goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

啓蒙主義と魔術 その3


 今晩お暇?Honey Trap is everywhere!! 陰謀は姦謀なり。

日本メーソンの敗北

『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。

いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。同書によると、

「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。

1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」という。

天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。
日本メーソンの敗北
『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。

いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。同書によると、

「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。

1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」

という。

天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。

戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。

「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。

第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」

フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。

もちろん、フリーメーソンの日本での発展がなかったことは、他にもいろいろな要因が考えられるが、何といってもフリーメーソンの教義*1が持つ宗教性が、キリスト教と同じく日本人に適さなかったのであろう。

現在、日本にはグランド・ロッジの下に20のロッジ(支部)がある。これは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。

このほか日本グランド・ロッジに属さない外国のロッジがいくつかある。それらは、神戸(No.1401、イングランド系)、大阪(No.496、スコットランド系)、横浜(No.640、スコットランド系)、東京(No.6、マサチューセッツ系)、座間(No.151、フィリピン系)、沖縄(No.118、フィリピン系)などだが、これらは明治以来の伝統あるロッジで“既得権”として日本グランド・ロッジの管轄下に入らなかった。こちらの方は取材に応じてくれず、その内容はわからないが、「日本人はほとんどいない」(日本のメーソン)という。

日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスターは次の通りだ。*2

・カルロス・ロドリゲス・ヒメネス(1958)*3

・堀内貞一(1959)*4

・東ヶ崎潔(1960)*5

・カール・T・ナカムラ(1961)*6

・ノヘア・O・A・ペック(1962)*7

・ジョージ・B・モーグリス(1963)

・ジョージ・H・ブース(1964)

・北村三郎(1965)

・ノーマン・コーエン(1966)

・マサジ・マツモト(1967)

・チェスター・O・ニールセン(1968)

・フロイド・J・ロバーソン(1969)

・山田精夫(1970)

・フローレン・L・クイック(1971)

・フレデリック・S・カシワギ(1972)

・チャールス・P・ウェザーマン(1973)

・山田彝(1974)

・レオ・N・パーラヴェッキオ(1975)

・西山茂(1976)

・ロイ・ベーカー(1977)

・ロナルド・E・ネイピア(1978)

・ハワード・M・ヴォヌ・ジュニア(1979)

・北村安忠(1980)

・高野清(1981)

圧倒的に外人が多いが、日本人でも二世の人が目立つ。現在の高野清氏も二世である。

*1:「メーソンは凡て宇宙創造の神を信ず」「メーソンは凡て霊魂の不滅を信ず」(『憲章・古来の道標・布告・其の他』)と誓う。フリーメーソンは「万人の一致する宗教」を目指すが、それは必ずしも同一の宗教でないが、「一神論である」(日本グランド・ロッジ・メーソン教育委員会、フローレン・クイック委員長)。その神はどうやらユダヤ・キリスト教的な神であることは、フリーメーソンの精神や儀式にはっきりあらわれている。儀式はユダヤ教(旧約聖書)にしたがって催されるのだ。

*2:グランド・マスターであることは、フリーメーソンの盛んな国では大変な名誉だという。

*3:1898年ヴェネズエラ生まれ。カラカス大法学博士、1920年から政府文官、1930年から外務省に移り、駐日ヴェネズエラ総領事として1941年まで勤める。1945年、サンフランシスコの国連会議で同国代表、その後、各国の大使を歴任。メーソンには1929年カラカスで入会。1947年、ヴェネズエラのグランド・マスター、同国の最高評議会のメンバー。日本では、1937年後三つのロッジに加入、英国滞在中にロンドンのロッジにも入っている。各国のメーソンであって、1957年の日本グランド・ロッジ結成に活躍、満場一致でグランド・マスターに選ばれた。その活躍で「日本のミスター・メーソン」と名づけられている。

*4:1887年岡山県生まれ。シアトルのワシントン大で法学博士を受け、ニューヨークの法律事務所に勤務。1925年に日本に帰国して法律事務所を開設。新日本産業、神奈川リョーユー社の社長ほかいくつかの会社を経営。1951年、日本でメーソンに加入、1959-60年のグランド・マスターに就任。1953年、東京スコティシュ・ライトのメンバーとなり、1957年に33位階の名誉を受ける。東京ヨーク・ライトのメンバーでもある。彼は身体障害者救済事業で目ざましい働きをなした。

*5:1895年カリフォルニア州で生まれる。カリフォルニア大を卒業後、米軍に入隊、1920年復員して外国貿易会社へ勤務。サンフランシスコのキリスト日曜学校日本人教会の校長、YMCAの支部理事会会長、ボーイ・スカウト運動に参加。1933年日本へ移り、教育協会世界連盟の会議に参加、戦後は日経連でアメリカ経済ミッションを補佐、米日協会の役 員などした。1946年、ジャパンタイムズの社長(1956年まで)をやり、そのほか肩書きも多い。国際基督教大理事会会長、米日協会理事、日本聖書協会理事、聖ルカ国際病院理事、国際教育協会理事、国際社会福祉事業協会理事ほかをもつ。メーソンとしては、日本でマスター・メーソンになり、1951年からスコティシュ・ライトのメンバー。1955年33位階の名誉を受け、1960-61年のグランド・マスターである。アメリカのデラウェア州のメーソンでもある。

*6:1924年ネブラスカ州生まれ。日本人収容所生活をし、1944年米軍に入隊、通信隊の文官。1952年、日本でマスター・メーソンとなり、その後スコティシュ・ライト、ヨーク・ライトのメンバー。1961年満場一致でグランド・マスターに選任される。「メーソンに加入して以来、彼は惜しみなくメーソンの理想を日本に普及させるため人生を捧げてきた」といわれる。

*7:1900年ハワイ生まれ。米海軍の工兵隊に入り、朝鮮戦争に参加、後駐日米軍の文官となった。1937年マスター・メーソンになり、現在フィリピンと日本の六つのロッジの名誉会員。1938年ホノルルでスコティシュ・ライトのメンバー、1960年に33位階の名誉を受け、最高評議会のメンバーでもある。日本で四つのヨーク・ライトに入っており、1962-63年のグランド・マスターとなった。

戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。

「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。

第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」

フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。

もちろん、フリーメーソンの日本での発展がなかったことは、他にもいろいろな要因が考えられるが、何といってもフリーメーソンの教義*1が持つ宗教性が、キリスト教と同じく日本人に適さなかったのであろう。
日本メーソンの敗北
『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。

いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。同書によると、

「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。

1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」という。

天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。

戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。

「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。

第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」

フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。

山本五十六フリーメーソン説

戦後、通説とされた「陸軍悪玉・海軍善玉論」の真偽を検証した力作『米内光政と山本五十六は愚将だった』によれば、米内光政は、対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされましたが、実は日中戦争を拡大し、停戦の機会を失わしめた張本人の一人であり、悲劇の名将といわれる山本五十六は、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した、つまり両人とも戦後の名声とはかけ離れた“愚将”であったとしています。
和平への道を誤ったり、戦勝の機をむざむざ逃したのは、単に両人の能力の欠如ゆえだったのでしょうか?

国際政経学会*1員であった渡部悌治氏は、山本五十六がフリーメーソン結社員であったと指摘しています。

渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』から引用。

山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。(略)

山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。(略)山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、(略)戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。

またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。

山本五十六は1919年5月~1921年7月までと、1926年1月~1928年3月までの二度、アメリカ勤務(大使館付武官)をしています。この他にヨーロッパへの長期出張が二度。同時期に駐米大使、駐英大使を歴任していたのが、戦前からフリーメーソンに加入していた松平恒雄でした。吉田茂が駐英中にフリーメーソンに加入したように、山本も、松平に誘われ、フリーメーソンに加入していたことは十分に考えられます。

また、山本と米内は砲術学校時代には同じ部屋に起居している間柄であり、生涯に渡り二人は非常に波長が合ったと言われています。

フリーメーソンとは直接関係ないかもしれませんが、英米に取り込まれていた可能性があるのは山本や米内だけではないようです。

渡部悌治氏は、英米の対日工作費が右翼に渡されたルートとして、

英米の対日工作費→張学民経由→キリスト教矯風会の子女→大川周明・赤尾敏

英米のエージェントであった巌本善治→正則中学校の今岡信一郎→関東国粋会の梅津勘兵衛

などを挙げています。

クーデターにはアメリカ、ユダヤから金がきていた。2.26事件には三井財閥の金も動いている。北一輝には三井の池田成彬から月々の手当てが出ていた。それで池田には行動決行の電話がいち早く届いている。5.15事件も、2.26事件も、他のクーデターも、いずれの場合も、第三国の金が動いたのである。

2.26事件の資金は、久原房之助から出ていた分のルートも分かっている。(略)久原の背後にあって久原に資金を調達していた者が誰か、ということも考えてみなければなるまい。

このように、いわゆる右翼なるものが必ずしも純粋に愛国的なもののみでなく、またその中核とも見られる国粋主義団体にまで第三国の対日工作資金が流れていたことは、日本の愛国運動史上きわめて不幸なことであり、それがまた日本の敗戦と解体を招いた原因となっていると考えられる。

ついでに『月間猶太研究』から山中豊吉氏の論文『キリスト教に隠れたユダヤ教の陰謀』から引用しておきます。

日本に対するユダヤとキリスト教の謀略を検討いたしますと、だいたい次のような四点に分けてこれを観察することができるように思います。すなわち

①日本プロテスタントを利用加勢してカトリックに対抗せしめること。(すなわちフリーメーソン的キリスト教の前進)

②これによりカトリックを刺激して、さらにカトリックの教勢を張らしめること。(ローマ的キリスト教の前進)

③かくして双方の競争的努力によって急速に、かつ手広く日本を変質せしめ、これをユダヤ化すること。(分進合撃の戦法)

④その結果、エホバ秩序、ないしキリスト教秩序の下に統一せられたるユダヤ世界の完成を期すること。(イザヤ預言の新天新地の実現)

山中氏は、プロテスタント≒フリーメーソンと考えていたようですが、この指摘は的確だと思います。

いずれにせよ、日本は、ユダヤ伝統の両建て戦術、「分断して、統治せよ」に見事に嵌っていたようです。

【参考】『天皇破壊史』

*1:機関誌『国際秘密力の研究』(昭和11年~15年まで、全6冊)と『月間猶太(ユダヤ)研究』(昭和16年~19年まで、全36冊)を刊行。戦後の一般書籍のように営利を配慮したものとは違い、国家存亡の岐路に憂国の情から研究された貴重な出版物を発行してきた。


天皇は英国王の臣下であった?

EIR誌のリンドン・ラシュールによれば、16世紀のはじめ、ヴェネチアの金融寡頭権力は、その本拠地をアムステルダムへ、そして次にロンドンに移し、16世紀後半のヘンリー8世の時代、イングランド王室を支配下に収めたということです。
もちろん、この金融寡頭権力とはユダヤ国際金融資本のこと。

特に、1815年のワーテルローの戦いでネイサン(ロスチャイルド)が仕掛けた“罠”により、旧来の貴族のほとんどが破産してからは、イギリスの上流社会はロスチャイルド人脈によって乗っ取られたようです。

さて、ガーター勲章(The Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始されたイングランドの最高勲章とされています。

勲章と訳されている「Order」ですが、英語では騎士団を指す言葉として「Order」が使われます。

上下の序列を持ち、規則を持った、組織化された騎士の結社という意味を持っています。

つまり、ガーター勲章を授与するということは、“イギリスのナイト”として最高の名誉であるガーター騎士団の一員に任命するということになるのです。


明治天皇は、日露戦争後の1906年、英国の国王エドワード7世の代理として来日したコンノート公(国王の弟でフリーメーソン)からガーター勲章を授与されました。

大正天皇は1918年にジョージ五世から、昭和天皇は1929年に、平成天皇も1998年に授与されています。

日本人から見ると“友好の証”のように思えるガーター勲章ですが、英国王から見れば、ガーター勲章を授け、騎士団の一員に任命するということは、「日本の天皇を“大英帝国王の臣下”として認める」という行為であったのかもしれません。

もしかすると“親英家”として知られた昭和天皇も、実はそのことを渋々ながらも“承知”していたのではないでしょうか?

「昭和天皇はあくまで政・戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をあるときには激励、あるときには叱責して指導した」

「天皇の判断、行動どれをとってみても、大元帥としての自覚と軍人としての豊富な知識に支えられていたものであったといえよう」 (山田朗 著『昭和天皇の軍事思想と戦略』より)

結局、ユダヤ国際金融資本に利用された挙句、捨てられたわけではありますが…。

多くの日本人にとって、この推論は「荒唐無稽」でしょうが、明治以降の天皇家と国際金融資本との結びつきや、昭和天皇が日本の誰よりも国際情勢に精通していたこと等からみて、あながち間違ってはいないように思えます。

「天子」と皇族が、それを欺く政府の「姦謀」が、ともに相寄って自ら国を亡ぼそうとしているとすれば、この事だけはどうしても赦すことができない。 (江藤淳著『南州残影』より)

【参考】『天皇破壊史』

コメント一覧(10/1 コメント投稿終了予定)

弟子
イルカと人間による捨てられたグレイ

先生、あれはナマケモノの死骸です。手をよく見てください。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る