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天皇の財閥 

「イルミナテイ三百人委員会のエージェントとしての皇室の正体が、日本国民に知られないままであること、つまり、今後ともずっと半永久的に、少なくとも日本民族が完全に滅亡してしまうまでは、日本国民がイルミナテイの仕掛けたこのからくりに気づかないことが条件になる。」


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≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(1)≫

Roentgenium:『日銀―円の王権』から引き続き、『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』を所々省略した上で参考とすべき要点のみを抜粋し、要約とする(今回は「中略」の表記を省く)。更に一般に殆んど知られない裏側の内容に掘り進む前に(「舎人学校」などを参照)、先ずはその表側、氷山の一角を確かめておく必要があるだろう。

〔吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 第1章 財閥の総帥としての天皇 より一部抜粋、要約 P.18-P.72〕

■日本の命運をも左右した超巨大財閥が存在していた!

天皇を中心とする大企業グループを、1つの「財閥」として見立てることが出来る。この財閥は余りにも巨大なので、日本全体がこの財閥の興亡に左右されることになった。それが、本書で論じる「天皇財閥」である。

天皇財閥とは、天皇家を財閥家族とし、宮内省を本社機構に持ち、その傘下には日本銀行や横浜正金銀行〔※預ヶ合について≪NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし≫を参照〕、南滿洲鐵道株式會社(満鉄)、日本郵船(NYK)といった日本を代表する「国策企業」群を有する大企業グループである。〈天皇家=宮内省〉を中核とする天皇財閥はこれらの企業達を、株式を通じて支配した。

故に戦前の天皇は、立憲君主であると共に戦争時の大元帥であり、更に“財閥総帥であった”ことになる。天皇は、日本を代表する複数の国策企業の大株主であり、中でも日本銀行の、過半数を超える株式を持つ大投資家であった。

また、この天皇財閥という枠組みを用いることにより、昭和前期からの日本の行動がよく理解出来るようになる。明治から昭和に至る日本の近代史は、要するに天皇財閥の興亡のことである。日本の対外侵略とは、天皇財閥の対外経営戦略だったのであり、敗戦はその破局的な終わり方だったのである。


■天皇は会社法人である

天皇財閥と他の財閥が異なる点は、財閥本社である持株会社の支配形態である。一般的な財閥は、財閥家族が持株会社の株式を所有することで支配する。天皇家は持株会社の機能を有していた宮内省の株式を持っていたわけではないし、そもそも宮内省は株式を発行していないが、それでも、宮内省が天皇家を輔弼(ほひつ)することは制度上当然のことであり、その結果、天皇家が宮内省を支配していることと同じことになるのである。

天皇家は、三井財閥の三井家や三菱財閥の岩崎家と同様に「財閥家族」であり、その財閥本社としての機能は宮内省が有していた。天皇家と、職員数千人を抱える宮内省の複合体である〈天皇家=宮内省〉こそが、天皇財閥という大企業の中核である。(中略)つまり、天皇は財閥本社である宮内省を支配する財閥家族、皇室の家長であると共に、会社法人なのである。

「天皇法人説」の議論の前提には、戦前の憲法学者、美濃部達吉(1873-1948)の「天皇機関説」がある。天皇機関説とは、ドイツの公法学者(憲法学者)のゲオルグ・イェリネック Georg Jellinek(1851-1911)の「国家法人説」を元にした学説である。即(すなわ)ち、国家を1つの法人として、その下に内閣をはじめとする諸機関があり、天皇はその中で最高機関の位置を占めるというものである。

「天皇機関説」は、天皇の権力が弱まった大正期に提出された。天皇の権力が強大だった明治期には、天皇こそが主権者であるという「天皇主権説」が主流であった。この説は、大日本帝国憲法発布後の支配的な理論であった。東京帝国大学教授、穂積八束(ほづみ やつか 1860-1912)らが唱えた理論である。

天皇主権説は、西洋近世における絶対君主制の理論的基盤である「王権神授説」と同じ構造を採っている。即(すなわ)ち天皇主権は究極のところ、天皇の祖先である「皇祖皇宗(こうそこうそう)」に主権があることを主張するものである。

これに対して、主権は法人格である国家に帰属すると主張するのが、イェリネックの国家法人説であり、国家法人説をベースに、その下位機関の1つとして天皇を位置付けるのが天皇機関説である。

1935年(昭和10年)、「天皇機関説事件」が起きた。美濃部達吉の学説が軍部から公然と批判された事件である。美濃部は起訴猶予となったが、不敬罪の疑いにより取り調べを受け、その著書は発禁となった。軍部の「言い掛かり」に近い事件であるが、その無理が通ってしまったことから、軍部勢力の成長を示す象徴的な出来事となった。

〔資料〕美濃部達吉 著『憲法撮要』(有斐閣 1946年刊行) - 近代デジタルライブラリー ※発禁書
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1270061/16


■「主権者」とは如何なるものか?

大正期の民権運動が盛んだった時は、天皇機関説は学会では支配的な議論であった。それが掌を返したように突如批判されたのは、軍部による世論操作もあるが、昭和期になって天皇の権威付けが進められたからである。

天皇機関説の問題は要するに、主権者が天皇個人であるのか法人であるのか、ということである。

「主権」とは英語のソブランティ(Sovereignty)の訳語である。これは元々ソブラン(Sovereign)のことであり、君主或いは国王という意味であった。それが、近代国家が成立するに連れ、君主の絶対的な権限は次第に減少し、憲法に則(のっと)った君主制である立憲君主制(Constitutional Monarchy, Limited Monarchy)に移行していった。

そもそも「憲法」とは、君主(Sovereign)に対して制限を付けることである。イギリスの『マグナ・カルタ(大憲章)』は貴族と国民が王に対して、許可無く税金を取らないでくれとか、何かを決める際には議会を召集しろ、などの要求を突き付け、それを王が同意した契約書である。

送れて近代化した日本においては、憲法自体が、天皇が国民に対して下賜(かし)したものである。貴族や国民が王に対して「下から」要求するのが憲法なのだが、日本では王(天皇)が「上から」国民に与えたものなのである。オランダ人の日本研究家イアン・ブルマ Ian Buruma(1951-)は『近代日本の誕生』(小林朋則 翻訳、ランダムハウス講談社 2006年刊行)の中で、以下のように冷笑的に書いている。



憲法は、神々からの贈り物よろしく、天皇から臣民に下賜(かし)されることになっている。この誉れ高い偉業を祝う式典は盛大に行われたが、それはまた、明治時代の特徴でもある文化的分裂状態をよく表す式典でもあった。

(『近代日本の誕生』46ページ)



絶対君主制とは、君主に絶対的な権限が付与されていることであり。その権限は神から授かったものであると考えられてきた。これを王権神授説と言う。

17世紀イギリスの思想家ジョン・ロック John Locke(1632-1704)の有名な『統治二論』(1690年刊行)は、論敵のフィルマー Robert Filmer(1588-1653)が唱えた王権神授説を論駁(ろんばく)する為に書かれた著作である。フィルマーによれば、国王の絶対的支配権は人類の祖アダムの、子供に対する「父権」に由来し、それによって王権の正統性を主張した。それに対してロックは逐一反論し、所有権(Property)を基礎とする近代的な憲法理論の礎(いしずえ)を打ち立てた。

以上を踏まえると、大日本帝国憲法とはまさに王権神授説に拠る、前近代的な政治体制であることが分かる。大日本帝国憲法第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」であり、伊藤博文(1841-1909)による注釈書『憲法義解(けんぽうぎげ)』は前文で、その意味を次のように述べている。



恭て按ずるに、天皇の宝祚(ほうそ)は之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。国家統治権の存する所なり。

(『憲法義解』22ページ)



このように、天皇が日本国の元首であることの理由は、「皇祖皇宗(こうそこうそう)」に遡(さかのぼ)って日本を統治していたからである。そして皇祖皇宗を辿ってゆくと神話上の神に繋(つな)がることは周知の通りである。つまり、大日本帝国憲法とは、実はジョン・ロックが批判した王権神授説そのものであり、とても近代的な憲法とは言えないのである。

〔資料〕現人神(あらひとがみ)の箱の中 その1~3 - LEGACY OF ASHES ※大東亜戦争の舞台裏、日赤の献血がベトナム戦争で使われた新聞記事、他
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/412.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/413.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/414.html

〔資料〕自民党清和会の源流 - LEGACY OF ASHES 2012年2月4日
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/406.html


■天皇という存在が帯びる二重性

天皇機関説を天皇個人はどのように考えていたのか。昭和天皇個人は『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)において、機関説についての所感を述べている。



私は国家を人体に譬(たと)へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支(さしつかえ)ないではないか。

(『昭和天皇独白録』32ページ)



生物学者でもあった昭和天皇らしく人体に譬えた比喩であるが〔※関連資料(1・2・3・4重要・5一視点として)〕、何れにせよ天皇個人は機関説を支持していた。周りは天皇を主権者と見なしたが、天皇個人は「機関説でよいではないか」と言ったと伝えられている。故に、天皇は国家という法人の一機関でもあり、主権者であるという、二重性を帯びることになる。それは、国家が法人格であると共に、天皇もまた法人格であるということである。

では、法人をどのように理解すべきか。「法人」を巡っては19世紀のドイツで大論争が起こっている。奥村 宏(1930-)『会社はどこへ行く』(NTT出版 2008年刊行)によると、その論争は次の3つに分けることが出来ると言う。



1.法人擬制説――R・C・サヴィニー Friedrich Carl von Savigny(1779-1861)によって提唱された説。法人は法律の中だけで認められた存在である。
2.法人否認説――R・イェーリング Rudolf von Jhering/Ihering(1818-1892)によって主張された。あくまでも会社の社員(株主)が実体であり、法人は只の手続き上の技術であるとする。
3.法人実在説――O・ギールケ Otto Friedrich von Gierke(1841-1921)を代表する。法人は社会的実在体であり、実質的な主体性を現実に持っていることを承認する。

(『会社はどこへ行く』26ページ)



奥村氏によれば、各説はドイツの工業化の速度と対応している。擬制説はいまだ株式会社が珍しく特権的な時代に、否認説は次第に株式会社が増えた時代にそれぞれ対応した。更に工業化が進んだ19世紀後半になると会社の規模が大きくなり、人間の生活を支配するようになった状況があり、それが実在説を要請したと見ることが出来る。

この法人についての議論を天皇の権力に当て嵌めてみると、天皇の権力基盤がまだ弱かった頃は擬制説や否認説が主流となる。これが天皇機関説である。そして権力基盤が固まると法人としての天皇が実在するようになる。これが天皇主権説であるというように、それぞれ見なすことが出来るのである。


■一般の財閥と類似する天皇財閥の構造

〈天皇家=宮内省〉を中核とする、国策企業グループが天皇財閥の実態である。そして天皇家=宮内省を1つの持株会社と見なすならば、その会社の法人格が「天皇」に他ならない。

持株会社とは、財閥における権力集中の為の装置である。戦後になってアメリカを中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が、戦争遂行の主原因として財閥による経済活動を挙げ、財閥の権力集中を解体しようとした。それがいわゆる「財閥解体」であり、具体的には独占禁止法(1947年)を制定して、持株会社の設立を禁止したのである。

その後、金融ビッグバン〔※第2次橋本内閣が提唱し1996~2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革。≪広瀬 隆 著『赤い楯』 第4章 最後の隠れ家:5「スイス銀行の金庫」、他 より抜粋(22)≫を参照〕の一環で独占禁止法改正(1997年)により、持株会社設立が解禁された。ここ10年ほどの間に「○○○ホールディングス」のような社名をよく見るようになったのはその為である。

財閥家族が出資した持株会社による企業支配構造を、奥村 宏(1930-)『日本の六大企業集団』(ダイヤモンド社 1976年刊行、文庫版は増補改訂され朝日新聞社より1993年刊行)〔※関連資料(1)〕に示されている図式を引用すると【図1】のようになる。岩崎家による三菱グループの構造と、天皇家=皇室による国策企業群支配の構造を対比させてみると、天皇財閥と一般的な財閥構造の類似がよく分かる。

■天皇財閥の持株会社「宮内省」

前にも述べたように、天皇財閥は他の財閥と異なり、財閥家族が持株会社の株式を所有することで支配するわけではない。しかし、宮内省が天皇家を輔弼(ほひつ)することが、即(すなわ)ち天皇家が宮内省を支配していることなのである。

宮内省が持株会社と同等の機能を持っていたことは複数の研究者が指摘していることであり、旧ソビエト連邦の日本研究家ぺヴズネル IA. A. Pevzner(-)『日本の財閥〈全3巻〉』(社会経済調査会 翻訳、岩崎書店 1951~52年刊行)では、以下の解釈をしている。また、高橋 紘(たかはし ひろし 1941-2011)『昭和天皇1945-1948』(岩波書店 2008年刊行)にも同様の記述がある。



「天皇」コンツェルンの構成においては持株会社はなく、宮内省がそれの役割を果たしていた。

(『日本の財閥』3巻406ページ)

大口出資している日銀と大株主の日本郵船(NYK)には、宮内省から監査役を出していた。「監査役を会社に置いているということは、米国流の通念からすれば、企業全体を支配しているということだ、とGHQに言われました」とは、総務局長加藤 進(1902-1993)の記憶である。

(『昭和天皇 1945~1948』99ページ)



このように宮内省が天皇財閥における持株会社として財産管理をしていたことは確かである。それは、終戦時に内大臣を務め天皇の側近として数々の機密に接してきた木戸幸一(1889-1977)も証言している。『東京裁判資料 木戸幸一尋問調書』粟屋憲太郎・小田部雄次・伊香俊哉・宮崎 章 編集, 岡田信弘 翻訳、大月書店 1987年刊行)には以下の供述がある。第2次世界大戦後、戦犯容疑者を収容していた拘置所、巣鴨プリズンでGHQの将校達からの尋問に対して、木戸が答えている。



問 宮内省の役割は一般にはどんなものでしたか。ここ(表を指差す)から下の官庁とは違うどんなことをしていたのですか。
答 皇室の為の御用なら何でもお世話します。
問 皇室の財産・山林管理や投資ということですか。
答 そうです。
問 天皇が大企業や国営企業の株を持っていたというのは本当ですか。
答 はい。
問 それは宮内省で管理していたのですか。
答 そうです。
問 株式総会での投票や配当金などもですか。
答 そうです。それは宮内省で扱っていました。

(『東京裁判資料 木戸幸一尋問調書』34ページ)



内大臣として実質的に天皇財閥の「番頭」の地位にあった木戸幸一は、宮内省の持株会社としての機能をはっきりと認識していたのである。更に、戦前の三井財閥を論じたジョン・G・ロバーツ John G. Roberts(-)による大著『三井―日本における経済と政治の三百年』(安藤良雄, 三井礼子 翻訳、ダイヤモンド社 1976年刊行)には、以下の記載がある。



三井、第一と古い第十五銀行(華族の銀行)が合併し、帝国銀行が設立された。この3つの銀行に株式を持っていた天皇は、帝国銀行でも大株主であったから、「帝国」の名は単なる飾りではなかった。天皇が自ら株主総会に出席することはなかったが、その代理は白根松介(しらね まつすけ 1886-1983、宮内次官)であり、その義父は三井銀行監査役、その息子は結婚して三井の本家に入っていた。

(『三井』272ページ)

伊藤博文(1841-1909)公爵の息子は桂 太郎(1848-1913)大将の娘と結婚し、伊藤の娘は政界における三井の庇護者井上 馨(1836-1915)侯爵の甥と結婚した。伊藤・桂の孫は宮内次官白根松介(1886-1983)男爵の娘と結婚した。宮内次官が一手に掌握していた機能は、天皇の財閥を管理することであった。

(『三井』176ページ)



また、1945年(昭和20年)に、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA、別名:チャタム・ハウス Chatham House)〔※≪宋 鴻兵 著『通貨戦争―影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』 より抜粋(13・14)≫、関連資料(1・2・3)を参照〕が発表した「敗戦国日本」(山極 晃・中村 政則 編集, 岡田良之助 翻訳『資料 日本占領1:天皇制』大月書店 1990年刊行所収)という論文の中で、宮内省を正確が記載されている。



ここで、宮内省について一言述べておくのが適当と思われる。450万円の年間皇室費は、過去50年間ずっと変更されていない。しかし宮内省は、事実上、資本主義的企業体であり、広大な森林や莫大な財産の他、東京の帝国ホテルから八幡製鉄所に至るまで、日本の企業に対する多額の投資財産を管理している。皇室財産は、日本の侵略によって財政上の恩恵を得てきたと推測するのは根拠があるようである。

(『資料 日本占領1:天皇制』290ページ)



このように、戦前の宮内省は天皇財閥の持株会社としての機能、役割を果たしていたのである。強力な権限を握っていた宮内省は戦後、宮内庁となり現代に至っている。戦前の宮内省については未だに謎に包まれている。

戸田慎太郎(1911-1974)『天皇制の経済的基礎分析』(三一書房 1949年刊行)によれば職員数は1938年(昭和13年)に有爵者を含め2836人いたと言う。森 暢平(1964-)『天皇家の財布』(新潮社 2003年刊行)によれば終戦時には6000人の人員を擁していたと言うから、財閥本社としてはかなり大規模である。2010年(平成22年)では宮内庁の人員は1000人程度である。

宮内省に関する纏まった資料としては、1998年(平成10年)に復刻された『宮内省省報〈全16巻〉』(広瀬順晧 監修、ゆまに書房 1998~1999年刊行)があるが、皇室財政についての記述は見当たらない。「宮内省文書」や「内大臣府文書」は未だに公開されていない。


■GDPの5分の1を占めた天皇家の資産

森 暢平(1964-)『天皇家の財布』(新潮社 2003年刊行)では、2003年(平成15年)の皇室予算を細かく紹介している。それによれば、宮廷費と内廷費、皇族費を合わせて69億円、宮内庁費が114億円、皇宮警察本部予算が88億円で、合計272億円が皇室関連予算になると言う。

また、昭和天皇崩御の際に、残された資産は約20億円だったと言う。インフレーションによって通貨価値が大きく変わっているが、GDP(国内総生産)の割合から見れば、戦前の皇室費はこんな微々たる数字ではなかっただろう。

冒頭で述べたように、終戦時の天皇家の資産総額は15億円程度と見られ、別調査では37億円という数字もある。他の財閥が3億~5億円位の資産だったので、天皇家はその5~7倍程度の資産を有していたことになる。

『近代日本経済史要覧 第2版』(安藤良雄 編纂、東京大学出版会 1979年刊行)によると、1937年(昭和12年)における名目GNP(名目国民総生産)は234億円であったが、1940年(昭和15年)には394億円、1945年(昭和20年)には745億円と、8年間で300%も膨張している。一方、インフレによる価格変動を考慮した実質GNP(実質国民総生産)では、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで一貫して200億円となっている。

天皇家の資産は少なく見て15億円、多く見て37億円であった。天皇家の資産はGNPの割合から見ると13%から20%の大きさを持っていたことになる。現在のGDP(国内総生産)は約500兆円だから、天皇家の資産は65兆円から100兆円ということになる。


■明治に始まった天皇家の財産蓄積

天皇家の財産の変遷については、黒田久太(くろだ きゅうた 1905-1967)『天皇家の財産』(三一書房 1966年刊行)が詳しい。

徳川時代における天皇家の収入は「禁裏(きんり)十万石」と言われ、幕府から支給されてきた。それが維新後、徳川家が駿府七十万石に削られる一方、天皇家の収入は十五万石に増加した。当時の石高は七九二万石であるから、天皇家の収入は2%弱の割合であった。

1871年(明治4年)の廃藩置県、及び1873年(明治6年)の地租改正により経済と財政の構造が変転する中で、天皇家の収入は50万円から80万円に漸次(ぜんじ)増えていった。1882年(明治15年)には、当時の大蔵卿、松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図3】〕のデフレーション政策が進み、国の経費が圧縮。そんな中、天皇家の収入は200万円に増加していった。

1889年(明治22年)には天皇家の予算は300万円に達し、1910年(明治43年)には450万円に増額され、戦後の1947年(昭和22年)までその予算が続くことになる。以上は年々の経費である。経費の蓄えから国債や株式などに投資することにより、財産蓄積が始まっている。

1873年(明治6年)には公債証書を所有し、1879年(明治12年)には金札引換公債、1882年(明治15年)には七分利金録公債、1880年(明治13年)のは華族銀行と言われる「第十五国立銀行」の株式、翌年には十五銀行出資による「日本鉄道株式会社」(東京―青森間の鉄道を敷設)の株式を取得している〔※関連資料(1)〕。

また、天皇家の財産の大部を占める土地についての整理も、この頃に行われた。1885年(明治18年)、御料局が設置され、天皇家の所有地が明確化された。当時、宮内省管理の土地は既に54カ所に上り700何坪に達していた。その主なるものは、皇居、吹上御苑、赤坂離宮、浜離宮、芝離宮、京都御所、桂離宮、新宿御苑、熱海、札幌各御用地、下総種畜場などであった。


■「皇室財産」の形成と元老達の思惑

財閥形成の過程で重要なのは、1881年(明治14年)の岩倉具視(1825-1883)〔※公卿・堀河康親の次男→公家・板倉家へ養子、岩倉使節団〕による意見書「皇室財産を確定する議」である。

折からの自由民権運動の高まりにより、岩倉を中心とする政府は「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」発することになる。それから8年後の1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されることになるのだが、その為には岩倉は、より一層の皇室財産の形成が重要であると説くのである。

『天皇家の財産』(三一書房 1966年刊行)には黒田久太(くろだ きゅうた 1905-1967)が現代文に改めた「皇室財産ニ関スル岩倉具視ノ閣議提出意見書(明治15年)」の概要が書かれている。



朝廷は先に立憲政体を約束した。憲法は一法律に過ぎず、その実質的な基礎を持たねばならぬ。先ず皇室の基礎を強くせねばならぬ。その為の急務の第一は、皇室の財産を定めることである。(中略)

国会開設以後民権論が過激に亘るであろうことは、今日の府県議会の状況を以て推察出来る。民権論が次第に激進し、天子と雖(いえど)も国会に左右せられ、皇位は有れども無きが如くならないとは、補償し難(がた)い。だから憲法の力を保つ為には、実質即(すなわ)ち皇室財産を富裕にして、陸海軍の経費は議会がとやかく言う租税によらなくても尽(ことごと)く皇室の財産の歳入で支弁出来るようにせねばならぬ。こうすれば国会に過激論が起こっても何でもない。

(『天皇家の財産』23ページ)



要するに、「下からの」自由民権運動に対して、当時の支配層である伊藤博文(1841-1909)や山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)、松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕といった元老(エリート官僚)達が自らの支配権力を維持する為に、天皇を表面に押し出したのである。彼らは国民を支配する為に「天皇の為」という口実を用いた。だから天皇の財産を強化することは、即(すなわ)ち彼らの権力を強化することになるのである。

先述したように大日本帝国憲法は天皇から国民へ「下賜(かし)」されたものである。そもそも憲法とは本来、政府を制限する為に国民が政府に対して突き付けるものである。当時の政府とは、天皇を中心としたエリート官僚達、即ち(すなわ)ち天皇大権の拡充に対しても、反対の声が上がったことは記憶されてよい。

立憲改進党の機関紙の役割を果たしていた郵便報知新聞は社説で、「皇室財産を設置するは不要」という反対意見を述べたのである。イギリス王室財産の変遷を引用しつつ、堂々たる論陣を張っている。この事実は、遠山茂樹(1914-2011)『日本近代思想体系:天皇と華族』(岩波書店 1988年刊行)に所収されている。

元老グループは、下からの突き上げに対して自らの権益を守る為に、巨大な権力システムを確立しようとした。その為の核こそが、皇室財産の形成であったのだ。岩倉の意見書はまさにそれを企図(きと)したものである。


■膨張し続ける皇室財産

帝国議会設置が決まった1884年(明治17年)から大日本帝国憲法発布までの1890年(明治23年)の間に、皇室財産は着々と形成されていった。その第1段は1884年(明治17年)政府が所有していた日本銀行株、横浜正金銀行株の移管、第2段は1888年(明治21年)沢渡、生野両鉱山の移管、最後に1890年(明治23年)国有山林原野の皇室財産への編入であった。これにより皇室財産の原型が出来上がった。

日本銀行は1882年(明治15年)創業、資本金は1000万円、横浜正金銀行〔※預ヶ合について≪NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし≫を参照〕は1879年(明治12年)設立、資本金は300万円である。この両銀行の過半数株式を天皇家は取得した。以後、両銀行は天皇財閥の中核となる。更に1887年(明治20年)には、日本郵船(NYK)の政府所有株が全て皇室財産に編入されている。

森 暢平(1964-)『天皇家の財布』(新潮社 2003年刊行)によれば、天皇家が保有する株式の中で、日本銀行と横浜正金銀行、日本郵船(NYK)の3社が大きな割合を占めており、1927年(昭和2年)の3社への投資額は5099万円で、株式全体の投資6573万円の78%を占める。

1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が発布され、人民の関与しない「上からの」憲法発布に福澤諭吉(1835-1901)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図4―福沢諭吉の閨閥】〕や中江兆民(1847-1901)は不安を述べている。

大日本帝国憲法と同時に発布された皇室典範(1889年)には第48条「皇室経費ノ予算決算検査及其ノ他ノ規則ハ皇室会計法ノ定ムル所ニ依ル」とある。皇室会計は独自の法律によるのであり、国の会計規則に依らないのである〔※関連資料(1)〕。

天皇家は国の会計から毎年定額を受けるが、宮内庁がこれを管理し、予算から決算に至るまで政府の関与するところではない。つまり、天皇家は政府から予算が支給される「お役所」の1つであるが、その予算の使い方については全く制限を受けないのである。一国の中で法律の及ばない独自の領域(ドメイン)があるならば、それは独立国のようなものである。戦前の天皇家とはまさにそのようなものであった。

日本銀行、横浜正金銀行、日本郵船(NYK)に加えて、天皇家はその後も株式取得を続けている。1888年(明治21年)には札幌製糖および東京ホテル、1889年(明治22年)には北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船)の株式を取得している。更に参宮鉄道、総武鉄道、京都鉄道、岩越鉄道と各鉄道会社の株式を引き受けている。

日清戦争(1894~1895)の後の台湾領有、日露戦争(1904~1905)〔※関連資料(1・2・3・4・5・6)〕後の朝鮮半島、満洲への進出に連れて、皇室財産としての株式投資の範囲も次第に拡大していった。1899年(明治32年)には北海道拓殖銀行と台湾銀行、1901年(明治34年)に台湾製糖、1902年(明治35年)に日本興業銀行、1909年(明治42年)に朝鮮銀行と東洋拓殖の株式を取得している。これらは日本の対外進出と歩調を合わせるものである。

国内においても、富士製紙(のち王子製紙に合併)、東京電燈、大阪商船、日清汽船、東京ガス、帝国ホテルなどへの株式投資もこの頃から始まっている。

大正初期における天皇家の所有株は、17種、55万6940株、金額にして3594万3930円に上ると言う。黒田久太(くろだ きゅうた 1905-1967)『天皇家の財産』(三一書房 1966年刊行)に引用されている沢 来太郎(1865-1922)『帝国国有財産総覧』(沢政務調査所出版部 1917年刊行)付録の「皇室財産」によると、その内訳は【表1】の通りである。

皇室財産を調査した沢 来太郎によれば、1916年(大正5年)の株式相場より積算した時価は1億7520万円に達し、配当も年額450万円に及ぶと言う。その後の大正年間には、1918年(大正7年)の挑戦拓殖銀行株および満鉄株の取得があるが、それ以後の皇室財産の推移については資料が少なく、推論するしかないと言う。


(2頁に続く)........なのですが

記事一覧参照

http://ameblo.jp/antibizwog/entrylist-4.html

資料:http://ameblo.jp/antibizwog/archive1-201206.html

テンプル騎士団と天皇など........

http://moon.ap.teacup.com/kusagakubow/381.html

明治天皇に関するメモ...........

http://moon.ap.teacup.com/kusagakubow/377.html

コメント一覧

ノイア
達人さん、いつも貴重な情報をありがとうございます。
フェーズが高まっているようです。

上空のヘリコプターにも注意が必要です。何を散布されるか判ったもんではないので。
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