Hiroshi Mukaide(向出博)Time Traveler

世襲政治から見える民主主義の限界 - 日本の政治を包む得体の知れない絶望感

今回の新内閣、世襲議員は岸田首相を含め8人、なんと内閣の4割が世襲。

まさに世襲王国日本。

本当に、この国は「自由と民主主義と法の支配」の近代国家と言えるのだろうか。

世界第3位の経済大国とはまったく無縁な「家業政治家」の跡継ぎたち。

世襲政治家という金太郎飴のような議員達によるアナログな門閥政治、数だけをたよりの派閥独裁で好き放題。

一体いつからこのような国家に成り下がったのだろう。

昔、アメリカに留学したとき、アメリカ人に生まれていればよかったと思った。

同じ自由と民主主義の国と言っても、日本人にアメリカ人と同じ価値観を共有しろと言っても、無理だろう。

いまだに、日本人の国民性は、封建時代のままだからだ。

本来、民主主義国家は、支配層の所有物などではなく国民のものだか、日本の場合、お上のものと言う方がしっくりする。

日本は、形だけの民主主義国家。

たくさんの国民の意思を国政に反映することが、物理的に不可能だから、国会議員に国家の運営を任せてきたに過ぎない。

ところが、任せられていた国会議員たちが、任せていた国民よりも偉い上級国民だと思い上がる。

これが日本の特徴と言ってしまえば、それまでだが。

そんな日本を変えるためにも、国民が国のトップを決められる「大統領制」にすべきだったのに。

中途半端な「議員内閣制」をとってしまった。

そのおかげで、行政府のトップである「内閣総理大臣」は最大与党のトップ、だから実質上、国会のトップでもある。

行政府トップの総理大臣が、立法府国会のトップという歪んだ構造。

法的には衆議院議長が立法府のトップだが、衆議院議長の人事権を持つのは、最大与党トップの総理。

さらに、司法トップの最高裁判所長官や日銀総裁の人事権も、総理の手にある。

結局、議員内閣制の日本では、三権分立など形骸化している。

大統領制の国家なら、国民が直接、行政府のトップの大統領を選ぶことができるが、議員内閣制の日本では、国会議員を選べるだけ。

総理を選ぶことはできない。

制度の問題はさておき、そもそも、内閣総理大臣という「1人の人間」に、全ての国家権力を収斂させてもよいものだろうか。

日本では、衆議院議長や最高裁判所長官と言っても、その権力や存在感は、内閣総理大臣とは比べものにならない

専制国家なら、それでよいかもしれない。

しかし、「自由と民主主義と法の支配」を価値観とするこの国の1億人を超える人間の生活や生死を、1人の首相に任せてよいものだろうか。

情報革命前の時代なら、たくさんの人間の意思や意見を集約するすべがなかったから、許されたかもしれない。

しかし、情報通信技術が飛躍的に進歩し、たくさんの人間の意思や意見を、まとめ上げることができる現在、直接民主主義だって可能。

それなのに、なぜ、たくさんの人々の犠牲や努力の成果が、国家のトップ1人の名前や業績に置き換えられるのか。

トップが責任を取って、切腹でもするという制度ならまだしも、家業政治家という世襲議員や下剋上議員に、交代でトップになられては、国民としてはたまったものではない。

そもそも、国家の活動を1人のトップが行なっているかのように擬制する古典的な代表制度など、情報化社会に必要ないだろう。

くだらない代表制度のせいで、トップが神か王のように思い上がって、これまでどれだけ多くの人が不幸のどん底や、死の淵に追いやられてきたか。

歴史を思い出して欲しい。






 

 

 

 


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