをしていちゃ、
ホント十年経っても百年経っても、
埒なんて明きませんよ。
指くわえて、ベソかくために、
時間を費やすなんて、待ち惚けの農夫じゃないんで、
次のウサギさんは飛んで走って来ませんって。

じゃあ、また。







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