見出し画像

gooブログはじめました!

今日は死ぬにはもってこいの日だ

今日は死ぬにはもってこいの日だ

今日は死ぬにはもってこいの日だ

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/6a3af84fa95bf62a3c19e88106aad2f0

今日は死ぬにはいい日だ

http://web.archive.org/web/20170502101259/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/644.html

視点の転換の自由は、精神の自由の現れである

そのどちらが正しいかではなく、視点の転換の自由こそが、

現実の全体の把握を可能にし、精神の独立を保証するだろう。

「夕陽妄語」加藤周一。1996・10・23、朝日夕刊

シロアムの池より

クリックすると元のサイズで表示します

「だが塔が倒れ、人々の言葉がばらばらになったとき、死すべき者たちで全地は満ち、王たちによって分かたれた」
(『シビュラの託宣』第3巻)。バベルの塔への言及。

カール・ユングの使用している聖書はスエーデン語訳でありスエデン・ボルグが大いに寄与している。

以下はヨブへの答え その5での記事から.....

『ここで大事なことを申し上げましょう。以下はGIDEONの英文と新共同訳(カトリックとプロテスタントが仲良く都合のいいように訳した?聖書ですが牧師さまの多くはこれを使っていない)とユングが用いたスウェーデン語の聖書との違いです。

"I said,'You are "Gods".You are all sons of the Most High.'(GIDEON PSALM82-6)

「あなたたちは神なのか(?) 皆,いと高き方の子らなのか(?)」(新共同訳・詩篇82-6)

「我は言いたい,汝らは神なり,汝らは皆いと高き者の子なり」(スウェーデン語の聖書からおなじ詩篇82-6)

 これでは大違いです。新共同訳は「あなたたちは神なのか?そんなことはありえない。皆,いと高き方の子らなのか?イエスのみが神の子である」ということを言っているわけです。皆を苦しめ,悩ませている元凶が教会の原理と精霊の原理との違いなのです。新共同の訳はカトリック側に押し切られた感が否めない。このヨブへの答えその5ではそのことを考えてゆきましょう。』

悪魔の数字11と46
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2245



スウェデン・ボルグが説く「善と悪の役割」~スウェデンボルグもまた、『日月神示』と同様の善悪の関係を説いている。

http://mujaki666.seesaa.net/category/6889291-1.html

すると、イエスキリストがどこかに出現するのではなく、この「聖書の言葉の内意が正確に理解されたとき」それが「再臨」の意味である..........とスウェーデンボルグは述べている。

関連記事...........

死後の世界は実在する

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Swedenbolg01.html

神の数字と九進法

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1616

霊界はなぜ時空ゼロか

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/312.html

クリックすると元のサイズで表示します

霊的世界を考える(カルトからみたスエデンボルグ)

http://kurokango.blog50.fc2.com/blog-entry-18.html

原理講論から見たアベル的・カイン的人生

もうひとつの原理講論(相手を知る必要があるだろう,これでころっとやられるのである.....東大の学長クラスでも....だから東大は頭狂大学と呼ぼう)

http://www.unification.net/japanese/dp73/dp73-2-5.html

スウェデンボルグとエジプトの聖なる心理学

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/493.html

聖書ものがたり・GENESIS

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/125.html

アリゾナワイルダーとデヴィッドアイク~前編と後編
https://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-84.html

https://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-94.html

天界と地獄

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/HH1.html

神の愛と知恵

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/DLW1.html

神の摂理

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/DP1.html

主の教義

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/Lord1.html

生活の教義

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/life.html

聖書の教義
http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/Word.html


信仰の教義
http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/faith.html

スウェデンボルグの死後の世界 その1

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1572

スウェデンボルグの死後の世界 その2

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1573

http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/naitekiimi.html

上の記事の中にスエデン・ボルグによる創世記の解説がある。各自お読みになり心の扉にロックしておきましょう。宝物として。

それに反する論理もある.....

http://mujaki666.seesaa.net/article/123588154.html

イエス・キリストの再臨が現実か比喩かはともかく、イエスは再臨することを約束している。但し、イエスは「ヤハウェ」を名乗っている。また、キリストは「救世主」という意味である。従って、イエスが言う「私」とは、自分と同じような「ヤハウェの受肉のメシア」を意味し、それが終末に現れることを予言しているのかも知れない。また、イエスは仏教でいう「解脱」をしている為、輪廻を脱却している。だが、輪廻とは無関係でも、使命を持つ天使が地上に誕生することがある。イエスの再臨とは……イエスが再びこの世に誕生する事を意味するのかも知れない。ところが、聖書の記述が事実なら、イエスは死後復活して昇天した。つまり、イエスは生きているのだ(管理人注:イエスが復活した翌日(天使の格好で)ご婦人たちの前に現れこんにちはと言ったと聖書は伝えている)。

マヤ暦は閏年の関係で2015年9月3日が正しいとされるがイシス神殿の石碑と2015年9月3日は見事に一致する

『イシス神殿の石碑には1465体の神々が描かれていることがわかり、西暦550年から毎年、一体ずつの神々が去るとすると、なんと西暦2015年の9月に世界が水没することになる。』と。

従ってイエス・キリストが再臨するとしたら2015年9月3日であろう。それ以前でもそれ以降でもない。しかしイエスは現れない。スウェデン・ボルグのいう「聖書の言葉の内意を正確に理解した夫妻からその日に生まれた女の子を天使として誕生させるだろう。そしてその少女が11歳になったとき修正された西暦は2026年となる。そして世界はいったん破壊されるだろう。新しい創造はそこから始まる。

For our struggle is not against flesh and blood,but against the rulers,against the authorities,against the powers of this dark world,and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms
         <EPHESIANS6:12>

「私たちは、常に、エフェソ人への手紙、第六章の十二を思い起こさなければならない。『私たちの戦いは、血肉を備えた物理的存在に対してのものではない。それは、この世の闇の支配者の国や権力に対するものである。それは、高次元での、邪悪な霊に対する戦いである。

そしてこの地上にシャングリラ(地上の楽園)が訪れるのだ。現状ではそう考えたい。その時は2026年。その前にサタンは波濤万里を越えて想像を絶する苦難を仕掛けてくるがなんとか凌がなければならない。

http://www.plantatree.gr.jp/academie/essay-abe-juri-01.html

関連記事:時近ければなり その28

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/287.html

アシール地方と聖書の世界 その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/610.html

XはChristを表す。ギリシャ語の文字X(CHI)......内緒の話で詳しいことは言いませんがゲマトリア変換すると600,66,6となりキリストこそ666という数字が出てくる。

ユダヤ教のねたむ神の概念は『あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない』(出エジプト記第20章3節)にも見られる。出エジプト記の時代はまだイエスが誕生していませんでしたが聖書には二人の神がいるということです。聖書の神はデミウルゴスなんでしょうね,きっと。

デミウルゴスとヤルダバオート

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B9

関連記事:聖書ものがたり・マタイ福音書

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/147.html

クリックすると元のサイズで表示します


 ヘロデが死ぬと,主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて,言った。「起きて,子どもとその母親を連れて,イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは,死んでしまった。」そこで,ヨセフは起きて,幼子とその母親を連れて,イスラエルの地に帰ってきた。しかし,アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き,そこに行くことを恐れた。ところが,夢でお告げがあったので,ガリラヤ地方に引きこもり,ナザレと言う町に行って住んだ。「彼はナザレ(Nazareth)の人と呼ばれる」と,預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ第2章19~23節)

クリックすると元のサイズで表示します


エルサレムからベツレヘムへ至る道......そのとき,占星術の学者たちが(注;あるいは3賢人ともいう)東の方からエルサレムに来て,言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は,どこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので,拝みにきたのです。」(マタイ2章1~2節)

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/86.html

アーノルド・トインビーはその「歴史の研究」のなかで言います.....『勝利を得たキリスト教のパンテオンにおいて,マリアの,神の偉大なる母への変貌という形で,キュベレやイシス(ISIS)の姿が再現しているし,また戦うキリストのうちにミトラなどの面影が認められる..............なぜキリスト教は,ユダヤ教の,神は愛であるという洞察を承認し,宣言した後に,それと相容れない,ユダヤ教のねたむ神の概念をふたたび取り入れるようになったのか。それ以来絶えずキリスト教に大きな精神的損害を与えてきたこの逆行は,キリスト教がカイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価であった。教会の勝利によって平和が回復されたのちも,互いに相容れないヤーウエとキリストとの結びつきは解消するどころか,かえって一層強化された。勝利の瞬間に,キリスト教殉教者の非妥協的態度が,異教や異端を迫害するキリスト教会の不寛容に移行したのである。(注:特に13世紀のスペインで顕著であった)』......これが幼児洗礼を受けた後もクリスチャンになれない理由です。(他にも多くありますが)。20歳の学生時代神田の古本屋でアルバイトで貯めたなけなしのお金で「アーノルド・トインビー全集」の原語版を買って全く理解できずその後48年が経ちました。今でも私の書斎のデスクにこの全集があります。理解出来たのは最近のことです。

アフリカの主の祈り

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/13.html

ホカヘー!われに続け。
今日は戦うにはいい日だ。
今日は死ぬにはいい日だ!
(夜明けへの道より)

以下の夜明けへの道は難解ですが必読です。基本はギリシャ語聖書にある。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/index.html

シビュラの託宣 序章

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla00.html

シビュラの託宣 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla01-1.html

シビュラの託宣 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla01-2.html

シビュラの託宣 第二巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla02.html

シビュラの託宣 第三巻 1/4 神について

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-1.html

シビュラの託宣 第三巻 2/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-2.html

シビュラの託宣 第三巻 3/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-3.html

シビュラの託宣 第三巻 4/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-4.html

シビュラの託宣 第四巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla04.html

シビュラの託宣 第五巻 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla05-1.html

シビュラの託宣 第五巻 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla05-2.html

シビュラの託宣 第六巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla06.html

シビュラの託宣 第七巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla07.html

シビュラの託宣 第八巻 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla08-1.html

シビュラの託宣 第八巻 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla08-2.html

LUCIFERはラテン語訳聖書に登場する

http://www5.cncm.ne.jp/~ryuji-t/kenkyu/lucif.htm

前200年頃『ヨブ記』第11章17(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
そしてあなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる。
この節のラテン語訳は「et quasi meridianus fulgor consurget tibi ad vesperam et cum te consumptum putaveris orieris ut lucifer」である。最近になって知ったが、『旧約聖書』のラテン語版には、下に記す『イザヤ書』ともうひとつ、『ヨブ記』のこの部分にも、「lucifer」という言葉が使われていた。ただし、欽定英訳では「And thine age shall be clearer than the noonday: thou shalt shine forth, thou shalt be as the morning」となっており、『イザヤ書』と違い、完全にラテン語訳にしか使用されていない。でも、この節は「もしあなたが心を正しくするならば」、「あなたの命は真昼よりも光リ輝き、たとい暗くても朝のようになる」ということで、正義の行いをする者に対して、「lucifer」という言葉が使用されているのは面白い。

前200年頃『イザヤ書』第14章12(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたはさきに心のうちに言った。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。
現在では悪魔の頂点とされているルシファーだが、聖書ではここにしか登場しない。この一節は、ヤコブが「バビロンの王をののしって」言ったものであり、本来は悪魔の話ではない。しかも、もともとヘブライ語で書かれた『イザヤ書』のこの部分は、ヘブライ語ではHelel ben Shaharすなわち「輝く者」である。紀元前後のギリシア語訳(所謂『七十人訳ギリシア語聖書』icon)ではeosphorosとなり、これが405年に聖ヒエロニムスによってラテン語に訳された時(俗に『ウルガタ聖書』という)、「明けの明星」を表すluciferとなった。つまり、聖書だけを見るなら、ルシファーという悪魔は、存在しないに等しいのである。だが、次に上げていくキリスト教の神学者たちによって、ルシファーは悪魔化していく。

神学者たちによってその意味が歪められていったのは.....陰謀論と同じゲームを隠蔽するために。

インディアンに関連した記事:

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/129.html

「今日は死ぬのにいい日だ」

阿部珠理

(立教大学社会学部教授)

 「今日は死ぬにはいい日だ」
 日本でも有名なインディアンの言葉である。狩猟民族のラコタ族が、戦闘に行くときにあげる雄叫びだ。勇敢な男たちは、死んでもかまわないという決意で三つ編みに編んだ長い髪をほどき風になびかせる。そして馬上で叫ぶ。
 「今日は死ぬにはいい日だ」

 インディアンには長い歴史に培われた「武士(もののふ)」の伝統があり、死ぬことを恐れないだけではなく、「潔く死ぬためには、潔く生きなければならない」という心情がある。死に方の潔さは、生き方の問題だという思想が脈々と受け継がれているのだ。インディアンはその歴史を文字で残してきた民族ではないが、その価値観や思想は生き方そのものの中に伝わっている。

 この死生観は、日本の「葉隠(はがくれ)」の精神に通じる。そこにあるのは「死に様」の美しさであり、それを重要だと考えていた日本人の思想である。死に様の美しさを求める気持ちは、突き詰めればどれだけ充実した生き方をしてきたかを表している。この人生の密度が死に方の潔さを決めるという意識が、日本人とインディアンに共通する。住んでいる場所も文化の成り立ちもまったく異なるアメリカインディアンと日本人は、究極的な価値観において通じ合うところがある。

 実際アジアから凍ったベーリング海を歩いて渡ってアメリカ大陸に到達したインディアンと日本人は、生物学的にはモンゴロイドの「はとこ」くらいの関係にある。弓の島(日本列島)に定住した日本人は、縄文から弥生時代をへて異文化と混淆し、近代には決定的な西欧化の波にのまれてゆく。一方、亀の島(アメリカ大陸)の住民のインディアンは、西洋文明の制服の歴史の中で、野蛮と未開のレッテルを貼られながら、祖先の価値観をずっと継承してきた。

 異文化を受け入れることで近代化を達成した日本人と、時代と状況が変化しようとも自分たちの価値観を頑なに守ってきたインディアン。こうした不器用としか思えないインディアンの生き方に、日本人はどこかで懐かしさと共感をおぼえてしまうような気がする。

 生き方の密度を重んじるインディアンは、日ごろの行動で人を評価する。学者や経営者といった肩書きだけで、インディアン社会で尊敬されることはない。彼らは多くを語らないが、「人の背中を見て生きてきている」のだ。

 集会、選挙など、機会あるごとにコミュニティで顕彰式が行われるが、その対象は病院の掃除夫であったり、何も職業を持たない人であったりする。私がよく話を聞くメディスンマンも、部族議会が行われる建物の清掃を仕事にしているが、顕彰された一人だ。メディスンマンは、各部族のシャーマン的存在であり、祈祷師、医師、聖職者、予言者すべてを兼ね備えた存在だ。最近では、伝統の継承者、コミュニティのカウンセラーの役割を負う。だがメディスンマンであることの絶対条件は、癒しの力をもっているということだ。病気や怪我を癒すことから、精神の癒しまで、その力のない者を、メディスンマンとは呼ばない。

 メディスンマンは癒してもお金を受け取らない伝統があるから、生活は決して豊かではない。それでも自分の生活より他者の癒しを優先する彼らが、一番に顕彰されて何の不思議もない。

 サウスダコタ州に住むラコタ族は昔から孤児がいない社会だと言われているが、それは実際両親が亡くなっても、誰かが子どもの面倒を見てきたからだ。現在でも犯罪やアルコールの問題で両親が収監された場合、親戚や近所の子どもを引き受ける例は多い。ラコタ族の保留地(インディアンが土地を奪われ最終的に囲いこまれた場所)は、アメリカの最貧地帯とされているが、それでも餓死した人の話を聞いたことがない。集合住宅で死後三週間もたって発見される「豊かな無縁社会」日本と異なり、貧しいながら人はしっかりと繋がり助け合う。人を助けたからといって自分の行いを吹聴したりもしない。平気で自慢するような恥じらいのない人間を、誰も尊敬しはしない。

 現代はどうしても物質的な豊かさであるとか、学歴といった目に見えるものに価値が見出されがちだが、かっての日本社会は、ニンゲンの内面をより重んじ、その価値を認める社会だった。日本人が失いつつある、「奥ゆかしさ」や「恥じらい」が、インディアンの生き方に触れることで、郷愁や賞賛とともに喚起されるのかもしれない。日本人はやはりインディアンが好きなのだと思う。

 多くの日本人がインディアンと馴染みになるのは、一九五〇年代の西部劇の中であったろう。だがそろいもそろって西部開拓を妨げる悪漢として描かれたインディアンに、そのとき日本人が親しみを持ったかどうかは分からない。

 日本人がインディアンを好意的に受容したのは、一九六〇年代から七十年代にかけて世界中に広がったヒッピームーブメントからだろう。インディアンをモデルにヒッピーは髪を伸ばし、はだしにサンダルで大地を歩いた。ヒッピー思想の中心に自然回帰があり、髪の毛を伸ばすのはその象徴であった。

 ひたすら利潤と効率を追求してきた近代の物質文明のひずみが世界を覆う中、自然回帰から環境保護、そしてエコロジーに対する意識の高まりが、私たちをインディアンに近づけてゆく。インディアンは太古からの「大地の守り人」として注目を浴び、エコロジーの教祖として受容されるようになる。ことに八〇年代以降、「癒し」を求める人びとがインディアンのスピリチュアリティに惹かれ、自然とともに生きていた彼らの魂の声に耳を傾けようとする。セドナやブルーレイクなどインディアンの聖地を訪ね、そのパワースポットでの神秘体験に癒しを求める人たちが出てきた。ラコタ族長老オーバル・ルッキングホースを招いて二〇〇四年に開催された「聖地富士山で世界平和を祈る」イベントには、日本中から三〇〇〇人もの人が集まった。

 私は不思議な縁からインディアンの世界に入り、毎年彼らのコミュニティを訪れる生活を続けている。彼らの現実生活は厳しく、決して褒められることばかりではない。だが、もう二度と来るものかという体験をしても、やはり来てしまう。私を呼び戻す磁場がそこにある。

 インディアンとの出会いから二〇年がたつ。ここにあるのは彼らが守ってきた万古の智慧とそこから発せられる何気ない一言、その言葉が私にもたらした気づきの数々である。決して特別なことが起きたわけではない。だが、ありきたりの日常の中に珠玉のような普遍の価値があることを、インディアンほど私に教えてくれた人々はいない。

『ともいきの思想』
自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」(株式会社小学館) より

2010年 6月 寄稿

管理人注:デミウルゴス=ヤルダバオート

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B9

デミウルゴス(デーミウールゴス、古希: Δημιουργός、英: Demiurge)は、プラトンの著作である『ティマイオス』に登場する世界の創造者である。

概説

ギリシア語では「職人・工匠」というような意味である。プラトンは物質的世界の存在を説明するために、神話的な説話を記した。この言葉と概念はグノーシス主義において援用され、物質世界を創造した者、すなわち「造物主」を指すのにデミウルゴスの呼称を使用した。

神学的思想

『ティマイオス』に記されている神話は、イデア界のありようを模倣して、デミウルゴスがこの物質世界を創造したというものであるが、この考え方は、ユダヤ教の思想家であるアレクサンドリアのフィロンや、異端ともされたキリスト教思想家のオリゲネスに影響を与えた。『ティマイオス』に記されている比喩的な寓話は、『旧約聖書』と調和性を持つのではないのかと彼らは考えた。
グノーシス主義

他方、グノーシス主義の創造神話においても、ウァレンティノスの系統の世界起源論では、デミウルゴスは「造物主」で、まさにイデア世界に相当するプレーローマのアイオーンを模倣して、この世と人間を創造したことになる。

しかし、グノーシス主義の思想や世界観に明らかなように、この世と人間は、いかに考えても不完全な存在にしか見えない。イデアの模造であるとしても、それが完全であるならば、この世も人間も完全に近いか完全な存在であるはずである。しかるに、経験や現象が教えることは世界と人間の不完全さであり、「悪」の充満するこの世である。

そうであれば、デミウルゴスの創造が不完全なのであり、イデアの模造がかくも不完全で、悲惨で崩壊するはかないものである根拠は、模倣者の能力の欠如と、愚かさにあるとしか云いようがない。

グノーシス主義
ヤルダバオート

グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート」と呼んでいる。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。

ヤルダバオートはデミウルゴスであり、また「第一のアルコーン」である。愚劣な下級神はアルコーンと呼ばれるが、ヤルダバオート以外にも多数存在し、それはデミウルゴスが生み出した者で、地上の支配者である。アルコーンはしかし、愚かで傲慢な下級の神であるが、人間にとっては恐るべき存在でもある。

デミウルゴスや諸アルコーンが愚劣な「下級の神」というのは、あくまで完全なるアイオーンやプレーローマの至高者に比較しての話である。人間の悲惨さの原因である「肉体」や「心魂」はデミウルゴスが創造したものであれば、人間はこれらの部分では、アルコーンの支配下にある(アルコーン(希: ἄρχων、英: Archon)とは、ギリシア語で「統治者」を意味する語。歴史的には様々な意味を派生した。)

人間が、デミウルゴスや諸アルコーンに優越するのは、ただその内部にある「霊」においてのみである。そしてこの内なる「霊」こそは「救済」の根拠である。

ポイマンドレース

グノーシス主義の神話では、デミウルゴスが水に映った「至高なる者」(ソピアーの像またはアイオーンの像)を自己の映像と錯覚して人間を創造するということになっている。

これと同じ筋書きの神話が『ヘルメス文書』のなかの『ポイマンドレース』に記されている。これもおそらくプラトンを起源にしていると考えられるが、『ポイマンドレース』が述べている内容は、グノーシス主義の創造神話に他ならない。

アルコーン=グノーシス主義

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3_%28%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9%29


975Millionの小切手も拒否~もっとよこせと

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/683753e6b9b9db5276551c3c481bf74e

 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る