【横浜米軍機墜落事件】
米軍機が横浜市の住宅街に墜落し、9人が死傷
1977年の午後1時過ぎ
厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、海上自衛隊厚木救難飛行隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。
米軍機が炎上し墜落して行く状況や、脱出してパラシュートで降下するパイロットの様を、墜落現場から東方約2kmに所在する横浜市立鉄小学校でちょうど開催されていた運動会の観客が、8ミリフィルムで偶然に撮影。その映像はTBSのニュースライブラリーに残っており、後年「カメラがとらえた決定的瞬間」として紹介されている。
事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊の救難ヘリコプター(S-62J)は、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で基地に帰還した。これとは別に40名ほどの陸上救難隊が編成され事故現場へ向かう準備をしていたが、事故現場が基地から約18kmと離れていたこと、上記の通り消防などによる救難活動が開始されていたことから結局出動しなかった。
米軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた。
この事故で自宅にいた土志田(どしだ)和枝さん(当時26)の長男裕一郎ちゃん(同3)と次男康弘ちゃん(同1)が翌日未明に死亡し、和枝さんも4年4カ月後に亡くなった
他に6名が負傷
遺族が寄贈し港の見える丘公園フランス山地区に1985年に設置された「愛の母子像」(山本正道作)と2006年に設置された碑文
米軍機が横浜市の住宅街に墜落し、9人が死傷
1977年の午後1時過ぎ
厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、海上自衛隊厚木救難飛行隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。
米軍機が炎上し墜落して行く状況や、脱出してパラシュートで降下するパイロットの様を、墜落現場から東方約2kmに所在する横浜市立鉄小学校でちょうど開催されていた運動会の観客が、8ミリフィルムで偶然に撮影。その映像はTBSのニュースライブラリーに残っており、後年「カメラがとらえた決定的瞬間」として紹介されている。
事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊の救難ヘリコプター(S-62J)は、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で基地に帰還した。これとは別に40名ほどの陸上救難隊が編成され事故現場へ向かう準備をしていたが、事故現場が基地から約18kmと離れていたこと、上記の通り消防などによる救難活動が開始されていたことから結局出動しなかった。
米軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた。
この事故で自宅にいた土志田(どしだ)和枝さん(当時26)の長男裕一郎ちゃん(同3)と次男康弘ちゃん(同1)が翌日未明に死亡し、和枝さんも4年4カ月後に亡くなった
他に6名が負傷
遺族が寄贈し港の見える丘公園フランス山地区に1985年に設置された「愛の母子像」(山本正道作)と2006年に設置された碑文