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霊界はなぜ時空ゼロか


ニンゲンの体の大部分を占める水は,水蒸気となって空に立ち昇る。それは,雨の一部となって誰かの肩に降りかかるかもしれない。何パーセントかの脂肪は土にしたたり,焼け落ちた炭素は土に栄養を与えて,マリーゴールドの花を咲かせ,カリフラワーを育てるかもしれない。(写真・文は藤原新也「メメント・モリ」30~31ページより)

メメント・モリ(MEMENTO MORI)とはラテン語でいつか自分が必ず死ぬことを忘れるなという意味でもあり,警句でもある。起源は旧約聖書のイザヤ書にある。フランスのル・ピュイのゴシック後期の修道院教会の聖歌隊席(コール)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている。イザヤ書22:13には..... しかし,見よ,彼らは喜び祝い牛を殺し,羊を屠(ほふ)り肉を食らい,酒を飲んで言った。「食らえ,飲め,明日は死ぬのだから」と。

道をたずねた。

老婆は答えた。

上さまに行けば山,

下さまに行けば海。

どちらに行けば極楽でしょう。

どちらさまも天国,

どちらさまも地獄。

世界はあんたの思った通りになる。

文・藤原新也(メメント・モリより)

成仏霊と不浄霊の次元階層


須弥山(チベット語でカンリン・ボチェ=SUMERU)の頂上にあるジャイナ教寺院のローカ・プルシャ(宇宙大巨人)の曼荼羅の一種。曼荼羅とは須弥山の断面図であり,中心が中尊の大日如来であるが,ジャイナ教の場合は一寸違う。中心はクシャトリア王族の出身を意味するマハヴィーラ,本名ヴァルダマーラ(日本では達磨と呼ばれる)やアヒンサー(AHIMSA)という不殺生の文字がある。須弥山はインド側でティベット国境沿いにあるが,空海が唐から持ち帰ってきたという根本曼荼羅は密教の曼荼羅で中尊は大日如来である。

インドネシア・バリ 死者を送る船・アチャプラリンガ この巨大なガルーダは須弥山の頂上高くに聳える巨大な鳥(鳥装シャーマニズズム)を引き継ぐもので,ティベットでは未だに鳥葬が行なわれている。これらの源はマラエという生贄のシャーマニズムであり,それらが時間を経て鳥葬儀となった。鳥葬儀職人が死者の肉を切り刻んで鳥に食べさせる儀式は見ることもできる。死体は単なる肉塊であり,魂とは完全に切り離して考えられている。
完全なる魂とは須弥山を五体投地しながら,1周52キロを108回ることによって完成されると信じられている(ジャイナ教徒は左回り)。途中死に絶えてもそれは本望とされる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~nshzw/newpage32.htm

人間の意識と霊魂

人間と霊性
あらゆる自然の事物、事象は科学の対象となり得ます。霊性や人間の霊魂も例外ではありません。何故なら、人間も霊魂も自然の一部に過ぎないからです。
人類が他の動物や植物と著しく異なる点は、その思考能力にあります。ここではその思考能力を、霊性がもつものの大きな特徴の一つと捉えています。
動物が思考能力を獲得したら、それは最早動物ではなく人類であります。その人間だけが持つその特質を、霊的形質、霊的原質と呼ぶ事にします。
そして、この形質はけっして短時間で形成獲得され得るものではなく、動物と違って、人類は或る時期を通して永年月かけて、その霊的形質を少しずつ形成させ獲得してきたのです。このことは重要なことです。
そして、その時間を短縮してしまう能力、例えば人が一分もあれば片付けられる同じことを、動物がやってのけられるまでに進化するには、どの位の歳月を要するでしょうか。その条件に則った進化が得られなければ、動物にはその機会は永久にやって来ません。
人間に最も近いと言われている類人猿が、何故、私達の見ている前で人類に進化しないのか?一つ考えられることは、私達の知っている類人猿の種と、現生人類の種とでは、その存続の長さにおいて、おおよそ比較にならない程の開きがあるであろうことです。

霊的形質、霊的原質
人間は、肉体の死を迎えると同時に、その霊魂は肉体から離れるといわれてきています。
人類が永年月かけて獲得してきた霊的形質は、両親から子供に受け継がれます。
幼児のうちはその霊的形質は眠ったままであり、両親の愛情やら、外界からの刺激を受けて次第に目覚めていきます。
そして、環境から体験を通して学び、霊性は覚醒されていき、成長していきます。動物に育てられた幼児の霊性は眠ったままであり、動物的な生活反応のみを示すようになるのです。これは人間の霊魂のうちの魂的部分が触発され続けた結果の反応なのであり、狼に育てられた少女の例がそれであります。幼児は人間から人間らしい刺激を受けて育たないと、人間的な形質を示す霊性は眠ったままなのです。
そして、人間環境の外界から刺激を受けつつ成長していくに従って、認識力、思考力、記憶力、判断力などが、眠った霊性から開発されていきます。人の一生という短い期間の中で、動物では考えられない、それは驚くほどの能力が開発されていきます。
ですから、霊的形質とは人間の持てる能力のその殆どを短時間で開花させてしまう、眠れる集積された能力の固まりとでも表現したら良いでしょうか。それは人類の歴史、その民族の体験が集積され積み重ねられた時間が凝縮された固まりでもあるのです。人は生活を通してその凝縮された能力を解放していくのであります。
これは人が生れた時から持っている能力であるので、動物にはどうやっても真似ができません。そして、この人間にのみ備わっているあらゆる要素は人類の永年の歴史の中において、けっして短期間で獲得されてきたものではないでしょう。
これは人間が宇宙という自然界から誕生したのであれば尚更のことであります。
そして、幼児期から眠っていた霊的形質が少しずつ覚醒され、解放が始まっていくとその進化は無限に進むのです。肉体は老い衰えていくに反比例して、霊性の方は変わらず進化を続けていくのです。
そして、肉体が衰え生命が維持出来なくなった時に、その人が、その人の人生で最高に発達進化した段階で、その霊的形質は肉体から霊魂として離れるのです。それが人の死と呼ばれているものです。

永遠の生命と霊的形質
人間の生命は基本的には、永遠の生命です。但し、これにはそれが得られる為の条件がすべてクリアーされた場合という条件が付きます。
人類は、霊的形質を永年月掛けて獲得してきたことは既に述べました。
自然の仕組みとは実にうまく出来ているものです。その人類が霊的形質を獲得した段階で、永遠の生命をも同時に獲得したのです。
霊的形質が肉体から抜け出て霊魂となった時に、霊魂は生命燃焼の受け皿として、形質進化を新たに始めることになったのです。生命とは、宇宙の深源からの無限の息吹き、湧き出づる泉、のようなものです。その生命と霊魂との間では、生命循環が確立されるようになったのです。
人間の霊的な性質が充分に発達していない頃の霊魂は永遠の生命を得るまでには至りませんでした。
霊魂の中でも魂的な要素は不死ではないからです。人類がまだ人類として進化していない頃の霊魂は、動物と同じように魂のみであったのです。その段階では、まだ霊魂と呼べるようなものではなく、永遠の生命を得るようなことはなかったのです。
人類が霊性を獲得するようになってから、魂には霊的要素が加わるようになっていき、霊魂の寿命を延ばしていくようになりました。つまり、人類に獲得された霊的形質そのものが生命の受け手、支え手となり、霊魂は条件さえ整えば、いつまででも生き続けることが可能になったのです。それが、このサイトで永遠の生命と呼んでいるところのものです。(10.20.)

霊魂の実体
科学者の多くが否定する霊魂の実体とは一体何でしょうか?
まず、肉体から離れたばかりの死者の霊魂について述べる前に、高度に進化した霊魂から述べるのが分かり易いかも知れません。神と称えられるまでに進化した霊魂の実体は光の実体に近いということです。
霊体そのものの実体は目には見えませんが、エネルギーを発する時には、物質に反射し、淡いながらも輝く光の残像を残すのであります。神の霊とは、霊的原質が霊魂となった後、形質進化し、高度に結実した結果の存在であるのです。
ですから、亡くなったばかりの死者の霊魂とは、到底比較の対象にならないでしょう。
神の霊を強いて表現するなら、電気的結合を持った光子の発生体に人間の意識が備わったもの、とでも表現出来ましょうか。即ち、人間の霊魂というのは、高度に進化するとその段階にまで至ることが可能であるということです。
死後の人間の霊魂は肉体を離れた後は、人の姿形をとらず、球形に纏まろうとし、別掲(「絵画に見る神の霊」参照)のように球体になるのです。
肉体から離れたばかりの霊魂は、ガス様の様々な不純物を含んでいるのが自然に取り払われていき、次第に球形に纏まっていくのです。

霊界とは時空ゼロの場
これまでの心霊科学では、肉体死後、霊魂は霊界へ行くと考えられてきました。しかしながら、霊界は時空ゼロの場であり、実際には霊魂が霊界に入ることは出来ないのであります。
霊魂とはガス様の希薄なエネルギー体、その実体は三次元物質世界のものでありますから、霊界に入ろうと霊魂が臨んでも、そこは時空ゼロの場であるために弾き出されてしまうのです。
ただ、はっきり言えることは、その霊魂の意識、明瞭に覚醒された意識は紛れも無く霊界にあるのです。つまり、霊魂とは、三次元物質世界と霊界とを重複し、跨って存在しているということであります。三次元物質世界にその実体が存在するのと同時に意識は霊界に存在するという在り方をとっているのです。
そして、霊界には空間が無い代わりに場だけが存在するのです。人間が三次元物質世界である自然界から発生し、その結果として霊魂が誕生したのであれば、霊魂も当然、三次元物質世界とも関りを持ち続けるのであります。いや、関りなしには生存不能と言うべきでしょう。
既に永遠の生命を獲得した筈の霊魂が、何故、それを失うのか?それは物質世界に存在する霊魂が、強い衝撃に極めて弱いからであります。強い衝撃によって霊魂は消滅してしまうのです。
霊魂が三次元物質世界に存在する以上、当然疲労します。それが霊魂に眠りを齎します。この時は、人間と同じように最も無防備な状態です。この時に強い衝撃に見舞われることによって、大概はその生命を失うのであります。霊魂が永遠に生き続ける為には、強い衝撃から絶えず身を守っていなければなりません。現実に、生まれ変わりはないので、固有の個人の意識はそこで永久に終わることになります。

人の意識とキャンバスとしての霊界
それが肉体死後であるなしに関らず、人間の意識は覚醒していようが眠っていようが常に霊界にあるのです。
人間の霊的形質は絶えず霊界と共鳴し合っている為に、人は何時でも何処に居ても、意識がある以上、その意識は常に霊界にあります。そこには物質的なものは一切無く、また入り込むことも出来ません。
通常、私達が物を眺める場合、光に照らされた物を眺め、網膜が感知したものを脳が翻訳して、何がある、と識別します。肉体が物質であるだけに、肉体にはそうしただけの働きしかありません。
私達が霊界と共に在る意識を通して物を眺めている為に、いろいろとものを考えながら、様々に批評しながら物を眺め、買い物をしたりすることも出来るのです。私達が目を通して外界を眺めているのは、同時に霊界にある意識を通して眺めてもいるのです。
私達の意識にとって霊界とは、物を想像したり、考えたり、思い描く為のキャンバスに例えられましょうか。霊界がないと意識は自由に活動することが出来ないのです。何故なら、霊的形質とは、霊界と共に発達進化してきたものであり、キャンバス無しの状態では、筆はあっても絵が描けないのと同じことだからです。つまり、意識とは常に霊界と共に存在するものであり、存在してきたのです。
そして、私達が様々な思い、喜怒哀楽を表現する時に、それは心という一つのエネルギーになってそこから引き出されるのであります。他を慈しむ感情や怒りの感情と思いは重なるものです。相手への思いがなければ、相手に対する慈しみの感情や怒りの感情は起ってきません。相手をキャンバスに思い描くことが相手に対する心を生み出すのです。
肉体が物質である以上、肉体から生み出されるものは物質だけです。人間は霊界に絶えず意識を投じることによって、絶えず心というエネルギーを生み出し続けているのです。常日頃、何を思い、何を考え、何に対してどう反応しているか、それらは心として言葉を通して相手に伝わるのであります。それは霊魂というその人の全てを通し肉体を通して、生命力の旺盛な人は、その旺盛な生命力を伴ってそれが伝わります。
霊的形質が永遠の生命を獲得したのも、霊界と共に発達進化してきたことが大きな要因として挙げられましょう。何故なら、霊界とは生命の深源と深い関りをもつものだからです。霊的形質は霊界との共存なしには、存在出来ないからです。つまり、人間の意識と霊界は常に一体化しているのです。

肉体死後の意識
ところで、人間の意識が肉体の死後、霊魂として肉体から離れた後のことについては、どう認識したら良いでしょうか?
まず、一つの考え方の方法として、夜、光や音から隔絶された部屋で一人目を瞑ってみます。そうしますと周囲は暗闇で何も見えない、そこにあるのは唯一人の自分という存在の意識のみです。
そこでは、様々な思い巡らし、過去を思い出したり、未来に思いを馳せたり、日常の問題について考えたりすることが出来ます。様々な雑念もやってきます。警戒心をもつことも可能です。そして、その範囲は自分がこれまでに触れたありとあらゆる事柄にまで拡大していくことが出来ます。
つまり、その意識の状態が、肉体死後も霊魂としてそっくり持ち越されるということであります。霊魂となった後も思い巡らせたり、思考したりすることが可能であるということです。
そして、肉体の死によって五感、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚のすべては失われます。霊魂はこれらを感じ取ることはないのです。ですから、霊魂同士は互いに見えないのであります。
ただ、私達は心の中で、意識の中で、声を出さずに呟くことが出来ます。この呟き、声なき声は霊魂に伝わります。このことで霊魂同士の会話、意思疎通は可能なのであります。霊魂同士の会話はこの声なき声の会話なのであります。
また人間の思いはその人間に宿っている霊魂に伝わります。読む本の内容も伝わります。宿っている霊魂が、真理や霊に関する知識がない場合、その人が関連する書物を読むことで霊魂も学習するのです。ただ、その知識が正しくないと霊魂もなかなか悟れないということも起こり得るでしょう。(10.27.)

二重フィルターを通して物を見る意識
ここでは霊魂が生者の肉体にある間の性質を霊的形質と云っているわけですが、その霊的形質には霊界が伴うのであります。霊界という空間は無い代わりに、霊界の存在が確かなものとしての場が存在するのであります。
その場は恐らく原子一個にも満たないので、人間の意識と一体化し共存が可能なのです。
「天国、神の国は一人一人の心の中にある」という言葉がありますが、霊界もまた一人一人の中に在るのです。
そして、私達の意識には絶えず霊界が伴っているので、物を眺める場合、必ずそのフィルターを通して眺めています。つまり、私達が物を見る場合、霊界というフィルターと、光に照らされた物体の残像を網膜に映じて脳で認識するという、三次元物質世界との二つのフィルターを通して見ているわけです。
この霊界という場は、当然、死者の脳を解剖しても見出すことは出来ません。霊魂と共に死者の脳から離れてしまうからです。これは肉体死後、ずっと霊魂に付いていてその霊魂の死まで離れることがありません。
肉体にある間は当然、脳に在るでしょう。私達が眠る場合にも付いて離れず、霊界と共にあって、夜のそのキャンバスには夢をみるという形で映像が描かれます。
そして、真昼の夢、麻薬の中毒患者は強い幻覚をみると云われていますが、その幻覚は霊界というキャンバスに現れ、描かれます。子供もよく幻覚を見て現実と混同する話はよく聞かされます。
意識は通常、霊界にあるのと同時に物質世界への睨みをも利かしています。ところが現実世界を眺めながら、霊界に幻覚が現れると、網膜と霊界という二重キャンバスによって、その幻覚は現実世界に現れているかのように見られます。ここで現実世界と幻想世界との混同が生じます。最近は大人でも現実世界と幻想世界との区別が出来なくなっている人が増えていると言われています。
私達は通常この二重のフィルター、二重のキャンバスを使い分けて生活しています。人と話をしたり、何か行動したりする時には意識は現実世界を向いていますが、物を考えたり、想像したりして創作活動に打ち込んでいる時には意識は霊界にある、というように。
ところが、死後肉体から離れ霊魂となった場合、この目から網膜を通して認識するという過程が省かれることになります。
そうしますと、霊魂は一体、外界というものをどのように認識するのでしょうか?

霊的要素と魂的要素を含む霊的形質
これは肉体を持つ者の身としては、なかなか認識出来難いことでもあるでしょう。五感は失われ神経からの伝達も無い。何よりも体に指令を出す脳さえ失われるのです。
霊的形質として、霊魂が肉体に在る間は、霊魂が感じるままを脳がキャッチして、中枢神経に必要な指令を出します。
ところが脳が病気で支障を来たすようになるとこの指令はうまく行われなくなります。
霊的形質という場合、そこには霊的要素と魂的要素が一緒に含まれますが、生体の自動調整の為の交感神経や副交感神経と、霊的要素との直接的な関りはありません。それらは主に魂的要素が関っています。
反射神経も同様であり、条件反射の属性はそのまま、魂的要素として肉体死後の霊魂に持ち越されます。
条件反射という属性は生活反応の一部として、霊魂に残るのであります。
霊魂が病むのはこの魂的要素において病むのであり、霊的要素には病気は無いのです。ですから、魂的要素が病んでいる場合、その人の肉体に変調として現れる場合があります。これは肉体を調整し直す、或いは、治癒することによって、逆に魂的要素を調整することになり、霊的要素にも良好な結果を齎すということもあります。
魂的要素が病むことは、霊的要素の働きを押さえ込んでしまうことになるので、人自体が病的な表われ、病的な行動に移り勝ちになり易いのです。それがあまりにも過大になり、いつまでもその状態が続けられると、霊的要素の成長、解放は押さえ込まれたままとなります。
ただ、魂的要素の適度の病みは、霊的要素がそれを解決しようとするので人間の成長の為には必要なことでもありましょう。自制心とはこの霊的要素と魂的要素のバランスが良好な状態にある時のものです。それが働かない時は魂的要素のほうが優位にあるのです。人がより人間的であろうとする場合には、霊的要素が優位であることが望ましいでしょう。
この二つの要素のバランスで成り立っている霊的形質を、人が一生の間に正しく解放していくにはどうしたら良いでしょうか?その為には、正しく見る、物事を正しく捉える、正しく考える、正しく思う、これを生涯続けることなのです。それによって行動、行為は決まってきます。
これは霊的要素の成長の為に必要なことであり、やってやり過ぎるということは無いのです。何故なら、それを続けていても、必ず魂的要素からの妨害、横槍が入るからであります。
正しくない見方、捉え方、誤った考え、思い、これらは皆、魂的要素から来ているものだからです。
魂的要素が、肉体生存のための人間の自己保存すべてに関っているのに対して、霊的要素は直接的にそれらには関っていないからに他なりません。
幼児のうちは、正しいということがどういうことかは判りません。それが親や人から善悪から教えられます。正しいということはまず善悪から始まります。そして、大人になっていくに従って自分でもそれが何かを考えるようになり、様々な認識が生まれ、理解するようになっていって、判断力も生まれてきます。
それが例え、誤った概念であっても正しいとして受け入れることは誰にもままあることです。それは言わば成長の過程です。
それでは何故、それ程、正しいということを追求するのが大事なのでしょうか?
正しいということは総合的なものの判断すべてを言っています。それはありとあらゆることを指しています。
それを追求していくことは、そうでないものを退けていくことになります。何故、そうする必要があるのでしょうか?
そうでなければ、人類は霊魂も含めて滅亡の方向へ向かうからに他なりません。正しいとは滅亡へ向かわせない力、努力を云っています。
人類も霊魂も惑星に生存しそれ以外の場では生存不能です。惑星の一生の中で、生物の生存できる期間というのは永い年月の中のほんの僅かな期間に過ぎません。ですから、人類は必ず他の惑星へ移住することを余儀無くされます。
そして、正しいとはどういうことかを追求していくことによって科学の発達を生み、人類は惑星間移住に成功したのであります。
人類はそうやって永い年月に亘って種を存続させてきたのです。どうして、そう言えるのでしょうか?
それは、人類がそうやって永年月かけて、霊的形質を獲得してきたからに他なりません。
ですから、正しさを追求して培われ獲得されたものは、正しさを追及して解放していく以外にないのです。
それを度外視した解放はむしろ、人間を動物的方向へと向けることになりましょう。それは霊的要素は眠ったまま、魂的要素のみが解放されるのであります。
例えていえば、暴力、テロリズム、誤った教義に基く宗教、その他、「急変する地球」第6章に挙げた過剰過密人口社会が齎した病み、すべてがそれに該当するでしょう。
一度誤った解放が行われると抑制が困難になるのです。過剰過密人口社会が、現代社会の魂的要素の過大な病みを余儀無くさせ、霊的要素の働きを押さえ込んでいます。

霊的形質、人間的要素と動物的要素
人間から人間としての要素を奪ってしまうと、それは動物的に近付いて人間らしさが失われます。かと言って、人間から動物的要素を取ってしまうとこれもまた人間ではなくなります。つまり、人間とは、人間的要素と動物的要素がうまく調和して、成り立っているのであります。
同様に霊的形質も、人間的要素である霊的要素と、動物的要素である魂的要素とで成り立っているのであります。
この霊的形質が肉体の死後、肉体から離れて霊魂となるわけですが、この二つの要素もまた霊魂へ受け継がれるのです。そして、この二つがうまく調和して、霊魂の生存を助けています。
そして、一度解放、獲得された霊的要素、霊性は退化しません。生き続けられる限り、進化を続けていきます。
それに反し、魂的要素は次第に退化していきます。死後肉体から離れたばかりの霊魂は不純物が少しずつ剥ぎ取られていきます。最小限必要な霊的要素と魂的要素だけの小さな希薄なガス状に似た固まりに纏まっていきます。
そして、魂的要素には生前の生活反応としての条件反射、他、諸々の要素が属性として持ち越されます。喜怒哀楽の感情表現、人によって持ち越される反応反射は様々でありましょうが、これが次第に退化の傾向を辿るのであります。
五感も失われ、外界からの刺激が小さくなるに連れ、反応も鈍くなっていき、表現しなくなることが一つにはありましょう。
ですから、霊魂が心しなければならないことは、喜怒哀楽の感情を努めて表現する事、自己としての霊魂を自由に移動させることを覚え、外界にたいする反応、反射を鈍らせないようにすることなのであります。
この魂的要素の反応を研ぎ澄ますことによって、自己を外界から守るのです。これは魂的要素の仕事であって、霊的要素はこのことに対しては、外界の状況に対する理解と判断を与えるだけであります。(10.31.)

人間の心と霊魂
霊界が一人一人の中にある場であることは、同時に、全ての人間に共通のものであると置き換えることも出来ます。
私達は、意識しながら物を考えたり、思い描いたりすることによって、その霊界という場に点火し、そこから心という一種のエネルギーを引き出すのであります。
私達は、物を考えるというだけでも、体力を消耗します。体力は消耗しても心は残ります。
通常、私達が心と言う場合、心は胸にあるとか、心は脳にある、或いは、心のこもった贈り物、心のこもった挨拶、心ある人、心もとない人、と言ったように様々な表現として用います。
ですから、心をそうした具体的なエネルギーという表現をするのはどうか、ということもありましょう。物にもその物を持っていた人の心がこもると考える人があるとすれば、それは一つの心のエネルギーを捉えているとも考えられます。気とも云ったりします。気心が知れているともいいます。
心とはその人の全て、その人の霊的要素、魂的要素、霊界と意識とによって生み出される全てを総合したもの、といえましょうか。それは肉体の細胞一つ一つにこもっていて、その人の個性のすべてとも言うべきそれはその人の生前の雰囲気を作っています。
そして、肉体の死と共に、それらは残らず肉体から離れ、全て霊魂としてまとまり、雲散霧消してしまうものはしてしまいます。ですから、霊魂となっても人は心を失うことはないのです。生前のままそっくり残るからです。
そして、心が生み出されるメカニズムもそっくり霊魂へ持ち越されるのであります。ですから、霊魂となった後も、豊かな慈愛のこもった心を持ち続けられれば、その慈愛の感情を自分が宿っている人に与えることも出来ます。
人は、何に対してどのように反応するかによって、感情も生み出されます。それも魂的要素の反応反射の属性の一つとして、霊魂へ持ち越されます。
喜怒哀楽を表現するということは、何らかの刺激に対して、即、反応するということです。防衛反応も同様です。
魂的要素が退化していくということは、それらの反応が次第に鈍くなっていくということでもあります。霊魂となった後は無反応になって、ボーッとしている状態が続き易くなるということです。
そして、人の中に宿っている霊魂は、その人の思いや何を考えているかをキャッチ出来ます。これは、その人の持っている霊界と、霊魂の持っている霊界とが感応し合うためです。つまり、霊界と霊界とが共鳴し合っていることにより、思いが通じ合うのであります。
人と人とが距離を隔てているにも関らず、心が通じ合うこともあるのは、互いに霊界という媒体がある為です。
各人の中にある霊界とは、時空ゼロの場に繋がれた穴のようなものとも形容出来ましょう。
その場によって人それぞれは繋がれているのであります。

霊界は何故、時空ゼロか?
これは筆者が参考として、別サイト『七大天使と神々の系譜』を読者が読まれる上で、予備知識として容れて欲しいと望んでいる事ですが、このサイトで述べているような高い進化を遂げた霊魂、霊体は人と人との間を自由に行き来出来ます。
つまり、訓練を積んだ霊魂は、そのようなことが可能になるということの傍証なのでありますが、霊体がAさんからBさんへ移動するのに、ほんの一秒も掛からないで移動してしまいます。これは、二人の距離には、時間はまったく関係ないといってよいのです。
相手が200km離れていようと、地球の裏側に居ようとも、移動する上での所要時間はほぼ同じ、つまり移動の時間はまったく関係がないのです。一瞬に移動してしまうのであります。ここが重要なのです。
これは霊体が、霊界を媒体として移動するためです。霊体が、相手の方へ移動しようと強く意志することによって、その意志のエネルギーは、霊魂全体のエネルギーと等量になります。つまり、霊魂全体のエネルギーは、意志のエネルギーに瞬時に転換されるのです。その時に相手方に移動します。
霊界を媒体とするということは、霊界という空間を通り抜けていくという意味ではありません。霊魂は霊界へ入ろうとしても弾き出されてしまいます。
つまり、霊体は移動しようとする時に、霊界が自動的に作用し、移動を可能にさせるのですが、その時間距離は、まったく関係ないということは、この霊界という場そのものが、時空の無い場であるからに他なりません。

霊界に在る意識
霊魂は、私達の物質世界に存在するのと同時に、意識そのものは霊界にありますから、そのキャンバスに心象的イメージを描くことは、如何ようにも可能です。
花の咲き乱れる美しい花園に身を置いたり、蓮の葉の上に座ったり、昔に亡くなった親族や知人と再会も可能です。
その民族に古くから、死者は三途の川を渡るという伝承が根深くあれば、イメージとして、三途の川を渡る心象を見るのであります。これは、霊的要素は、催眠暗示には掛からないが、魂的要素は、非常に暗示に弱いという面がある為でしょう。
蘇生した臨死体験者が、三途の川らしきものを渡りそうで渡らなかった、というような事例がよく報告されていますが、肉体がまだ存命の余地を残している場合、霊的形質がそれを察知して、川を渡らない心象イメージを、蘇生者の無意識を通して霊界へ映し出して見せるからであります。
そうした箍が外れると、三途の川らしきものを渡ったにも関らず、蘇生したというような臨死体験者も出て来ることになります。(11.5.)

記憶と潜在意識
肉体死後、抜け出たばかりの霊魂には様々な不純物が含まれ、二酸化炭素もそこには含まれるでしょう。
それらは大気中に洩れ出て吸収されてしまい、最終的に残ったもの、それは電気的繋がりを持った光の実体に似た存在が霊魂となって残るわけですが、単に光と異なるところは、そこには人間の意識が込められ備わっている点です。
生前に学習したすべてがそこに集約され、記憶も当然そこには残され、意識と霊界の接点のある場に、霊界というフィルター、キャンバスを通してキャッチされた一瞬一瞬の心象が記憶のデータとして、それらは蓄積されているのです。
折に触れて、それらは引き出されます。
霊魂が物質世界に住む以上、消耗するので、それに応じて記憶も失われます。
潜在意識は潜在意識として、霊魂に持ち越され、潜在意識は、霊魂となった後も潜在意識のままです。

霊的要素と魂的要素に必要な均衡
子供のうちは、よく他の人の悪口、陰口、中傷をしますが、これは自分を相手より優位に置きたいという感情の現われです。動物世界の縄張り争いにおける優位感情の名残りとも思えますが、これは魂的要素の働きによるものです。
これが、子供の頃ならまだしも、大人になってからも続けられるとなりますと、批判にならない批判によって、霊的要素は閉塞してしまい、進歩は阻害されます。
通常、大人になると、結果に照らして、何故そうなったかの原因について考え、正しい批判へと向かい、無意味な中傷に時間を費やすことはなくなります。
批判には、まず物事を正しく見、正しく捉える、正しく考える、が不可欠となりますが、私達人間がそれらを行うことが可能であるのは、霊性の進化の歴史の中において、既にそれらが獲得されているからに他なりません。
獲得されているからこそ、私達はそれを行うことが出来るのであって、もし、獲得されていなかったならば、私達がそれを習得するためには、膨大な歳月を要することになるでしょう。
それらは霊的形質の中に凝縮され、既に獲得されているのです。私達はただそれを解放するだけです。
正しい批判は、霊的要素の成長を助けます。誤った批判も成長の過程です。
情動は魂的要素の働きです。感情に流され続けることは欲望を大きくし、霊的要素は曇らされ判断力も低下していきます。
人が情動のままに行動し犯罪に走った時に、霊的要素は窒息してしまいます。
感情に流され続け、欲望が増大していくに連れ、感情には執着が伴うようになります。霊性の進化に必要な理性もまた感情ですが、それは執着のない感情です。理性を失うとは、感情が執着で肥大化することです。(11.23.)

理性と霊的形質
霊的形質、霊魂全体を占めているのは感情であり、理性そのものが特別に存在するわけではありません。
人が何故か、何故か、と考える時に、感情は理性という形を取り始めるのです。そこから思考が生まれ、何らかの結論を得ることによって、それがその人の行為なり、行動規範に繋がっていきます。
その規範に外れた行動をとる時に、人は理性を失った行動といいます。
その理性という感情に、執着が伴ったり、欲望が伴う時には、その思考の結果は、正しいか正しくないかよりも、自分の好みにあったものになり勝ちです。
霊的形質を人としますと、人とは常に感情そのものなのであります。ただ私達は通常、物事に臨む場合、心を引き締めたり、無心でいようと努めたり、感情を制御しようとします。それは経験的な理性から生まれて来ます。
従って、思考という多くの経験を通さないと、人は感情の趣くままとなり、感情は野放しになります。その結果、執着が増し、人は好き嫌いでのみ、判断するようになります。行動は感情に流されるままになる為に、気紛れになり、欲求は欲望へと転じていきます。
好き嫌い、気に入る、気に入らない、は魂的要素による働きです。それは本能的な防衛反応とも結び付いて、大事な感情の要素でもあります。従って、思考による理性的判断と食い違う場合が生じてきます。好き、気に入らないが、必ずしも、善い、正しいと一致しない、当然、現実社会では、好き嫌いの判断は、理性に譲らなければならない場面も起こってきます。
多くの思考の経験を得ることによって、理性は確固たるものになっていきます。判断を積み重ねていくことにより、信念も不動のものとなっていきます。
魂的要素があまりにも強大になり過ぎ、病みが長く続いたり、そのことで霊的要素を抑え付けてしまうようになりますと、人にとって思考は面倒事になります。その結果、思考停止が続く、短絡思考に走る、思考が空回りする、といった状況が生じてき易くなります。

生まれ変わりは無い
両親から受け継がれ、幼児に眠ったままの状態にある霊的形質を、霊的原質と呼ぶ事にします。
霊的形質としてまだ開発、解放されていない状態の存在です。それ自体は人間の感情そのものの実体としても間違いないでしょう。
この眠っている霊的原質を人生を通して開発解放していき、霊的形質としてその人の人格が形成されていきます。
霊的原質と霊的形質の関係は、小麦とパンに例えられるでしょう。小麦を製粉して作られたパンは、共通の成分があっても、既に別のものです。
生まれ変わりとは、この場合、霊的原質に該当する部分には、霊的形質が既に解放され人格が形成された他者の霊魂が充当されることになります。これは、肉体でいえば、他人の心臓で自分は生きているというようなものです。そして、その人の人格も無いに等しいものとなります。
ですから、こういうことは、現実にはあり得ない、本来、生まれ変わりとは、他者の霊がその人に宿ることを言ったのであります。
宿られる人は、宿る霊の生前の人となりに似てくることがあり、それを誰それの生まれ変わりといったのであります。
宿る霊には宿る霊の人格があり、宿られる人には宿られる人の人格が、それぞれ別の人格として存在するのです。
そして、この人格そのもの、それが霊的形質であり、その人のすべてなのであります。(11.24.)

幼児の霊的原質
人の誕生とは、常に新たな人格の誕生であり、既成の人格が肉体をまとって生まれてくるのではない。まだ生まれたばかりで、開発されていないそれを霊的原質と呼び、一個の人格として開発されたものを、霊的形質とここでは呼んでいるわけです。
赤ん坊が生まれた時に、生まれた時からその子供が一人の独立した人格の大人として振舞うという事例を私達は知りません。大概の幼児は、よく眠り、快、不快を表現するに留まります。これは、赤ん坊の霊性はまだ目覚めておらず、霊的原質の状態であるからに他なりません。
その霊的原質はまだ感情の塊りのままなのです。両親と接触することによって、言葉を掛けられることによって、両者の間で意識交換が行われ、霊性は次第に目覚めていきます。
ですから、他者の霊魂が幼児に宿っても、その霊魂は、幼児が成人として成長し、霊的形質として充分開発されるまで待たなければなりません。進化のレベルの高い霊が宿る場合には、ただ霊が宿っているというだけで良い影響を受け、その子供の霊性開発には良好な方向性が生まれます。

信仰と霊性の進化
昔から霊魂の存在を信じてきた人々の中には、生まれ変わりは根強くある信仰ですが、それはまだ生物学が充分発達していない頃のものであって、現代に生きる私達がそれを信じるということは、けっして適切なことではありません。
信仰、信教の自由の名の下に、自分はイエス・キリストの生まれ変わりである、釈迦の生まれ変わりであるという人達は、世界中に何十人、何百人いるか判りませんが、自分のことであれ、他者のことであれ、それを信じ込むということは、霊性の進化にとっては、マイナスにしかなりません。
それは当人の認識と現実があまりにもかけ離れているからに他なりません。
霊的要素は誤った認識や情報を入力されるとその思考は空回りし続けます。誤った認識は、また新たな誤った認識を生みます。信仰と感情が抜き難く結び付いているために理性の入る余地がないのであります。
例えば、苦しみの多い生活に疲れ、悲嘆に暮れた人が、街の霊能者に相談に訪れ、その霊能者から、昔の有名人の名前を出され、あなたはその有名人の生まれ変わりであると言われたとします。しかし、こういうものは確証のしようがないものである以上、その人がそれを受け入れるかどうかは、信仰の領域となります。
そして、その人がそう云われたことによって勇気付けられ感情も満足して謝礼を払うか、或いは、霊能者を嘘つきとして糾弾するかは、その人次第なのであります。
つまり、信仰とは、それが限りない現実への認識へと向かわなければ、それはむしろ霊性の進化にとっては有害なのであります。(12.1.)

プラトンの魂観
古代ギリシャのプラトンが魂に関して、次のような言葉を残しています。
「何よりも魂を大切にせよ、人間にとって、魂こそが最も大切。」
「魂をすぐれた善いものにすることに心を用いよ。」
「魂の劣悪さからの解放は、最大の悪からの解放。」
「自己とは魂のこと。」
「魂のなかの内乱が悪徳。」
「悪徳(不正、放埓など)は魂の病気。」
「魂の種々の病気―狂気、無知、過度の快苦、傲慢、不正、臆病など。」
「魂の導き手である知性。」
「語り方と言葉は、魂の品性に従う。」
「一致調和した魂にそなわる真実の徳。」
「すぐれた魂をもつ人=すぐれた人間。」
「魂の劣悪は最大の悪(醜、不幸)。」
「悪しき魂は有害な働きをする。」
「魂は善いこと、悪いことなど、すべての相反する事の原因。」
「裁き(刑罰)は人を魂の悪から解放する。」
プラトンの云う魂とは、このサイトで述べるところの魂的要素についてですが、強いて云えば、魂の導き手とある知性が、霊的要素の働きを指すことになるといえましょうか。

霊性の進化にはマイナスに作用する偶像崇拝
仏教が導入されて以来、我が国には朝夕の神仏への礼拝として、仏像を拝む習慣があります。
関連する宗教教団や団体などに入信し、それを勤勉に行う人は、規則正しい生活や、礼儀正しくなる、行動力も付いてくると言われています。
念仏や読経、題目の唱和、それらは精神の集中力を高めるとも。そうしたプラス面については、書物などでよく論じられていますが、マイナス面について言及したものについては、まったくといってよい程、見たことがありません。
それは、一つにはプラス面は表面に現われ易く、マイナス面は表面に現われてき難いといった面がある為でしょう。
キリスト教のように教義によっては、偶像崇拝を禁じている宗教もありますが、それはヤーウェ神からの戒めを教義として、ひたすら守るためであって、それが何故いけないのか、論及したものは見たことがありません。
そのマイナス面とは、拝む人の内面という隠れた部分にあるのです。無心になって像を拝む、同じ文句を繰り返し念じる、そうした勤行が習慣化することによって、その人の思考は絶えず停止した状況下に置かれます。
そして、度重なる思考停止はその人の思考能力を押さえ込むようになります。熟慮という思考習慣は一切無くなり、ものを考えようとする場合、意識が白紙のような状態に置かれ易くなり、思考するのが面倒になってくるのです。そして、深く考えるのを止めてしまいます。
若いうちならいざ知らず、老齢に向かうに連れ、それは顕著になってきます。
ひたすら無心になって勤行に励み、修行しても解脱はおろか、何の悟りも得られない。修行は自己満足だと云われるところのものとなる。つまり、自分を思考停止状態においても、物事の何も理解が得られないのと同じ事です。物を拝む、物に念じるという習慣がその人の意識を白紙のような状態に置きやすくするのです。
これは霊的要素の成長、解放を止めてしまう働きとなり、魂的要素が優勢になります。
催眠暗示にかかり易くなり、考え無しの盲信へと至り易くなります。
修行にも、霊性開発と呼ばれるものもあって、例えば、幽体離脱が出来るようになりたいというようなはっきりした目的を持って修行を行う場合、それが可能となる方向へ向かうなら努力によっては可能になります。これも一つの霊性の進化には違いありません。その能力は死後霊体となった後も霊魂へ持ち越されます。しかし、その能力は思考能力の獲得とはまた別のものです。思考能力は多くの事柄を学習し、思考することでしか獲得されないのであります。(12.15.)
偶像に依り頼まないということは、自己の主体性、創造性を維持することです。偶像に依存することは、それらを自ら放棄するに等しいことです。自ら考えるのを止め、主体性や創造性を放棄する事と無私の心とは別のものです。
主体性を放棄する結果に何が待ち構えているのかと申しますと、付和雷同、大勢に迎合し易い、思考に対する無気力、が顕著になってきます。深く考えず、誤った見解などに直ぐに同調し易くなります。自分のものにならない「論理性」「論理的」という言葉を忌み嫌うようになっていきます。傾向的に論理が疎ましくなっていくのです。
それが、人が行うものである以上、考えることや、論理がその人から無くなるということはあり得ないことでしょう。ただ、思考が、点と点を追う、線と線を結ぶといった平面思考になり易く、多くの認識を視野に入れ、全体を俯瞰して眺める立体思考には欠け易くなるのであります。

脳と霊的形質、相互の働き
幼児が成長するに従って、快不快のみならず、喜怒哀楽の感情を表現するようになり、親の顔も覚えるようになってきます。
感情の塊りである霊的原質が、快不快から喜怒哀楽へと、その働きによる発達に、一つの細分化が見られる瞬間です。
喜怒哀楽の表現も、怒りを押さえ込む、感情を殺すという働きも、感情の働きであり、魂的要素による働きです。
親からだっこされる、あやされる、言葉をかけられる、それらが幼児の脳に刺激を与えて、発達を促します。
脳の記憶中枢が発達し始めることによって、親の顔もおぼえ、成長に伴って様々なことを記憶するようになります。
記憶は主に、海馬と呼ばれる部分ですが、この部位の発達は、霊的原質にも刺激を与え、相互に記憶力を促し合うのです。情報は霊的原質に記録され蓄積していきます。
幼児が生まれた瞬間から、生後の脳の発達は始まります。霊的原質が感情の塊りである以上、極めてデリケートな存在であることから、トラウマ(精神的外傷)を常に受け易くなっています。幼少期のそれほど、その後の人生に大きな影響を与えるのは、幼児のそれが知識も理解も何も無い状態であること、原質そのものが開発、解放ゼロであることも大きな要因となっていることでしょう。意識されない記憶は無意識下に押し込まれていきます。
幼児がある程度、成長すると、親から、善い、悪い、を躾けられるようになります。
良いことをしたら褒める、悪いことをしたら叱る。この躾けるとは言わば、幼児の魂的領域に、生活反応としての良い条件反射を植え込むことです。
子猫にトイレを覚えさせる場合でも、トイレ以外の場所でそそうする場合、その臭いを嗅がせ、尻を叩いて、そこでしてはいけないことを教えます。ここで子猫がトイレでちゃんとしたにも関らず、同じように尻を叩いて叱るということをやりますと、子猫は次にする時にどうしてよいか分らなくなります。その結果、ストレスを蓄め込むようになり、挙句はあちらこちらでするようになります。
躾けという点では、子供への躾けも、ペットへの躾けも、幾分、似ていなくもありません。何故なら、そう方とも、生体の魂的要素に対して、良い条件反射を植え込むという点では同じだからです。
さらに共通する点は、躾られる側がストレス過剰の状態にある場合には、躾けは傾向的にうまくいかないということです。
そして、人間の子供の場合、動物との決定的な違いは、何故、どうして、という問いかけがある点です。善い、悪い、の対立概念が植え込まれることによって、子供の中に、何故か、どうしてか、という感情が芽生えてくるのです。何故か、どうしてか、の始まりは感情です。そして、思考の原点も常に、何故か、どうしてか、なのです。こうして、子供の霊的要素の解放が始まるのであります。
何故、どうして、という問いかけ。五感を通して脳に入ってくる刺激。教えられた知識。それらの情報処理から脳が働き始め、思考を促します。前頭葉の働きによる刺激が霊的原質を刺激し、思考が促されるのです。
霊的原質がなく前頭葉のみでは思考は促されません。脳内を霊的形質という感情が走ることによって、思考が促されるのであります。この感情は生命エネルギーといってもよいものですが、それは生命エネルギーと霊的形質という感情が一体化しものです。生命エネルギーと脳のみでは思考は促されません。それは動物と同じことだからです。
思考というスイッチが入ることによって霊的要素が働き始め、脳内にそれに伴う微弱電流が発生するのです。
思考とは、それまで集積され記憶された情報を総合し、刺激となった新しい情報とを含めた総合的な判断力でもあるわけですから、どの部位のみが、といった細分化された働きでは、或いは、ないのかもしれません。
思考とは、その人の持つ霊的要素の全てが関る働きです。
ただ、海馬が記憶と密接な関係にあり、そこを切除すると新しいことがまったく記憶出来なくなると云われているように、脳の部位に何らかの欠損が生じた場合、その人の人格に様々な障害が生じてくることからしても、脳と霊的形質とは一体化していて、不可分の存在であるということが云えましょう。
脳の欠損は、霊的形質の欠損であり、その欠損は、肉体死後、霊魂となった後もそのままでありましょう。
話を戻しますと、脳をよく使い学習させることによって、霊的原質はその度合いに応じて解放が進み、人を人たらしめ、霊性の進化に必要な基礎となるのであります。(12.31.)
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