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昭和日本のおバカなテロと戦争 その1

 

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai22.html

 

【昭和日本のおバカなテロと戦争(昭和元年から敗戦まで)】

下はおバカの見本

 

    <人間によっぽど欠陥があったんだ>(古山高麗雄)
  軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究
  していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ。
   (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.93)

山本五十六フリーメーソン説を検証する

https://nawa-fumihito.com/browse365170319.html

1920年代後半、アメリカ滞在中の山本。右はカーティス・ウィルバー

日本人の敵は「日本人」だ

権力は思う、「国民は戦争の『人的資源』だ」と。冗談ではない。戦争気違
いどものおもちゃや使い捨てにされてたまるか。平成17年8月1日の”自民党改憲案”では”公益”とか”公の秩序”などとナショナリズム喚起・高揚を促し
、軍隊保有については「自衛軍」保有を明確に定め、国際平和のために「国際的に協調して行われる活動」ならば海外派兵を認めている。さらに「自衛軍」が公共の秩序の維持に使われることも謳われた。これは治安出動という「軍隊の国民への暴力」も辞さないということだ。小熊英二氏は言う(朝日新聞、平成17.8.2 朝刊 p.31)。「私は自民党の改憲論議が報道されるたびに、彼らは憲法というものを、国家の最高法規というよりも手前勝手な道徳論や文化論をぶちまけて国民に説教を垂れる場と勘違いしているのでは、と感じてきた」。
  筆者も同感である。戦争を知らない、知ろうとしない世代ばかりになった今、改めて私たちは戦争の真実を知らなくてはならない。権力の欺瞞や無責任と徹底的に対峙しなければならない。
  (以下、◎:年代、★:背景、●:必須項目、※:注釈などで区切る)。
 
  <おバカの象徴:軍人勅諭(明治15年、山県有朋)より>
   「世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己
   が本文の忠節を守り、義は山獄よりも重く、死
   は鴻毛より軽しと覚悟せよ」。

  ************【帝国陸軍の実態(ほんの一部を紹介)】**********
             <ひっ殺してゆけと言った>
  私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰
  ってきて、北関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃す
  る任務をもたされていたが、もし敵が上陸したとして、「われわれ
  が急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げ
  てくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいので
  ありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
  戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
      (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

  「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポン
  とたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてし
  まった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これら
  は全部変な、いびつなものでした。
  この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハン
  が現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相
  手に戦争をするということになりました。・・・
  国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。
  そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。
  そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、
  魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのでは
  ないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が不思議でならない
  のです」(司馬遼太郎『雑談「昭和」への道』より)

  「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に
  自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期
  国家の大きな特徴だったといっていい。(司馬遼太郎『この国のか
  たち<一>』より)


グートレ・シュナッパーはロスチャイルドの母親~本当に言ったかどうかは不明ですが.................。


  日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍で
  は「敵を殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬ
  ことの大切さを説いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐
  性は、19世紀後半の近代化の初期段階においてすでに顕著に現れて
  いる。1872年に発令された海陸軍刑律は、戦闘において降伏、逃亡
  する者を死刑に処すると定めた。もちろん良心的兵役拒否などは問
  題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、その場で射殺す
  ることが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび罰五
  族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべて
  を処罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみなら
  ず、彼の家族や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人
  の責任を血族全体に科し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、
  結果的に規律を厳守させていたのである。この制度によって、兵士
  の親の反対を押さえつけ、兵士による逸脱行為はもちろんのこと、
  いかなる規律違反も未然に防止できたのである。さらに、警察国家
  化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に批判的な
  著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見
  を公にすることは極めて困難になった。(大貫美恵子氏著『学徒兵
  の精神誌』岩波書店、pp.7-8)

  自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立
  てるためには、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかっ
  た。世界各国の軍隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によっ
  て、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせよ
  うとしたのである。そのためには、平時から兵営内で、厳しい規律
  と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制した。それは兵士に自
  分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習慣をつけ
  させるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習慣や私
  的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内
  での兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。
  このような兵士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つであ
  る。すなわち厳しい規律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたい
  しても絶対に服従することを強制したのである。(藤原彰『天皇の
  軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)

   兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが
  日本軍隊の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみる
  と、日本陸軍の戦死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病
  死者はその10倍近くの11894名に達している。・・・これは軍陣衛生
  にたいする配慮が不足し、兵士に苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果
  である。
   日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士
  を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、
  白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射
  になぎ倒された。・・・旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、
  日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利
  を得ている。・・・
   日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷
  威力の増大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こ
  そ勝利の最大要素だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦
  の教訓も学ばなかった。兵士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と
  精神主義の強調が、アジア太平洋戦争における大きな犠牲につなが
  るのである。
   兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であ
  った。兵士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線
  の確保であり、補給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調
  する日本軍には、補給、輸送についての配慮が乏しかった。「武士
  は食わねど高楊子」とか、「糧を敵に借る」という言葉が常用され
  たが、それは補給、輸送を無視して作戦を強行することになるので
  ある。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.10-11)

  (敗戦直前の昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを
  東郷茂徳が日記に残しており、以下のように記述している)。
   会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で雨総長に
  対し、米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の
  末であつて根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのであ
  る、それで陛下に対し斯く斯くの方法で勝利を得ると云ふ案を上奏
  した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に今後二千万の
  日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと
  述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自
  分に対し外務大臣はどう考へられますと開いて来たので、自分は勝
  つことさえ確かなら何人も「ポツダム」宣言の如きものを受諾しよ
  うとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうかが問題だと云つて皆を残し
  て外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電報及放送記録
  など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車
  中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過
  ぎない、頑張り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹
  槍や拿弓では仕方がない、軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り
  烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来たから明日は首相の考案通
  り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。(上記引用は保阪
  正康氏著『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243より)

            <権力は弱みをついて脅すのだ>
   天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはず
  みであって関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不
  始末でもしでかしたら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、
  そのほうが心配でしたね。自分の責任で、家族の者が非国民と呼ば
  れ、いわゆる村八分にあってはいけんと、まず家族のことを考えま
  した。(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐:辺見じゅん氏著
  『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

       <戦争は権力のオモチャ(退屈しのぎ)だ>
   国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。
  その行動原則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経
  済の国家統制の完遂を目論むことである。従って異論や権力に不都
  合な論評や様々な活動は抹殺、粛清される。畢竟、国家権力とは、
  国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほかならないと
  いうことになる。
   さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャ(退屈
  しのぎ)である。犠牲者は全てその対極に位置するおとなしい清廉
  で無辜の民。私たちは決して戦争に加担してはならないことを永遠
  に肝に銘じておかなければならない。(筆者) 

             <戦争は起きる>
   誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、
  今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に
  呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化す
  る人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術
  はなくなってしまう。(辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』文
  春文庫、p.13)

        ********** ********** **********

  昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参
  考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、"統
  帥国家"を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
  <以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より>
  ○「統帥権」: ・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、
    其作用ハ超法規的ナリ。従テ、統帥権ノ行使及
    其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。
    議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ、質問
    ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難
    スルノ権利ヲ有セズ。
  ○「非常大権」: 兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度
   ニ於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲
   法第三十一條ノ認ムル所ナリ。   
    ********** **********  **********
  英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロット
  たちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べている。
 
   「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るもの
  は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような
  長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い
  人々のみである。(下略)」
   この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政
  党、総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えてもよいで
  あろう。
   問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程におい
  て、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍
  部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未
  熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹を
  たたいたものであった。しかもその彼等が導いた祖国の危機に
  際しては、驚くべきことに、みずからその完全な無力さを告白
  しているのだ。
   扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp61-62)
 
 
◎1927年(昭和2年)から1939年(昭和14年、第二次世界大戦勃発)まで
 <孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
 さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には
 極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思
 想があり、而して是等思想は悉く其向う所は違っているけれど
 も、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大な
 る眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。
 若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭
 うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢
 (決潰した堤防を河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入
 して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて
 居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、
 政治界に取っては最も大切なる時である。
 ・・・ 
 我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、
 決して微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、
 実に将来に於ける政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関す
  る大問題である事を記憶せられたいのであります。
  (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、p234-235より)
 
  ●金融恐慌:莫大な不良債権の顕在化。 銀行は続々と破綻。 
   鈴木商店、川崎造船所の経営難の表面化。台湾銀行破綻。
  大阪の近江銀行の支払い停止と閉鎖。
  4月21日にモラトリアムの緊急勅令(--->5月10日)。
  ●初めての「普通選挙法」による総選挙(昭和3年2月20日)
   革新、無産政党が躍進。ただしこの動きは満州事変に向
  かう軍事的な動きが後戻りできないまでに始まっており、
  田中義一内閣は労農党関係の団体に解散命令をだしたり、
  共産党への大弾圧を行い、昭和3年7月には「特高」までも
  設置した。
  -----------------------------------------------------
         <蒋緯国の追憶(1990.5)>
    本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきで
   した。それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、
   そこを前面の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯
   にしようとしたのです。ロシアの南下をくい止めるために
   共に連合して助けあって対抗しなければならなかったのに
   ですよ。なぜこうならなかったかを見ていけば、あのころ
   のお国の田中義一内閣がもっとも大きな誤ちを犯したとい
   うことになる。彼の内閣のときから中国を侵略し、共産中
   国をつくる元となる役割を果たしたといっていいでしょう。
   私は田中首相が中国を攻めてきたという言い方はしません
   が、彼の戦略が間違っていたとの断定はしてもいいでしょ
   う。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協力し、い
   つ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、ど
   のように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失
   敗だったということです。(保阪正康氏著『昭和の空白を
   読み解く』講談社文庫、p.71)
  -----------------------------------------------------
  ●張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、
      昭和3年6月4日)
   昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件で
  あった。つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわに
  していた。どこに権力があり、だれが責任をとるのかとい
  う指導力の核心が分裂してしまっているがために、当事者
  能力を欠いていた。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
   この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中
  義一は孤立してしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一
  辞職-->田中急死)。
   この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」
  (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)をつ
  くりあげ、陸軍が横暴を極めるようになってしまった。
   これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるよう
  になった。張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
   (石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手
  な満蒙政策の具現化。--->柳条湖事件(昭和6年9月18日)
  --->満州事変へ)
 
  ●世界大恐慌(1929年~、昭和4年10月24日)
  :ニューヨーク株価の大暴落。「暗黒の木曜日」
  ●このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が
  裏目に出て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州
  開発が切望されていた)。
   ○為替相場の乱高下--->その操作と悪用。
   円レートが実勢より高く設定されており輸出不振
   ○緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)
   ○求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議)
 
  ※ 昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和
  4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスと
   いう目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減
   り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者が
   あふれ、失業率は20%を越した。
   農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担して
   いた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食
   児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒
   り狂った青年将校は、テロに走って、政府要人を暗殺した。
   若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主
   義運動にのめり込んでいった。(竹内宏氏著『父が子に語
   る昭和経済史』より)
  ※ 金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について
   金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって
   保証するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて
   高いが、同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によ
   って決められてしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、
   輸出競争力のない国の金が、強い国へと流入していくこと
   になり、結果として国内の通貨供給量がどんどん収縮して
   ゆく。金本位制は、経済的な体力を必要とする厳しい経済
   体制である。
  ※ 昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに
  2億円余りの金が流出した。この額は、解禁のために英米
   と結んだ借款の額にほぼ等しいものであった。生糸、綿糸
   といった主要輸出品の価格が1/3まで暴落した。デフレは
   緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げが一般化し、
   労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にして
   およそ20%を遥かに越えた。 
  ※ 経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまっ
   た。農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠
   食児童増加(全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆
   積していた。
 
  ●青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年秋)
   橋本欣五郎中佐:「国家改造を以て終局の目的とし之がた
      め要すれば武力を行使するも辞せず」。
             <桜会趣意書>
    塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級
   為政者の悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆
   に無理解なる資本家・華族、国家の将来を思わず国
   民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失
   業、不景気、各種思想団体の進出、縻爛(びらん)
   文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の
   自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に
   堪へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導く
   べき事責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見
   るべきものなく・・(秦郁彦氏著『昭和史の謎を追
   う<上>』より)
 
  ●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
    (首相:浜口雄幸、外相:幣原喜重郎)
   軍閥と結託した政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)は、この軍
  縮条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろ
  うとした。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定
  し、その責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおく
  ものだった。
   さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識
  派だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホ
  ども(加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線
  へと動き出した。
 
   <「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎)>
   軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相
   であろうと誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、
   口だしすれば干犯になる(半藤一利氏著『昭和史 1926
   ->1945』平凡社、p46)
 
  ※ 鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)
   政府が軍令部長の意見を無視し、否軍令部長の意見に友
   して国防計画を決定したという其政治上の責任に付て疑を
   質したいと思うのであります。
   軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓案を決
   定する閣議開催の前に当って、軍令部長を呼んで之に同意
   を求めたと云う其事実から云うのであリます。・・・陸海
   軍統帥の大権は天皇の惟幄に依って行われて、それには(
   海軍の)軍令部長或は(陸軍の)参謀総長が参画をして、
   国家の統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而して
   それには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般の政務之に
   対する統治の大権に付ては内閣が責任を持ちますけれども、
   軍の統制に閑しての輔弼機関は内閣ではなくて軍令部長又
   は参謀総長が直接の輔弼の機関であると云うことは、今日
   では異論がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反
   し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたということ
   は、洵に大胆な措置と言わなくてはならない。国防計画を
   立てると云うことは、軍令部長又は参謀総長と云う直接の
   輔弼の機関が茲にあるのである。其統帥権の作用に付て直
   接の機関が茲にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責
   任の無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、之
   を変更したと云うことは、全く乱暴であると言わなくては
   ならぬ。(松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、p238より)
 
  ●満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支
  那案内』)
  ●台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
   高砂族の抗日暴動。日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。
 
  ★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲
  され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。(政界財
  界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭)
  (首相:斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->
  林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信
  行(S14~15)-->米内光政(S15)-->近衛文麿(S15~16)-->東条英機
  (S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔
  彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21))
  
   ※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリート
   の力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど
   強大になっていた。政党は相対立するエリートの主張や彼らの
   野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の
   手に急速に移っていったのである。
    しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚
   の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案
   やその履行上の重大な妨げとなってきた。
   (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、
              山川出版社)

    ----------◇当時の資本主義日本の状況◇----------
   在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れと
   その帰趨』(昭和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本
   主義日本の腐敗堕落を分析して、その流れの行く先を鋭く指摘し
   た。以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大デタラメの様子
   がよくわかる。しかも70年経た現在(1990年頃)と酷似している
   ことに注目。

    さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を
   結目として、その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退
   歩しつつあることを発見する。
   (1)営利行為の反生産化
   (2)資本権力の反生産化
   (3)資本家階級による資本の食い潰し
   (4)資本家階級の腐敗堕落
   いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、
  生産力の増進というベルトを通じてつねに働らいていたもので
  あった。・・・しかるに、わが資本主義のようやく成熟するや、
  資本家は、生産力増進というがごとき努力を要するベルトによ
  る代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸特
  権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行
  為を逞うするにいたった。・・・しからば、いうところの政治
  的特権に出る営利行為の追求とは、そもそもいかなる方法によ
  る営利行為であるか。試みに、その重なる手段を例示せばじつ
  に左(注:原文は縦書き)のごときものがある。
   (イ)保護関税の引き上げによる利得。
   (ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることに
    よる利得。
   (ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による
    利得。
   (ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、
    国有土地および林野の払い下げ、国営事業の請負、用地
    買上げ、等々による「利権」ないし「特権」による利得。
   (ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特
    約による利得。
   (ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。
   (ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。
   (チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。
   (リ)米価調節その他による利得。
   (ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。
   その他、細かな点をあげれば際限もない。右の中、多くは説
  明なくともその意味を理解していただくに難くないと思うが、
  ・・・(ハ)についてはたんに最近のことのみをあげるも、震災
  手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特融関係七億円、
  という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半
  をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円
  が同様に濫費せられ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わ
  が兵器、造艦、その他の軍需品、国有鉄道の車両、機関車等の
  注文のごときである。 (ヘ)および(ト)にいたっては政界の
  「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、
  朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多
  少の程度の差はあるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされて
  いる。たとえば坪十銭くらいで買った荒地数百町歩が、坪一円
  くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それが選挙費になれ
  りというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の
  具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。・・・
   以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他に
  おいて、その生産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。
  その結果はいうまでもなく資本主義的発展の行き詰まりであり、
  その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、資本主義に対する
  積極的否定運動の勃興である。・・・

  ------◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇------
  ●浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日
  -->昭和6年死亡)
   浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を
  押しきり、昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼
  や野党(政友会)に「統帥権干犯」として糾弾されていた。
  以後昭和史は滅亡に向かう。(北一輝の扇動、佐郷屋留雄の
  凶行)
  ※ 北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)より
   「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実
   例に学ぼうとしている。財政・政治・軍事権力を握ってい
   る者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努
   力している。われわれは全国民の大同団結を実現して、天
   皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底
   を完成しなければならぬ」。
  ●民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日
  本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。
 
  ●満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タン
   クー)停戦協定)
   <"毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争">
   日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことは
  なかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、
  いまも本質的には変わっていない。それはなぜなのか
  と自問したほうがいい。報道企業を単に主観的な社会
  運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの
  狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前
  者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻
  想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっていま
  す。そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争
  めく風景に鈍感になることとつながっている。(辺見
  庸氏著『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)
 
  ※ 柳条湖事件:午後10時20分
   奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にある独立守備隊の将
   校が満鉄線を爆破。これを中国軍(張学良)の攻撃と詐称し、
   板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正大
   尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍と奉天城を攻撃する
   ように命じた。
  ※ 満州国独立承認、日満議定書締結。
  ※ この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
   首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原
    莞爾中佐(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙
    認した)。
  ※ 錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国
      際連盟に対する挑戦。(昭和6年10月8日)
  ※ この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
   中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した
   朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、
   若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。
   しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たち
   の厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にも とづく責任
   内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。
  ※ 民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。
 
  ●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
   とくに十月事件は、民間右翼(大川周明、北一輝、井上日召
  ら)と陸海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ
  (未遂)事件。
   これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事
  件そのものは闇に葬り去られた。
         ***********************
    「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀
   本部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、
   重藤(千秋・中佐)など陸軍の一部が、字垣(一成)陸相を担いで政
   権を奪取するために企てた陰謀でした」。また同事件に民間から呼応
   した人物として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけ
   てのサケットによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京
   裁判への道<上>』講談社、p.123)

  ★若槻内閣総辞職(昭和6年(1931年)12月11日)
  若槻内閣総辞職は、浜口雄幸ー幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟・
  ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿
  を消したことを意味した。--->挙国一致的連立内閣構想--->大政翼賛へ。
     (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
 
 
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