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椰子の葉のせせらぎが聞こえる

ブログの記事で「奴らを高く吊るせ」を書きましたが本当は「奴を高く吊るせ」なのですよ


http://web.archive.org/web/20071228202032/http://
angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/165.html


「特攻作戦の命令系統と戦闘序列」

 特攻の全ての始まりは堀栄三参謀(陸士46期)が1944年沖縄航空戦の戦果誤認訂正電報を大本営に打電したとき,その戦果修正電報を握りつぶした男,それが瀬島龍三中佐(大本営作戦参謀・作戦班長補佐)であった。大元帥昭和天皇を悲しませてはならない。当時大元帥のもとには華々しい戦果のみが報告されていた。終戦間際,デンマーク駐在武官小野寺誠大佐はソ連の参戦が近い事を大本営に打電したが,これも握りつぶされ,中国残留孤児という悲劇を生んだ。しかしなぜか小野寺大佐は終戦間際少将に昇進した。日本では口封じのためこういう摩訶不思議なことが行なわれる。戦後妻が「軍人の妻として」という本を出版している。

 第十四方面軍司令官山下奉文大将は特攻は自然発生的に生まれたとし,戦犯として処刑されたが瀬島龍三も同じ考えであった。戦後山崎豊子の不毛地帯のモデルとしても知られ,伊藤忠商事の会長まで昇りつめた。このレイテ戦をきっかけに日本は奈落の底へ落ちてゆく。1944年10月20日米軍はレイテ島に上陸した。日本軍はレイテ沖海戦で航空機による体当たりを,特攻作戦として実施した。

 フィリッピンで米軍を迎撃する第一号作戦のため,日本海軍は大西中将を第一航空艦隊の司令長官に任命し,特別攻撃という名のもとに体当たり攻撃を作戦として実施することを決定した。中西の任命は海軍にとって都合のいい息のかかった人間であったためでもある。こうして特攻隊を編成し作戦を遂行することに決まったが,特攻作戦の命令系統,戦闘序列が問題になる。

 若し特攻作戦を軍最上部が計画し,実行すれば指揮官の権限を明確にし,訓練も充実できる。しかし特攻という必ず死ぬという作戦を命じたものは,その責任をとるという必要に迫られていた。勝利か死かーその作戦が失敗すれば,部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。そして,その責任は最終的には,赤子を死地に送り出すことを命じた大元帥である天皇が負わなければならない。

 あるいは大元帥の身代わりとして,将官クラスが死をもってお詫びをしなければならない。命令による特攻によって部下を死地に送り出した責任はとりたくない。司令官が特攻作戦の最終責任を負う事を回避するのは,部下の下級将校,あるいは下士官・兵は自ら発意して,自己犠牲の精神を特攻に発揮してもらうのが一番よい。第一線の将兵が祖国を守り,国体護持のために自然発生的に特攻という体当たり爆撃を志願してくれるのが一番望ましい。もし僕が第二次世界大戦の論文を書けと言われたらたった一言「責任回避の馬鹿者ども!」で終わり。

 大元帥の名のもとに,高級将校などが命令する必要はない。部下の発意に「よし。頼む」と特攻の承諾を与える場合,彼らには特攻に部下を送り出したという表現は馴染まない。結局,日本軍は特攻は部下,特に第一線の将兵が,自発的な発意として実施を迫ったものであり,尊王殉国の志士の集団が,やむにやまれない心情から,志願して体当たり攻撃を仕掛けた,だから司令官は特攻を命じたわけではなく,特攻の責任もないというのである。(情報源は東海大学鳥飼行博研究室から)

自ら志願してソ連に抑留された理由は.....小説「不毛地帯」に書かれた瀬島はあまりに美化されすぎで,腹を切ってもあまりある。大元帥昭和天皇を守るため多くの若者を死に陥れた責任は大きい。自著で昭和天皇に声をかけられたとき全身が硬直し足がふるえたと書いている。ちなみに陸軍大学主席で卒業。恩賜の刀を陛下より賜る。戦後あれほどの犠牲者を出した沖縄すら昭和天皇は慰問していない。日本はポツダム宣言後の無条件降伏を拒否しその後の特攻で多くの若者の命が失われた。もし原爆投下があと3週間遅れていたら,ソ連が参戦し日本は確実に四分割されていたであろう。最後まで竹やりで本土決戦を鼓舞していたこの国の指導者たちは大元帥天皇の免罪符として絞首刑になった。一方昭和天皇は崩御し,大嘗祭という儀式で神になった。

管理人注:今ブログ上で原爆投下があったのか地上起爆だったのかが論争になっていますがご自分でご判断するよう努力してください。上の記事は過去記事の内容をそのままコピペしたものです

肝心な発言は以下にある~地上起爆の決定的な証拠

https://youtu.be/o1dKP3cv9zw?t=233

「指揮官関行男大尉」

 下の写真は敷島隊指揮官関行男大尉である。最初の神風特攻隊の指揮官。関の死後ニ階級特進した。関はその心境を語った。
 「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて,日本もおしまいだよ。僕は体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中できる。僕は明日,天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで往くんじゃあない。KA(妻のこと)のために往くんだ。日本が負けたら,KAがアメ公に何されるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬんだ」

管理人注:関行男大尉関連ビデオ

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https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7%E5%A4%A7%E5%B0%89

終戦後に自刃した大西瀧治朗中将・特攻は統率の外道と称しながら次のような訓示を特攻兵にしている。また終戦に際し,徹底抗戦を呼びかけた馬鹿者でもある。
 1944年10月20日1000 於マニラ

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは,大臣でも大将でも軍指令部総長でもない。司令長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億総国民にかわってお願いする。どうか成功を祈る。皆は既に神である。神であるから欲望はないであろう。が,もしあるすれば、自分の体当たりが成功するかどうか,それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りにつくのであるから,残念ながら知ることも聞かせることも出来ない。だが自分はこれを見届けて,必ず上聞に達するようにするから,そこは安心して往ってほしい。」訓示を終わって大西は隊員一人一人と熱い握手を交わした。
 日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷などが考案され司令官の命令,推奨によって組織的に行なわれたにもかかわらず,これを自主的,自発的に5000人もの特攻隊員を死なせた事は責任回避であり,英霊の自主的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ亡き者への侮辱でもある。

 日本軍はこの特攻によって,米国と有利に交渉を展開できると読んでいた向きもあったが,米国はSUICIDE PLANE(自殺飛行)と呼びとんだお門違いであった。海軍に続いて陸軍がまるで戦果を競うように若者を特攻に駆り立てた。あくまで命令ではなく自発的,自主的特攻である。こうすれば自分達に責任が及ぶことはない。こういうことをするんだよ日本人は!昔も今も。だからちょんまげ時代と変らないんだ。

 山県有朋によって陸・海・空三軍総司令長官に祭り上げられた大元帥は華々しい戦果の報告しか受けなかったという。天皇を悲しませたくなかった。これが理由である。最近昭和天皇がA級戦犯の祀られている九段へ参拝した観想を不快感とのべた報道があった。天皇の本意を指導者は知らなかったとも言える。戦果の誤認・修正電報を握りつぶした大本営参謀達。

日本は戦う前に負けていた。特攻は組織として上部が連帯責任を負う気概があれば跳飛爆撃・反跳爆撃などの手段もあった。(跳飛爆撃とは爆弾を海面下に沈ませず石の水切りのような形で進行させる方法。反跳爆撃はある一定の速度・毎時360から420キロ・高度50メートルから海面に爆弾を投下すると水切りと同様の原理で飛び跳ねながら進行し命中させる方法。遅延信管を五秒に設定)1944年の時点で大元帥はじめ,大将,大本営参謀は特攻の是非を論ずることは可能であった。
彼らの死を決して無駄にしてはならない。
(情報元・東海大学鳥飼行博研究室)

東郷平八郎元帥が李舜臣なる朝鮮人を尊敬していたのはなぜ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10151464160?query=%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AF%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA&status=solved

東郷平八郎元帥と東郷茂徳外相
血縁関係なし。東郷茂徳外相は、朝鮮出兵の際に日本に来た朝鮮人の子孫で、江戸時代は朝鮮の姓をそのまま名乗り、郷士待遇であったようです。東郷元帥も鹿児島出身ですが、こちらは普通の侍の出身(おしえてGoo)

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ある遺書から

http://web.archive.org/web/20080101215300/http://
angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/164.html


植村眞久大尉 昭和19年10月26日第一神風特別
 攻撃隊大和隊 スリガオ海峡付近にて戦死 25歳

           我が子への遺書

素子,素子は私の顔をよく見て笑ひましたよね。私の腕の中で眠りもしたし,またお風呂に入ったこともありました。
素子が大きくなって私のことが知りたい時は,お前のお母さん,佳代伯母様に私のことをよくお聴きなさい。

私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子という名は私がつけたのです。素直な,心の優しい,思ひやりの深い人になるようにと思って,お父様が考えたのです。
私は,お前が大きくなって,立派な花嫁さんになって,仕合せになったのを見届けたいのですが,若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても,決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって,父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば,必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生き写しだし,他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っているような気がするとよく申されていた。

またお前の伯父様,伯母様は,お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし,お母さんも亦,御自身の全生涯をかけて只只素子の幸福のみ念じて生き抜いてくださるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。

父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になってください。

お前が大きくなって私の事を考え始めた時に,この便りを読んでもらいなさい。

昭和19年月吉日

植村素子へ

追伸

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は,お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ます。
だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

https://youtu.be/uYZ0EEtNreo?t=96

ある遺書から



「ある遺書2」

    恋人智恵子への遺書(引用:群青)

 穴沢利夫少尉 中央大學卒 陸軍特別操縦見習士官一期 陸軍特別攻撃隊 第二十期振武隊 昭和20年4月12日 沖縄周辺洋上で戦死 23歳

 二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた”時期を失する”ということが実現して了ったのである。

 去月10日,楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが,帰隊直後,わが隊を直接取り巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々処を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今,晴れの出撃の日を迎えたのである。便りを書きたい,書くことはうんとある。

 然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたのご両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

 今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれること,信ずる。ただしそれとは別個に,婚約をしてあった男性として,散ってゆく男性として,女性であるあなたに少し言って征きたい。

 あなたの幸を希う以外に何物もない。徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気をもって過去を忘れ,将来に新活面を見出す事。あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界にはもう存在しない。

 極めて抽象的に流れたかも知れぬが,将来生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様,自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。当地は既に桜も散り果てた。今更何を言うかと自分でも考えるが,ちょっぴり慾を言ってみたい。

1.読みたい本 「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2.観たい画 ラファエル「聖母子像」,芳崖「非母観音」
3.智恵子 会いたい,話したい,無性に。今後は明るく
朗らかに。自分も負けず朗らかに笑って征く。

 昭和20年4月12日

 智恵子様
                           利夫

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鎮魂の詩(うた) 戦友に捧ぐ

この世に真実に神々が存在されるなら
神々がもし おられますならば特別の
限りなき 慈しみの心をもって
犠牲(いけにえ)となった 若き人々の血を涙を
捨石となった 兵士たちをなぐさめ給え
桜花の花吹雪となった人々をいけにえに
親や弟妹たちの悲愁の涙を訴えを
レイテ湾や リンガエン湾に
大空に星と輝かせまし 水清く屍
草むす屍に 額たれてただ祈るは
安らぎを 永遠の安らぎをと祈るのみ

深い静寂に包まれた森林の奥深く奥深く
ひっそりと眠りつづける 比島だけで
深海の底に横たわる50万柱とか
数えきれない艦船を 山野を洞窟を
「墓標」として本土へ還るすべなく
太平洋の海鳴りは この貴い犠牲者達
の望郷の想いだ。平和の礎たちよ安らかに

昭和55年元旦 大學教授 今富正己・諏訪茂さんの手記から。

元記事......

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/63.html

【矢部宏治『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』(集英社インターナショナル,2016年5月)は力作・好著であるが,画竜点睛「天皇・天皇制」問題を抜かしている】【「天皇・天皇制」問題をとりあげる次元に入ると,とたんに萎縮する日本の知識人の通弊が,矢部宏治にも色濃く表出しているのか】

http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1058102312.html

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空母バンカーヒルとニ人の神風

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1073.html

橋の上のホラティウス

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1353

そして門の守り手、勇敢なホラティウスは言った

この世のすべての人間に、遅かれ早かれ死は訪れる

ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため

強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか

私をあやしてくれた、優しい母のため

我が子を抱き、乳をやる妻のため

永遠の炎を燃やす、清き乙女たちのため

恥ずべき悪党セクストゥスから

皆を守る為以上の死に方があるだろうか

執政官どの、早く橋を落としてくれ

私は、2人の仲間とともに

ここで敵を食い止めよう

路にひしめく一千の敵を

三人で食い止めてみせよう

さあ、私の横に立ち

橋を守る者は名乗り出よ

敵を食い止めようと命を捧げた特攻隊員は

千人が果たした以上の事を成し遂げた

英雄ホラティウスは

セクストゥスの攻撃を食い止めるため

人々が橋を落とし、立て直しを図る

時間を稼ぐために、自らの命を捧げた

特攻隊は、押し寄せる敵艦を撃破し

立て直しを図る時間を稼ごうとした

ホラティウスの自己犠牲の最も注目すべき点は

彼が橋を守り切ったかどうかではない

重要なのは、何世紀にもわたり、幾多の西洋人が

ホラティウスのような勇敢な自己犠牲に

勇気づけられてきたという事実なのだ

日本軍の上層部が敗北を認識したうえで

大勢の若者を特攻隊員に任命したのは

絶望的な大義に命を捧げた若者たちの先例が

以後何千、何万年と、人々の自己犠牲精神を

かき立て続けるだろうと考えてのことだった

彼らの最後の望みは、未来の日本人が

特攻隊の精神を受け継いで

何事にも屈しない、強い心を持ち続ける事だった

現代を生きる私たちは、神風という存在を

ただ理解できないと拒否するのではなく

人の心を強く惹きつけ

尊ばれる側面もあったということを

理解しようと努めるべきではないだろうか

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そうですね ビデオの最後にありました......米国戦艦ミズーリに激突して命を絶った特攻隊員をその艦長が,敵国兵士であるにもかかわらず船内の反対を押し切って国のために戦った一兵士として,その亡骸を船上にて葬ったという美談がある。「完全従属の芝居をしながら」徐々に100年かけて日本を復興させましょう。70歳になった管理人の心からの切なる願いです。

一つの文明はスタートして1200年後には崩壊を迎えるのである。これはヨハネの黙示録の1260日,ダニエル書の一時期,二時期,半時期に匹敵するものであろう。つまり歴史とは一つの生命現象なのであって,必ず同じことを繰り返すのである。

隷従する人間を大量生産する学校

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1146.html

自発的隷従論

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1070.html

ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。

ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。

あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。

今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。

この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。

管理人注;この500年前にわずか18歳の若者が書いた文章の意味を理解し100年後の日本に役立ててほしい。


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コメント一覧

福岡のばか
いつも、素晴らしい記事をありがとうございます。 いよいよ、命がけの記事ばかりで、正しく適度に緊張感をもち、心と身体の姿勢を良くして、ジックリ拝見しております。 100年、 ありがとうございます。 身体の時間がおわっても、ご恩を忘れずにしがみついていきます。 子供や、かわいい動物たちに見る生命の美しい輝きのために、特攻に散りし、少年の笑顔。
マー君、スー君にも、何卒ラブラブであります。
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