西郷隆盛の書
敬天愛人
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諸行無常の真理
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/5cc1a8ea32c8a124b3ca3cbdde4f33d8
https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/culture/buddha/
仏教の開祖、釈迦とは?その生涯と“諸行無常”の真理をわかりやすく解説【四聖を紐解く①】
仏教の開祖、釈迦とは?その生涯と“諸行無常”の真理をわかりやすく解説【四聖を紐解く①】「天上天下唯我独尊」と聞けば、釈迦をイメージする方は多いでしょう。
六波羅蜜
http://web.archive.org/web/20080106050231/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/252.html
六波羅蜜の中でお布施を考えてみましょう。お釈迦様(釈尊)は「無財七施」ということを言ったそうです。(お金や品物がなくてもお布施が出来るということ)
愛語施
道元は「面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ,心を楽しくする。面わずして愛語を聞くは,肝に銘じ魂に銘ず」と言いましたが,思いやりのこもった暖かい心をかけること。
身施
捨身施とも言う。肉体による奉仕。
心施
善意の真心で他人や他の存在に対する思いやり。
床舎施
自分の席をゆずること。
房舎施
我が家を一夜の宿に貸すこと。
慈眼施
優しいまなざしであり,そこに居るすべての人の心がなごやかになる。
和顔施
柔和な笑顔を絶やさないこと。
色即是空空即是色ではなく,物で栄えて心で滅びる色即是色は現代社会に蔓延しています。お金や品物がなくてもお布施が出来るという無財七施ということを学びましょう。
涅槃(ニルバーナ)入りするお釈迦様
Gota MasamiさんのHPから。ミャンマーの托鉢。タイなど小乗仏教は金品ではなく,その日に必要な食料をもらい,施者はその後腰を落とし手を合わせるが,僧侶は何もしない。早朝と昼前の二回の食事のみをとる。なぜか老僧はリポビタンDが好き(爆)
鞄をおいている姿はちょっと怪しい。上野にて。偽者も多い。六波羅蜜と無財七施を聞いてみるとよい。答えられなかったら偽者。
お釈迦さまの優しい解説
安らぎ(ねはん)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に,快を貪ることなく平安に帰しているのである。パーリー語聖典より。これは釈尊の教えである。
9月24日に紹介した稲盛和夫さんの「21世紀の子供たちへ」をまだ買われていない方に,稲盛さんが最後に言いたかったお釈迦様の六波羅蜜を少ししましょう。
波羅蜜は梵語(サンスクリット語)の漢字の音訳です。お彼岸にお墓参りに往くでしょう,みんな。でもこの彼岸にやっとたどり着くだけでも大変なのです。それは生死の此岸(しがん)から涅槃(ねはん)の彼岸に到達すること。これがパーラミター(波羅蜜)です。
果たして仏様は涅槃にたどり着けたのでしょうか。ご先祖さまとの対話のためにお彼岸はあるのです。ですからお墓参りはとっても大切です。大日如来や阿弥陀(これも梵語の音訳)如来のような最高位の悟りを啓いた仏(如来)の次に位置する仏さまの呼び方を六波羅蜜といいます。西行の詠った「誰とてもとまるべきかはあだし野の葉ごとにすがる白露」は諸行無常を思わせますね。
ではまず音訳の元になった曼荼羅の仏を考えてみましょう
この曼荼羅の中心にいる中尊は大日如来です。曼荼羅の中尊が替わると全ての仏の配置が替わってきます。ですからこの如来に少しでも近ずくために,お釈迦様は布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・知恵という修行をするよう説いているのです。
布施(ふせ)とは布施をする際,受け手に対して恩を売るものであってはならない。もともと他人様を助け,世のため人のために尽くすということです。稲盛流に言えば「思いやりの心」であり「優しさ」なのです。
持戒(じかい)とは戒律を守り,それにそった善・正を実践する生活を行なう事。学校では校則をまもり,正しい生活をすることです。稲盛流にはもっと詳しく書いてあります。
忍辱(にんにく)とは他人の悪口や,批判,中傷などの苦難に耐え忍ぶこと。それに対して腹を立てたり,怒ったり,恨みを持たないこと。怒りが人間を支配してしまうと,えてして大きな間違いを起こしたりすると稲盛さんは言っています。
禅定(ぜんじょう)とは少しの時間でも心を静かにして,自分を振り返る事。そして自分を変えて行くこと。そうして恥ずかしくない教養を身につけなさいということ。
智慧(ちえ)とは仏教の説く真実をみきわめること。つまり真の智慧があれば,宇宙の真理にまで至ることができるとするものです。
精進(しょうじん)とは他の5徳目を修めることを,あきずに誠心誠意努力すること。その代表例が二宮尊徳ですね。
都会(まち)で托鉢僧に出会ったら,お布施をしましょう。その意味がおわかりになったでしょう。頂く修行僧にとって,体が震えるほど嬉しい至福の瞬間なのですから。稲盛さんご自身も托鉢でそういう経験をされています。(稲盛さんは500円をいただいたそうです)
この本は文春文庫からサラリーマンがお坊さんになった分かりやすい文庫本でお薦めします。仏教の入門書としては意義のある一冊です。
昨日NHKで仏師という仏像彫刻師のテレビをやっていましたが,不動明王をある寺に納めるのですがこれはアチャラーという仏に次ぐ修行者の八大菩薩の一つにすぎませんから,この5メートルに及ぶアチャラーを寺の中尊に据えるのはどうなんでしょうか。菩薩はあくまで仏につかえる修行者ですから,違和感を感じました。しかしアチャラー(不動明王)を念仏仏の守護尊として扱っているのでしょう。南無阿弥陀仏と念じているのでしょうか。阿弥陀は梵語(ぼんご)の音訳です(Amitabha+Amitayusuの共通語のAmitaを音訳したもの)からね,念者はしっかりしてほしいです。根っこは根本曼荼羅ですから。
大日如来像 1176年 運慶作
森と曼荼羅
http://web.archive.org/web/20170502012205/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/9.html
北海道の冬の森はまるで壮大な展覧会場だ。春,生を受けた生き物達は死に絶えあるいは寝込み,すなわち一切の意識を失った累々たる固体の墓場の上に落ち葉が重ねられ,そして雪が降る。
夏生きたもの,飛び跳ねたもの,恋をしたもの,出合ったもの,別れたもの,あらゆる感情,記憶が雪にとざされ凍結し眠るとき,冬の神の芸術の季節となる。雪の結晶が何一つとして同じものが無いように神は一瞬の芸術が好き。
雪と氷の無数の造形,万物が動かず,物言わず死に絶えて木々のこずえにその幹に,芽にそして地表の一切のものにこつこつと丹念に刻み上げる創作,神々の作品は一瞬一瞬が作品であり,あらゆる時が美学を主張する。
原生林の奥の奥
倒れた大樹のその上に
こけときのこが絵を描いた
小さな小さなきのこたち
白とピンクの服きてた
秋の光を背に受けて
水の流れの音楽に
小人の国の舞踏会
どろ亀先生「無心」より
森は無口である。いつもそう思う。人間がどう扱おうと植物達は何も主張しない。抗議の声さえ上げようとしない。それをいいことに人間はこれまで無為の殺戮を森に対して犯してきた事を思う。森の時計はゆっくり時を刻む。
人は例えば60年の生を完遂するのに較べ森は3百年,4百年かけてその生を築こうとする。森の時間と人間の時間,そこには大きな開きがあるのだ。どろ亀先生は言う。「森は無口だ。でも耳を澄ませば色々聴こえてくる。ただしただしな,ゆっくり聴くんだ。のんびり森に座ってな。
あっちの時間に合わせてな。森の時間はゆっくり進む。今度生まれかわったら鳥や狐や狸より,数百年生きる樹木のほうがいいな。森には陰もあり愛もある。激しい戦いもある。だが嘘がない。森の世界,森には何一つ無駄が無い。植物も微生物も一生懸命生きている。」
学生時代,僕は周囲から本を読め読めと言われた。親からも言われたし教師からも言われた。本に詰まっている無数の知識,それらを詰め込むことが学問することだと思っていた。
先生はこう言われた。「知識は知識さ。本を書いた奴の知識にすぎないのさ。直接知ること,現実から学ぶこと,それに較べたら本は便利すぎる。便利すぎて残らへん。識っても感動せん。科学も芸術も最初はびっくりすることから始まる。本は買うには買うがしまっとく。とことん観察して最後の最後に本を開くのさ。なるほどな~と感じ入るんだ。学ぶってことは本来そういうもんでないのか。」
夜の森,それも鬱蒼な緑に覆われた真夏の夜の森の世界は我々の知らぬ別の世界がある。かつてそうした原生林の闇にたった一人で夜を過ごしたことがある。闇の中から様々な物音が風もないのに僕を射つずけた。森に棲むものたちの密かなため息,寝言,息ずかい,囁き,木々たちの呻き,深呼吸,ありとあらゆるものが全てひそやかに静寂の中で交わされる。
僕は恐怖でまんじりともできず朝の来るのをひたすら待った。明け方,何処かで鳥が鳴き始める。木々の輪郭が静かに浮かび上がり,やがて太陽が梢を染めた時,僕はあらためて愕然としたものだ。太陽のくれる光と熱,その重大なありがたさの意味を自分がすっかり忘れていたことに。
祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりを
あらわす。おごれる人も久しからず,只
春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には
ほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)
に同じ。 __平家物語より__
諸行無常・・この世に存在するすべてのものは
関係することであり,現象としてあらわれる全て
のものが流転し,一刻一刻変化しその全てが
また真実である。この世には実体と呼ばれる
ものはない。
現実をあるがままに認め,願っても叶わないような
ものは追い求めない。これが苦しみから救われる
路。
いかなる者もいつかは滅びる。あの泥のなかで
栄養を吸収し美しい華を咲かせる蓮の華を見て
ごらん。泥に汚されることなく転生し泥という
煩悩のなかで綺麗な華という花を咲かせる。
これぞ涅槃なり。だから事実をありのままに
受け止めなさい(如日知見)・管理人解説
https://note.com/vedatokyo/n/nc658c75f66e6
やさしい禅語 vol.1 『而今(じこん)とは?』|Veda Tokyo|note
あなたが時間の中で生きていますか? 時間があなたの中で存在していますか? あなたがいま生きている時間を活かしていますか? それとも毎日まいにち、時間に使われて生き...
.......死後の世界は未知の国だ,旅立ったものは一人としてもどったためしがない...<ハムレット>
おやじがボロ布身につけりゃ,子供は見てて見ないふり,おやじが財布を身につけりゃ,子供は親を思うふり(リア王)
阿呆がいたのです,まだら服を着た阿呆が。やつは寝そべって日向ぼっこしながら,運命の女神をののしっていました。
やがてポケットから日時計を取り出すと,光の失せた目でそれを眺めながら,吐いた言葉はまさに賢者の言でした。「今は10時である」とやつははじめました。「こうしてわれわれは世の中の移り変わりを知ることができるのだ。一時間前は九時であった。一時間後は十一時だろう,かくのごとく時々刻々われわれは熟していく,しかしまた時々刻々われわれは腐っていく,そこにこそ問題がある」<お気に召すまま>
願っても叶わないことはあきらめる事,これが苦しみから救われる方法。仮に叶ったとしてもどうってことはない<達人>
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もし牛と人間が逆だったら............
ついでにまたおまけ~オーウエルの動物農場・ANIMAL FARM
http://web.archive.org/web/20170415124826/http://blog.livedoor.jp/blackcode/archives/1518842.html
0345525onodera さんが 2023年08月25日 に書かれた記事をお届けします。 | ||||
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