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ダンテ神曲ものがたり その4

 

7.そしてこれがわたしの見たことです:アケローン川(注:アケロン川の渡守はカロンでギリシャ神話によると渡船料は1オボロス。ギリシャでは死者の口に1オボロスを入れる習慣があった)を越える通路は、章の間をつなぐ効果を上げているが、巡礼者に対しては不思議なままである。それを説明するのは不可能だが、彼は今自身を見分ける場所を描写することだけは出来て、そして始めるのである、「そしてこれがわたしの見たことです」

地獄の門にたどりついた詩人はそこに掲げられた銘文を読む。門を入ったところに地獄の玄関があって,そこではなんの役にたちそうもない群集が,永遠に走っている。

 「われを過ぎて,汝らは入る 嘆きの都(みやこ)へ,
  われを過ぎて,汝らは入る 永遠の悩みへ,滅びの
  民へ正義   天に召しますわが創造主を動かす
  ......われよりさきに造られしものはなし われは
  永遠とともにあり ここにいる者は,一切の望みを
  捨てよ! 汝ら われをくぐる者なり」
        ダンテ「地獄篇」第三歌より


(地獄の門に揚げられた銘文)右手をあげ,右足を門の内側に踏み入れているのはヴェルギリウス。その後から,左足を外側にかけ,左手をあげ,媚に揚げられた銘文をふり仰ぐのはダンテ。ブレイクの空間芸術では,右はいつも霊の世界を,左は肉の世界を象徴する。二詩人の前には,四大陸と,海水の下,アトランティスの失われた大陸が層々相重なり,焔が燃えさかって生成変異の相を示す。水はやがて行き着くアケロンの川を(注:冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり,船に乗せて地獄へと連行していく),燃える焔は地獄の諸圏を予告する。門の両側に立つ二本の巨木は,ヴェルギリウスに救われた時ダンテのいた暗い森の名残であり,重なり合う葉は迷妄の深さの象徴。(寿岳文章訳)

 (地獄の玄関 アケロン渡河のため集結する亡霊たち)右下の岸に立つヴェルギリウスとダンテ。中央部,二匹の鬼の看視する対岸へと亡霊を送り届け,せわしげに櫂を使い帆を操って引きかえすカロン。絶望の亡者たちが,蜂などに刺され,地を這ういやらしい虫にまといつかれながら追い立てられてゆく。現世で彼らが権能者であったことを示そうとしているのであろう。旗持ちのすぐ後に両手をあげて続く女は,バビロンの娼婦か。中央やや左より(注:正面から見て右より)に描かれている白髪で老いた老人の人物は,ブレイクの『ヨブ記』第五挿絵に出てくる否定神としてのエホバであろうか。(寿岳文章訳・一部編集)

 20.われの顔を哀れみで色塗れり:ベルギリウスの苦痛の説明は(彼自身が住む)古聖所にいる魂の事だけを考えていることを暗示している。なぜなら理性は罪の公正な罰のためには哀れみをを感じることができないのである。あとになって彼は罪人たちを哀れむことに対しダンテを厳しくしかるだろう。古聖所(リンボ)にいる高潔な亡霊たちは、もちろん、罪人ではなく、そこでの神の光の欠乏が哀れみを感じるのである。

34.それらは罪を犯してきてはいぬ:キリスト教の教義によると教会の外側にいる(例えば、洗礼、第一の儀式そしてこのような「信仰への出入り口」のない)者は誰も救われることはできない。古聖所、すなわち地獄の第一連環に一時止められている魂はまさしく、キリストと主の教えの知識を持たない(彼らが主より先に来たため自身の責任はない)または、主の来臨の後、不受洗で死んだ高潔な個人であった。ここでは身体の苦痛はない;これらの亡霊たちは心の苦悶だけを受けている、なぜなら、いまキリストの神に気づいても、主を見るいかなる希望なしに「切望して生き続け」なければならないのである。

37. キリスト誕生以前:[原文は"denanzi al cristianesmo"で「キリスト教信仰以前」である]

42. 望みから絶たれ、我らは切望して:[矢内原によれば、「キリストを信ずれば自分たちは神を知る=神を見る」という(神の側から与えられる客観的な)希望が与えられないために、自分の主観で切望(願望)していくしかない(「土曜学校講義」p.120)【参考】]

45.古聖所:[〔宗教〕天国と地獄の中間界。キリスト来臨以前の義人や受洗前の幼児の霊魂が住む。これはスコラ哲学の考えであるが、ダンテはそれを超えて、この古聖所に非キリスト者=異教徒の中で徳のすぐれた人々を入れた。ラテン語in limbo=「端に」]

49-50.いったい誰がここを離れたのですか、・・・?:巡礼者は、キリストの冥府への征服[the Harrowing of Hell:キリストが冥府へ降りて正しい人の霊魂を救ったこと]に関する教会の教えを思い出しながら、(その時そこに居たであろう)ベルギリウスに質問することでそれを確かめようと試みているのである。(特に「他の人の助けをかりて」の言い回しにおける)その質問の慎重な提示に注意せよ、巡礼者が、教会の教義について自信を取り戻させるよりも、彼の導者を巧みに試していることによって。ベルギリウスは彼の古典文学の立場から巡礼者の「隠された問い」に応じるのである。キリスト教の用語でキリストを理解できなくとも、ベルギリウスは「力強い王・・・祖は勝利のしるしに王位に就けり」と言うように主に触れることだけは出来るのである。

55. 祖は私からわが初めの親の亡霊を奪い去られた:[矢内原注:キリストは一度この黄泉にきて旧約の聖徒たちの魂を救った。その前にも後にも同じようなことはなかったのである]

 59-60.イスラエル、その父と息子と、ラケルと共に辛苦の後勝利を得たが:創世記第32章23-33でヤコブと神との闘いが述べられている;ヤコブは、心配のあまりに、夜のうちにほかの人に川を渡らせてのち、ひとりで残る。神がとくべつに出現する。神とのこの組み打ちは、物理的におこなわれたというよりは、まぼろしのシンボル的なものであったといえよう。しかしまぼろしのなかでおこなわれたとしても、真実のできごとであり、その証拠として物理的なしるし(「ヤコブがペヌエルを渡ったとき、太陽がのぼってきた」)が当分のこる。ここのシンボルとは、次のとおりである。ヤコブはおおくの困難に対して戦わねばならなかったが、こんどエザウとの面会の前日にあたって、神の助けがなければ、自分のちからだけで、とうていできないと知って、神の祝福をうるために神ご自身と戦う。自分に様々な困難をおこしたのも神であり、いま、かれをびっこにして、逃亡を不可能とする。しかし、かれの信仰をためしてから、神はヤコブを祝福するだけでなく、イスラエル、すなわち「神と戦う人」と改名して、アブラハムとイザアクの、ふさわしいあとつぎ者にする(ドン・ボスコ社版64-65注)。

 66.私は森と書いています、なぜなら魂が木々のように夥しかったからです:この魂の森は、もちろん、第1章(2)の「暗い森」と異なる。それにもかかわらず、この「森」は、いくつかがまだ起こっていないけれども、私たちに最初の「暗い森」とその象徴的な救済の喪失の暗示を思い出させるのである。

69.光の半球でそれは暗闇を明るくしていました:「光の半球」は「壮麗な城」(106)から発する。そこは古聖所での高潔な知識ある人々の居住地である。その光は人類の英知の照明[啓示]であり、そこに住む人々はまさしくそんなにも高い基準を持っていたのである。

80. 今我をして我が著名な詩人を讃えよ、/死後に残れしその亡霊は今我らに戻されり:[ホメロス以下4人の亡霊たちがベルギリウス(「著名な詩人」)を讃え、古聖所に戻ってきたのを歓迎しているのである]

 86-88.手に剣を持ち近づく一人に注目せよ:ダンテのギリシア語を読むことの無能はホメロスHomerの作品に近づく権利を否定した。そのため彼はラテン語の注解と文章を通してただ偶然的に知っていたのであった。なぜなら彼の名はトロイアTrojanの戦いと分けられなく繋がっていて、ホメロスはダンテによって剣を持った詩人、軍と戦闘の英雄を歌った者として描かれているのである。

 89.ホラティウス、風刺作家である:このホラティウスHoraceに対する限定された言及で、ダンテは彼の「風刺詩集」と同様にローマ詩人の「書簡詩集」を思い浮かべている。彼の「頌歌集」(頌とは多く呼びかけの形で高揚した感情を表現する有韻の叙情詩)がダンテに知られていなかったことはありうる。さもなくば、ダンテはホラティウスの役割を道徳主義者として強調しようと望んでいたのかもしれない。

 90.オビディウスが三番目で、最後に来たのはルカヌスである:オビディウスOvidの主な作品「変身物語」は中世の間広く読まれ最も重要な出典ないしは古典神話学の権威として参照された。ルカヌスLucanはダンテに神話研究の主題と、ポンペイウスPompeyとカエサルCaesarの間の文民戦争(ファルサリアの戦い)についての多くの歴史的知識を与えた。

91-93.それらすべてが私と一つの名を共有するからには:この「一つの名」とは「詩人」のそれである。「それらは私を誉めそしておそらくそうしようとしている」の言い回しは実際は謙遜の表現であり、「そうしよう(誉めよう)とする」に彼らが詩歌芸術を誉めているという意味があり、そして彼ら全てが共通に持っているのである[「一つの声」とは、80-81行を指す]。

 95-96.最も荘厳な詩歌の歌い手の大家であり:これはホメロスであるかもしれない、なぜならダンテは87行で「彼は三人をまるで己がそれらの師の如く導いている」ないしは88行の「最高の詩人」として彼を引き合いに出した。しかし「荘厳な詩歌の歌い手の大家」の語句はまた私たちにベルギリウスを思い起こさせる、すなわち彼を第1章でダンテが「おおほかの詩人たちの光であり誉れです」(82)として引用しているのである:また鷲に対する比喩にも注意のこと、これはローマ帝国を暗示しているであろう。

100-102.偉大な誉れをその人たちはわたしにもったいなくも授与されました:この一節にダンテは、ギリシア・ローマの古典時代の有名な詩人たちと自身を同等に扱っていて、自身の芸術性と有能さを認めているのである。これにより彼が自画自賛に単にふけっていると決めてかかるべきでない;むしろ、読者もまた、ダンテが詩人としての役割を気づいていることとしての、彼の著述における決意としての、そして当時の文学的意向での彼の特異な存在としての指摘としてこれらの行を了解するべきであろう。

104-105.ここはよく静寂が保たれているなどと話し合いながら:この言い回しはダンテが「神曲」の中でしばしば利用するであろう常套句(トポス gr.)である。

 106-11.わたしたちはとある壮麗な城の境界に到着しました:その城の寓意的な建築様式は議論を受け入れやすい。それは神の智により明らかにされない自然哲学を表しているかも知れない、そしてその場合は城を守る目的にかなう七重の壁は七つの道徳的ないしは思索すべき徳(賢明、正義、勇気、節度、知性、科学、そして知識)であるべきであろう;そして城へ近づく権利を与える七つの門は中世の学校の教科課程を形成した七つの教養科目(音楽、算術、幾何学、天文学の(上級)四学科、それに文法、論理学、修辞学の(下位)三学科)であろう。小川の象徴的な評価もまた不確かなままである;それは雄弁を意味しうる、すなわち雄弁なベルギリウスとダンテが何の問題もなく渡ったであろう「小川」である―そしてそれどころか、彼らは「堅い地面の上のようにそれを越えて右に歩いた」のである(109)。

112-44.

巨大な城の住人達は有名な勇士だけでなく、重要な異教徒の(古代ギリシア・ローマ人の)哲学者と詩人たちである。(サラディン、アビケンナ、アベロイスという名の)三人の亡霊はダンテよりほんの百ないし二百年前に生きたにすぎない。現代の読者はギリシア・ローマの古典時代の高潔な異教徒に混じって中世の非キリスト教徒の包含に不思議に思われるかもしれない、しかしここに名を挙げられた三人は中世が特別に尊敬した非キリスト教徒たちの一人であった。

118. 光沢のある緑の右手に:[原文は、"'l verde smalto"であり、"smalto"はエナメル、琺瑯など、極めて固いスマルトのようなものを表している。Musaは、"the lustrous green"「光沢のある」と訳している。「スマルト」はコバルト酸化物で紺青色に染めたガラスであり、これを粉にした青色顔料を日本では「花紺青」という]

120.わたしはそれらを見たとき後光に心を打たれました:[これはMusaからの直訳であるが、原文は、"che del vedere in me stesso m'essalto"である。Musaはこれを巡礼者の言葉としているが、他の訳文では詩人ダンテの言葉としているものがある。壽岳:「今もなお私の心には光明が満ち溢れている」、山川:「またかれらをみたるによりていまなほ心に喜び多し」、平川、野上は巡礼者の回想としている。また矢内原は、『これはたいへん有名な言葉になったのです。「今尚」は三界の遍歴を追えて現身の世に帰り、この『神曲』を書いている時もなお、自分の心を高潔なものとしてくれておる。このリムボにおけるこの人々の姿を見たことが自分にとって大なる霊感を与えた。非常に大なる名誉・尊敬をこの人々に払っていることがこれでわかります』と説明している(『土曜学校講義5』p.131)]

 121.そこではエーレクトラーが一群と共に佇んでおり:エーレクトラーElectraはアトラースAtlasの娘で、ダルダーヌスDardanusの母であり、トロイアの創設者であった。したがって、彼女の随行者はトロイアの争いの全員を含んでいる。彼女は、アガメムノーンAgamemnonの娘であり、アイスキュロスAes-chylusやソフォクレスSophocles、エウリピデスEuripidesによる悲劇の主人公であるエーレクトラーと混同されるべきでない。

 122.わたしが見分けた中にはヘクトールとアイネイアースが:エーレクトラーの子孫の中で、ヘクトールHectorは、トロイア王プリアモスPriamの長子で、多くの戦いの後アキレウスAchilesに討たれた;そしてアイネイアースAeneasがいる(cf.1:73-75,2:13-21)。トロイアからローマの英雄への変遷はアイネイアースの姿を通して成し遂げられる。

 123.そしてカエサルが、ハヤブサの目をし重装備をしていました:ユリウス・カエサルJulius Caesarは文民闘争で数多くの敵対者を負かした後自身を最初のローマ皇帝と宣した。ダンテのカエサルに対するおきまりの表現(「ハヤブサの目をした」)の典拠はスエトニウスSuetonius(ローマの歴史家)である。当時「ハヤブサの目をした」は輝くまたは燃える眼を持った人物を表現するのに時々用いられていた。

 124-26.わたしはカミッラとペンテシレイアを見ました:カミッラについては第1章注解107参照。ペンテシレイアPenthesileaはギリシアと戦うためトロイアに来援したアマゾーンAmazonsの魅力的な女王で戦いの中アキレウスに殺された。王ラティーヌスLatinusはイタリア半島の中央部を制し、そこでアイネイアースがローマを創設した。彼はラーウィーニアLaviniaをトロイアの征服者(アイネイアース)に嫁にやった。

 127-29.わたしはタルクイニウスを追いやったブルトゥスを見ました:兄の殺害と妹ルクレーティアの強姦(そしてすぐ後の自殺)により憤慨し、ブルトゥスLucius Brutusはローマの民衆を駆り立てて、法を犯したとして、タルクイニウス家Tarqinsを追放した。これが達成され、彼は最初の執政官に選ばれ、その結果としてローマ共和国の創設者となった。4人の女性はローマ人の有名な妻と母たちである。ルクレーティアLucretiaはコーラティヌスCollatinusの妻で、ユーリアJuliaはユリウス・カエサルの娘でありポンペイウスPompeyの妻である。マールシアMarciaはウティカUticaのカトーの第二の妻である(「饗宴」the Convivioの中でダンテは彼女を高貴な魂の象徴としている)。コールネーリアCorneliaはシピオーネ将軍Scipio Africanus Majorの娘で「恩寵の母」であり、護民官ティベリウスTiberiusとカイウスCaiusの母であった。名高い戦士サラディンSaladinは1174年にエジプトの君主sultanとなった。彼は多くの軍事作戦行動を放ち成功して彼の領土を広げた。しかし彼は十字軍を四散させる勝利を得たが、獅子心王リチャードRichard the Lion-Hertedに徹底的に負かされた。休戦の1年後に彼は死んだ(1193)。サラディンに対する中世の評価は好意的であった。彼は自身の寛大さと度量の大きさで褒め称えられたのであった。古聖所の中の有徳の魂に彼を含めることで(彼はトロイアとローマの指導者たちから空間的に隔離されているけれども)、ダンテはこのような彼の時代の批評を跳ね返しているのである。

 131.わたしは知恵の師を認めました:アリストテレスAristotleは後期中世では「知恵の師」(「哲人」)として見なされていた。彼の広く知られた論文はトマス・アクイナスによってカトリックの理論に組み入れられた。ダンテに対して、アリストテレスは人間の理性の極致をはっきり指摘し、その指摘でその人がキリストの啓示なしに尊敬を受けるに至ることが出来たのである。聖書を除いて、ダンテはアリストテレスからしばしば多くを引用している。

 134.そしてそこにわたしはソクラテスとプラトンの二人を認めたのです:基本的にはキケロCiceroの作品を通してこれらのギリシアの哲学者を知るようになって、ダンテは二人を、アリストテレスによって後に完成された道徳哲学の創始者だとみなした。

 136.デモクリトス、彼は世界は偶然だと言った:ギリシアの哲学者(c.460-c.361B.C.)、トラキアThraceに生まれ、宇宙は原子のでたらめな寄せ集めから創造されているという理論を公表した。

 137.ディオゲネス、タレス、アナクサゴラス:ディオゲネスはキニク派の哲学者で唯一の善は自制と禁欲を通した厳格な高潔にあると信じた。アナクサゴラスはイオニア学派のギリシアの哲学者であった(500-428B.C.)。彼の有名な学生にはペリクレスPericlesとエウリピデスEuripidesがいた。精神的存在はいのちを与えかつ物質を形成するという理論を紹介した。タレスThales(c.635-c.545B.C.)はミレトスで生まれた初期のギリシアの哲学者で、哲学のイオニア学派を創設し、主たる学説で水は万物の根源であると主張した。

 138.エンペドクレス、ゼノン、そしてヘラクレイトス:エンペドクレスEmpedocles(紀元前5世紀頃)は、シチリアのアグリジェントAgrigentumに生まれ、4元素(火、空気、土、水)が愛の作用下で結合して宇宙を作ると主張した、彼の同盟(結合)はそれから憎悪によって周期的に破壊され、ただもう一度形成されている。彼の詩作品はルクレティウスの「万物の本性について」の手本として後に役だった。ヘラクレイトスHeraclitus(紀元前500年在)はエフェソスEphesusで生まれた。彼の考えは大変暗い言葉で表現されている。彼によれば、知識は知覚に基礎が置かれ、人は神々によって支配された完全な理解に向け向上する可能性を持っている。ゼノンZenoは、キプロス島CyprusのキティオンCitium生まれの人で、ストア学派を創設した。しかしながら、ダンテが、パルメニデスの弟子の一人であるエレアのゼノンを参照していたことはまったくありうることである。

 ギリシア人の神々とは火の神(Vulcan)/愛の神(Cupid)/軍神(Mars)/酒神(Bacchus)をいう。

 140.私はディオスコーリデスのつもりで言う。そしてわたしはオルペウスを見ました:ディオスコーリデスDioscoridesはギリシアの自然科学者でありキリスト後1世紀の医者であった。彼の主著は「ムラサキウマゴヤシの物質について」De Materia Medicaであり、その中で彼は植物の薬効のある特性について論じている。オルペウスOrpheusはギリシア神話の詩人で音楽家でそのたて琴の才能は岩をも木々をも動かし野獣も聞き惚れたといわれる。彼は冥界に降り、ペルセポネーPersephoneを歌で魅了し、妻のエウリュディケーEurydiceを地上に連れ戻すのに成功する寸前までいった。

 141.タリー、リノス、道徳主義者セネカ:タリーTullyはキケロMarcus Tullius Ciceroのことで、誉れ高きローマの雄弁家、著述家そして哲学者(106-43B.C.)である。リノスLinusはギリシア神話の詩人で音楽家で挽歌を発明したことで讃えられている。セネカLucius Annaeus Seneca(4B.C.-A.D.65)はその道徳学でストア派の哲学を継承した。ダンテは悲劇作家としてのセネカと区別するため彼を「道徳主義者」と呼ぶが、彼は中世の間別の人間として(間違って)考えられていた。

 142.幾何学者エウクレイデース、そしてプトレマイオス:エウクレイデースEuclidはアレクサンドリアAlexandriaで教授したギリシアの数学者(4B.C.-A.D.65)で、数学理論の最初の体系とその解説であった幾何学に関する論文を書いた。プトレマイオスPtolemyはギリシアの数学者、天文学者、地理学者で、キリスト後の第1世紀の終わりにエジプトで生まれた。プトレマイオスの宇宙体系(それは中世によって受け入れられた)は、そのように名付けられ彼がそれを発明しなかったけれども、地球が九つの惑星の一周する固定された中心であることを示した。

 143.ヒッポクラテス、ガレノス、アビケンナ:ヒッポクラテスHippocratesuはギリシアの医者(c.460-c.377B.C.)で医業(神業)を創設し治療の科学的技術を導入した。ガレノスGalenは誉れある医者(c.130-c.200)でギリシア、エジプト、ローマで技術を実践(開業)した。彼は当時の医学的に知られたあらゆる部門について著述した。おそらくヒッポクラテスは、同時代と後の世代の尊敬を享有したのだ。アビケンナAvicennaないしはイブン・スィーナーAbuibn Sinaはアラビアの哲学者・医者で多産の著述家であった。彼の作品はガレノスとアリストテレスに関する研究を含む。

 144.そしてアベロイス、彼は注釈書を作成した:アベロイスAverroësと呼ばれたイブン・ルースドibn-Rushdはスペインに生まれた誉れあるアラビアの学者でその興味は医学から哲学、法律まで及んだ。彼はそのアリストテレスの研究で中世では広く知られていて、トマス・アクイナスの仕事の基盤に役だった。
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