国民には、選挙権として、平等に「一人一票」が与えられる。たとえ家柄がよくても、高学歴でも、博学でも、どんなに金持ちで、たくさんの税金を納めていても、「一人一票」。これが民主主義の基本。
そのため、例えば、東京都民の一票と高知県民の一票の価値に格差があれば、司法の場で争うことができる。
ところが「富」は別。現実に、この日本でも、一人の人間が、数十億円、あるいは数百億円の富を持っている。
選挙権として、国民一人につき一票しか与えられていないのに、国民一人一人が、所有できる富は、平等ではない。富については、国民一人一人が、いくらでも所有できる。全ての富を、一人の人間が、所有することすら可能だ。
いくら何でも、おかしな話なのだが、大富豪が、所有できる富に上限はない。仮に、上限を設けようなどと言えば、必ず反対される。不思議な話だ。しかも、反対する人たち全てが、大富豪というわけではない。必ずしも豊かでない人までもが、反対する。「一流の芸能人やスポーツ選手が、数十億円の富を手にすることの、どこが悪いのか」、「そのくらい稼げなくては、人生に夢がない」、「能力のある者が、競争に勝ち、莫大な富を得る。それこそが資本主義の醍醐味だ」「貧乏人は、努力をしないから、自業自得」などなど。
しかし、いかに能力があろうと、そして、どんなに死にもの狂いで努力しても、数十億円の富を手にできるのは、ごくわずか。ちまたでは、年収一千万円のサラリーマンが、理想と言われている。この理想のサラリーマンですら、税金や生きていくための生活費などを除けば、生涯で蓄えられる富は、一億円にも届かない。数十億円、数百億円の富を持つ人からみれば、貧乏人。
コンビニで数千円の品物を万引きした人は、ゴーン氏のように、罪を逃れて国外に逃亡することはできない。大富豪であるゴーン氏は、金にものを言わせて、難なくレバノンに逃亡。大富豪は、何でもできる「超国家的存在」。富の力で「国家権力(司法権)」からも逃れられる。
アメリカの大富豪は、普通の国の国家予算以上の富を持っている。その富の額からすれば、彼ら彼女らは「超国家的存在」。気が向くままに、自分の富の中から、いくら金を使おうと、誰も何も言えない。国家ですら何も言えない。
会社ならば、「会社法」の規制やステークホルダーの監視がある。社長といえども、勝手に金を使うことはできない。しかし、大富豪の金の使い方に対しては、ノーコントロール。莫大な金を、自分一人の判断で、しかも、好き勝手に使うことができる。
そもそも、大富豪の持つ富は、彼ら彼女ら一人の力で、築いたものではない。たくさんの人たちの血と汗と涙の結晶とも言える「平和で安定した社会」というインフラのおかげだ。それを、タダ同然で利用できたからこそ、築けたのだろう。それなのに、そうした大切なインフラを支ている人たちは、大富豪とは比べようもなく貧しい。いや、それどころか、生存限界で生きている人たちすらいる。
もし、この世界が「100人の世界」だったら、「平和で安定した社会」というインフラを支える人たちこそが、支配層、富裕層となるだろう。「100人の世界」では、「76億人の世界」の勝者である大富豪など、役に立たないお荷物に成り下がるからだ。
今や、共産主義や社会主義という対立軸を失い、無制約な資本主義となった「強欲資本主義」の世界には、誰も想像したことがなかったような大富豪が出現している。彼ら彼女ら大富豪は、「所有権の自由」、「自由競争」の名の下に、さらに富を積み上げている。これ以上、彼ら彼女らに富が集中し、持たざる人たちとの間の「格差」が広がり、「分断」が進めば、その行き着く先は、暴力による富の平準化。おそらく、そこにあるのは、闘争と破壊の無秩序な世界。
そうならないためにも、いつまでも「石が流れて、木の葉が沈む」ような、大富豪という「超国家的存在」が跋扈する世界を、放っておいてはいけない。
そろそろ、大富豪が所有する富のうち、「どう考えても使い切れない富」を、国家の管理下に取り戻さなければ、君主や貴族など、一部の特権階級だけが、富と権力を独占していた大昔に逆戻りだ。
決して資本主義を否定しているわけではない。しかし、無制約な資本主義となった「強欲資本主義」は、否定されるべきだろう。