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米国債は差し上げます その3

ヤクザと自民党政治の研究part3

バブル前夜

 1970年に警察庁によって二度目の頂上作戦が行われ、暴力団は徐々に従来型のシノギが困難となっていました。そのような苦境に対応してヤクザはその姿を変えて行きます。具体的には前述した政治団体化に加え、日本の司法システムの欠陥を利用した(※注2)整理屋・損切り屋・競売妨害・地上げ屋などの民事介入暴力(民暴)、総会屋、北朝鮮ルートでの麻薬の密輸と国内販売などです。

 このように70年代半ばからヤクザは従来の「反共の防波堤」としての性格から、単なる犯罪集団へと変わって行ったことがわかります。

 もっとも厳密に言えば民事介入は大昔からありました。例えば戦後直後、建設現場では業者間のトラブルが頻発したために現場の仕切り役・用心棒としてヤクザを介在させるようになりました。この建設業界の体質は一貫して続いており、現在でもヤクザは公共工事の30~50%に関与し、工事代金の2~5%が渡っていると言われます。

 また総会屋もその存在が初めて国民に広く知られたのは古く、昭和38年の城山三郎氏の著書「総会屋錦城」によるものです。そして総会屋と言う職業自体はそのさらに昔から存在していました。

 しかしながら、70年代にヤクザのシノギ全体における民暴等の経済行為の相対的比率が高まったことは確実です。

 そして裏社会が表社会の経済活動に本格的に進出を始めたときこそ、バブル後の「失われた十年」が準備された瞬間だったのです。

 70~80年代、地上げや債権回収などでヤクザは銀行に足がかりを築きました。またヤクザが銀行に恩を売る一方で、銀行側もむしろ積極的にヤクザを利用したのです。

 こうして銀行がヤクザを利用したことこそが90年代の金融危機の真因です。

 世間では銀行の経営危機というのはバブル崩壊が原因となったと報道され、バブル前の日本の金融機関には問題が無かったかのように言われています。しかし、資料を紐解くと80年代初頭にいくつかの相互銀行(現在の第二地銀)が経営危機に瀕していたことが読み取れます。

 その代表例は東京に基盤を持つ平和相互銀行です。平和相互銀行は「闇の世界の貯金箱」と言われるほど黒社会と関係が深く、関東の地元ヤクザの巣食う銀行でした。平和相銀は乱脈融資の果てに86年に破綻。行内でもぎりぎりまで派閥争いが続いていました。

 このようにドロドロした平和相銀でしたが、住友銀行磯田一郎は東日本における業容拡大のために、大蔵省の要請に応ずる形での救済合併を決断。

 住友及び大蔵省当局は、旧平和相銀側に寄生する関東のヤクザを鎮圧するため、旧川崎財閥の資産管理会社社長だった佐藤茂や、当時住友銀行と密接な関係にあった山口組に介入を要請しました。

 結果的にこのことは大蔵省-住友銀行-山口組という癒着の図式を作り、住友-山口組の関係深化を推進しただけでなく山口組の東京進出に拍車をかけました。今にして思えばこの事件はバブル後の金融危機の序章でした。

 1991年、住友-山口組の特殊な関係を示すもう一つの事件が明らかになります。住友の実質管理下にある中堅商社伊藤萬を舞台としたイトマン事件です。この事件ではフィクサー許永中を介して住友は食い物にされ、多額の資金が黒社会(≒多くが山口組?)に渡りました。このとき闇に消えた金は3000億とも6000億とも言われており、いまだその全貌は明らかになっていません。

管理人注:住友銀行頭取の娘の愛した男は山口組幹部であった。同時にそのころどさくさにまぎれて「消費税法案は可決された」。

 なお、許永中と亀井静香は緊密な関係が伝えられています。

イトマン事件

 このように財界-ヤクザの融合が進む中で、政界-ヤクザの関係もまた深化して行きます。

東京佐川急便・経世会

 87年、竹下登が田中派を割って創政会(竹下派・現橋本派経世会)を旗揚げしました。実質的に田中角栄を裏切って竹下総裁を誕生させようという動きです。

 そのとき、皇民党事件が発生しました。皇民党事件とは山口組系の右翼団体である皇民党事件が都内各地で竹下の「褒め殺し」を行って竹下に対して圧力をかけた事件です。(※注3)

 竹下・金丸・小沢らの自民党執行部は褒め殺しを止める必要に迫られました。金丸は自身と親しい東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会会長石井進に仲介を依頼。当時すでに稲川会と山口組は親密な関係にあったので石井の仲介は成功し、竹下が田中角栄の私邸に挨拶に行くこと及び皇民党への資金の提供で折り合いました。

 この事件によって金丸を含む自民党・稲川会・右翼団体への佐川急便からの献金体制が確立。後に東京佐川急便事件として露見することになりました。

 このように見てくると、70年代半ばからヤクザの経済犯罪化が進んだことや児玉・笹川のような大物フィクサーが引退したことにより、裏社会の表社会への介入がエスカレートしたことが分かります。

※注2…いわゆる「二割司法」問題を指す。「二割司法」とは日本において民事トラブルの20%程度しか司法手続きで解決されておらず、残りは裁判外で処理されている事を揶揄した言葉である。

 日本においては裁判に金と時間がかかりすぎるために司法制度が機能していない現状があった。そのことが民暴を生む原因と指摘する意見も多い。現在の司法制度改革による裁判迅速化・法曹人口増員はこの問題に対応したものである。

※注3…皇民党事件を仕掛けた黒幕が誰かは明らかでない。一般に田中角栄が竹下に報復するために皇民党に街宣を依頼したと言われるが、皇民党はロッキード事件の際、反田中街宣活動を積極的に行っていた過去があり若干の疑問が残る。中曽根黒幕説もあり判然としない。(参考2のページ最下段記事参照)

参考2)http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_giminto_history.htm

ヤクザと自民党政治の研究part4

バブル崩壊・直後

 85年のプラザ合意後、短期の円高不況を挟んで日本はバブルの時代を迎えました。金余りにより株価・地価は暴騰。世間ではにわか成金やバブル紳士が跋扈しました。しかしバブルはそうそう長くは続きません。株価は89年の大納会、地価は91年の公示地価をピークにして暴落。こうしてバブル経済が崩壊すると日本は混迷の時代に入りました。

 そしてバブル崩壊の傷跡を処理する過程でこの国の政官財暴癒着、そして政治家・官僚が救いようもなく腐っていることが白日の下に晒されて行くのです。

 1991年6月20日、野村證券の損失補填特約口座の存在が発覚し証券不祥事が明らかになりました。損失補填特約口座とはいわゆるVIP口座と呼ばれ、取引一任勘定・損失補填によって証券会社が損失を肩代わりし、顧客に損失の生じない仕組みの口座です。このVIP口座には政官暴の大物が名を連ねていました。一部報道では後の厚生省汚職事件で逮捕される岡光序治の名が挙がっています。

 証券不祥事は他の大手証券にも波及し、大手4社(野村・大和・日興・山一)全てでVIP口座の存在が明らかになったほか、総会屋への利益提供や仕手に絡む暴力団への利益提供の実態も報道されました。

 当時の報道によると、野村證券は東京佐川急便の渡辺会長と組んで、東急電鉄株買占めを図って窮地に陥っていた稲川会の石井会長を救ったり、仕手集団「光進」とともに国際航業株の買占め・相場操縦で政官暴に間接的に利益提供を図ったりといった行為を行っていたようです。ちなみに光進の代表は後に株価操作容疑で逮捕されましたが、彼らの資金調達に手を貸した住友銀行も支店長が出資法違反で逮捕されました。

 91年には証券だけでなく銀行においてもスキャンダルが相次いで露見しました。富士銀行・東海銀行・東洋信用金庫などで次々と架空預金証書を使った不正融資が発覚。とくに富士銀行事件では赤坂支店からノンバンクを介して女性料理店主に巨額の不正融資が行われましたが、不正融資の金額の大きさから資金は料理店主との関係が報じられる橋本龍太郎に渡ったのではないかという疑惑が伝えられています。

 このようにバブルまでに蜘蛛の巣のように張り巡らされた政官財暴の癒着体制はバブル崩壊後に生じた不良債権処理を著しく困難にしました。さらに銀行にはバブル期に地上げ等でヤクザを利用していた事実もあるのでヤクザに弱みを握られていました。

 さらに、93年に阪和銀行副頭取、94年には住友銀行名古屋支店長の射殺事件が起きるなど、バブル期に各行が貸し出したヤクザ関連融資にまつわるトラブルが表面化。「ヤクザ・リセッション(ヤクザ不況)」の言葉が誕生したのもこの頃です。

 一方、大手銀行において対ヤクザ融資は主に系列ノンバンクの住専を通じて行われていました。住専は不動産企業にも多額の融資をしていたためバブル後早々に経営が行き詰まり社会問題化したのは記憶に新しいところです。

 大蔵省は天下りを送り込んでいたこともあって当初から住専問題の深刻さを認識していましたが、住専の母体には大手銀行だけでなく農協系金融機関が含まれていたために問題が複雑化して処理が遅れました。農水省・自民党農林族が農協系の負担を最小にしようと画策し大蔵省に圧力をかけたからです。

ヤクザと自民党政治の研究part5

リクルート・佐川急便

 話は少し戻って1988年、リクルート事件が発生しました。リクルート事件とはリクルート社の川崎市進出に関する贈収賄事件を朝日新聞がスクープしたことを発端にして、同社長江副浩正が政界・官界・NTT高官に未公開株を譲渡したことが明らかになった事件です。

 この事件はロッキード以来の大型汚職事件となり、政治家からは藤波孝生元官房長官、池田克哉元衆院議員の2名、官僚からは高石邦夫元文部事務次官、加藤孝元労働省事務次官、鹿野茂元労働省課長の3名、NTTからは4名、贈賄側のリクルート社から3名の逮捕者を出しました。

 更に捜査の過程で竹下首相の秘書青木伊平が自殺するなど、現職閣僚を含む多くの政府高官が捜査線上に浮上。しかしそのほとんどが「灰色」のまま捜査が終了し、政治不信に拍車をかけました。最終的にこの事件により竹下内閣は総辞職に追い込まれました。

 関与が取りざたされた議員は76名に及びましたが、有名どころとしては中曽根康弘・竹下登・安倍晋太郎・宮沢喜一・加藤紘一・小沢一郎・鈴木宗男・橋本龍太郎・堀内光雄・塩川正十郎・梶山静六などが挙げられます。

 4年後の92年には経世会に追い打ちをかけるように東京佐川急便事件が発覚。皇民党事件以来の佐川急便→暴力団・右翼・政治家という資金循環が白日の下に晒されました。この事件により自民党副総裁金丸信は政治資金規正法違反で略式起訴、後に脱税の疑いで逮捕されました。

 さらに国税局の調査で金丸の事務所の金庫から日債銀の発行するワリシン・現金・金の延べ棒などが28億円分発見され、自民党政治が腐敗していることは誰の目にも明らかになりました。

 ここに至り国民の政治不信は頂点に達し、1993年7月18日の衆院選でついに自民党が下野しました。

暴対法・東京

 こうして90年代初頭、経世会・稲川会の国政支配力は大きな打撃を受けました。金丸は失脚し、経世会自体も分裂。小沢一郎らは新党を結成し、非自民細川政権が成立しました。

 金丸と並ぶ東京佐川急便事件のもう一人の主役、稲川会二代目の石井進会長も91年に死去し、一時的に稲川会の政治力に陰りが生じました。

 一方で西の雄、山口組はこの時期組織が混乱し、試練の時を迎えていました。

 山口組は1981年に三代目組長田岡一雄が死去し、翌年には四代目の本命だった山本健一若頭も大阪刑務所で死亡します。それ以降山口組内で後継者を巡り、山本広の率いる山本派と竹中正久の率いる竹中派の間での派閥抗争が激化しました。竹中正久が84年に四代目組長を襲名しましたが、山本派はこれに反発して一和会を結成。山口組は二つに分裂してしまいました。

 両者の対立は次第に先鋭化し、山口組は一和会に加わった下部団体の切り崩しを進めます。そのため山口組は多額の資金を必要としていました。

 山口組には元々前述の港湾役務利権と芸能興行だけでなく、様々な資金源が存在していましたが(※注4)、この時期に山口組が平和相銀問題に介入したのも資金調達という背景があったようです。山口組が金融システム等の表の経済活動に本格的に進出した時期といえるでしょう。
 85年には、竹中は一和会のヒットマンにおそわれ暗殺され山口組と一和会は「山一抗争」に突入します。山一抗争はまさに全国各地で未曾有の規模で行われ、史上最大の抗争と言われました。

 88年、激しい抗争の末に山一抗争は山口組勝利で終わりました。この事件では山口組と親密だった稲川会が山口組を側面的に支援したと言われ、山口組は稲川会に借りを作った形になりました。そのため、89年に就任した渡邉芳則五代目組長は稲川会に対して総じて融和的であり、東京進出の際の一定の歯止めになっていたとされています。
 しかしながら、山健組や弘道会などの山口組下部団体が東京進出を強めてゆくと、必然的に関東地元ヤクザ、とりわけ住吉会系のヤクザとの衝突が増加して行きました。(※注5)

 こうした抗争の頻発は社会問題化し、1992年沖縄のローカル暴力団同士の抗争による高校生誤殺、警察官2名射殺事件を契機として暴力団対策法が制定されました。これにより多くの暴力団は構成員を減らし、大きな打撃となりました。ところが、暴対法は暴力団淘汰の過程で結果的に山口組を含むヤクザの「マフィア化」と大規模・系列化をもたらしました。

 このように80年代から90年代の初頭にかけて、山口組は大きく動揺しました。しかし、同時に80年代の山口組は経済活動に参入を深め、関東進出を果たすことができました。この時期はよくも悪くも日本ヤクザ史の中の転機だったと言えるでしょう。

※注4…有名なものでは同和利権がある。2002年に発覚したハンナン牛肉偽装事件では元会長の浅田満が、山健組をはじめとする山口組系暴力団に利益供与をしていた。

※注5…関東二十日会における協議を軸に、関東ヤクザは伝統的に協調を続けていたが、山口組の進出により混乱状態になった。現在もこの流れは変わっておらず、山口(稲川)対住吉・関東地場対中国人の三つ巴の争いが続いている(稲川の位置は微妙)。2003年の北関東抗争が有名。

ヤクザと自民党政治の研究part6

不良債権・泥沼

 1994年、まさかの自社連立により自民党は与党に復帰しました。

 首班には社会党の村山富一が指名され、芦田均以来の社会党からの首相となりました。96年にその村山の後を継ぐ形で橋本龍太郎が首相に就任。橋本は六大改革を掲げ、住専処理の難題を成し遂げます。

 バブル崩壊直後には14000円台まで低落した日経平均株価も96年には22000円台まで回復。一時的に日本は平成不況を脱したかのように思われました。しかし、97年に入ると景気は再度後退。北海道拓殖銀行・山一証券などの大手金融機関が経営破綻しました。

 日本は戦後だけをとっても「昭和40年不況」「オイルショック」「円高不況」などの大規模な景気後退を経験していましたが、平成不況は質・規模ともにそれらを遙かにしのぐ深刻なものだと言うことがここに来てやっと認識されて来ました。

 従来型の不況と平成不況はどこが違ったかということには様々な議論があるでしょうが、ここまで長期化した原因の一つとして、以下の理由が考えられます。

 すなわち、「バブル経済の崩壊によって金融を中心とした諸企業は大打撃を受けた。そしてそれに対して早急に抜本的対策を取ろうとしても、企業・政治への黒社会の浸透、及び既得権益の擁護者と化した官僚・政治家による不適正な行政指導によって妨害された。」という仮説です。

 そのように考えるとバブル後の歴史とはまさに政官財暴癒着体制の失敗を国民の目から隠し、彼らが結託して実態を糊塗してきた歴史であると言えるでしょう。

 山一・北拓破綻に至るまでに、94年の東京協和、安全信組破綻を皮切りに、コスモ信組・木津信組・兵庫銀行・阪和銀行などが次々に倒産していました。ここまで読んできた方にはおわかりでしょうが、破綻したのはいずれもヤクザと関連の深い金融機関ばかりです。

 木津信用組合は、住専で有名な末野興産の行動が原因で破綻しました。末野興産は世に言う企業舎弟です。また、以前述べたように阪和銀行は副頭取射殺事件まで起こしています。

 もちろんこれらの金融機関だけでなくどこの銀行も多かれ少なかれ似たような問題は抱えていましたから、抜本的解決は至難の業でした。この辺の経緯は高杉良氏の金融腐食列島を参照下さい。

 その上、政治家・官僚の中にはこれら暴力団と特殊な関係にあるものもおり、改革を妨害していました。イトマンの許永中-亀井静香然り、小池隆一-児玉人脈然りです。

 小池隆一は児玉誉士夫の孫弟子に当たる総会屋です。児玉誉士夫の弟子に木島力也という大物がいましたが、木島は第一勧銀に多大な影響力を持っていました。旧第一銀行・旧日本勧業銀行が合併する際に児玉・木島が動いた経緯から第一勧銀は児玉・木島と特別な関係にあったからです。小池は木島の弟子になり第一勧銀に食い込みました。

 1997年、第一勧銀の小池への不正融資事件、そしてその金を元にした野村証券でのスキャンダルが発覚し、第二次証券不祥事事件に発展しました。しかしながらこのような話は氷山の一角に過ぎません。(※注6)

 これらの問題を大蔵省はバブル崩壊直後にすでに認識していました。しかし、過剰接待で銀行と癒着し、「勉強会」などでヤクザとのしがらみが出来ていた大蔵省の汚職高官は有効な対策を取りえませんでした。

 もちろんその間も破綻銀行の処理や、予防的公的資金注入、住専処理などで一応の金融システム危機対策は取られました。しかし、借り手側の責任、つまり銀行に寄生していたヤクザ対策は殆どなされず、多額の公的資金を場当たり的に注ぎ込むという消極的なものに終始したのです。(※注7)

 当時新聞をあれほど賑わした不良債権・住専問題の裏には、ヤクザ・地上げ・汚職・同和など日本的で陰湿なビジネス風土があったということができます。

 90年代、日本は閨閥による特殊利権が網の目のように張り巡らされたマフィアエコノミー化しつつありました。

黄金の90年代

 低迷する日本とは対照的に、太平洋の向こう側のアメリカでは90年代は繁栄の時代となっていました。IT革命により労働生産性が大きく向上して長期間の好景気を維持したのです。

 また、レーガン時代の規制緩和により金融技術が大きく発達し、ファンド資本主義とでも言うべき時代に入りつつありました。やがてこのファンド資本主義がアメリカの対日方針を決定付けることになります。

 バブル直後の時期の米国対日方針はジャパンバッシングを引きずっていました。日本は同盟国であると同時に競争相手でありその経済力の過度の回復は阻止する対象でした。このことは95年の日米自動車交渉に米国側が強い態度で臨んだことにも現れています。

 しかし、90年代後半になると日本はもはや米国の脅威となるような国ではなくなっていました。そのあたりから米国の対日方針は「不公正貿易の是正」から「対日ビジネス促進」に変わり始めます。前述のファンド資本主義がアメリカの国益として押し出されたのもこのころからです。

 1997年から対日展開を始めたリップルウッドが99年に長銀を買収し、昨年多額の収益を上げたのはあまりに有名ですが、このことが象徴するように日本の不良債権は外資にとっては宝の山でした。そこでクリントン政権は財界の意向を受け、ビジネス環境を改善するための対日要求を強い調子で進めて行きました。

 また、そのための指針としてクリントン政権は対日インテリジェンスレポート作成を開始。同レポートでは日本の不況の原因を日本政治・ヤクザの癒着にあると捉え、CIAなどの情報機関が日本の政治状況について本格的に調査を始めました。

※注6…住友-山口組の関係につき前回の記事を参照。

また、下のリンク先を見ると、DKB-小池のような関係はごく一般的であることがわかる。

http://www.rondan.co.jp/html/news/mitsui3/

※注7…公的資金の注入自体は経済的に誤りではない。また、当時銀行に金を配るかのような報道がなされたがこれは誤りであり、公的資金の注入は国が銀行の劣後債と優先株という有価証券を購入するという形でなされたため、国はこれによる収益を得ている。

 むしろマスコミが銀行の救済に反対して、感情的に「血税を銀行に入れるな」という反対キャンペーンを行ったことは不況長期化の原因のひとつである。

 一方で住専や破綻行救済の過程で国側は一部の債務者の借り手責任を不問にしたため、同和関係企業や暴力団関係企業が得をする結果となった。この点についてマスコミは沈黙している。見当はずれの報道を行ったマスコミの責任が厳しく問われるべきである。

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