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昭和日本のおバカなテロと戦争 その2

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai22.html

犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣高橋
  是清)を行った。浜口雄幸と井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と
  消えた。そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んで
  いった。
  犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。「憲政の
  神様」が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。

日本人の敵は「日本人」だ
 
  ●第一次上海事変(昭和7年1月28日)
   日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛け
  た事変。(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)
   この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日
  意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるを
  えないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思が
  ない以上、それをさけることができなかったのである。投入戦
  力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは
  何もなかった。英国は徐々に中国支援へと傾いていった。
    (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
  ※ 『肉弾三勇士』(昭和7年2月22日)
   江下武二、北川丞、作江伊之助はの3名の一等兵は、爆薬
   を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護
   線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。
   (大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)これは後に
   「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかし
   の美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最
   高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日
   本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線の長
   さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。

    注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教
      法義の一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散
      らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは
      全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花の
      ように散る」ことであると美化するために利用した
      のである。
    (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)

  ●「血盟団事件」(首謀者:国家主義者(民間右翼)、井上日召)
   1. 井上準之助蔵相の暗殺(1932年、昭和7年2月9日)  
  浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務
  感を捨てず、不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。
   これはまた肥大する軍事予算を圧縮する意図もあった。
   2. 団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
  金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。
  しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益
  を稼ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財
  閥、大富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に
  三井物産の「円売りドル買い」があった。
  ※ 四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)の話
   「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、
  ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。
  そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。
  これではいかん、(と決起した)ということだった」。
 
  ★浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって
  政党が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。
 
  ●「満州国建国宣言」(東三省=吉林省・黒龍江省・遼寧省)
   日本政府と関東軍(土肥原賢二ら)によりごり押し独立
   (昭和7年3月1日)。中華民国からの独立、五族協和・王
   道楽土(なんのこっちゃ?)を謳う。東京では(二葉会-->)
   一夕会系の中堅幕僚らの支持。昭和9年愛新覚羅溥儀は皇帝
   になり、帝政に改組された。(->「満州は日本の生命線」)
 
  ※ 満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家を
   つくりあげることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚
   を「理想」と考えていたわけである。これが明治期の軍人
   たちとは根本から異なる心理を生んだ。つまり軍事は国家
   の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地
   支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫し
   て中国を選んだのである。
  (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より) 
  ※ 因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月の塘沽(タ
   ンクー)停戦協定から昭和12年7月の盧溝橋事件までの4年
  2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。
  ※ たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手
   法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、
   在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚と
   によってなされたものだった。
   つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、
   満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本
   産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。残念
   ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指
   したものではなかった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝
   春秋より)
 
  ●オタワ会議(昭和7年7月):自由貿易帝国主義からの撤退
    イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経
    済を守るという、植民地ブロック経済(スターリング・
    ブロック)を採用。(次いでフランス、アメリカも同様の
    措置をとった)
  ●リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)
   ○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。
   ○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたも
   のではない。
             <解決策提示>
   1. 日中双方の利益と両立すること
   2. シビエトの利益に対する考慮が払われていること
   3. 現存の、諸外国との条約との一致
   4. 満州における日本の利益の承認
   5. 日中両国間における新条約関係の成立
   6. 将来における紛争解決への有効な規定
   7. 満州の自治
   8. 内治および防衛のための保障
   9. 日中両国間の経済提携の促進
  10. 中国の近代化のための国際的協力
  (子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)
   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
 
  ●五・一五事件(昭和7年5月15日):犬養首相(政友会)射殺
   海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎の農本
   主義団体が加わっての凶行。彼等のスローガンは政党政治
   打倒、満州国の承認、軍部独裁国家樹立といった点にあっ
   たが、この事件は図らずも国民の同情を集めた。これによ
   り政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。
   統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによっ
   て政党政治の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の
   独走の前に身をさらさなければならなくなってしまった。
  橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年末までに釈放された。
  <ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫
    ・増田修代訳、刀水書房、pp.59-60)>
  第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、
  と橘は語った。
  「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家
  社会を要望する国家社会主義的計画経済原理に立って、
  日本を再編成しなければならないのだ」、と彼は説い
  た。「マルクス主義が救済策を提供することはあり得
  ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であ
  るのに反して、日本は小独立農民の国家である。農民
  を犠牲にして工業によって豊かになったイギリスを模
  倣するという誤ちを近代日本はおかしてしまったが、
  日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市
  に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しつつあ
  るのだ」。
  その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかし
  くないが、救済策ということになると、このトルスト
  イの旧使徒は理想に燃えて幻影を追ったのであった。
  「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、ふた
  たび独立自営農民の国にならなければならない」と彼
  は語った。
  「対外進出と国内革新は同時に進められねばならな
  い。満州の馬賊は大した問題ではない。日本が打倒し
  なければならないのは、アメリカと国際連盟なのだ。
  ・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した 議
  会から解放されなければならない。・・・「われわれ
  が求めているのは、自治農村共同体社会にもとづいた
  代議組織である」
 
          <首謀者古賀中尉>
  「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほ
  かに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国
  家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らか
  になった。血盟団の評価も変った。国賊と呼ばれた小
  沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。
  この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らな
  かったのではないか、と私は思っている。私たちの抱
  いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」
  (立花隆氏「日本中を右傾化させた五・一五事件と神
  兵隊事件」文藝春秋 2002;9月特別号:433ページ)
 
  ※ 青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅
   薄さがその持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。
   街頭演説に訴える精神とは違った色に染められてはいるが、
   質的には変わるところのない、未熟で偏狭な精神の持ち主
   である青年将校は、陸海空軍を通じて蔓延していた精神構
   造の典型であった。(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺
   政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.45-46)
 
  ★五・一五事件事件前後の”日本の変調のはじまり”について
  「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有
  志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一
  般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
  年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、
  農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがた
  めに立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減
  刑嘆願運動さえ起こつた。マスコミもそれを煽り立て、「動機
  が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論
  調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれ
  ていったのである。
  どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世
  相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。
  第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起
  き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるよ
  うに、大正12年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻
  化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基
  盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
  「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍
  は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建
  国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満
  州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和8年
  には国際連盟を脱退してしまう……。
   だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶり
  にも、国民は快哉を叫んでいたのである。
  戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して
  「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の
  我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
  またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせてい
  た。憲法学者、美濃部達書による「天皇機関説」問題だ。天皇
  を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が
  「不敬」に当ると指摘したのである。
  しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の
  認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理
  論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、
  それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたので
  ある。
  天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」
  と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇
  から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体
  明徽論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。
  「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家が
  ある」とする説である。
  (さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレート
  していった)。
  ・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右
  翼が多く台頭してきたのであった。
  「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託して
  いる二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と
  主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下
  してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こ
  した青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。(保阪
  正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.57-60)
 
  ★民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州
  事変。政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続
  を困難にしていた。
 
 ●海軍大将斉藤実の「挙国一致内閣」(昭和7年5月22日~昭和
   9年7月)の成立。政党政治の終焉の象徴(議会政治の機能不全)
  ※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な
   専門知識を保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越
   性が、大幅に認められるに至った点で特徴的である。この
   結果軍部の政治支配の増大をもたらし、ひいては日本軍国
   主義の確立をもたらした。
   <大衆の政治参加の問題:官僚の画策>
    1. 鎮圧による支配(内務省警保局)
    2. 既存の選挙過程の「浄化」
   地方の名望家と政党の連携を弱体化させるよ
   うな施策(「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山
   鶴吉ら)
    3. 政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収
   敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収
   して既成政党の弱体化を図った。
 
  ※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。
   日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を
   実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなけ
   ればならなかった。そのためには、陸軍が非常に関心をもっ
   ていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害
   の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしな
   ければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政策決
   定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
   この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、
   戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわら
   ず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍
   事的膨脹主義を支持した。政党のこのような政策は誤ちであ
   り不賢明なものであったことは後に明らかになった。
   (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、
        山川出版社)
 
 ★軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭
  ※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力
    を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。
  ※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。
        (福田和也氏)
   ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、
   ほぼデュケルムの問題意識と重なると云うことができるだろ
   う。ファシズムの様々な政策や運動行為、つまり国家意識の
   強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじま
   り、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚制を
   はじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジ
   ャー、レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショ
   ナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、
   むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高める
   ために構成されていると見るべきだろう。
   ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたド
   イツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに
   政治権力が分散し、その分裂が大戦後昂進するばかりだった
   イタリアといった社会の枠組み崩壊したり、激しい亀裂に見
   舞われた社会においてばかりであった。(福田和也氏著『地
   ひらく』文藝春秋)

  ※日本政治研究会(時局新聞社)の見解
    日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進
    展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、こ
    の国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員され
    てゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、
    かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的
    にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー争
    奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。
    そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握
    り続けてゐる。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、
   p.16)
   ----------------------------------------------------------
  ※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行
    き過ぎを弾圧するファシスト流の極端なナショナリズムは、
    米英両政府と産業界及び多くのエリートの見解ではファシズ
    ムは、一般には、むしろ好意的に見られていた。
     ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでフ
    ァシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに
    崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、
    ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解
    を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対す
    るアメリカの政策を導く前提となった。イタリアは明白な
    選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。
     「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社
    会主義」か。ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指
    導的人物だった。10年後の1937年にも、国務省はまだファ
    シズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、
    今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼
    に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イタリア
    駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれ
    た状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感
    動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を
    見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼ら
    は真の民主主義を体現している」と述べた。フィリップス
    は、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続
    ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国
    務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピ
    アで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混
    乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解
    決策を見出した」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェル
    トはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、
    世界にとってきわめて重要」と見ていた。
     1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェル
    ズは、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘ
    ン協定を承認した。前述したように、ウェルズはこの協定
    が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立
    てる機会を提供した」と感じていた。ナチの中道派が主導
    的な役割を演じる世界である。1941年4月、ジョージ・ケ
    ナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツの指
    導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」
    を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足して
    いるかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好まし
    い結果を生み出している、と。
     産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意
    を示した。ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえ
    り、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォ
    ーチュン誌は1934年に断言した。ヒトラ-が頭角を現した
    後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった。
    企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、「大衆」の脅
    威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、イギ
    リスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコ
    ット・ニュ-トンは書いている。それはイギリスとドイツ
    の工業と商業及び金融の提携関係に深く根ざした理由から
    であり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、
    「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。(ノーム
    ・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新
    書、pp.98-99)

  ★官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来
   <軍部の独善主義とその暴走>
  ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそも
  そも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼
  年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、
  我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとん
  ど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本
  の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言って
  いいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体
  的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、
  軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした
  幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他
  的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
  (注釈)幼年学校→陸軍幼年学校
   陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育
   機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学
   に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置
   された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍 幼年学校に
   改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校が
   あり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、
   士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコース
   といわれた。(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、
       バジリコ、p.22)
 
  ★人間の屑と国賊の時代
  人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家
  に差し出してしまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と
  民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹
  よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)
  昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったとい
  っても言い過ぎにはならないだろう。
  (歴代首相:斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11
  ~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14)-->平沼麒一郎(S14)
  -->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15)-->近衛文麿(S15~16)
 
  ●「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川
  幸辰氏を追放。「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画
  『わが青春に悔いなし』)
  ●挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴
   「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が
  強まるなか、共産党の弾圧が強まった。(河上肇の検挙、小林
  多喜二の獄中虐殺など)
   なお挙国一致とはファシズムにほかならない。
  ●「満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(昭和8年2月24
  日)。日本は国際的な孤立を深めていった。
   昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。関係者は
  満州国の育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分で
  なかった。日本のためだけの利益を追求するのにやっきになっ
  ており(満蒙開拓団)、古くからの住民の生活が不当に圧迫さ
  れた。このことは日本人が他の民族と共存共栄する器量に乏し
  いことを証明した。
  ●「ゴーストップ事件」:大阪府警と陸軍の喧嘩
   国民が軍にたてつくことができた最後の事件
   (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p119)
  ● 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)
   当局による新聞、ラジオの統制強化
  ●救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著
  『幻のクーデター』参照)

  -----------------------------------------------------------
   ● ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立
            (1933年6月14日)
   ※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、
     ナチスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためら
     わぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機
     関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国
     (ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤
     立無援だった。(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』
     の解説(富原眞弓)より、岩波文庫、p.177)
   1933年
   1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を
      国防相に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク
      大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命し、
      右翼連立政権が成立する。
   2月 1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。
     広範囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために
     総選挙を選択。
   2月 4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。
   2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。
   2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペ
     を逮捕するとともに、これを機会に共産党議員の
     逮捕)。
   2月28日:事実上の戒厳令を閣議で決定する。
   3月 5日:ナチス党が選挙で第一党になる。
   3月23日:帝国議会で全権委任法が成立し翌日に発効。
   4月 1日:ユダヤ人排斥連動の実施。
   5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。ゲッベルス
     は非ドイツ的な書籍の焚書を扇動。
   7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。また、
     国民投票に関しての法律の実施。
  10月14日:国際連盟とジュネーブ軍縮から脱退の声明。
  11月12日:国際連盟脱退の国民投票。95%が政権支持。
  12月 7日:労働組合の解散命令。
  12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。
   1934年
   6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊貝の虐殺と粛清。
   8月 2日:ヒンデンブルク大統領の死去。「国家元首法」の
     発効でヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的
     に総統に就任して独裁の完成。
   8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。
   (以上の年表は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』
          光文社、pp.156-157より)
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  ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)
  、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・国
  政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのご
  とく、参謀本部は聳立していたことになる。書くまでもないことである
  が、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。
  ・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中
  に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、
  大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもと
  に、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。次
  には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認を
  へずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。
  大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そ
  のもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅
  坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略
  戦術の総本山として眺められている。・・・
  特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」
  での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の
  俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀
  本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだ
  けが終結した。・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域な
  のである。・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされ
  ず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。
  ・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。・・・
  彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき論
  議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じ
  ただ服従あるのみである。・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持
  とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。そのために
  作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの
  批判をあびた。しかし、それらをすべて無視した。かれらにとっては、
  そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。
  こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外から
  の情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。
  つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主
  義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道
  としてわが道を邁進した。(半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干
  改変して引用)
 
  <軍人どもの内閣諸機関への介入>
  ●陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)
   これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は
  全面的に陸軍将校の統制下におかれることになった。
  ●内閣審議会および直属下部機関の内閣調査局を新設(1935年、
  岡田内閣)
   とくに内閣調査局は軍人どもが文官行政に関与する新しい
  経路になった。しかも内閣調査局は内閣企画庁へと発展的に
  改組され、政府のもとに行政各省の重要政策を統合する要、
  総動員計画の中心となっていった。
  ●現役将官制の復活(1936年、広田内閣)
   陸軍大臣は陸軍によって、海軍大臣は海軍によってのみ統
  制されることとなり、陸海軍いずれかが現役将官から大臣候
  補者を推薦することを拒否すれば、気に入らない内閣の組閣
  を妨害したり、内閣の存続を妨げることが可能になった。
  ●「不穏文書取締法」(広田内閣)
   これにより、少しでも反政府的・反軍部的なものはすべて、
  即、取り締まられることとなった。
 
  ★明治~大正~昭和と日本は富国強兵・殖産興業への道を官僚主導のもと
  で強制的に歩んでいった。しかし資本蓄積、統一規格品大量生産(メー
  トル法採用)、教育改革(統一規格化した人材育成)は国民や議会の大
  反対を招き、日本の官僚は「議会が権威を持っているかぎり、近代工業
  国家にならない」と思うようになった。官僚は次々と汚職事件、疑獄事
  件をデッチあげ議会(政治家)の権威を失墜させようと目論んだ。「帝
  人事件」はその頂点であった。
  ●「帝人事件」(1934年、昭和9年)
   官僚が帝国議会の権威失墜を目論んでデッチ上げた大疑獄
  事件。
   昭和12年「本件無罪は証拠不十分に非ず。事実無根による
  無罪である」という判決で被告の名誉は守られたが、民主主
  義は守られなかった。この間に「二・二六事件」が起こって
  法律が改正されたので、帝人事件以後議会内閣は終戦までで
  きなかった。(行革700人委員会『民と官』より)
  ●永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸
  軍派閥抗争)(昭和10年8月12日)-->二・二六事件(昭和11
  年2月26日)へ
   陸軍皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山が社会主義者、実
  業界の大物、狡猾な官僚らと気脈を通じたことを理由として
  永田鉄山を斬殺した。東条英機は、このあと永田鉄山に代わ
  り、統制派のエース格となっていった。
  ※ 相沢三郎中佐:「この国は嘆かわしい状態にある。農民
     は貧困に陥り、役人はスキャンダルにま
     みれ、外交は弱体化し、統帥権は海軍軍
     縮条約によって干犯された。これらを思
     うと、私は兵士練成の教育に慢然と時を
     すごすことはできなかった。それが国家
     改造に関心を抱いた私の動機である」
   (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・
     増田修代訳、刀水書房、p.91)
 
  ※ 永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府
   の企画への陸軍の反革命だった。
 
   詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっき
   りと理解していたように、弁護側が主張したのは、陸
   軍とは、そのメンバーを合意なしには代えてはならな
   いとする、三長官(筆者注:陸軍統制の三長官は参謀
   総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制に
   よって管理される自主的な自治団体だ、と見なすこと
   であった。この自治団体は「天皇の軍隊」であり、そ
   れを内閣の管理下におこうとするいかなる企図も、
   「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがっ
   て、相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいな
   いにしても、頭のなかでは、天皇は帝位に装われたお
   神輿にすぎないことになる。1000年の歴史が、これこ
   そまさしく日本の天皇概念であることを立証している。
   天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天
   皇は、その職にある人間が行なう進言には異議をさし
   はさむことなく裁可する自動人形(オートマトン)で
   ある。1868年の明治維新は、天皇にそうした地位を創
   りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命
   の一部だったのである。
  (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・
     増田修代訳、刀水書房、p.101)
 
  ●"統帥権"による謀略的な冀東政権が華北に誕生(昭和10年)
  日本からの商品が満州国にはいる場合無関税だったが、
  これにより華北にも無関税ではいるようになった。このた
  め上海あたりに萌芽していた中国の民族資本は総だおれに
  なり、反日の大合唱に資本家も参加するようになった。
  ●参謀本部によるいわゆる「天皇機関説」(美濃部達吉博士)
  への攻撃
   ともかくも昭和十年以降の統帥機関によって、明治人が
  苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。こ
  のときに死んだといっていい。(司馬遼太郎)

  

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