ようこそおいでくださいました
原生林の奥の奥
倒れた大樹のその上に
こけときのこが絵を描いた
小さな小さなきのこたち
白とピンクの服きてた
秋の光を背に受けて
水の流れの音楽に小人の国の舞踏会
どろ亀先生「無心」より
どろ亀先生とは.......
遠い地平線が消えてふかぶかとした 夜の闇が心に休める時はるか雲海の上を 音もなく流れ去る気流はたゆみない宇宙の営みを 告げています
満天の星をいただく果てしない光の海を ゆたかに流れ行く風に心を開けばきらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の何と饒舌なことでしょうか 光と影の境に消えていったはるかな地平線もまぶたに浮かんでまいります....(ジェットストリームより)
本題に入ります..........。
衝撃的な事実が判明する~孝明天皇が崩御を装って、皇位を南朝皇統の大室寅之祐に譲っていた!!当時の京都御所からはロスチャイルド家と酷似した紋章が見つかり清涼殿には一角獣と獅子の組み合わせが祀られている。一角獣はヨシュアのシンボルで獅子はユダのシンボルでありこれで堀川辰吉郎との関係が整合性を帯びてくる。次の記事「堀川辰吉郎と閑院宮皇統」でお伝えします。もっとも落合莞爾氏の記事ですが......。孝明生存の真相を見抜いたものは今まで落合莞爾氏以外にはいない。これから関連記事は長くなります。京都裏天皇を隠蔽するために数々のもっともらしい記事や本がある理由に気がついた次第です。
ところで小野寺直に関するあらゆる記事には総花から妨害が入ります。どうしてでしょうか? 本物だからですよ。
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-400.html
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-1081.html
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-1079.html
日本古来より伝わるところの「三種の神器」は嘉吉三年九月に持妙
院統よりし回収し現在小野寺直氏が所持
注:持明院統のことです
関連記事:すり替えられた八紘一宇
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/948.html
上記記事の中で堀川辰吉郎氏に関する記事での修正を近日中に行います。大霊脈の著者である中矢伸一氏は堀川辰吉郎が明治天皇(大室寅之佑)のご落胤にこだわりすぎた結果内容がずれてしまったようです。
中国が後醍醐天皇の御子孫である小野寺直氏に【南朝天皇御璽】を贈呈してきた事が何を意味しているのか平和ボケ国家のおバカさん連中には何が何だか解らない~以下参照
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/636.html
ニューヨークタイムズが日本に天皇は二人いると言っていることは......
南北朝正閏論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
管理人注:持妙院統ではなく持明院統
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RA1COWogtV9zIAJBuJBtF7?p=%E6%8C%81%E5%A6%99+%E9%99%A2%E7%B5%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
持明院統と大覚寺統と別れた原因は、後嵯峨上皇が息子である兄のの後深草天皇を無理矢理譲位させ、次男亀山天皇に即位させた事から始まってますが、何故、そんな事をしたのでしょうか? 以下参照
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155772306
☆
必見!隠された日米戦争
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/6934eb2acb1b27be98f4ab6370af8eb9
動き出した八咫烏
https://www.facebook.com/youji.murakami/posts/432430570169173
村上 陽治
2013年2月11日 ?
村上氏は秘密結社鷹の爪の人のようです。鷹の爪と言ってもアニメーション
動き出した八咫烏
アノニマス、TPP、八咫烏:八咫烏は日本のアノニマスだった!?
http://quasimoto.exblog.jp/16541038/
韓国本国が手を出してはいけない場所に手を出していたようです。
http://blog.livedoor.jp/nevada_report-invest…/…/4320878.html
新日鉄住金、韓国大手と全面対決…技術盗用訴訟
多額の報酬で社員OBを抱き込まれ、鋼板製品に関する最先端技術を盗用されたとして、新日鉄住金(東京)が韓国の鉄鋼最大手ポスコを相手取り、不正競争防止法に基づき986億円の損害賠償や同製品の製造・販売の差し止めなどを求めた訴訟の第1回口頭弁論が25日、東京地裁(高野輝久裁判長)であった。
ポスコ側は「盗用の事実はない」と請求棄却を求め、全面的に争う姿勢を示した。
新日鉄ということは、日本経団連の中核です。しかも京都天皇(オーナー)の父親でもある、故堀川辰吉郎氏の正妻の女婿にあたる企業です。韓国は日本の裏権力に手を出してしまいました。
そりゃあ消されますね、韓国は。韓国は日本の本当の姿を知りません。黄金の百合の金塊を管理していたのは、秘密結社八咫烏の裏天皇の一人下鴨神社の大宮司の管理人Kなんですから、借金で消えるはずがありません。日本国民置いてけぼりのただの茶番劇に過ぎません。
クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)として上記下鴨神社の大宮司,鎌倉八幡宮の大宮司,熱田神宮大宮司の曾孫の広瀬祐也(フリーメーソン33位階)の3人がサンカの頭領のアヤタチで八咫烏の秘密結社で裏天皇。その上に大親分(おおやぞう)の大烏がいる。その名前はKであろう。ロスチャイルドもロックフェラーもKの使用人(ミスカシ(透破)とツキサシ(突破)という使用人)である。明治政府はサンカを河原乞食と蔑み神代文字を遠ざけた。現代日本も自虐的に扱われている。あたかももう終わりのように。支配者は奴隷が結束しない様に奴隷間に憎しみを起こさせる問題を作る。日本と近隣諸国との問題も同じなのである。人はそれを賎民資本主義と呼ぶ。戦後の本当の支配者は日本人である。だからあの戦争にわざと負けたのである。
要するに、天の芝居。日本の役割は闇をまとめて、ルールの中でゲームをさせてしかるべきときになれば、彼らを裁き、天に返す事だと認識しています。だから日本の中に、闇が入り込み、日本を独占しようとしていたんです。在日は明らかにルール違反を犯したので、彼等に裁かれます。
中国黒龍会を作ったのは秘密結社八咫烏なのはわかっていますので、中国国内に敵の役割として本物の世界天皇である小野寺直氏と共に、中国を作り変えようとチベットやウイグルなどで裏工作をやっているものと思われます。味方の役割でいるのが、アノニマスなどに変装して出現したハッカー達だと思われます。警察には戸籍がない、八咫烏を逮捕できませんから。
でなければ、闇の最後の攻撃などと、中丸薫氏などが本を書いて出版など出来るはずがありません。陰謀論として、世の中にこれらの存在がいますよと示したのも、おそらく彼らで間違いないんですよ。フルフォード氏もおそらくは、八咫烏の神芝居に加担している、一人です。彼から陰謀論が始まったようなものですから。竹内文書さえも八咫烏は捏造して発表せよと捻じ曲げたんですから。
北朝鮮が日本をポアなど出来るはずがありません。真の黒幕は、日本なのに。ただの紙芝居ならぬ神芝居なのに。
とりあえず日本の秘密結社八咫烏の情報が未確認ながら、これで確認できました。日本の裏権力の構造の一端も。黄金の百合の金塊の使用許可者Kの話は陰謀論でもチョコチョコ出ていましたが、八咫烏の裏天皇とはね。これなら幕府がどうやって統治していたのかの説明が出来ます。何で武士が表であれだで争っていても、日本が普通の体裁を執れるような戦国時代だったのかも。
要するに金を朝廷や神社(八咫烏)が握って、武士が代理で支配していただけ。それが幕府。その外側には、渤海国の末裔である、今の北朝鮮。つまり、朝廷による幕府の代理統治。支配権は武士が持っているが、へましたら八咫烏によって、粛清される。日本はこういう支配体制だったようです。お金(金塊)は神社が握っていて、何かあったときにしか発行しなかったようです。
それが明治維新のときに、その武士達がバチカンなどのサバタイ派に付いてしまって、東京明治天皇である大室寅之助を立てて八咫烏達を河原乞食扱いにした。日本の国体を守っていた彼らを遠ざけたことが、先の混沌を産んでいた原因でした。
八咫烏などは天の声にしたがって動いているみたいなので、何も知らない日本国民や政治家は彼らの掌で踊っているだけ。天の試練の名の下に。それがセムメーソンが主張している、日本人を成長させるための試練であると、認識しています。
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51826419.html
東京スカイツリーを作った、先ほどと知事を辞任した石原氏もこれらの天の計画に加担しています。彼はおそらく、全てを知っています。闇のバフォメットの五芒星になるように建物を作っていたなど、まさに計画的でした。表は何もないように見えても、それを上回る裏の顔を持っているのが、日本です。まさにもう、想像力の世界です。ユダヤマフィアの比ではありません。
日本人は一言えば、10分かれと言う日月神示の話はまさに、これに尽きると思います。西洋にはチャネリングメッセージがありますが、日本には嘘だらけのヒントにすらならないヒントしかありません。海外からの情報を照合させなければ、真実に辿り着けないというとんでもない話になっています。
http://blog.livedoor.jp/ayumi-and1/archives/19348219.html
世界天皇側(ムー)
表・小野寺直氏(三種の神器・モーゼの十戒、聖櫃(アーク)の保持者)
裏・日本の秘密結社八咫烏
キリストの陛下にいた天皇陛下(ユダヤ)
表・今上天皇(現在の天皇陛下)
裏・京都天皇(通称・オーナー。ロスチャイルドと堀川辰吉郎氏の子供。初代は白洲次郎氏。現在は二代目?前田五郎。本名・オグラディッシュ・ハーマン。)
朝鮮半島から来た、セム族の支配欲が強かったみたいなので、これなら全ての説明が可能になります。
源氏=セム族(今のセムメーソン=自民党)
平家=ガド&マナセ族(滅んだとされる、天皇家の末裔。)
壇ノ浦の戦いで滅んだとされる天皇家はおそらく、このガド族の天皇だと思いますよ。キリストの階下にいた、天皇陛下のほうの。要するにユダヤは、世界天皇を別に作っていたんですよ。そうじゃないと、北朝と南朝に分かれた理由の説明も出来ないし。正統じゃなければ、天皇と呼ばれる人が、何人いてもいいと。だから京都天皇(オーナー)と呼ばれている人が、生まれた。
ユダヤがムーを出し抜いて乗っ取りたいなら、一番都合がいいのは天皇陛下を名乗ることです。ムー側にしかいない世界天皇を巧妙に偽造すれば、世界を支配できますから。だから表を象徴(飾り)として、裏から京都天皇として日本を支配しようとしたが、八咫烏に妨害されまくったと。
後醍醐天皇が三種の神器の偽物を北朝に渡して、南朝として正統を名乗っていた話があるでしょう?要するに巧妙に捏造すれば、天皇陛下と名乗れたということ。だからこそ、朝廷による武士の代理統治になったと。天皇が北と南に別れて、民を混乱させるなど、あってはならないと考えたんでしょうね。
「竹内文書」
古代天皇家の系図が書かれていた。つまり、神武天皇から始まったとされる天皇家の歴史が180度ひっくり返るということです(真実なら)。
その白峰氏は、故人である広瀬謙次郎という方(いくつか著作あり)と生前会っていますが、その際、次のような話を聞いたと言います。
「広瀬先生が亡くなる前のことですが、「見せたいものがある」と、ある神紋を見せられたんですね。それは16の菊花紋が中に入っていて、まわりにダビデのマーク(六芒星)なんです。
広瀬先生によれば、それこそが古代イスラエル王朝の正式な紋章だったんだそうです。さらにそれは、レムリアの王族の末裔の証でもあるんだと私に教えてくれました。
伊勢神宮の石碑にもカゴメのマークがあることは有名ですが、本当はカゴメの中に菊花紋が入っているべきものです。」
一般人がこのようなことを話したら間違いなく狂人的扱いを受けるでしょうが、白峰氏、只者ではないです。
http://nikusiminorensa.at.webry.info/201203/article_3.html
これは私が、八咫烏の自称山田さんと言う方から学んだ、日本の裏の歴史です。
https://workspaces.acrobat.com/?d=mB-htgdt7ebdXE0FICF6Fw
南北朝正閏論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争。閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味。
概要
近世以来、「南北朝のいずれが正統か?」を巡って、南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は、大きく分けると以下の4つになる。
南朝正統論
北朝正統論
両統対立論
両統並立論
北朝方公家における南朝観
1392年(明徳3年/元中9年)閏10月2日に南朝の後亀山天皇が吉野から京都の大覚寺に入り、3日後に三種の神器が後小松天皇に引き渡された。ところが、後小松天皇は自己の皇統こそ正統なものであると主張しており、後村上天皇以後の南朝の天皇は上皇である後醍醐院が勝手に立てた「南方偽主」であり、天皇でもない後亀山が行幸の体裁で入京したことに反発を示した。加えてこの時交されたとされる 明徳の和約は義満ら室町幕府と南朝方の間のみで行われたものであり、後小松天皇ら北朝方はその内容は知らされていなかったもしくは合意をしていなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や大覚寺統と持明院統による両統迭立など、和談の合意内容が明らかとなるとこれに強く反発した。後小松天皇は後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷したのである(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[1]。また、元号も北朝の「明徳」が依然として用いられ続け、2年後の明徳5年(1394年)2月23日に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では後小松天皇や公家たちの多くがこれに反発し、16日間にわたって議論を続けた末、足利義満の強い申し入れによって「不登極帝」の扱いとして尊号のことが定まった次第であった(『荒暦』)。
後小松天皇及び北朝の公家の反発の原因としては、彼らが後村上天皇以後の南朝歴代を「偽主」としてみなし、三種の神器も平安時代末期に平家が安徳天皇とともに西国に連れ出した時と同様に不当に持ち出されたもので、自己の皇統の正統性に強い確信を有していたからと考えられている。特に持明院統の中でも後光厳流皇統に属する後小松天皇は皇位継承の正統性を巡って、崇光流皇統とも呼ぶべき伏見宮と対立関係にあり、それよりも遠い関係にある大覚寺統の皇統は否定されて然るべき存在であった。また、公家達の多くも家督を巡って南北に分裂しており、南朝方についた同族の復帰につながりかねない南朝の正統性を認めることには否定的であった。そして、何よりも正平一統前後に南朝方が京都を占領したことが計4回あったものの、いずれも短期間に終わり北朝は南北朝期の大部分において京都に存在し、朝廷機構を把握していた。それが、北朝方の自負の裏付けとなった。その結果、後村上・長慶の両天皇はその在位は否認され、後亀山天皇の在位は認めなかったものの、後高倉院(守貞親王)などの例に準じる形での太上天皇の待遇のみは認められたのである。
このことは、室町時代に作成された複数の文献にて知る事が可能である。後小松天皇は退位後、大覚寺統の皇族ではなく実子の称光天皇に皇位を譲ったが、称光天皇は子供のないまま重病となりこのまま崩御すれば、後光厳流皇統の断絶は確実となった。そのため、 応永33年(1426年)、後小松上皇は内大臣洞院満季に命じて『本朝皇胤紹運録』を編纂させた。現存する写本の中でも古い形態に属する写本において南朝については、
義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々……
寛成親王 法名覺理、於南方自立號長慶院
熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院
とされ、後醍醐天皇以後は光厳天皇以後の歴代北朝の天皇が正統な天皇として扱われたのである。また、これは伏見宮に対しても同様であり、後小松上皇の猶子となり称光天皇の後を継いで即位した後花園天皇を伏見宮貞成親王の子ではなく、後小松上皇の子として掲載して伏見宮と切り離している。これは、南朝・伏見宮とともに正統な皇位継承者ではないとする後小松上皇の強い信念の現れであり、崩御の時の遺詔においても貞成親王を太上天皇にすることの無いように念を押したのであった。だが、後小松上皇崩御後の文安4年(1447年)に貞成親王に「後崇光院」の尊号が贈られた。この時のことを万里小路時房は日記『建内記』文安4年11月27日に「凡非帝位人尊號、後高倉院(但後堀河院嚴父之謂也)、後龜山院(三種神器被渡當朝之謂也)両度也、今度之儀、淺自後高倉院、深自後龜山院者歟」と書いている。ここで注目されるのは、時房は後小松上皇の遺詔を理由として貞成親王への尊号に最後まで反対していた廷臣であったことである。時房の記述は、当時の北朝では南朝の後亀山院(天皇)が後高倉院・後崇光院と同様の「尊称天皇」とみなされていたことを示すとともに、後小松上皇の遺詔に反した後崇光院への尊号よりも更に低い価値しか認めていなかったことを示している。その後、後花園天皇の子・後土御門天皇の時代になって壬生晴富(小槻晴富)が北畠親房の『神皇正統記』に反駁する形で『続神皇正統記』を著した。「後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々、これは南方偽主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず……後嵯峨院御正嫡の御流として誠に神皇正統の正理に歸し、此記(『神皇正統記』)の名目自然の道にかなひ侍る御事よとふしきにも奇特にも侍るかな」と述べて光厳院を九十六代、後醍醐天皇の重祚を九十七代、光明院を九十八代として、以後後花園院まで続けている。この書は『神皇正統記』の著者である北畠親房の意図を歪めるものとして古くから非難された書物であるが、その一方で後嵯峨天皇以前を兄を嫡流とする「正統」理念で描きながら、それ以後は弟の亀山天皇の系統を嫡流とするために「正理」理念を持ちだして弟を嫡流とする親房に対する鋭い批判も含まれており、また北朝系公家の典型的な歴史認識を示したものであった。
『本朝皇胤紹運録』は勅撰の皇室系譜として幕末に至るまで宮中で重んじられ、そこに描かれた北朝正統論は絶対的に扱われた。後述のように『大日本史』の朝廷献上が大幅に遅れたのもその影響であり、幕末の光格天皇が自身を(神功皇后を含めて)「神武百二十世」と記していることからも伺え、また同時代の公家で歴史家でもある柳原紀光も『続史愚抄』の中で北朝正統論を唱えている(ただし、紀光は後村上天皇に関しては正平一統の期間に限定して正統な天皇であったとしており、朝廷の公式見解とは異なった態度を取っている)。
近代以前の南北朝正閏論
南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房が著した『神皇正統記』であった。親房は三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた。親房は南朝の正統性を示すために、「正統」概念の中には儒教や神道の教説を取り入れる形で有徳の者が皇位継承者に選ばれるという正理正義の理念を含めた。だが、一方で当時の家督継承の基本的な考え方で儒教や神道の考え方にも適っていた正嫡正流の概念も捨て去ることは出来ず、結果的には両説を組み合わせたものとなってしまった。更に神器の問題にしても上記の安徳天皇が神器をもって西国に下った時の後鳥羽天皇即位の事情など理念と史実の乖離を完全に説明することは出来なかった。その後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成ら南朝方の人々を「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くにわたって「後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府に対する南朝復興運動が続いていたことから、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。
この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。これをもって直ちに南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝を論じることがタブーではなくなったという点では画期と言える。また、楠木氏と同様に南朝方であった新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったことも状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。もっとも、息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。
その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される[2])。
徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。闇斎も南朝正統論に基づく史書編纂を計画していたが、執筆前に没した。彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ、闇斎の系統を引く学者(跡部光海・味池修居ら)の間で行われた。江戸時代後期の頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論を鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際に書いた絶筆ともされる「南北朝正閏論」は道義に基づいて南朝を正統とし、北朝の後小松天皇は南朝の禅譲によって即位したと主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、まさに命がけの一文は後世に少なからぬ影響を与えた。
他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇室正統記』に対抗して、南朝を正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。
更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
南北朝正閏問題
喜田貞吉 / 国史教科書で両朝を並立して記述したとして1911年に編修官を休職。皇居外苑にある楠木正成像
明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。
一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水での発言がこれに拍車をかけた。
そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説に「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。
この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ[3]、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。
以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院で菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、批判の投書が宮内省に殺到したため、中島は辞任のやむなきに至った(詳細は中島久万吉参照)。この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。
第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論
第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった(平泉澄は戦後も「吉野時代」の表現を用いているが、ごく一部の見解にとどまる)。ただし、宮内庁[4]を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。
網野善彦は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。また、太平洋戦争の敗戦直後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した(南朝の子孫という主張が正しいかどうかについては異論も多く一般には信じられていない)。ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現在の皇室の血筋が最も尊いとされている。
『足利治乱記』には後亀山天皇と後小松天皇が会見して神器の引き渡しが行われたように記されているが、明治時代に三浦周行が『日本史の研究』において、『南山御出次第』『御神楽雑記』など、当日の次第を記した書物が全て神器の還御の手続で行われていることを指摘して、両天皇の会見を根拠のない俗説であると結論付けている。
^ 元弘3年3月17日付「紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」(出雲大社所蔵、重要文化財)。
^ ただし、現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる。また、明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)ことまでを否定するものではなく、したがって現在の北朝の天皇の正当性を否定するものではない。
^ -天皇陵-歴代順で探す
南北朝時代 (日本)
日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する(→南北朝正閏論)。後述のように皇室は南朝を正統としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
南北朝の天皇 をご覧ください(Wiki元記事)
明治政府の修史事業 - 久米邦武筆禍事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E4%BF%AE%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E6%A5%AD
南北朝正閏論って何~に?
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A3xTtNGp9QxVOT8A6f.JBtF7?p=%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘 (落合秘史)
皇室偽史を覆す落合秘史
ついに日本近代史の核心に迫る
「権力」「カネ」「宗教」をめぐる相克!
現在の公認史実の根底に「大ウソ」があるのはまぎれもない事実です。明治維新の根本計画となったのは存在そのものを極秘としてきた「堀川政略」だからです。これを覆すには、偽史当事者が必ず遺したはずの糸口を発見し、洞察によって偽史の動機と状況証拠を明らかにして世人の理性(総合判断力)に訴える以外にはありません。落合秘史、それは「歴史の再審請求」なのです。
偽史のケガレを禊祓う[落合秘史]シリーズ。皇室関係者も隠れ読む[薩長史観への再審請求]
(I)「明治維新の極秘計画」
(II)「国際ウラ天皇と数理系シャーマン」
(III)「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新」
(特別篇)「南北朝こそ日本の機密」
[目次]
第I部:王政復古の知られざる内幕
・第一章:「奇兵隊ノ天皇」と三公卿
・第二章:小御所会議は維新政府の設立総会
第II部:維新を構想した紀州兵学奉公衆
・第三章:明治の怪傑 陸奥宗光のルーツ
・第四章:青蓮院魔王lと伊達兄弟の謎
・第五章:維新政府の理念を建てた伊達宗広
第III部:國體ウラ天皇と通貨政策
・第六章:万延幣制と明治の通貨事情
・第七章:明治幣制は小栗忠順の遺産
第IV部:覇道一神教VS日本教
・第八章:明治新政府と神道国教化
・第九章:神仏分離と覇道一神教
管理人注:本の解説とビデオ
http://togetter.com/li/722278
紀州文化振興会
http://www.kishu-bunka.org/
「堀川政略」の概容
ナポレオン戦争を経て、半封建的領邦国家から近代国民国家に変貌した欧州列強からの日本に対する国際化要求は光格天皇の御宇に始まり、欧州王室連合から日本皇室に対する皇室国際化の要請がしだいに現実味を帯びてきました。
具体的には、将来の世界王室連合への参加の呼びかけです。これについて、孝明天皇と側近が討議を重ねます。側近とは仁孝天皇の猶子(ゆうし)で孝明にとって養兄に当る青(しょう)蓮院(れんいん)宮尊(そん)融(ゆう)法親王と侍従岩倉具視です。
討議は、わが国が欧州列強に交わり近代国民国家として国際舞台に立つためには、政体の新しい装いとして立憲君主政体の樹立が必要になることで一致します。これを前提に、古代から続くわが國體(こくたい)を護持しつつ皇室を国際化するには、畢竟(ひっきょう)皇室を表裏に分けて二元化するほかないとの結論に至ったのは、日本天皇の本質が国民国土の安全を祈念する国家シャーマンだからです。つまり「オオキミはカミにいませば」の本義です。
大政奉還が行なわれて京都に政権が移ると、徳川幕府の本拠江戸は廃れて旧(もと)の武蔵野になることを、天皇は憂慮しました。国土の均衡上、立憲君主制の帝都を東京すなわち江戸に定めねばならず、国家元首たる天皇は、政体と皇軍に君臨するため東京城を皇居としなければなりません。
しかしこれでは國體天皇の国家シャーマンとしての霊力に陰りが生じます。大峰山から富嶽に昇る朝日を拝するためには、関東に動座することは適いません。これにより政体天皇は東京城に、國體天皇は西京(京都)に座すべきことが必須条件と認識されたのです。
皇室が世界王室連合に参加すれば、王室間外交は勿論、欧州王室の慣行である王室間通婚を避けて通れず、その結果皇統に外国王家の血統が入れば、わが国従来の國體観念と乖離(かいり)する虞(おそれ)があります。また世界王室連合の一員となった皇室は、王室連合の金融を担当する金融皇帝ロスチャイルドに対する協力・支援も必要となり、国際金融にも無関係でいられなくなります。
孝明がさらに重要視されたのは、開国に際して生ずべき国民間の各種対立と抗争を極小化することだと考えられます。当時、日本社会の地質構造には三本の大きな断層が走っていました。そのことは、十一月末に成甲書房から公刊する予定の拙著『明治維新の基本計画「堀川政略」』(仮題)で詳述しますが、①皇統の南北対立、②朝廷と幕府の対立、③公家・武士階層内での上下対立がこれです。
開国に際しては外国勢力は必ず国内介入の機会を狙い、右のいずれかに眼を付けること必定です。外国の介入の結果は臣民相(あい)撃(う)つ内乱に逢着(ほうちゃく)し、挙句の果てに植民地化もあり得ぬことではなく、人民は永く塗炭(とたん)の苦しみに陥ります。
この事態を避けつつ上記の三大対立を解消して、新しい立憲君主政体の樹立を志した孝明天皇は、それを実現するためのプログラムを国事御用掛朝彦親王(時に青蓮院宮)と侍従岩倉具視に諮問したのです。これに対して両人が奉答したのが「堀川政略」です。
その内容を正確に把握することは素より困難ですが、その戦略的骨子はおおよそ下記の如きものと推察されます。
①孝明天皇が崩御を装って、皇位を南朝皇統の大室寅之祐に譲る。
②睦仁親王及び、妹の皇女壽萬宮・理宮も薨去を装い、父天皇と共に隠棲する。
③隠れ家として、水戸斉昭が堀川通六条の本圀寺に「堀川御所」を造営する。
④大室寅之祐は睦仁親王と入れ替わり、孝明の偽装崩御後に践祚して政体天皇に就く。
⑤堀川御所に隠棲した孝明は國體天皇となり、政体に代わり皇室外交と国際金融を担当する。
⑥一橋慶喜は将軍就任を回避し、尹宮(時に青蓮院宮)と公武合体政権を建てる。
⑦幕府は十四代を以て大政奉還し、幕藩体制を終了させて立憲君主制の新政体を建てる。
これを実現するために幾つもの戦術が組み立てられましたが、当初にすべてを建てることはムリで、臨機応変に対処したのは当然です。その主なものを幾つか挙げます。
①御所建春門外に「学習院」を開設し、儒学・明經道を表看板をとして、実は国学・神道教育を行う。
②学習院を下級公家(平堂上)と尊攘下士のアジトとする。
②尹宮と表裏一体の矢野玄道が、佐賀藩士副島種臣を使って兄の枝西神陽と意思疎通し、神道系シャーマニズムを鼓吹する。
③枝西神陽が楠木正成の尊崇運動を初め、学習院を通じて尊皇諸藩の下士に広める。
④薩摩藩・長州藩で楠公尊崇が藩論となるよう工作する。
⑤安政の大獄による謹慎を利用し、慶喜と尹宮(時に青蓮院宮)が「堀川政略」を実行する。
⑥万延改鋳で保字小判を買い占めた小栗が、利益を保字金として退蔵する。
⑦文久の改革で、慶喜と小栗がオランダにフリゲート艦を発注し、榎本武揚らをオランダに派遣する。
⑧在欧の榎本が日本関連の国際情勢を、勝海舟を通じて慶喜に報告する。
⑨榎本武揚が将来の小栗渡米(結果は亡命になった)の準備を整える。
⑩慶喜が渋沢栄一をフランスに派遣する。
⑪勘定奉行の小栗と塚原昌義が兵庫商社を設立し、紙幣(兵庫金札)を発行する。
⑫勘定奉行兼軍艦奉行並の小栗が勘定吟味役小野友五郎をアメリカに派遣し、甲鉄艦を買付させる。
⑬大政奉還に備え、勝海舟が慶喜の恩赦を前以て図り、小栗退蔵金から孝明に献金する。
⑭甲鉄艦の到着前をタイミングとして、大政奉還を奉告する。
⑮米国公使が甲鉄艦の幕府への引渡しを保留する。
⑯戊辰戦争に際し慶喜と勝海舟は恭順を表明し、小栗と小野は抗戦を叫びながら蟄居し、塚原はアメリカに亡命し、榎本らは抗戦する。
⑰岩倉が東山道鎮撫総督府を身内で固め、剣客原保太郎を総督随行に任じて小栗の救出にかかる。折田彦市が岩倉と原の連絡に当たり、原が小栗を偽装処刑して逃がす。
⑱小栗は塚原の手引きでアメリカに亡命して三井物産設立の準備をする。
⑲榎本はフリゲート艦開陽を直接戦闘に参加させず、幕府の海軍力を封印する。
まだまだありますが、これ位にしておきましょう。
平成二十四年十月十三日 紀州寓居で秋雨の音を聞きながら
落合莞爾
欧州王家となった南朝皇統 大塔宮海外政略の全貌
[要旨]
ナポレオン戦争終結後、「欧州王室連合」が開いたウィーン会議で日本の強制開国が決定されたことを欧州大塔宮から國體(国体)天皇に伝えてきた。本書はこの「欧州大塔宮」の成り立ちと実態、さらには偽装死・米国亡命の小栗忠順を訪ねた岩倉使節団がフィラデルフィアに遺した痕跡等々、偽史で塗り固められた幕末維新史の真実を、世界史上初めて明らかにする。
[目次]
第1部 欧州大塔宮と国体天皇(欧州大塔宮から開国の告知
堀川御所の静かなる発足
国体忍者・勧修寺衆
勧修寺衆の足跡「お札降り」と「エエでないか踊り」)
第2部 国体財務衆と小栗訳官衆(渋沢栄一・益田孝が国体財務衆の双璧
小栗・岩倉フィラデルフィア極秘会談
フィラデルフィア別働隊とヤマトフの逆露探)
第3部 在米大塔宮と明治改暦(横須賀御真影の謎
維新政府に入った陸奥宗光
工業国へ向けた明治改暦とワンワールド商圏)
明治開国は在外皇統の強制指令、日本をワンワールド商圏に参加させる大塔宮戦略だった。近代史の闇を暴く落合秘史第5弾。
明治開国は在外皇統の強制指令、日本をワンワールド商圏に参加させる大塔宮戦略だった。近代史の闇を暴く落合秘史第5弾。
著者紹介
落合 莞爾 (オチアイ カンジ)
1941年、和歌山市生まれ。東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向。その後、中途入社第1号として野村證券に入社、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
煩悩くん,フルスロットルさんより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-date-201409.html
『日本の真の構造を知るには、日本の3人の天皇は誰なのか? そして、この3トップを頂点に据える天孫系、地祇系、天神系の外来勢力とは何なのか? また、その間を行き来するカラス(戸籍を持たない外来人)とは何者なのか? そして最後に天皇制システムの根幹を為す斎宮、斎院の「斎王制度」について知らねばならない』
裏天皇の正体 その1
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002604.html
裏天皇の正体 その2
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002607.html
裏天皇の正体 その3
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002608.html
裏天皇の正体 その4
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002615.html
裏天皇の正体 その5
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002616.html
上のリンクで裏天皇の正体 その6 その7 その8 その9が抜けていました
裏天皇の正体 その6
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2645.html
伏見宮海外ネットワークはここを参照(その6)
裏天皇の正体 その7
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2669.html
裏天皇の正体 その8
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2646.html
裏天皇の正体 その9
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2647.html
なぜか10~13がなくて
裏天皇の正体 その14
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2713.html
裏天皇の正体 その15
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2715.html
裏天皇の正体 その16
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html
あまり信憑性がない記事~前田ゴロー
http://ameblo.jp/maeni76pop/entry-11420624671.html
裏天皇の役割
http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%AB%8B%E3%81%A6%E6%9B%BF%E3%81%88%E3%83%BB%E7%AB%8B%E3%81%A6%E7%9B%B4%E3%81%97/%E7%9C%9F%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E5%BE%A9%E6%A8%A9%EF%BC%81%E2%91%A0%20%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80%E7%B7%A8