<詩篇104:19節>
神は神聖な会議のなかに立ち神々の間で裁きを行われる。<詩篇82:1節)
殺せ,と神が命じるとき
神.....
あらゆる神の属性中,最も神のために同情するには神には自殺のできないことである。
モーゼ.....
モーゼの十戒を最も守った君は,また最も破った君だ。(芥川龍之介)
Revelation 22:18-19 (Douay-Rheims)
18For I testify to every one that heareth the words of the prophecy of this book: If any man shall add to these things, God shall add unto him the plagues written in this book.
19And if any man shall take away from the words of the book of this prophecy, God shall take away his part out of the book of life, and out of the holy city, and from these things that are written in this book.
Revelation 22:18-19(New International Bible)
18 I warn everyone who hears the words of the prophecy of this book:if anyone adds anything to them,God will add to him the plagues described in this book.19And if anyone takes words away from this book of prophecy,God will take away from him his share in the tree of life and in the holy city,which are described in this book.
ヨハネの黙示録22:18-19(新共同訳)
18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に,わたしは証(あかし)をする。これに付け加ええる者があれば,神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。19また,この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば,神は,この書物に書いてある命の木と聖なる都から,その者が受ける分を取り除かれる。
生命の樹(せいめいのき、Tree of Life)は、旧約聖書の創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。
カバラではセフィロトの木 (Sephirothic tree) という(Wiki)。
「多神教」対「一神教」という二項対立は、とりわけ自分の国を多神教国家だと思い込んでいる人々の多い日本においてよく耳目に触れることのある単純化された議論である。宗教の分類の一便宜として、神道(特に古神道)が、多神教的であることは否めない。私の見解では、むしろ日本の「多神教」は、汎神論に近い感覚だと思われるのだが、以上の便宜的分類は分類として一旦は諒解はできるとしておこう。だが、どこまでそれを精緻に検討した結果で述べているのか分からないが、「日本は多神教国家だから平和を愛し、近東や欧米は一神教国家だから闘争的だ」というような言説は、政治的に有効であってもおよそ学問的だとは言いがたい単純化である。その単純化のレベルは、何度も本サイトでも取り上げられているような「農耕民族」対「狩猟民族/遊牧民族」という悪質な単純化による、他民族の劣勢(ないし、それによって強化されたと思い込む幻想的な自民族の優勢)の理由付けにも等しい。
そもそも、日本の信仰が「神道」であるというおそろしく単純化された便宜を受け入れた上で、そして、それがさらに「伝統的に多神教的である」という前提の上で述べたとしても、そのために例えば戦争(闘争)を回避できたなどという歴史的な根拠はどこにもなく、日本が現今のように政治的に統一できたことひとつをとっても、そこには多大なる闘争と、その結果としての他部族(お家)の殲滅など、大いなる暴力と人的犠牲の上に成り立っているのである。
では、日本の信仰が仏教であるという、これまた恐ろしく単純化された方便を用いたとしても、本当に日本人が仏教的な生き方をしているのかと言えば、それまた疑わしい。もし古代日本が人間の組織としての仏教の宗団を自らの文化的よすがとして、そして支配の方法として持ち込んだのが本当だとしても、それが日本の平和に寄与したというようなことを信じる程、われわれはもはや純真(ナイーブ)ではあるまい。聖徳太子の時代に、大陸の哲学である仏教思想なるものがやってきたとき、むしろそれは非仏教的旧勢力との間で大いなる摩擦と軋轢、そして殺戮さえ引き起こす原因にさえなったのだ。それに今日でも見られる日本人が仏壇や先祖代々の墓の前で手を合わせる姿を観察しても、それは仏教への帰依というよりは、それ以前から存在する祖先崇拝の方が、いかなる日本の他の信仰よりも強いものであったことが明らかに思える。言うまでもなく、祖先崇拝はきわめて宗教的な現象であり、また宗教学の研究対象でもあるが、それはアフリカやオーストラリアの旧文化世界の生き残りの観察などに求めなくとも、すぐ周辺に存在する抜きがたい宗教感情なのである。それはほとんど、「霊的に支配されている」と言っても過言でないほどの強靭さを持った現象である。本当の意味で、仏教もキリスト教も日本を「教化」できなかった最大の原因は、この伝統を克服できなかったからではないか、それがもっとも強大な霊的影響ではないか、と思われるほど、特異で、また根強いのが祖先崇拝なのである。それは異教的な影響を残している地域を除いては、欧米や近東の広い地域において、いわゆるキリスト教信者、イスラム教信者、そしてユダヤ教徒たちが、「いかに祖先崇拝をしないか」という事実と比べても明らかであろう。彼らには祖先の前で手を合わせ礼拝するという習慣を遠い昔に捨てたか、そもそも持ち合わせていなかったようにさえ思われる。これについては別の研究が存在しよう。
一方、多神教か一神教かという議論に戻れば、われわれが知るところの「神道」なるものも、国家神道の例を挙げるまでもなく、厳密な意味での《多神教》であると言い切れない部分があろう。そこには少なくとも、ひとつのまとまった体系を持つ「より近代的な宗教」たろうとする政治的動機があり、また後代における歴史の捏造や改訂があり、天皇という名の生ける神による現世支配という構図があり、きわめて一神教的な志向性の強いものでもある。
このあたりの議論を深化するには多くの材料を持たないので、ここでは深入りしないでおこう。以下に、レーウによる論考の一部を掲載して、厳密な研究というものがどういうものであるのか、ということについての想像を働かしていきたいと考えるのである。
『旧約聖書』の一神教でさえ、神々の数について論じているわけではなく、ほかの諸々の力を無としてしまう神と民との結びつきを強調しているのである。しかし、多神教が首尾一貫して展開されるならば、神と世界とが一つになる(A)という状況が生ずる。「全能」は万人どころか多数の人々にさえも与えられず、「全能」に留まる。多神教は何らかの体系ではなく、聖なる力の独立を維持しようとする宗教のダイナミックな運動である。この運動が失敗に終わると、多神教は汎神論に移行する(B)。
これに反して、一神教はおそよ多神教の論理的展開、一種の学問的ないしは道徳的単純化などというものではない。イスラエル宗教、イスラム教、キリスト教など真性の一神教の特質(エートス)は、ひとえに「誰が神のようでありうるか」ということに存する。[神の]単一性は多様性の否定ではなく、その力の強い意思の熱烈な確認なのである。この意志は人間の生活に深く関与しているので、人間は「汝さえあるならば、私は天にも地にも何も求めない」(「詩編」七三)と言わざるを得ない。だからこそ古代の人々は、キリスト教的な一神教をスタシス、つまり革命とみなした(C)。こうして大きな葛藤が起こり、それによってキリスト教は初めて歴史の上でその場を与えられるに至った。それは諸国の勢力の特殊性を足場とし、しかもそれらを一つの皇帝権力の下に併合した「アウグストゥスの平和」(D)と、他方イエスが宣べ伝え、およそ統一帝国や世俗国家ではなく、むしろ人間が仕えるか憎むかしかできない神の力の現世への出現である神の国との闘い(E)であった。
G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』(田丸徳善/大竹みよ子 訳 東京大学出版)「神」(の章) 16 多神教 page 129
enteeによる蛇足注解
(A) 神と世界とが一つになる
「神の世界と人間の地上世界が一つになる」という意味であろう。
(B) 多神教は汎神論に移行する
通常の感覚からすると、順序は逆のような気もするが、レーウ独特の論理があるのだ。
(C) 古代の人々は、キリスト教的な一神教をスタシス、つまり革命とみなした
もっと厳密に言い換えれば、「ローマやその周辺の(ユダヤ教徒でない)非キリスト教信者たちは、キリスト教的な一神教を革命とみなした」というようなことであろう。キリスト教に先行するユダヤ教の信者が、それを革命と見たかどうかは分からない。
(D)「アウグストゥスの平和」
pax Augustusの日本語訳。伝統的にそれはそのまま「pax Romana」に置き換えられるほどの同義語。「pax Romana」が、「紀元前27年~紀元180年のほぼ200年間続いた、軍事力による領土拡張も最小のレベルであった比較的平和な時代。アウグストゥス帝により打ち立てられた態勢であったため、アウグストゥスの平和と呼ばれることがある」とされている。Pax Romana (Wikipedia)
(E) イエスが宣べ伝え、およそ統一帝国や世俗国家ではなく、むしろ人間が仕えるか憎むかしかできない神の力の現世への出現である神の国との闘い
イエスが望んだと思われる世界が、世俗国家による「神の国」の実現ではなく、超俗の思想であったことを改めて確認している。むしろ、統一帝国などというものの出現は、イエスの理想として世界像とは対立しており、かえって、その人間の組織としての国家と宗教に(そしてその宗団内部にさえ)対立(内紛)の萌芽があった。 以上ENTEE MEMOより
本紹介:愚行の世界史
イエスは言われた。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7・13~14)』
ハルメンの笛吹きがフリードリッヒ・ヴィルヘルム王のプロシア声をまねると,それまでぼんやり立っていた大衆は,機械的ににわかに動き出す。このようにして大衆に行わしめる展開によって,ちゃんと大衆についてこさせることができる。しかし,大衆は近道をしなければ指導者に追いつくことができず,破滅にいたる広い道の上(ルカ13:24狭い門参照)に展開することによって,はじめて隊伍をととのえて行進する余地を見出すことが出来る。生命を求めるために,どうしても破滅への道を歩まなければならないとすれば,しばしば不幸な結果に終わるとしても,驚くに当たらない。毎日徳を積むことだ。冬のエサのないときにすずめたちにエサをあげることだってそうですよ。すずめの恩返しって本当にあるのです。
アウグスティヌスはイギリスをローマ・カトリックに改宗せしめた使徒で初代カンタベリー大司教(604年没)。もしアウグスティヌスの布教がもし失敗に終わったとしたならば,英国人はウエールズ人やアイルランド人とともに,ローマと関係のない,ちょうどキリスト教世界の極東辺境地域のネストリウス教世界がそうであるように,新たなキリスト教会を作っていたかもしれない。あるいは,中東地域がアラブの支配下にはいったときに多くのキリスト教単性論信者(Monophysites)やネストリウス教徒が実際にそうしたように,イスラムに改宗したかもしれない。(管理人注:キリスト教もイスラム教も元はアブラハムであり兄弟宗教)。
チュートン族(英国にいたアングル人とサクソン人の蛮族)が後衛部隊として果たした役割はアカイア族には及ばないものの,西欧社会におけるローマ教会とケルト外辺の極西キリスト教社会との衝突,初期の西欧社会とバイキングのスカンジナビア社会との衝突はローマの支配の範囲外にあったがチュートン族はヘレニック社会を滅ぼすために,結局は、自らが滅ぼされた。西ヨーロッパの将来の文明は,アイルランドの胎児から発展すべきか,あるいはローマの胎児から発展すべきかという問題があった。その争いの決着がついたのは,七世紀の,カンタベリーの聖アウグスティヌスの弟子たちと,アイオーナの聖コルンバの弟子たちとの間で行われたが結局ローマ派が勝利した。イングランドの教会をローマ教会の司教管区制にもとづいて組織し,カンタベリーとヨークとに大司教の座をおくにいたってゆるぎのないものとなった。
キリスト教は世俗的な序曲をともなった宗教的な主題であり,またこの序曲に相当するのは,ヘレニック文明の世界国家を建設したローマ人の政治的事業だけではなく,あらゆる時期,あらゆる局面を含めたヘレニック文明全体であり,ヘレニック文明がまさしく福音の準備であった。
秀村欣二氏編訳の聖アウグスティヌスによると(要約・解説)『彼より約千年前にギリシャの哲人ヘラクレイトスは「私は私自身を探求する」と言った。ギリシャ古典期にデルフィのアポロン神殿の正面には「なんじを自身を知れ」との教えが揚げてあったし,ソクラテスはこの教えを実行して良心の目覚めを呼び起こし,アテネ市民達にも説き始めた。「イエスが神の国はあなたたちのうちにある。」といったとき,キリスト教は人間の魂の限りない価値を明らかにした。
アウグスティヌスは19歳の時キケロの著作で出会い,たまたま手にしたのが「ホルテンシウス」という一書であった。彼は聖書を読み始めたが彼の心を完全にとらえるにはいたらなかった。聖書の素朴な文体はキケロの立派な文体と比べると,あまりにも貧弱に見え,またそこに記されている事柄はおとぎ話のようで,理性に基づいて真理を探究し,発見しようと思っていた彼には信じがたいことが多かったからである。
聖書につまずいたアウグスティヌスをとらえたのはマニ教であった。マニ教はペルシャのゾロアスター教の流れをくみ光と闇,善と悪,霊と物質との対立への悟りを説き,理知をみがくことによって宗教の奥義に達しうるとし,聖書の内容も巧みに取り入れて,自ら真のキリスト教であるとし,当時の世界に広く行われていた。この教えはまた人間の罪悪は自分の責任でなく,実在する悪とそれに属する肉体のためであるとして良心の負担を軽くしてくれた。彼はこのマニ教にぐんぐん引かれていった。
マニ教のWiki解説
ゾロアスター教はミトラの一部と考えられる。ミトラは、アフラ=マズダーと同格・同体の最高神。
異教徒の非難に反論し,進んでキリスト教の立場を明らかにするために,アウグスティヌスは多忙な生活の余暇を用いて,『神の国』の著述に着手した。それは413年から426年までの13年間,彼の59歳から72歳の晩年にわたって書き上げられた22巻の大書であり,数多い著作の中でも量質ともに豊かな代表作である。
426年アウグスティヌス『神の国』第11巻15章(岩波文庫)
『ところが、かれらは、預言者の証言に、すなわち、イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的にあらわして、「ルチフェルよ、朝にのぼっていたあなたは、どうして天から落ちてしまったのか」といい、あるいはエゼキエルが「あなたは神の園の快楽のうちにあって、ありとあらゆる宝石にかざられていた」という証言にどう答えるのであるか。この証言においては、悪魔が罪なくあったときもあることが理解されるのである。
アウグスティヌス(354~430)も、413年から426年にかけて書き記した『神の国』の中で『イザヤ書』のルシファーを悪魔とみなした。「エゼキエルが」とあるのは、『エゼキエル書』第28章のエピソードで、ここでも「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に見せ物とした」とあるが、これもイザヤ書同様にツロの王の事を指していて、悪魔を指しているわけではない。アウグスティヌスはもともとマニ教徒だったが、キリスト教に改宗した人物で、「ところが、かれらは、」というのは、マニ教徒たちを指しており、この文章は、マニ教の二元論に対する一元論的悪魔観を述べている文章である。マニ教の二元論が「悪」がもとから「悪」として創られたのに対し、アウグスティヌスの一元論では、もともとは「罪なくあった」ものとして創られたものが、「悪」になったと語っている。ということは、ルシファーという存在は、神学者がキリスト教における一元論神学を語るにあたり、「必要悪」として創られたんではないだろうか。』と。(引用は多分ルシファー研究室)
ダリウス(在位BC522~BC486)とマギ・ゴーダマ
アフラ・マズダー
アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)は、ゾロアスター教の最高神である。
宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。 その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。
ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦いの歴史そのものであるとされる。 そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのが アフラ・マズダーの役目である。 その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。
中世以降の教義では、パフラヴィー語形のオフルマズド (Ohrmazd)と呼ばれ、 アムシャ・スプンタの筆頭 スプンタ・マンユと同一視される。 この場合、古典的な教義に於けるアフラ・マズダーの役割(善神と悪神の対立の上にある絶対者)は ズルワーンが担う。
ゾロアスター教
Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg
基本教義
ゾロアスター教
神々
アフラ・マズダー
スプンタ・マンユ
ヤザタ、ミスラ
スラオシャ、ラシュヌ
ズルワーン
アナーヒター
ウルスラグナ
フラワシ
神々(悪神)
ダエーワ
アンラ・マンユ
アジ・ダハーカ
アエーシュマ
サルワ
インドラ
聖典
アヴェスター
文学
シャー・ナーメ
人物
ザラスシュトラ
カルティール
ザッハーク
表・話・編・歴
起源的には、インド・イラン共通時代の神話に登場する最高神であるヴァルナである。ザラスシュトラの宗教改革によって教理的意味づけがなされ、宇宙の理法の体現者にまで高められたのがアフラ・マズダーである。アフラとアスラ(阿修羅)は語源的に同一である。善神であるアフラ・マズダーと対立するダエーワの語源は、インドに於いてアスラと敵対するデーヴァである。古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神であるヴァルナは契約の神ミトラとならぶ最高神でもある。ミトラとともに太古のアスラ族、アーディティヤ神群を代表した。 またヒンズー教の太陽神あるいはアスラ王であるヴィローチャナから、火・太陽の属性を受け継いでいるとする説もある。
真言密教の大日如来も、起源をヴィローチャナとする説があり、アフラ・マズダーが大日如来の形成に大きく影響してると言われる事もある。
かつてのゼネラル・エレクトリックの電球のブランドだったマツダランプ(日本では提携先の東芝の製品が名乗った)、自動車メーカーのマツダのロゴ「MAZDA」はここから取ったと言われている。
上の記事はWikiからですがアフラ・マズダーと曼荼羅の中尊である『大日如来』との関係は興味深いが恐らく真実なのであろう。
この須弥山は梵語(サンスクリット語)でSUMERUと云います。ティベット語でカン・リンボ・チェ。須弥とは漢字のこれまた音訳で意訳は妙高。古代インド(バラモンなど)の中での中心に位置する山(6656メートル)。これを取り巻いている9つの金山を鉄囲山,その間に8つの海がある。九山八海という。曼荼羅とは須弥山の断面図のこと。
須弥山(しゅみせん)は別名聖なるカイラスと呼び,その雪に覆われた北面は天然の曼荼羅でもある。この聖なる山の巡礼は周囲52キロを五体投地しながら巡礼し,108回巡礼すればニルバーナという涅槃の境地に入れるという。仏教徒やヒンズー教徒は右回りだが,ボン教徒はなぜか左回り。この修行の途中で死んでしまってもそれは本望なり。
1.曼荼羅の中心仏(中尊)2.中尊に関わる諸仏(知恵・慈悲・力)3.聖なる五色(白・黄色・青・赤・緑)の壁 4.宮殿の方位(東西南北の門 5.バルコニー(中尊を供養する諸仏の在所)..赤6.象徴化された供養物 7.5にかかる庇(ひさし)..黄 8.宮殿の屋根の飾り..
青 9.宮殿の屋根の樋(とい)..灰色 10.宮殿の壁の飾り 11.門上の左右にのびる金剛(ダイアモンド)の角 12.11の根元にいる聖獣マカラ 13.門の基壇 14.門の屋根の飾り 15.仏の教えを象徴する法輪 16.法輪にかかる天蓋 17.法輪を見つめる二頭の鹿 18.「蓮華輪」宮殿をささえる五色の蓮華の基壇 19.金剛絵杵輪ー曼荼羅の外側を守る金剛(ダイアモンド)のカプセル 20.火輪ー19から発する内的力の象徴。仏敵の侵入を阻止する 21.墓場ー無上ヨーガタントラの曼荼羅で18と19の間にしばしば描かれる。ヒンドゥ教に荒らされた人間界の象徴
仏という五仏
大日如来
阿悶(あしゅく)
宝生
無量光
不空成就
金剛薩たー五仏を統括する
持金剛=金剛手ー五仏と統括する
釈迦
薬師
無量寿
三十五懺悔仏
羅漢
菩薩ー仏につぐ修行者
八大菩薩
文殊
弥勤
観自在=観音
普賢
金剛手
虚空蔵
地蔵
除蓋障
アチャラー日本では不動明王
仏頂尊勝
般若波羅蜜ー女尊
多羅(ターラー)-女尊
白傘蓋ー女尊
パルナシャバリーー女尊 葉衣観音
守護尊(僧が念仏仏として選んだ仏)
クヒヤサマージュータントラの主尊
チャクラサンヴァラー勝楽
へーヴァジュラー呼金剛
へールカー五仏の化身で五種に変化する
マハーマーヤー -大幻
カーラチャクラー時輪
ヴァジュラ・バイラバァ金剛威羅瓦
ヤマーリー焔魔敵
アーユスパティーー寿命の主
ハヤグリーヴァー馬頭観音
ダーキニー -虚空を行く女
マチラドンマー女尊
ラーフー羅喉星
ヴァジュラ・ヴァーラーヒー 金剛刻母ー女尊
護法尊ー仏法の守護者
マハーカーラー -大黒
ヤマ ー文殊の化身・日本では焔魔
ヤマーンタカ -大威徳明王
ラモ -女尊
チェリンマ -女尊
拙稿:凝縮された曼荼羅参照
持力十次図と37
クリプキの様相論法
1970年代、哲学者ソール・クリプキが様相(modality)の概念を用いて行った様相論法(modal argument)と呼ばれる論証がある。この議論は直感的というよりかなり技巧的なものだが、可能世界論の枠組みの中で、固定指示詞(rigid designator)間の同一性言明は必然的なものでなければならない、という前提にたった上で、神経現象と痛みに代表されるような私たちの持つ心的な感覚との間の同一性言明(いわゆる同一説)を批判した。この論証はクリプキの講義録『名指しと必然性』で詳細に論じられている。クリプキは、同書の最終章で論証の結果を以下のような寓話的なストーリで表現している。
神様が世界を作ったとする。神様は、この世界にどういう種類の粒子が存在し、かつそれらが互いにどう相互作用するか、そうした事をすべて定め終わったとする。さて、これで神様の仕事は終わりだろうか?いや、そうではない。神様にはまだやるべき仕事が残されている。神様はある状態にある感覚が伴うよう定める仕事をしなければならない。
この世界についての仮説
厳密に言えば,アダムは何か新しいことを覚えるのではなく,自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識するのだ。同様に歳をとってゆく人間は知らないことを何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもと悲しい真理を発見するのだ。
(ウラジミール・ジャン・ケレビッチ「死」)より
このブログはその『新しい照明のもと悲しい真理を発見する』後の生き方へのヒントです。ゾンビ論法に答えは用意してありません。ですから少なくともそのレベルに到達しない,あるいは出来ない方々はみんなで集まってわいわいがやがやとチャチャチャの毎日を送ることです。むしろそれの方が常識の範囲で幸せになれる。
フランスでは試験問題を前もって教える。それによって学生に勉強させる仕組みだ。日本の教育システムは暗記が七割で知識のコントロールだけで東大に入れる。歴史の試験で何が出るのか分からない場合学生はヒステリー状態になる。例えば『ヘレニック文明は福音の準備であったのか?』などの論文提出だけで学生は必死に勉強する。教師は何ら権限が与えられていないが落第させることだけは出来る。かつて管理人のいた大学では昭和43年のある時全学年の半数を落第させた。(自殺者も出た。そのことも知らないで教授は出席をとり続けたそうだ。)その前に見切りをつけて運良く航空会社という生活の糧を見つけることが出来た。それによって学生のストライキが起き数年続いた。ソニー創業者の井深大さんだって東芝の入社試験に落ちている。人間万事塞翁が馬。
パッチの愛称で親しまれた実在の名医の波乱にみちた半生を描いた映画「パッチ・アダムス」の主題歌
長い長い夜
道を探し求めて
闇の中で戦い
やっとみつけた日の光
抱いていた夢がやっと叶って
青空に手がとどく
もうくじけない何をされても
信念は変わらない
自分のハートを信じ続けて
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
出来ない事はない
くじけぬ魂を持ち続ければ
決して負けることはない
どんな星にだって手がとどく
信念を捨てないで
ハートを信じよう
身を凍らす冷たい風
先の見えない真っ暗やみ
でも感じるだろう
風向きの変わったことを
燃える火の中をくぐり
雨の中を歩いた
でも私はくじけない
自分のハートを信じ続けたから
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
出来ない事はない
くじけぬ魂を持ち続ければ
決して負けることはない
どんな星にだって手がとどく
信念を捨てないでハートを信じて
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
負けることはない
パッチの「7つの信条」
1. ひとをケアする理由はただひとつ。人間を愛しているからです。
2. ケアは愛を動詞化する。ケアは概念ではなく、行動です。
3. ひとを思いやるという人生を送ることによって、あなたは自分のなかで一番深い平和と安らぎを得る。
4. 良い意味のお返しをすること(良きカルマを積む/カルマからの解放)。例えば、米国がアフガンに爆弾を落とし始めたとき、私はアフガンの人々を愛したいと思い、即座に現地に飛んだ。
5. 平和のためにクリエイティブになる。例えば、死の床でアメイジング・グレイスを歌う。
6. 情熱を持ち、不可能だと思っていた夢を見る。
7. ひとをケアすることは、科学的見地からしても、あなたのためにいいことがある。
ただし日本人には無理でしょうね。おはようございます,こんにちはすら言えないんですから。
FEMA CONCENTRATION CAMPを実際にあなたの目で見たことがありますか。管理人は見ています。だから今まで警告してきたのです。
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