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敬天愛人

 

https://www.kyocera.co.jp/inamori/special/lectures/leader/

西郷南洲に学ぶリーダーのあるべき姿 | 稲盛和夫 OFFICIAL SITE

 

 

西郷南洲に学ぶリーダーのあるべき姿 | 稲盛和夫 OFFICIAL SITE

2007年12月11日に行われた盛和塾 関東地区塾長例会において、稲盛が「西郷南洲に学ぶリーダーのあるべき姿」と題して述べた内容をご紹介します。

 

 

敬天愛人とは

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E5%A4%A9%E6%84%9B%E4%BA%BA

敬天愛人(けいてんあいじん)とは天を敬い人を愛すること。「敬天」は天をおそれ敬うこと。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

(現代語訳)

「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)

この言葉は、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」(岩波文庫)の中に登場して、西郷隆盛の言葉として知られている。ただし、これは西郷が言い出した言葉ではなく、他の人の言葉を借りてきたものである。では、誰の言葉からかということになると、彼がよく影響を受けたとされる広瀬淡窓には、「敬天」はあるものの「愛人」がない。「敬天」と「愛人」とを一体に結んで、「敬天愛人」として相即不離に説くことはなく、依然として「敬天」に止っていた。「敬天愛人」の語を日本で最初に提唱したのは中村敬宇(中村正直)である。それは敬宇の学んだ中国や日本の儒学在来の敬天思想が、新しくキリスト教の「愛神」の思想に接触して、これを摂取し、深く感化されて「敬天愛人」へと結実したものと考えられる。西郷は、それを自らの遺訓に取り込んだものと考えられる。

西郷隆盛の書

 
西郷隆盛が揮毫した敬天愛人

「敬天愛人」と揮毫した西郷隆盛作の書が現存しており、鹿児島県鹿児島市上竜尾町西郷南洲顕彰館に所蔵されている。西郷南洲顕彰館に所蔵されている書は、四方学舎の道場に掲げられていたものであり、第二次世界大戦終戦後に南洲神社の所有となったが、鹿児島市立美術館に所蔵された[1]

1967年(昭和42年)3月31日鹿児島県指定有形文化財(書跡)に指定された[1]

私の履歴書~稲盛和夫 ~世の中に不平不満はつきものですが,自らのおおらかな心の中で処理することが大事です(管理人注)

https://www.nikkei.com/stories/topic_DF_TL_19062008

その1

稲盛和夫(1)敬天愛人

挫折乗り越え夢追う 大恩忘れず経営にまい進

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九州の南端、鹿児島の田舎者が京の都に上って46年。郷里を後にしたのが23歳、京都暮らしは倍の年数を数えるまでになった。それでいて、物言い、物腰、いっこうに雅とまいらず、粗野な薩摩っぽの地は今に変わらない。

縁もゆかりもない京都だったが、建都千二百余年の古都はふところ深く受け入れてくれた。ついでに社名まで京の字をいただき、その恩恵計り知れないものがある。

20代で7人の同志と血判して創業した京都セラミツク、現在の京セラは今、1万4千人、グループで4万7千人を擁するまでになった。そこに至るまでの道のり、もとより平たんではなかった。それにも増して私の歩みは曲折多く、青春の蹉跌(さてつ)そのものであった。

父母ともに小学校卒という貧乏人の子だくさんの家庭のこと、勉強に励む雰囲気ではなかった。教育環境のせいにするつもりはないが、まず中学入試に失敗した。翌年、再挑戦するもまた敗退。高校は学制改革で無試験で進学したものの、大学入試では志望校にはねられた。就職になると、受けても受けてもかすりもせずの全滅。担当教授の紹介でもぐり込んだ会社は倒産寸前というおまけ付きだ。

すんなり入ったのは唯一、家の近くの公立小学校のみである。加えて、尋常高等小学校のころ結核にかかった。叔父さんが結核で亡くなったのを近くで見ている。後年、精神の領域に深い関心を抱いて得度したのも、早くに死を意識したことがずっと底流にあったからかもしれない。

挫折続きのままならない人生。それでもひがまず、ひねくれずにきたのは、その都度、どこからか「神の手」が現れ、私を支えてくれたからだ。そうとしか思えないような人との出会いがあり、親子でも及ばぬような温情にあずかった。結核で寝たり起きたりの私に代わって、願書を届け入試に付き添ってくれた小学校の先生。「いいかげんに働け」という親を説得し、一時は断念した大学への夢を実現させてくれた高校の先生。

私の技術を世に問う会社をつくってやろうと、自分の家屋敷を抵当に入れて資金を工面した京都の会社役員。節々で大恩のある方はまだまだいる。その中のただ一人でも欠けたら今日の私はなく、京セラも第二電電(現KDDI)もなかっただろう。

期待にこたえるには会社を立派にするしかない、それも世のため人のためになる会社を目指そうと、自らを狂の世界に追い込むまで研究に没頭した。才能に乏しくても熱意があれば人に伍(ご)していけるはずだ。しかし、それ以上に大切なものがある。心の様相だ。心が呼ばないものが自分に近づいてくることはない。人生は心に描いた通りになる。ひたすらそう考えてきた。

終戦直後の高校時代、国語の先生が授業中、「私は毎日、恋をしている」と言い出した。学校にくる道すがら、桜島がいつも視界にある。海上に浮かぶ雄大な島影、天に届けと勢いよく吐き出す噴煙。その熱い姿に恋い焦がれるというのだ。

「国は敗れても、若い君たちは希望を失うな。あの桜島のように燃えてほしい」。このメッセージに私は勇気をかきたてられた。古希を迎えようとなお、夢を見続けている。

桜島ならぬ比叡山を望む私の部屋には西郷隆盛の『敬天愛人』の額が掛かっている。「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす」。道というのはこの天地のおのずからなるものである。この南洲翁の遺訓を社是とし、心を高める経営、私心なき経営を実践してきた。以下はその足取りの一端だ。

 この連載は、2001年3月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。
稲盛和夫氏(いなもり・かずお)
 1955年鹿児島大工卒。59年に京都セラミック(現京セラ)、84年には第二電電(旧DDI)を設立。2005年から現職。「盛和塾」で経営者指導に力を注ぐ。最近の活動は「稲盛和夫OFFICIAL SITE」(http://www.kyocera.co.jp/inamori/)に詳しい。84歳。

https://news.yahoo.co.jp/articles/530bedce19291d914ad845f55cc03ce265da8ff3

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 京セラとはだいぶ違いますね。

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