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傀儡子とサンカ

「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが,人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
      ジャン・ジャック・ルソー<エミール>より


          ようこそおいでくださいました


     原生林の奥の奥

     倒れた大樹のその上に

     こけときのこが絵を描いた

     小さな小さなきのこたち

     白とピンクの服きてた

     秋の光を背に受けて

     水の流れの音楽に小人の国の舞踏会

     どろ亀先生「無心」より


どろ亀先生とは.......


遠い地平線が消えてふかぶかとした 夜の闇が心に休める時はるか雲海の上を 音もなく流れ去る気流はたゆみない宇宙の営みを 告げています


満天の星をいただく果てしない光の海を ゆたかに流れ行く風に心を開けばきらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の何と饒舌なことでしょうか 光と影の境に消えていったはるかな地平線もまぶたに浮かんでまいります....(ジェットストリームより)



これより本題に入ります


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90

傀儡子(くぐつ し、かいらい し)とは、当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。

平安時代(9世紀)にはすでに存在し、それ以前からも連綿と続いていたとされる。当初は、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。

寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護され、猿楽に昇華し、操り人形は人形浄瑠璃となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎となっていった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。

寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。

その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる。また、平安時代の文人、大江匡房の『傀儡子記』に日本民族とは異なる習俗であるとあり、インドからヨーロッパに渡ったジプシーと同源で、インドから中国・韓国経由で日本に来た浮浪漂泊の民族とする研究もある。

傀儡子記

『拙論「山窩と倭(同,2003年)」「山窩試論(同,2003年)」によると,山窩集団は,大和皇権の意を受けた組織である。では,傀儡子集団は,如何なる組織であったのであろうか。「傀儡子記」によると,傀儡子は,表字に「不耕一畝田」「不採一枝桑」と記述されている。該当する裏意は,それぞれに,「徐福」への警戒は徐福を侮る僧侶の懲罰である」「徐福への猜疑は徐福を嗤う午族の詐欺である」であるので,これらは,傀儡子に課せられた責務になっている。してみると,傀儡子も,大和皇権によって組織された集団であるのかも知れない。機会があるならば,このような視点からの更なる調査に取り組みたい』

注:伊豆の踊り子などは傀儡子の末裔で川端康成の『伊豆の踊り子』には 「物乞ひ旅芸人村に入るべからず」 という立て札が出てくる場面がある。



関連記事;倭はどこにあったのか

http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/7494

『ここで注意しなければならないことは、「倭人」が朝鮮半島にもいたとする朝鮮人研究者がその地の「伽耶人」が日本にやってきて大和政権を形成したとしていたとしているである(李 鍾恒の前掲書)。つまり、「伽耶」=「大和政権」を導き出す前提としての考えで、「伽耶」に「倭人」がいては困るのである。加えて、その根底にあるのが「倭」=日本人が朝鮮半島に拠点を持っていたのでは「任那日本府」との関係において<民族的自尊心>から許さないという意識である(「李 基白」の前掲書74頁)』

管理人注:伽耶人がやってきて大和政権を形成したのではなくて.....

......この二つの部族は(古代からの叡智と)圧倒的な武力を持ち、大和族は日向を中心に九州全域と瀬戸内海内海の一部の原日本人を支配していった。出雲族は出雲を中心に次第に支配領域を広げ、近畿や北陸日本海側を支配した。その後、両者の間で戦争が勃発し、オオクニヌシの息子のコトシロヌシの時の戦争で、大和族と出雲族が拮抗し和睦した。(大国主の国譲り神話)その結果、大和族の王であった神武(サノ彦)は融和策として出雲族の娘(コトシロヌシの娘タタライスズヒメ)を娶り、大和朝廷を確立していく。”(九州高千穂のホホデミ王朝と神武東征より)

(百済)長州~(秦氏)薩摩を前提にすると.....スサノオ(後の出雲族)は朝鮮半島経由で....スメラミコト(後の大和族)は海路経由で九州高千穂に上陸で整合性がとれる。



OUT OF EDENからシャンバラへ

http://megalodon.jp/2009-0127-2250-01/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/

歴史が好きな方は~徐福伝説

http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html

『日本の稲作は今から約2700年前の縄文時代後期,九州北部で最初に始まりました。米の原産地は中国の東南部です。中国大陸から日本にやってきた人々によって広められたのです』

山窩と倭

http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Sannka-to-wa.html

山窩試論

http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Sannka-shironn.html

『医事雑考竒珍怪』田中香涯著 昭和14

関連事項

猿楽

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E6%A5%BD

巫女

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3

舞神楽

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BD

神事

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BA%8B

人形劇

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87

傀儡はくぐつともいい日本の中世・近世に、人形芝居を見せるなどして諸国を旅した漂泊の芸能者集団。

剣舞

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E8%88%9E

男寺党

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%AF%BA%E5%85%9A

コクトゥカクシノルム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%A0

天津司舞

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E5%8F%B8%E8%88%9E



漂白の民サンカ

http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/4062668.html

 皆さんは、「山窩」(さんか)と言う言葉を聞いたことがありますか?
 1950年代ころまで確認された、山中を漂泊し戸籍を持たず、定住せず、竹細工、蓑つくりを生業とし山の幸、川の幸で生活しているサンカと呼ばれる人々がいました。「ウメガイ」という両刃の山刀と「テンジン」と呼ばれる自在鉤、「ヤエガキ」といわれる厳しい掟をもった人々でした。

 サンカというのは、定住の民が名付けた蔑称で、彼らは独特の自称を持っているそうです。かつて柳田国男や三角寛らが研究し、五木寛之は「風の王国」「戒厳令の夜」で題材としました。
 その起源については謎です。色んな説がありますが、「幕末・近世にかけての困窮民が山に入った」という説は否定されています。むしろその時期に山を降り定住した人々が出てきたと研究されています。

 柳田国男は、彼らは縄文人の末裔ではないかと考えました。稲作をもって弥生人が日本列島に進出してきた時、弥生人に屈するのを潔しとしない人々が山に入って独自の社会を作ったというのです。
 たしかに、彼らの使う文字は、偽書とされた古史古伝の上記(うえつふみ)にある豊国文字にそっくりだといいます。

 サンカは、平安時代の傀儡子とも同一視できるかもしれません。歴史的に敗者や異国人が参加していった可能性もあります。戦国時代の忍者もサンカであるといわれています。歴史上では、源義経、楠正成、豊臣秀吉、徳川家康がサンカの血が入っていたと言われます。
 そういえば、家康の出自が被差別民であるサンカで、その秘密を記した巻物をめぐって争うという小説があったような。(柳生武芸帳だったかな?)

 サンカの人がみると、相手がサンカかどうか分かるそうです。T元首相もサンカ出身らしいです。現代にもサンカ出身の有名人は何人かいるそうです。しかし、その秘密をあばこうとする者は、闇から闇に葬られると言い伝えられています。

 こうして書いていくと、サンカの人々が異形の恐ろしい人々のように思えますが実態は違います。一揆をおこして被差別民におとされ僻地で困窮していた人々を助けたり、ライ病者として山に捨てられた人の世話をしたりもしたそうです。誇り高き、優しい人々だったと思います。
 大自然と一体となって生活する彼らこそ、真の自由人といえるのではないでしょうか?現在は、その存在は確認されていませんが、どこかで必ず生きているはずです。

管理人注:生きているどころか例えば吉本興業などは山窩の末裔であり整合性がとれます。山窩の世界は女尊男卑というのも面白い。

朝鮮王朝

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/chosun.htm

邪馬台国と朝鮮半島

http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/soo1004.htm

サンカとゴシェン その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/297.html

管理人注:その1に出てくる神の山は隠された神の山をご覧ください

サンカとゴシェン その2

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/298.html

サンカとゴシェン その3

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/302.html

サンカとゴシェン その4

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/303.html

サンカのルーツは創世記のヘテ人 その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/304.html

サンカのルーツは創世記のヘテ人 その2

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/305.html

サンカのルーツは創世記のヘテ人 その3

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/306.html

伽耶は日本人のルーツか(伽耶=傀儡子?)

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1660

http://blog.goo.ne.jp/chutaro1503/e/53a8205bf3f5306cc7d2028277dceafc から

関連記事~日本の渡来人

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1466

伊豆の踊り子

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1467

関連記事:消された伝統の復権

http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/0bf67c6f50dc1594a622be8c507f673f

『司馬を無名時代から高く評価していた海音寺潮五郎も、司馬の『兜率天の巡礼』よりも前に、ゴードン説に刺激されて、長編歴史小説『蒙古来る』(文春文庫)を昭和28年から29年にかけて新聞の連載小説で書いている。

 文永・弘安の両役前後の日本とユーラシア大陸を扱った『蒙古来る』は、蒙古軍によって、故国を追われたペルシャの美姫、景教徒のセシロヤが、海路、アラビア、中国沿岸を経て、日本に辿り着く物語である。

 日本では、セシリヤは傀儡子(くぐつ)の一団に身を隠す。傀儡子というのは、幻術、奇術を生業とする漂泊民である。そこで、セシリヤはペルシャの音曲やペルシャの幻術を披露したのである。

傀儡子とは?

伊豆の踊り子などは末裔で川端康成の『伊豆の踊り子』には 「物乞ひ旅芸人村に入るべからず」 という立て札が出てくる場面がある。』

キモイ韓国人

http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2442

伽耶=大和政権

http://323.teacup.com/yoshiro/bbs/7494

縄文人のルーツは沖縄?

http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3124

伽耶大学教授かく語りぬ

http://6260.teacup.com/chikyuboueigun/bbs/9140

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?(1/3)
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?(2/3)
http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k&feature=related

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?(3/3)
http://www.youtube.com/watch?

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韓国加耶大学客員教授 崔基鎬 氏の真実の歴史1

http://www.youtube.com/watch?v=-YhXvyv91XY&feature=related

韓国加耶大学客員教授 崔基鎬 氏の真実の歴史2

http://www.youtube.com/watch?v=RG0Thx5vfq4&feature=related

韓国加耶大学客員教授 崔基鎬 氏の真実の歴史3

http://www.youtube.com/watch?v=SFDN2zxZfPQ&feature=related
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

朝鮮人が認めたがらない朝鮮人の歴史(正直な朝鮮人出演)【後編】
http://www.youtube.com/watch?v=z647yDVz914&feature=related

アーリア人の起源

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/164

外国から来た天皇家

http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/305

鉄を産出する伽耶

http://6247.teacup.com/toshifjjp/bbs/6412

伽耶は鉄の國と呼ばれた

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/268

888とキリスト

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3926

関連記事:九州王朝の考察 その1

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/2921

九州王朝の考察 その2

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/2252

失われた九州王朝

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1842

明治天皇は中山慶子が鍵

http://ameblo.jp/64152966/entry-11373379484.html

『さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。
明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である』

本日は、「伽耶は日本のルーツ」(澤田洋太郎著 93年)のご紹介をします。

著者は、この書にて、日本人および天皇家のルーツについて、大胆ではあるがうなずける仮説を展開されています。

まず、日本人の原郷を伽耶地方つまり、朝鮮半島の南端、慶尚南道のあたり、古代に任那とか弁韓と呼ばれていた地域としています。

論拠は、つぎのとおりです。
伽耶地方と北九州地方の、弥生時代と同時代の遺跡や発掘品の比較によって 双方非常によく似ていて、若干、北九州の方が新しいということ。

・環濠集落や銅剣、鏡、管玉の意匠が、そっくりであること。
・双方で、そっくりの馬よろいが発見され、騎馬民族系譜であること。
・墓制がそっくりで、石槨はあるが、棺はないという騎馬民族の特徴がある。
  ・この騎馬民族的特長は、百済や新羅にはありません。

つぎに、天皇家の由来、系譜についての説をご紹介いたします。

①1世紀に北九州は、百余国に分かれていたわけですが、これは、伽耶地方の 諸国の王族が、伽耶の海岸線で活躍していた倭人(海人族)に助けられて、北九州に移住し、国をつくったというものです。

②この中から、邪馬台国が成長し、卑弥呼が登場するのは、3世紀半ばです。

③伽耶の豪族であり、日輪信仰をもつ、物部氏の祖先が、畿内に移動。

④卑弥呼の死後、男王がたつが、国が乱れ、豊後中津方面に退去し、後にヤマトに移動(神武東征 300年ごろ) 物部氏を臣従させて、日輪信仰つまり、天照大神を奪う。これが、イリ系の天皇と呼ばれ、神武、崇神です。

⑤400年ごろ、神功皇后・応神が、波多氏・蘇我氏・巨勢氏・平群氏・紀氏・葛城氏の助けをかりて、畿内に入り、大王となる。これが、ワケ系(タラシ系)の王朝で、応神から継体までつづく。

⑥532年、伽耶の王国は、新羅に降伏。その王族が、ヤマトに来朝、欽明天皇となる。ずっと蘇我氏の実質支配となる。この王朝は、天智天皇までつづき、ずっと任那回復や百済への肩入れを続ける。任那王族の王朝なので、うなづける。

⑦このあと壬申の乱により、天武が即位。天武は、天智とは兄弟ではなく、別の王統であり、新羅系の渡来人の指示を受けている。

⑧770年、天智の孫、光仁が即位し、百済系の復活となる。その子の桓武は、百済王家(100年前から日本に帰化)の姫を皇后にする。桓武は、天皇家が、三韓の出身であることを隠すため、それに関する焚書を実施する。

天皇家のルーツと、庶民としての日本人のルーツとは、どのような関係になるのかということであるが、私は、大同小異だと思います。
天皇家が、伽耶の王族の子孫だとしても、かれらは、伽耶の庶民と同じ民族であろうし、北九州の同時代の人々も、伽耶と同じ文化をもつ人々であろうと思われるからです。

澤田先生の著書でおもしろいのは、伽耶人、倭人が、騎馬民族系であり、百済は高句麗系、新羅には、騎馬民族の特徴がないことから、伽耶は、三韓のなかでも特徴のある地域だということです。
これは、日本語と朝鮮語が、よく似ているが、音韻構造がとても異なり、別の民族、遠い過去に分岐したと考えるべきということになります。決して、朝鮮民族から日本民族が分岐したわけではないということです。

また、日本民族では、自己主張をしない日本人の気質や虫の鳴き声を音楽として聴ける性質など、縄文人から受け継いだものや南方系から受け継いだものがあります。

これで、2300年ぐらい前まで、日本人のルーツは、かなりの確からしさで見えたと思います。

しかし、いつ朝鮮族と日本人がわかれたのか、日本人と同一の祖先をもちそうな民族の範囲を特定していくなどの、テーマが残っています。

以上はhttp://blog.goo.ne.jp/chutaro1503/e/53a8205bf3f5306cc7d2028277dceafc様より

生きているチョンを殺せと~投稿がありましたがどんな顔をして書いたのでしょうか?

Re: 生きている悪いチョンを死んでいる良いチョンにするために殺せ。良いチョンとは死んだチョンだけだ、死んだチョンだけが良いチョンだ
投稿者:Legacy of Ashesの管理人 投稿日:2013年12月22日(日)17時13分22秒   通報 返信・引用 編集済
チョンを殺せ、チョンは死ねさんへのお返事です。

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/2411

管理人注:投稿した方に一応の知識としてのチョンとは~(白丁)ぺクチョンのことですが管理人は彼らが大好きです。スーパーなどに食肉が綺麗に並んでいるのは誰のおかげでしょうか。一度考えてみることです。こういう投稿をするということは日本人として恥ずかしくもあり君という存在価値がないということですので反省するように。

白丁

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%B8%81

日本の渡来人

統一凶会

http://beingtt.blog.fc2.com/blog-entry-9.html

リンクが多くありますので元記事参照

関連記事:百済と日本

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/2158

日本の中の朝鮮

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/myweb2_003.htm

日本の歴史 飛鳥から明治までETC

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/geshicht.htm

【日本と渡来人】
日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれるが、これには東アジア全体の動きと、日本(ここでは地域名として日本を使う)の王権の伸張、そして日本の朝鮮半島、大陸政策との関係を考えなければならない。言い換えると、王権との関係で渡来人(=帰化人)をどう考えるかということである。渡来人が日本に来たということともに、渡来人を日本に引きつける日本側の力も大きかったと言うことである。

さらに王権と関係を持った渡来人以外にも、日本に渡来した人々がいた。長野県に見られる渡来人関係の遺跡など、中央との関係では説明の付きにくいものもあるからだ。

【第1の波 紀元前5世紀-3世紀】
第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(403-221)で、群雄割拠の時代を迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多く、さらにこれに押し出されるように朝鮮半島から日本に来た人々が多くいた。彼らの持っている稲作の技術によって、日本はそれまでの縄文時代から農耕を中心の弥生時代に移行した。集落も稲作に適した平野の近くに作られるようになった。

【第2の波 4世紀-5世紀】
日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が南下して、それに押されるように高句麗が朝鮮半島を南下しはじめ、新羅は高句麗の影響下に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増えた。この時期日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っていた。そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿内から西日本へ勢力を拡大した。この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との関係の深い漢(あや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。これらのうち漢氏の東文(やまとのあや)氏の力が強くなる。

ヤマト政権は伽耶の鉄資源を巡り朝鮮半島にも勢力を伸ばしていたが、その軍事力を目当てに百済が関係を持ち、ヤマト政権に七支刀を送っている。しかし伽耶のヤマト勢力は、北から進出した高句麗に敗れた(400)。高句麗の圧力によりこれをきっかけに百済、倭とも中国に朝貢する(倭の五王 413-502)。一方で高句麗の騎兵の影響を受けて、乗馬の風習が顕著になる。西文(カワチノアヤ)氏の地盤の河内地域にこれに関する伝承が多い。

【第3の波 5世紀末-6世紀】
雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)、熊津に遷都し、さらに泗沘(扶余)に都を遷す(538)など深刻な政治情勢に陥り、日本は機内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。

今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦部、須恵器をもたらした陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。

彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なった地域を形成していった。河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うようになる。渡来人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群集墳が築かれるようになった。

【6世紀の渡来人】
こうした渡来人の勢力を蘇我氏は接近した。そのため積極的に仏教を受容しようとした。仏教の公伝は538年とされるが、それ以前でも東漢氏のいる高市郡で司馬達等が継体天皇の時に草庵を営んでいたという。いずれにせよ百済系の仏教の強い地域であった。蘇我氏は司馬達等の娘を尼僧、善信尼として、これも漢氏一族の豊女と石女と一緒に百済へ派遣して仏教を学ばせた(543)。帰国後10人あまりが得度したが、いずれも漢氏系である。

6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が始まった。飛鳥寺では高麗尺を使った。高句麗の使節が日本に来たときに警護したのは東漢氏であるが、彼らはそれ以外にも新羅征討計画(602)、壬申の乱(両軍とも)で軍事力において大きな役割を果たした。さらに造仏造寺など土木工事にも活躍した。さらに外交でも外国の事情に明るい渡来人が利用され、漢氏系の高向玄理や南淵請安が派遣された。

一方で秦氏は中央政権との関係よりも地方の豪族から力をつけてきた。主に京都盆地、近江愛智軍、摂津豊島に分布して資材を蓄積した。京都広隆寺に見られるように、新羅系の影響が強いとされ、蘇我氏でも蘇我本家に反する人々が秦氏に接近した。豪族的性格が強かったため、彼らの信仰と、固有信仰が融合した。そのため稲荷、賀茂社、松尾神社の神主にもなっていった。

【第4の波 7世紀後半】
新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。また、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって一度途絶える。日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。こえに対応して百済人男女400を神前郡(665)、男女2000名を東国(666)、余自信ら男女700名を近江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも高麗若光や背奈福徳等が来ているが、高麗人687名を常陸国(687)に、さらに1799名を武蔵国(716)に配している。新羅とも国交が回復して(668)、新羅人を下野国に配した(持統期)。

大和朝廷は百済復興運動に失敗して、国内体制を立て直す必要が出来た。そのため渡来人の多い近江に都を一時的に遷した。沙宅招明、鬼室集斯、憶礼福留など百済からの渡来人を積極的に登用した。これ以降渡来人の勢力は、この時期に百済から渡来した人々が中心となっていく。一方で百済人2000名が東国に配されている(666)。

【奈良・平安時代】
一方で漢氏系集団はそれぞれの地域に土着化する。秦氏も同様である。地方官人クラスとして忌寸を称する帰化人集団が増えてきた。天武、持統朝になると百済男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。これは、大宝律令以降(701)、外国使節の往来する道路の近くに外来人を置かないとすることと、遠隔地の開発が眼目にあった。この流れで上州には新羅系渡来人を中心とした多胡郡が置かれ(711)、武蔵国の未開の地には新羅人による新羅郡が置かれた(758)。彼らはそれらの地域で土着化していく。

平安京に遷都した桓武天皇は母が渡来系であったため、秦氏の勢力が強くなる。また、東漢系の坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵愛を受けた。その息子が坂上田村麻呂である。しかし9世紀にはいると、朝鮮を蕃国と見る思想が強まり、新羅人を陸奥に配したりした。これに対して駿河、遠江の新羅人が反乱を起こすこともあった(820)。830年には帰化を認めなくなった。一方で北九州や西国での新羅との交流などは続いていった。

このような流れの中で帰化氏族は始祖を中国に求めたり、8世紀に日本風の氏に改姓するものも増えた。この中で武蔵の新羅人が姓を金に変えたり(728)、上州の新羅人が吉井に姓を変える、百済王氏の一部が三松氏に変えるなど、全国的に名字が変えられ、一見渡来系とは分からない者も増えていった。この流れによって、日本が対外関係が希薄になることに合わせるように、9世紀に入ると渡来人と、日本側の人々との間に融合が起こり、「渡来人として」の姿は消えていく。もちろん、その後も様々なところに渡来人の影響は形をかえて顔を出してはいるが。
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