いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

自分を引き受ける、ということ。

2019年05月16日 | 闘病
よくあることですが、ウッカリしていると、
自分は、こうあらねばならぬ、というのと、
自分はこうしたい、ああしたい、というのが、
なんだか区別なく、ゴッチャになってしまっている場合があります。

きっと國分功一郎先生なら、あの中動態で教えて下さるでしょうが。

およそ勉強不足な私の言葉では、とてもそうは行きませんので、
ここは、自分なりの言い方で、お話をさせていただくだけですが。

これ往々にして真面目な人に多い傾向の一つではないかと思いますが。
例えば、この世の中には、規範といいますか。
「こういうことは、こういう風にすべきで」
「また、これこれについては、こんなことであってはいけないから」
みたいな判断が、一般常識的な考えの内にはあったりしますよね。

ブッチャケ、馬鹿なことでは、自分の責任が問われるし、
下手な振る舞い方をしていると、人間性までが疑われることだから。
要は、そんな背景があったりだとか。ひとの動機は、そこなのですが。

でも、本音を言えば、なにも無理をしてまで我慢をするよりも、とか
正直言って、要らない苦労をするよりは楽がしたいし、みたいに
そんな気持ちというのは、誰でも自然に湧いたりすることですけど。

ところが、真面目腐ってる人は、口に苦くても飲み下そうとして、
自分に甘くないというか、規範に忠実なのが正しいと受け取るし、
結果、本音よりも、こうあるべきに自分を同一化させたがりませんか。

正確に言えば、本心じゃないのに、自分の本心なんだと思いたい。
それは、正しいことを選んだほうが、責任を全うしてるんだという、
そういう判断を働かせられるので、なんていうと、怒られますかしら。

武士は食わねど高楊枝じゃないけど、痩せ我慢が美徳みたいな
そういうのが偉いとか、立派とか、褒める価値観があって

それが、どういう悪さをするかといえば、
学校に行きたくない、職場に出たくない。という本音を認めないから。
結果、行きたいのに行かれませんとか。悩んでみたりになりますから。

逆説的ですが、いきたかねえよ、いやだよ、やめたいんだよ。
そこの自分の気持ちを、自分の心の中で味わえている人は、
行きたくないけど、行かない訳にも行かいな、仕方ない行こうかとか、
本当に行きたくないから、行くのを止めました、って。

自分の中で、自分でも分かりにくい矛盾は抱え込まなかったりします。

誤解しないでくださいよ。

私は怠ければ済むとか、怠け心があるのを優先しろとか、
そういう意味で言っているんじゃないんですからね。

仮に建て前で、こうあるべきだが、存在するにしてもですよ。
それを選ばないのが、一概に選んだ人の責任だなんて思ってたら、
それ下手をすると大シクジリになります、をお伝えしたいんです。

察しのいい人は、お気付きかも知れませんが。
自分の行動は、自分の意思で決めたり選んだりしてるのかと言えば、
これは、そんな単純な話と違うことだからです。

依存症の人は、どうして止められないかは、ご存知でしょう。
それは意志の弱さのせいじゃないことなんですよ。
あなたがスーパーでもコンビニでも、棚の上に並んだ物を見て、
知らず知らずに何気なくCMで見た商品の方に手が行っているのも、
別に考えて、そうしようと決めているんじゃないんだし。

これ違う言い方をするとしたらですよ、われわれ誰もがそうですが、
自分というものは、一口に自分と言えるほど、単純な一枚岩と違い、
妙に聞こえるんだけど、何かを選んでいる自分というのは、
それを選ばせようとした自分と、どうするかを決めている自分と、
ある意味で、それぞれ別々なんだと、そう見るのは可能なんです。

へンといえば、ヘンかもしれない。
けど、これから言うことも日常あることかなと思いますが、
同じ人物が、状況によって、違う態度や考え方を見せます。

別に乖離や多重人格の話ではないですよ。内弁慶や外弁慶とか。
仕事場で判断する物事と、街中の行動と、家族の前で振る舞う様子、
それも配偶者と二人だけでいるのと、子供の前でするようなことは、
ワキマエタ人なら当然のことですが、それぞれで使い分けることです。

ややこしいといえば、確かに、ややこしいことではあります。
だから、こういう仕組みにエラーが起きるのも避けられないでしょう。
どんな風にしたい自分と、どういう風にはできない状況、
それらを読み分けて、巧みに使い分ける要領、

これらは簡単に身に付くようでも、してるのは、かなり高度な能力、
そこでミスをするのも充分おこり得ることです。

であればこそ、運用には一層の注意というか、
そこは内部的に、もともと無理や矛盾が織り込まれてるんですから。

上手く行かなくても、悔やむ必要もないんだし、
失敗をしては駄目なんじゃなくて、失敗を重ねればこそ、
更に磨きをかけられるんです。何度転んでも、その都度に、
起き上がることこそ、まず第一義に責任なのであって、

だから駄目な自分は懲らしめたりする必要なんかないんです。

する必要があるのは、懲らしめるどころか、逆です。

励ましてあげて、自分に対して、一緒に工夫しようなと、

声を掛けてあげることなんですから。

自分を受け入れるというのは、

自分をして、もう一人の自分の眼差しから見守り励まし続ける。

そんな立ち位置を自分の中に持つことかもしれません。

私も日々これを研究中です。でも死ぬまでに完成しそうもないです。
まあ、続けられる間は、なんとなく、そのあたりを漂っていられたら、
それが本望みたいなものですが。。。

ではまた今度、お元気で。今日も暑かったです。早めに休もう。。








2 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-05-16 20:29:49
コメントありがとうございます。自分と呼んでいる、その実体は存在するか否か、という予てからの命題がありましたが。それは、この場合に、問うか問わないか、で言えば。あんまり関係ない気もしています。誰かに、声を掛けられて、返事をしたりする程度には、私なり、貴方なり、それぞれで認め合ってるという事ですよ。それが究極、誰か。あるいは、それが真に存在するか、不在であるか。そういう問題よりは。声を掛けた、返答した、の関係に意味がある。つまりコミュニケーションは真だと思われるからですが。
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Unknown (うさ)
2019-05-16 20:20:08
自分を受け入れるというのは、自分をして、もう一人の自分の眼差しから見守り励まし続けること・・・
なるほど、そうねって思います。
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