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続:イスラエル建国の父が反ユダヤ主義者だったとは

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/4fd81995a08229ef8ead3e50eac43ea5

ヘルツルの日記 その2~再掲載

必ずヘルツルの日記その1から見てください

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内容(「MARC」データベースより)
ヨーロッパにおけるユダヤ人同化を絶望視し、新天地にユダヤ民族の新しい法治国家の建設を構想した近代シオニズム宣言の書。高まる反ユダヤ主義の中、出版と同時に大反響をまきおこした、ユダヤ問題考察の原点を示す。

最も参考になったカスタマーレビュー

投稿者 Gori 投稿日 2013/3/26
著者のテオドール・ヘルツルは、1860年、オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで生まれたユダヤ人。
18歳の時にウィーンに移り法律を修めるが、その後、ジャーナリズム、戯曲などに転向する。新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、
ヨーロッパでの同化政策に疑問を抱き、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。
本書はその魁.シオニズム運動の聖典ともいうべきものでユダヤ人国家像と国家建設のプログラムが詳細に記されている。それによると、アルゼンチン、ウガンダなども『ユダヤ人国家』の候補地に挙がっているのである。

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これが今のイスラエル

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出典:La Voz de Aztlan
聖なる土地でパレスチナの人々を抑圧している邪悪なシオニストたちの多くは、実際には古代ヘブライ種族に属するものではない。彼らは、1000年以上も前に自分の利害関係のためにユダヤ教に改宗したロシアや東ヨーロッパから移住してきた機会主義者どもである(管理人注:13世紀スペインでの異端尋問のように逆に偽キリスト教徒に改宗した人を隠れマラーノとよぶ)。ユダヤ教は多くのあり方でシオニズムに乗っ取られてきているのだ。
 イスラエルのシオニストたちはパレスチナ人を陵辱しているばかりではない。彼らは同時に純粋なユダヤ人たちを陵辱しているのだ。シオニストたちは信心深くなくユダヤ人自体を憎んでいる。こんなことはあなた方が米国の主要ニュース・ネットワークでは読むことも聞くことも無いだろう。この世界で真の反ユダヤ主義者(アンチ・セミット)は、実際にはシオニストたちなのだ。セム族の人々にはパレスチナ人とその他の中東諸民族が含まれているのだ。(訳バルセロナより愛を込めて)

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パレスティナ問題の起源
http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/zionism.html
イスラエル建国の舞台裏(必読)
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd200.html
移民に乗っ取られたパレスティナの歴史(必読)
http://matome.naver.jp/odai/2138008482600461301
第一回シオニスト会議



シオニストのパレスチナ侵略と圧制 その1

6分10秒にヘルツ 9分16秒に若き日のベングリオン

シオニズムとそれを導く一握りの人間は、ユダヤ人とは異なる民族の核である。

この点に気をつけなければならない。

新しい民族でも、更新された民族でもなくユダヤ人とは異なる民族の核なのだ。

このように考えない者は、思い違いをしているか、あるいは自分を欺きたいと思っているかのどちらかだ。

トム・セゲフ博士
歴史学者・記者

「シオニズム運動は宗教と競争関係にあり、この競争関係を意識していました。

 なぜなら、シオニズム運動はユダヤ教の新たな定義を提示したからです。

 シオニズムに従えば、ユダヤ人が神を信じないことさえありうるのです。

 シオニズムは競争関係にあることを意識し、その最初の戦いは外部に向けたものではなく、内部に向けたものであり、シオニズムを信じるようにユダヤ人を説得することでした。

 この運動においてシオニズムにとって最も恐れるべき敵は敬虔なユダヤ教徒でした。」

ヘルツルがユダヤ民族の莫大な宗教的遺産を保存しようとしなかったことは明らかである。

彼は精神的中心地を夢みたわけでも、選民を夢見たわけでもない。

伝統の価値を保存する民族としてのユダヤ民族の永続の問題に頭を悩ますことはなかった。

ヘルツルは自ら後見人となって、民族全体が、彼自身が選び愛した生活様式に従って生きることを決定した。

ヘルツルは、ユダヤ民族の歴史的精神的文化だけがユダヤ民族を約束の地、祖先の地に結び付けるということを理解していなかった。

ヘルツルの棺がイスラエルに埋葬されるために到着。

ラファエル・サウル=ランダウ博士の主張がなければこれらの引用は発表されなかっただろう。

博士はヘルツルの個人的な秘書を務め、日記を出版した。

博士は出版社の要望に反し、へルツルの書いた物を全て出版することに固執した。

出版社は検閲を行い、反ユダヤ主義的な面を隠そうとしたのだ。

他の民族に同化しようとする意志は常にユダヤ人の間に存在した。

戒律を守る人々の隣にユダヤ教の信仰を否定し拒絶しようとする人々がいた。

ヘルツルのユダヤ人やユダヤ教に関する見方は、シオニズム運動の先頭に立った大多数の人々のそれに似ていた。

ヘルツルとその仲間が影響を受けた啓蒙主義運動は、非ユダヤ人とその文化への合体、トーラと戒律からの解放、そして隣人から彼らを区別する宗教的道徳の破棄を促した。

関連記事:トーラーの名において(必読)

前編 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20100516.html

中編 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20100521.html

後編 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20100522.html

メンデルスゾーンのような啓蒙主義時代の指導者も次のような表現を広めた。

「自分の家ではユダヤ人であれ、そして外では人間であれ」

これは、ユダヤ人は人間以下であるという意味だ。

宗教に背を向けたこれらのユダヤ人は周囲の非ユダヤ人の習慣を受け入れる準備ができていた。

彼らはそうすれば非ユダヤ人と交わり同化することができると期待していた。

しかし、結果はそれと反対だった。

ユダヤ人は外国の文化に同化しようと努めた。

すると、ユダヤ人への憎しみが一層強くなった。

それだけではない。

服従し侮辱を忍んだユダヤ人は、自分自身のユダヤ教へ恥と憎しみの感情を抱くようになり、本来のユダヤ教の主要な批判者となった。

彼らは自分達を、啓蒙の光に照らされた教養人だとみなした。

そして同胞のユダヤ人に対し軽蔑的な傲慢な態度で接した。
ヘルツルは日記に書いている。

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ノルダウによれば、ユダヤ人の国家を建設する前に東欧のユダヤ人が衣服のシラミと体の垢を洗い落とす必要がある。

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しかし、伝統的ユダヤ教から遠ざかろうとする意識と民族主義とを組み合わせたシオニズムは、当初は一握りのユダヤ人だけをあてにしていた。

不幸になれた世界の大多数のユダヤ人は、このメッセージにも心を動かすことがなかった。

彼らは信仰に忠実であり続け、敬虔に戒律を守り続けた。

シオニズム運動を大規模な激しい集団的運動にするために、ユダヤ教の信仰の宗教的要素を取り入れる必要があった。

アムノン=ラツ・クラコツキン博士
歴史学者
ベン・グリオン大学

「シオニズムは贖罪の運動だと自らを主張しました。

 メシアによる贖罪とは異なる形で述べられたとはいえ、またシオニズム運動は常にメシア主義とは距離をとろうと望んでいたとはいえ、実際は、シオニズムの神話とはすなわち全てのシオニズム運動の共通分母、互いの差異にも関わらず存在したシオニズムの神話とは、歴史を終わらせ、神の約束を実現するシオニズムの贖罪行為という見方に基づいています。

 神は存在しないのに、シオニズムは神の約束を実現するというわけです。

 神は遠ざかったけれども、その約束は重要な要素として存在し続けました。

 この神の約束は、それまでの世代の見方とは違い政治的な約束と解釈され、アラブ人の権利を犠牲にしてユダヤ人の権利を定義する原則として用いられました。

 このことは宗教概念から得られたものではありません。

 シオニズムはこれまでの全ての世代の欲望の実現として自己を定義します。

 つまり、シオニズムは前世代の人々をもシオニストに変えるのです。

 まるで前世代の全ての人々の野心がピンスカー(シオニズム思想家)のものであるかのようです。」

第五回シオニスト会議
 バーゼル 1902年

シオニストは戒律を守る敬虔なユダヤ教徒を熱狂させるため、シオニズムの思想に宗教の言葉を用いた。

しかし、彼らの真の野心は宗教的思想を拒絶した国家の建設だった。

そのために、当時の多くのユダヤ人がヘルツルをメシアとみなし「ユダヤ人の王」と呼んだ。

ラフ=レファエル・レファエロフ
シオニズム専門家
「それが明らかな例は、国旗です。

 ダヴィデの星を除けば、タリト、すなわち二本の青い帯のついた白い布が見えます。

 タリトはどれも白か黒の帯をもっています。

 彼らにとって青はイスラエルの民の贖罪を表します。

 そう、彼らは望んだのです。

 「さあ私たちはイスラエルに着いた。贖罪は達成された。私たちはここにいる。」

 「私たちは祖先の地に戻ってきた。私たちの源に再び結びついた。」

 これが青です。

 第二に、これも非常に大切なことですが、シオニズムはユダヤ人にこう言います。

 「お前がこのタリトを今日まで身につけていたならば、それはもう必要なくなった。」

 「お前は旗にそれをつけて、完成したユダヤ人であると感じてよい。

 タリトが国旗上に存在するだ。」

 「全ての人がそれを見る。それで十分だ。」

 「もはや戒律を達成する必要はない。」

 「その内容と精神的国家的絆を持つだけで十分だ」
と。

1920年代、社会主義のシオニズム運動はイスラエルの地の覇権を奪い、新たなユダヤ社会の形成を望んでいた。

仕事や建設や改修といった言葉は、最高の価値理念となり、若者に教え込まれた。

「サーベルで切られた者」の神話、「新たなるユダヤ人」は、国を追われたユダヤ人の伝統的なイメージの破壊から生じた。

「我々は古い世界を破壊し、新しい世界を建設しよう」というのが、この「新たなユダヤ人」の形成のスローガンとなった。

「追放の否定は、追放されたユダヤ人の否定を意味するだけでなく、ユダヤ人の文化を否定することでもあります。

 追放の否定は新たなユダヤ人の創世記です。

 これは追放されたユダヤ人と選ばれたユダヤ人とは異なる存在です。

 「追放されたユダヤ人」の否定は新たなアイデンティティの定義に必須の原則でした。」

作家でシオニズム思想家のヨセフ=ハイム・ブレンナーはその文章で、イスラエルの労働者に最も影響を与えた。

彼は1919年にこう書いている。

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ユセフ=ハイム・ブレンナー
1881-1921
『天のショアー』p.79

私たちの民族的性質はずっと前から腐敗している。

私たちは生産的であったことは一度も無い。

私たちはジプシーや犬のように生きてきた。

反ユダヤ主義者達は何を望んでいるのか。

なぜ明白なことを受け入れようとしないのか。

すなわち、イスラエルが憎まれ軽蔑されるという考え方だ。

ユダヤ人は、ジプシー、汚物であり、腐敗した不快な存在なのだ。

腐った卵であり、人間ではなく、傷ついた犬である。


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トム・セゲフ博士
歴史学者・記者

「初期のシオニストの文章を読むと、ほとんど反ユダヤ主義者のように見えます。

 彼らは追放されたユダヤ人を軽蔑していたからです。」

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ユセフ=ハイム・ブレンナー
1881-1921
作家・マパイ支持派

ヨーロッパ人は憎む相手の首を絞めるように容赦なく私たちの首を絞めたにも関わらず、あらゆる名誉に値する。

私たちは人間ではない。

むしろ、吐き捨てられた唾だ。

私たちの精神的遺産は死んだ蚊にすぎない。

今、私たちの通りがゲットーから集まってきた馴染みの面々に侵入されるというのか?

あの人類の腐敗物に?

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現在、シオニズムはあちこちから攻撃を受けています。

修正主義運動の父、ゼーブ・ジャボチンスキーは1919年、「ハレツ」紙に書いている。

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ゼーブ・ジャボチンスキー
1880-1940
新聞「ハレツ」1919年10月22日

私たちの国家の家では、追放の錆を取り除かず、髭やカールを剃ることを拒否するユダヤ人は、全て下等市民に属することを宣言する。

彼らには選挙権を与えるつもりはない。

チャボチンスキー会館(現在)
-これを誰が書いたと思いますか?-

-誰がこのような文章を書くでしょうか?-

(男性)
「そうですね・・・・・反宗教主義の人でしょう。」

-反宗教主義者などではありません。その反対です。-

(男性)
「その反対ですって?」

-反ユダヤ主義者ではないです。-

(男性)
「私たちの国家の家では、追放の錆を取り除かず、髭、、、つまりユダヤ教の典型的な象徴ですね、、、それからカール、、、これも明らかな象徴です、、、これを取り除かない者は下等市民に属することを宣言する、彼らには選挙権を与えるつもりはない。

 これをよく理解すると、、、よく理解しているつもりですが、ここに書かれていることは恐ろしいことです。

 この状況ではユダヤ人に見える人は、追放においてユダヤ人と同一視される者は、なぜなら、ユダヤ人たちは反ユダヤ主義者によって用いられる象徴を体に付けていたのですから、そのユダヤ人を殴って市民権を拒否するべきだと言うのですか。

 それは非常に悪いことです。

 トミー・ラピドがこのようなことを言う可能性があります。」

-それが人々に知られないということがありうるでしょうか-

(男性)
「このようなことが?

 信仰をもたない人々もほとんど皆ラビの祖父を持ちます。

 皆、ユダヤ教の家系につながっているのです。

 私たちが追放の身にあった長い年月を通じて、私たちを統合し、国家を作ることを可能にしたのはユダヤ教です。

 これはまさに兄弟同士の戦争の始まりです。」

-これを書いたのはゼーブ・ジャボチンスキーです-

(男性)
「ジャボチンスキーが書いたのですか。

 困ったことになりました。

 私はベター運動の総裁(ヨエル・ハソン、ベター運動総裁)です。

 私はこの文章を見たことがありません。」

-出典を見せてあげます-

「ジャボチンスキーがこの文章を書いたのですか?

 ジャボチンスキーが本当に?」

(女性)
「むかつくという以外には何とも言えません。

 こんなことを言う人はイスラエル国家にいるべきではないです。」

(別の男性)
「誰が言ったのですか。ヘルツルですか?

 これは追放のシオニズムの、知られざるスキャンダルです。

 私はそれが追放のシオニズムに似ていると言いました。

 シオニズムを古代ユダヤ教に対立するものと見なす考え方です。」

ダヴィド・ベン=グリオンはイスラエル国家の建国者であり、長い間首相を務めた。

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ダヴィド・ベン=グリオン
1886-1973

「ユダヤ人と目的」

国を追われた者はいなくなりイスラエルに再び集まったが、彼らはまだ一つの国民を成してはいない。

彼らは多数の人の群れ、人間の塵にすぎない。

彼らには言語もなく、教育もなく、拠り所もない。

人間の塵を教養ある民衆に変えることは容易な仕事ではない。

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ダヴィド・ベン=グリオン
「カインの印」 p.105

イスラエルの地は選択的な移民を必要とする。

シオニズムは慈善事業ではない。

私たちは「優れた性質」のユダヤ人を必要とする。

優れたユダヤ人が「国家の家」を発展させねばならない。

「劣った性質」に属する者、ベン=グリオンのイスラエルの地に居場所を持たない者とは誰か。

それを想像するのは容易である。

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ユダヤ人の救助ではなく、新しいユダヤ人のアイデンティティ形成を目指した社会主義シオニズムの指導者達のこのような態度は、第二次大戦中に最も極端な形で表明された。

ユダヤ人殲滅の知らせがヨーロッパ各地に押し寄せた時、国家をユダヤ人の避難所にする考えは放棄された。

指導者達はシオニズムの利益だけに身を捧げた。

1943年、多くのユダヤ人がヨーロッパのゲットーで飢えに苦しみ、その中から何千人もが毎日のようにガス室へ送られていた時、ベン=グリオンのもとで内務大臣を務めユダヤ人救助を担当していたシオニスト指導者、イツハク・グリーンバウムはこう述べた。

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イツハク・グリーンバウム
1879-1970

「ショアーの日々」

外国のユダヤ人を救うためにケレン・ハインドの金を提供できるかと尋ねられた時、私は「だめだ!」と答えた。

私はもう一度「だめだ!」と言う。

シオニズムの活動を2番目の順位に下げるようなこの波に抵抗しなければならない。

ヨーロッパの大量のユダヤ人の救出と、イスラエルでの贖罪の2つの可能性を提案されたら、私は全く躊躇することなく、イスラエルにおける贖罪を選ぶだろう。

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「カインの印」 p.240

M.ウィセルマン

あまり虐殺のことを語ると、それはイスラエルのヘブライの力を高めようとする私たちの意志を弱める。

もし私たちが今日ケレン・ハインドの金で食料を大量に購入し、リスボン経由で輸送できるとしても、私たちはそれを行わないだろう。

「絶対にだめ」だ。

シオニズムが何にも勝って重要なのだ。

大きなショアーがシオンへの戦いから私たちを逸脱させようとする時、このことを繰り返して言わねばならない。

私たちの贖罪の戦いは、外国のユダヤ人のために私たちが行う行為の直接的な結果でもなければ、それを補完するものでもない。

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シオニズム運動の指導者の1人で1920年代にユダヤ民族基金の理事長を務めたオシシュキンはこう言った。

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メナヘム・オシシュキン
1863-1941

「天のショアー」

外国の犠牲者とイスラエルの犠牲者との間には、何という違いがあることか!

追放の地で犠牲者として死ぬ人々は、瀕死の民族である。

彼らの死はいかなる意味も持たない。

彼らの生が意味を持たなかったのと同様だ。

そのかわり、私たちの地で犠牲者として死ぬ者を、私たちは誇りを持って称賛するだろう。

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シオニズム運動指導者でイスラエル国家の最初の首相を務めたハイム・ワイツマンは1937年にこう宣言した。

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ハイム・ワイツマン
1874-1952

「カインの印」 p.105

6百万人のユダヤ人の希望は、悲劇の淵から這い上がることに集中している。

私は2百万人の若者を救いたいと思う。

老人は破滅に向う。

それが彼らの運命なのだ。

この残酷な世において、老人たちは経済的にも精神的にも、人間の塵にすぎない。

若者だけが生き延びるだろう。

老人たちはそのことを理解し、受け入れるべきである。

-弱い者のため、老いた者のため、私たちは守りの壁だ-

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ダヴィド・ベン=グリオンは言った。

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トム・セゲフ
「アネモネの日々」

ドイツの全ての子供たちを救いイギリスに移送する可能性と、子供の半分だけを救いイスラエルの地に運ぶ可能性があるとすれば、私は後の方を選択する。

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戦争の直前に、ベン=グリオンはヨーロッパのユダヤ人を厳しく攻撃した。

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トム・セゲフ
「アネモネの日々」

反ユダヤ主義者と呼ばれても、私は言わなければならない。

私たちはドイツやポーランドやアメリカで起きていることを見て非常に恥ずかしく思う。

ユダヤ人たちが勇気を出して戦わないからだ。

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ベン=グリオンは追放の生の哲学について少し語った後、次のように続ける。

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トム・セゲフ
「アネモネの日々」

私たちの属するのはあのようなユダヤ民族ではない。

私たちはこのようなユダヤ民族に対して反感を抱く。

私たちはあのようなユダヤ人にはなりたくない。

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第二次大戦中のユダヤ人救助に関するシオニズムの態度を本質的に理解するために役立つもう一つの事実がある。

1944年4月25日、戦争の真っ最中に、アイヒマン(ドイツ労働者党の親衛隊中佐)が事務所に、シオニストでハンガリーのブダペストの救助委員会のマンバーだったヨエル・ブラントを召喚した。

アイヒマンはブラントに言った。

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A.K.アイヒマン
1906-1962

最終解決担当

「私が誰か知っているか。

 私はドイツとポーランドとチェコスロバキアのユダヤ人を殲滅した人間だ。

 次はハンガリーのユダヤ人の番だ。

 しかし、私はお前に100万人のユダヤ人を売ってもいい。

 血と引き換えに商品、商品と引き換えに血というわけだ。

 お前が好きなところから100万人を選んでいい。

 誰を救いたいか?

 男か?
 女か?
 老人か?
 それとも子供か?

 座って話すがいい。

 商品はトラック1万台分だ。

 コーヒーと紅茶を何トンか、また、その他の商品だ。」

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ブラントは、あの残虐な人々の指揮者からこのような言葉を聞いて非常に驚いた。

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A.K.アイヒマン

「お前達が私たちを信頼するよりずっと私たちがお前達に信頼していることを 証明しよう。
 お前はイスタンブールへ行き、ユダヤ局と交渉するのだ。

 お前が彼らの同意を得て戻ってきたら、私はアウシュビッツの死体焼却炉を爆破させ、約束の10パーセントのユダヤ人を国境まで連れてゆこう。

 お前は千台のトラックと引き換えに10万人のユダヤ人を受け取る。」

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ブラントにとって明白だったことは、死体焼却炉が破壊されれば、もう再建されることはないことだった。

なぜなら、ナチスは全ての前線で、すでに後退を始めていたからだ。

ブラントはイスタンブールのユダヤ局に電報を打った。

すると、ユダヤ局から「来い。ハイムがお前を待つ」と返事が戻ってきた。

ブラントはそれがハイム・ワイツマンのことだと単純に信じた。

100万人のユダヤ人の救出の問題だったからだ。

しかし、イスタンブールでブラントを待っていたのはハイム・ワイツマンではなく、ユダヤ局の下級職員のハイム・ベルレスだった。

ベルレスはブラントに、エルサレムへ行くように説得した。

ベルレスによれば、イギリスはブラント自らの申し出を聞きたいという。

アンカラへ近づいた頃、列車の中のブラントに、アグダトイスラエル代表のヤコブ・グリペルと修正主義者のヨセフ・ケラーマンが近づいた。

2人はブラントにトルコを離れないようにと警告した。

ユダヤ局の使者がブラントに罠を仕掛けているというのだ。

「彼らはあなたをイギリス秘密情報局に引き渡すつもりです」と彼らは言った。

しかし、労働運動に忠実なブラントは、マパイ党の仲間を全く疑わなかった。

ブラントは、アグダトイスラエルと修正主義者の代表の忠告を聞かず、イスラエルの地へ向けて列車の旅を続けた。

シリアのアレッポで、ブラントはイギリス秘密情報局に逮捕され、エジプトのカイロに移送された。

ブラントはカイロに何週間もの間留置された。

一方、ハンガリーではユダヤ人が殲滅されていた。

1日に1万2千人のユダヤ人が殲滅された。

イギリス人がついにブラントの解放を決定した時、今度はユダヤ局の使者が彼を引きとめた。
ベン=グリオンの助手の1人であるテディ・コレックがこの目的でカイロに到着した。

ヨエル・ブラントは述べている。

「ユダヤ局の人々は私を引きとめ、出発を遅らせ、それに成功した。

 彼らは、私の出発を数週間でなく、数日だけ遅らせ、その後また数日延ばした。

 私がようやくエルサレムに到着すると、私は、ユダヤ人救助を担当する組織は一つも存在しないことを知った。

 私は事務所から事務所へと走った。

 そしてある時、自分は幻想を追いかけていたことを理解した。

 私はユダヤ局、行政執行委員会、マパイ党、公共機関の責任者に手紙を書いた。

 私は批判し、要求を行ったが、誰も行動を起こさなかった。

 私は頭がおかしいと言われた。」

しかし、ヨエル・ブラントが知らなかったことは、1944年5月25日、彼が留置されていた時に、カイロでユダヤ局がすでに彼の任務について話し合い、ハンガリーのユダヤ人100万人を救うためには何も行わないという決定を行ったことだ。

イスラエル国家成立後、ブラントは何年もの間、職もなく、打ちのめされていた。

マパイ党員は、ブラントの存在を誰にも知られないように、できるだけのことをした。

この方策はしばらくの間成功したが、国家の大事件となったグリーンヴァァルト・カストナー裁判の際、ブラントはついに証言を行った。

複数の人間を巻き込む恐れのある書類の盗難や破壊を含め、ブラントの証言を妨害する試みが何度も行われたにも関わらず、この力強い証言によって沈黙の壁が破れた。

ショアーの時代における最も衝撃的な秘密の一つが明るみに出た。

そして、ユダヤ民族の裏切りの疑いをかけられた人々は、何らかの方法を用いて嫌疑を晴らそうと努めた。

裁判の後、ブラントはこの事件とその反響についての回想録の執筆に専念した。

ブラントはまた、イスラエル国家の指導者たちが彼の証言を偽造したこと、また、回想録執筆に固執すれば監獄や精神病院へ収容すると言って脅迫されたことについて説明している。

これらの圧力や、脅迫や、誘惑に関し、ブラントは彼の著作の中でベン=グリオンの助手のテディ・コレックとユード・アブリエルに、豪華ホテルに招待された日のことを記している。

美味な食事の合間に、また、洗練されたコニャックを飲みながら、彼らはあらゆる種類の申し出を行ってブラントを誘惑しようとした。

イスラエルで彼が職を得られるように援助するという内容だった。

例えば、彼らはレホヴォトのワイツマン研究所のスポークスマンの地位を勧めた。

この職につけば、外国の外交官や百万長者に会う機会ができると言われた。

しかしその条件は、彼が自著「死刑囚の使者」の出版に固執するのをやめることだった。

ブラントが拒否すると、テディ・コレックは大きな声で、「この男を精神病院に入れなければならない」と言った。

ヨエル・ブラント『精神の悪魔』


ユダヤ局の職員にアポリナリー・ハートグラスの書いた5ページの秘密文書が配られた。

アポリナリー・ハートグラスは後にイスラエルの内務大臣になる人物である。

文書は秘密にされ、シオニストだけがそれに目を通すことができた。

救助委員会に参加した非シオニスト組織には配布してはならなかった。

その中にはこう書かれていた。

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戦争に巻き込まれたヨーロッパの地域、すなわち、ドイツに征服された国々、そして枢軸の国々において7百万人以上のユダヤ人が殺害されようとしている。

そのため、救助委員会の活動は当然小さな作戦に限られる。

すなわち、個人や小グループの人々を救い出すことだけである。

救助委員会の活動は、微細な結果のみをもたらすことが目的だとはいえ、少なくとも、そこから政府的利益を得るべきである。

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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「彼らの指示は、労働運動すなわち当時のマパイ党に属する若者だけをイスラエルに 連れてくるようにというものでした。

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このようにして救助できるのは数百人のユダヤ人だけだ。

それらの人間は必ずしも私たちが関心を持つ者達ではない。

このつつましい活動が、完全に無私無欲のものになることが可能だろうか?

すなわち、私たちが救助する人間の種類を考慮せず、全ての人を助けることができるだろうか?

この活動にシオニスト国家的な性質を与え、何よりもまずイスラエルの地とユダヤ教に利益をもたらす人間を救助するように努めてはいけないだろうか。


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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「私たちはユダヤ人を救助する使命を持っていました。

 彼らはどのユダヤ人を救い、どのユダヤ人を救わないかを決めたのです。

 選択を行ったのです。

 私たちはこれを「選択」と呼びます。

 ドイツ人が、死の収容所に行く者と労働の収容所へ行く者を分けるために選択を行ったのと同じです。

 それと同じように、私たちの指導者はイデオロギー的立場に基づいて選択を行いました。」

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このような問いが残酷なものであることがわかっている。

しかし、残念ながら、土地や人民の建設に有用な5万人のうち1万人を救助することしかできない。

他方で、私たちの負担になるか、最良の場合でも中間的な因子となる100万人のユダヤ人が存在する。

それゆえ、私たちは我慢して5万人のうち救助可能な1万人だけを救助するべきである。

残りの100万人が不平を言い、懇願したとしてもそうするべきである。

テヘランからの移民が一つの例である。

シオニズムの先駆者や活動家に加えて、シオニズムと何の関係もない人々が大勢やって来る。

これらの人々は、国家的な視点から見て全く士気を欠いている。

それゆえ、私たちは有害な因子を救助することを諦めねばならない。

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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「私たちの指導者は嘘をつきました。

 彼らは私たちに言いました。

 「あなた方はユダヤ人を救いなさい。

 ただし、救助された者が皆、私たちの党の党員であるようにしなさい。」

ユダヤ局の職員にアポリナリー・ハートグラスの書いた5ページの秘密文書が配られた。

アポリナリー・ハートグラスは後にイスラエルの内務大臣になる人物である。

文書は秘密にされ、シオニストだけがそれに目を通すことができた。

救助委員会に参加した非シオニスト組織には配布してはならなかった。

その中にはこう書かれていた。
(その3からの続き)

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非シオニスト因子をイスラエルの地に連れていくことをできる限り避けること。

全ての作戦がシオニストの視点に基づいて行われねばならないとすれば、アグダトイスラエル(宗教政党)と修正主義者との協力は有用性を欠くだけでなく、それどころか非常に有害である。

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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「ハレディム(非シオニスト)でなくマフダル(シオニスト宗教政党)の一団が到着した時は、彼らに「何割か?」と聞きました。

 許可した割合が8パーセントだったか10パーセントだったかは覚えていません。

 しかし、ショマー・ハザイーに属している人々だった場合は、数えることもせずに「乗りなさい!」と言いました。」


-ではハレディムは?-

「ハレディムは、1人も乗せません。

 ハレディムの人々が乗るのは許しませんでした。

 それは禁止でした。

 イスラエルから送られた諜報員が監督していました。

 マパイ労働党のノハム運動の人々、また、ドロー、ショマー・ハザイーに属する 人々だけ乗せました。

 ベタール、マフダルは乗せません。

 ハレディムは絶対に乗せません。」


-どんな口実で?-

「彼らは、私たちが全てのユダヤ人を救おうとしているのを見ました。

 それで諜報員を送ってきたのです。

 彼はある晩、一睡もせずに私と話しました。

 ハレディムの人々がシラミであることを私に説得するためです。

 シラミを綿の中に入れたら繁殖してしまうからと言うのです。」

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歴史を通じて、ユダヤ民族は、時に自己を犠牲にしてさえ、容赦ない抑圧者に対してそのアイデンティティを守り続けた。

古い王国に新しい王国が取って代わる世界的な激動の最中にあって、ユダヤ人は世界の端から端まで支配した帝国の抑圧を被った。

これらの帝国は絶えずユダヤ人の信仰を消し去ろうとし、信仰を捨てさせようとした。

圧力者は権力を手に入れ、そして失った。

権力は生まれ、そして崩壊した。

そしていかなる試みも無駄だった。

支配・抑圧や、儀式における殺人行為の嫌疑、強制改宗、ポグロム、虐殺、愛するものすべての焼却、殺人、追放にも関わらず、ユダヤ人がこれらの帝国に服従することはなかった。

ユダヤ人のイスラエルの神への信仰は揺るがなかった。

なぜなら、ユダヤ人の魂の底にはたった一つの王国しか存在しなかったからだ。

神の王国である。

ナチスドイツ
水晶の夜
ショアー

「では始めましょう」

国際連合会議

1947年11月29日

「アフガニスタン」「反対」
「アルゼンチン」「賛成」
「エルサルバドル」「棄権」
「エチオピア」「棄権」
「フランス」、、、

「私たち、ユダヤ民族とシオニズム運動の代表者である人民委員会の会員は、イスラエルのイギリス委任統治終了の日に、私たちの自然な歴史的権利に基づき、また、
賛成33、反対13、棄権10により可決された国際連合の決議に基づき、イスラエルの地におけるユダヤ国家、イスラエルの建国を宣言します。」

シオニストが最終的にイスラエルに政府を成立した時、ユダヤ人はどうなっただろうか?

政治家になった時、ユダヤ人はどうなっただろうか?

哀れみの情、恐怖への感受性、兄弟愛や連帯の精神はどうなっただろうか。

2千年の反ユダヤ主義の歴史も、彼らの魂からこれらを根絶することができなかったのだ。

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アムノン・ラズ=クラコツキン博士
歴史学者
ベン=グリオン大学

「イスラエル国家の建国と共に、ユダヤ教信者の排除は非宗教的アイデンティティの重要な要素となり、それは弾圧の形も取りました。

 このような弾圧が特に感じられたのは、東洋系ユダヤ人、セファルディムの扱いにおいてです。

 なぜなら東洋系ユダヤ人は全てにおいて、マイナスな面を備えていたからです。

 一方で、彼らは東洋民族なので社会から疎外されます。

 他方で、彼らはユダヤ教信者です。

 彼らは、シオニズムが対抗する2つのアイデンティティを併せ持っていたのです。

 シオニズムはアラブ的東洋に対立する存在、その反対の存在として、そしてさら に宗教と対立するものとして自らを定義しました。

 伝統的ユダヤ人がやってくると、その中には信者である者もそうでない者もありましたが、アラブ文化出身の者で反宗教主義の者は全くいませんでした。

 彼らを改変できるかどうかが問題になりました。

 彼らを改変できないと主張する人々と、彼らを改変することができると主張する自由主義者との間で議論が戦わされました。

 いずれにせよ、誰も彼らを本来の姿で受け入れることはありませんでした。

 彼らを改変しなければならなかったのです。

 彼らの考えは、彼らを改変するためには子供を両親から切り離し、彼らの伝統から切り離すべきであるというものでした。

 それが近代教育プログラムの基本でした。

 彼らの元来の家、元来の伝統から切り離すことで、彼らを人間に変化させることができると考えたのです。

 彼らを改変するべきであることは明らかでした。

 そして、彼らの同化は、カールを切ることと彼らの文化、すなわち彼らの持つユダヤ文化とアラブ文化を排除することによって進められました。

 アラブ系ユダヤ人の概念を理解する必要があります。

 ウム・クルスーム、ファリド・エル=アトラッシュや「シェマー・イスラエル」に基づいた文化を持つ彼らは、アラブ系ユダヤ人であることが可能であると考えます。

 ポーランド系ユダヤ人やドイツ系ユダヤ人であるのが可能なようにです。

 しかし、シオニズムの定義に従うと、この場合は両立が不可能でした。

 非宗教的なシオニズムはユダヤ性を否定したように、アラブ的なものも拒否したのです。

 シオニズム文化の東洋系ユダヤ人への態度は完全に抑圧的なものでした。」

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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「イエメン人は皆ユダヤ教徒でした。

 彼らはイエメン人を強制的に連れて来て空港で降ろし、彼らをどこに住ませたらいいかわからないと言い、テントを張ってそこに収容し、彼らを「教育」するためにキブツの若者を送りました。」

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以下は『ショマーの手引き』1956年12月版の抜粋である。

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「信者に対してどのように接するべきか」

生徒の間には、しばしば信者が見かけられる。

特に、移民キャンプでの養成の際にそれが言える。

もちろん、私たちの目的は、彼らの神への信仰が論理と根拠に欠いていることを理解させることだ。

なぜなら、宗教は反動体制が生み出すもので、進歩的体制の戦士の間には存在権利を持たないからだ。

要するに、この段階において指導員は寛容になり、宗教の重要性を、運動への参加の障害になる要素として切り捨てるべきである。

このような説明は、宗教への直接的な攻撃を含まず、その支持基盤の排除を行うものであるから、それによって、生徒は自分から神は存在しないと理解し、信仰を捨てるだろう。

ショマーの手引き
ショマーの教育
出版社 ヒスタドルート・ハショマー

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イガル・ベン=ダヴィド
ユダヤ局元職員
ユダヤ教信者

「私の妻はここエルサレムの丘の移民キャンプで使者を務めました。

 私たちは、何十人、何百人もの子供達のカールを切りました。

 彼らは言っていました。

 「今はヒスタドルートがある」と。

 仕事、金、食料は、ヒスタドルートの支持者だけに与えられたのです。」

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