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第一イザヤ書Ⅱ;13~27章・全世界の正義と平和
第一イザヤ書Ⅲ;28~39章・二大覇権国家の狭間で
第二イザヤ書Ⅰ;40~48章・帰還の歓び
第二イザヤ書Ⅱ;49~55章・挫折
第三イザヤ書;56~66章・新しい天と地
第二イザヤはトインビーによると「千年期・the Milleniumの間支配する王は,まだ神自身ではなく,単に別の代理者,すなわちメシアにすぎない。しかし,この世界が”別の世界”によって取って代わられるまでの間,”この世界”に出現する奇跡的な”至福千年期”=エデンの園(神の国ではなくて地上の楽園)の思想は,異なっているばかりでなく,結局において互いに相容れない二つの思想を妥協させようとする支持しがたい試みである。第一の思想,すなわち,第二イザヤ書の思想は,奇跡的に改善された未来主義的な現世王国の待望である。第二の思想は,”神の国=CIVITAS DEIは時間のうちに存在するものではなく,別な精神的次元に置かれているものであって,このように次元を異にしているからこそ,かえってわれわれの現世生活の中に浸透し,それを変貌させることが出来る,という思想である.......千年期の終末観思想が不可欠な思想的はしごの役目を果たしたかも知れないが,一度上に登ってしまえば,もうそのはしごはなくなっても差し支えない」(トインビー注;千年期が俗に未来の”黄金時代”の意味で用いられるのは,ここからきているのである)
キリストが王として統治する王国は,アカイメネス朝の王をユダヤ人の王に変え,おまけに未来に投影した,世界征服者としてのメシアによって打ち立てられるいかなる王国とも,同じ標準で計ることができない。ピラトに,「あなたの言うとおり,わたしは王である」と答えたのち,「私は真理についてあかしをするために生まれ,また,そのためにこの世にきたのである」<ヨハネ福音書,18・37>。この思いがけないことばは,あるいは無視することも出来よう。
このCIVITAS DEI(神の国)がいやしくも時間の次元に入ってくる限りにおいては,それは未来の夢としてではなくて,現在に浸透する精神的実在としてである。もしわれわれが,実際にどうして,神のみこころが天に行われているとおり,地にも行われるようになるか,ということを問うとすれば,その答えは,神学特有の表現を用いて言えば,神の遍在という概念の中には,超現世的平面における超越的存在だけでなしに,現世における,また,現世に生きるあらゆる人間の魂の中における内在が含まれる,ということになる。
キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神” としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる, 共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている。(アーノルド・トインビー歴史の研究より要約)

エルサレム(建国前)の街角での木で造るのどかなサンダル屋さん。よっぽど丈夫に出来ていたらしい。「疲れる者も,よろめく者もない。まどろむことも,眠ることもしない。腰の帯びは解かれることがなく/サンダルのひもは切れることがない。(イザヤ書第5章27節)
災いだ,自分の目には知者であり/うぬぼれて,賢いと思う者は。(イザヤ書第5章21せつ)........少なくとも上の写真のおじさんはそうでないようです(笑)。

シドン,あるいはサイファは美しい港町でありハイファ(Haifa)とベイルート(Beirut)を結ぶ道は観光客が絶えない。シドンはフェニキアンガラス細工で有名。「嘆け,海辺の住人たち/シドンの貿易商たちよ。お前の使者たちは海を渡り/大いなる水を越えて行き/シホル(エジプト国境)の穀物,ナイルの収穫がお前の収入となり/お前は国々の行き交う場所であった。(イザヤ書第23章2~3節)

Beduinの女性の装飾品は独特である。「主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い/彼女らの額をあらわにされるであろう。その日には,主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り,額の飾り,三日月形の飾り,耳輪,腕輪,ベール,頭飾り,すね飾り,飾り帯,匂袋,お守り,指輪,鼻輪,晴れ着,肩掛け,スカーフ,手提げ袋,紗(さ)の衣,亜麻色の肌着,ターバン,ストールなどを。(イザヤ書第3章18~23節)

チュニジアのべドウィン女性。

上の写真はKIR OF MOAB(モアブのキルの要塞).モアブについての託宣。一夜のうちに,アルは略奪され,モアブは滅びた。一夜のうちにキルは略奪され,モアブは滅びた。(イザヤ書第15章1節)。それゆえ,わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・へレス(Kir-Hereseth)のために/竪琴のように嘆く。(イザヤ書第16章11節)
Isaiah 15:1 (King James Version)
1The burden of Moab. Because in the night Ar of Moab is laid waste, and brought to silence; because in the night Kir of Moab is laid waste, and brought to silence;

中世にキルとアルの破壊された二大要塞は1099年十字軍によって発見され,エルサレム王国は東ヨルダンまで延長しOultre-Jourdainを首都とした。彼らはこの地にLe Krak(写真)を建てた。残りの城壁等は1188年Saladinに落ちた。
同じ丘の上にはKerakが立つ↓。
↑カラク(アル=カラク、ケラク、アラビア語: الكرك, Karak, Kerak, Al-Kerak)はヨルダン中部の都市でカラク県の県都かつ最大の街。人口は20,000人ほど。かつては十字軍国家の一つ・エルサレム王国の一部であり、十字軍の建てた城塞の遺跡で知られる。


カラクは首都アンマンの南140kmの位置にある。カラクの街と十字軍のカラク城は、標高1,000mの丘の上にある。死海を見下ろす丘は、上の台地が三角形の形をしており、三方を深い谷間に囲まれ、三角形の南端にカラク城がそびえている。三角形の底辺にあたる部分には市街地が集中し、19世紀末のオスマン帝国の時代に遡る家・レストラン・ホテルなどの建物が多い。
カラク市の人口は2003年現在で21,678人、カラク都市圏の人口は同じく2003年現在で68,800人と見積もられており、これはカラク県の総人口の31.5%にあたる。市内の人口の多くはムスリムであるが、キリスト教徒も多数居住しており、人口比に対するキリスト教徒の割合はヨルダンでも高い。
カラクには少なくとも鉄器時代から人が住んでおり、イスラエル人とは隣人ながら対立もしていたモアブ人の重要都市(モアブの首都でもあったとされる)・キル(Qir)があった。1958年には、カラクからモアブ文字で書かれた碑文(カラク碑文)の断片が発見されており、モアブの主神ケモシュの神殿に関する言及などがある。キルは旧約聖書ではキル・ハラセテ(キル・ヘレス、Qer Harreseth, Kir Heres)と呼ばれていた。イザヤ書15章から16章はモアブの行く末に関する預言が語られており、その中でモアブが敵に攻め滅ぼされるさまが語られ、16章11節では「わがはらわたはモアブのためにわが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように嘆く」とある。
キルはシリア地方に攻め込んだアッシリア帝国の侵略にさらされた。アモス書1章5節・9章7節では、キルはシリア人(アラム人)がパレスチナの北に住む前に住まわされていた地であるとされ、列王記下の16章9節ではティグラト・ピレセル王がダマスコ(ダマスカス)を征服した後、その住民をキルに強制移住させたことが記されている。
またこの時期には、古代エジプトからアカバ、マアーン、アンマン、ダマスカスを経てメソポタミアに至る「王の道」(King's Highway)と呼ばれる街道がキルを通っていた(民数記20章17節-20説)。
ヘレニズム期末期にはカラクはカルカ(ハルハ、Kharkha)と呼ばれる重要都市であった。カラクはナバテア王国の支配下となったが、105年にはナバテアもローマ帝国に征服された。東ローマ帝国のもとではカラクには主教がおり、ナザレ教会(Church of Nazareth)など崇拝を集める教会があった。(管理人注:ナザレの教会はおそらくここを意味している?)

イスラム帝国による征服後もカラクの住民はキリスト教徒が主であった。十字軍の時代にはエルサレム王国の重要拠点となりカラク城が建てられたが、アイユーブ朝のサラーフ・アッディーンにより奪取されている。この時期の遺跡は今もカラクに多く残っている。
カラク城
カラク城の城壁。二階建てになっており中にはアーチ状の天井の部屋がある
カラクの十字軍の城は、シリアにあるクラック・デ・シュヴァリエなどと並び保存状態が非常に良い。ケラク城は1142年、エルサレム王フールクの部下ペイヤン・ル・ボーテイエ(Payen le Bouteiller)の手によって建設が始まった。十字軍の間ではこの城はクラック・デ・モアビテ(Crac des Moabites、モアブの城)またはモアブのケラク(Kerak in Moab)などと呼ばれていた。城は古くからこの地にあった高名な教会・ナザレ教会の周囲に築かれている。
ペイヤンはエルサレム王国の封臣トランスヨルダン領主(Lord of Oultrejordain)でもあり、ケラクはさらに南の死海とアカバ湾の間にあったクラック・ド・モンレアル(Krak de Montreal、モンレアル城)に代わりトランスヨルダン領の中心となった。ヨルダン川の東岸にあったカラクは、ダマスカスからエジプトやメッカに至る交易路や砂漠に住むベドウィン諸部族を抑えることができる位置にあった。ペイヤンの死後、カラクは次のトランスヨルダン領主となった甥のモーリス(Maurice)、およびその次の領主フィリップ・ド・ミリー(Philip of Milly、第7代テンプル騎士団総長)の手により塔が増築され、北側と南側には岩盤に深い防御用の堀が刻まれた(南側の堀は用水槽も兼ねていた)。現存する中で最も特筆すべき建築的特徴は北の城壁であり、その中に巨大な筒状ヴォールトのあるホールが2層にわたり造られている。これらのホールは住居および厩舎に使われたほか、城の入り口を見下ろす戦闘用の回廊として、攻城兵器から放たれる石などからの避難所としても使用された。
1176年、もとアンティオキア公でザンギー朝に囚われていたルノー・ド・シャティヨンは多額の釈放金を積んで出獄し、直後にフィリップ・ド・ミリーの娘エティエネット・ド・ミリー(Etienette de Milly / Stephanie de Milly、オンフロワ・ド・トロン3世の未亡人)と結婚してトランスヨルダン領とカラク城を手に入れた。カラク城を拠点にルノーは隊商を何度も襲い、果てはメッカへの巡礼者までをも襲った。1183年、サラーフ・アッディーン(サラディン)はルノーの度重なる攻撃の報復としてカラク城を包囲した。城内ではあたかもエルサレム王国のイザベル王女(後のエルサレム女王イザベル1世)とオンフロワ・ド・トロン4世の結婚式が行われていたが、城内からの申し出を受けたサラディンは騎士道的な態度から結婚式の行われている部屋を攻城兵器による攻撃の対象から外した。イザベルの兄ボードゥアン4世は重い病を患っていたが自ら救援の軍を率いてカラク城を死守している。
1187年のハッティーンの戦い以後、サラディンはエルサレムはじめ十字軍国家の拠点をパレスチナから一掃し、カラク城も攻囲した。ケラク城は1年以上戦い抜いたが、途中飢えに苦しむ守備側は食糧を手に入れるため女子供を奴隷に売るまでに追い込まれたとも言われ、最終的には1189年に落城しサラディンのアイユーブ朝の手に渡った。
1263年、アイユーブ朝に代わりエジプトを支配したマムルーク朝の王バイバルスはカラク城を手に入れ、ナザレ教会を取り壊すなどして補強を行い、北西角に新たな塔を築いた。
オスマン帝国時代、カラク城はシリア地方とアラビア・エジプトの間を結ぶ交易路を抑える拠点としてなおも戦略上重要な要塞であった。1840年にはムハンマド・アリー朝エジプトの総督イブラーヒーム・パシャがオスマン帝国軍の守るカラク城を落とし、城の大半を取り壊した。
カラク城は戦略的要衝である台地の南端一帯を占めている。十字軍建築の好例として、またヨーロッパとビザンチンおよびアラブの建築様式が混じり合った例として、カラク城はよく知られている。城の内部にはカラク考古学博物館があり、2004年には改修を経て再開館している。博物館は先史時代からモアブ、ローマ、ビザンチン、イスラム時代に至るカラク地域の地方史、およびカラク城とカラクの町の歴史を、カラク地域やカラク城から出土した考古資料の展示を通じて紹介している。

”WHOSE ARROWS ARE SHARP"(彼らは矢を研ぎ澄まし)。アッシリアの軍隊によるユダ(パレスチナ南部にあった古代王国)の侵略をほのめかし,イザヤは戦争用輪馬車(CHARIOTRY)や先制攻撃を予想した。「彼らは矢を研ぎ澄まし/弓をことごとく引き絞っている。馬のひずめは火打ち石のようだ。車輪(注:戦争用輪馬車)は嵐のように速い。(イザヤ書第5章28節)

穀物がふるいにかけられるように........「主の霊は,首にまで達する水が/涸れ谷にみなぎり溢れるように臨む。主は国々を欺(あざむ)きのふるいでふるい/迷わず手綱を諸国民の顎にかけられる。(イザヤ書第30章28節)

彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への捧げ物として,馬,車,駕籠,らば,らくだに載せ,あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れてくる,と主は言われる。それはイスラエルの子らが捧げ物を清い器に入れて,主の神殿にもたらすのと同じである,と主は言われる。(イザヤ書第66章20節)

花を咲かせ(口語訳)/大いに喜んで,声を上げよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロン(カロンとも言う)の輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。.......心おののく人々に言え。「雄々しくあれ,恐れるな。見よ,あなたたちの神を。敵を打ち,悪に報いる神が来られる。神は来て,あなたたちを救われる。(イザヤ書第35章2,4節)

カルメル山。

絵:Raphael1483-1520。Pitti Gallery,Florence。「わたしが見ていると,北のほうから激しい風が大いなる雲を巻き起こし,火を発し,周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中,つまりその火の中には,琥珀金の輝きのようなものがあった。(エゼキエル書第1章4節)(注;5節以下は恐ろしいのでご自分で)

ワインの収穫の季節には狐やジャッカルからの被害を防ぐ目的でこのような見張り小屋がある。「そして,娘シオンが残った/包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように。(イザヤ書第1章8節)

海の水は涸れ/川の流れは尽きて干上がる。運河は悪臭を放ち/下エジプトの支流は細り,乾いて/葦やよしも涸れ果てる。ナイルの河口のいぐさも/川沿いに蒔かれたすべての草も/枯れ,吹き飛ばされ,消えうせる。漁師は嘆き,悲しむ。ナイルに釣り針を投げる者も/水の表に網を広げる者もすべて衰える。(イザヤ書第19章5~8節)

古い時代のパレスチナでの結婚式風景。式の前数日間は食事や宴会で全ての仕事はそっちのけになる。「若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。(イザヤ書第62章5節)

種を蒔くために/耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして,畝を造るだけだろうか。畑の面を平にしたなら/いのんどとクミンの種は,広く蒔き散らし/小麦は畝に,大麦は印をしたところに/裸麦は畑の端にと,種を蒔くではないか。神はふさわしい仕方を彼に示し,教えられる。(イザヤ書第28章24~26節)

昼の暑さを防ぐ陰,嵐と雨を避ける隠れ場と/して,仮庵が建てられる。(イザヤ書第4章6節)写真はへブロンのアブラハム市で典型的なアラブ街である。そこではいたるところに日陰がある。初心者の方はアラブ街がなぜアブラハムなのか?という疑問はまずアダムからイエスまでの血統図にあるアブラハムを見てほしい。アブラハムは女奴隷ハガルにイシュマエル(アラブ人の祖)を産ませた。

ティルス(TYRE)の港。「ティルスについての託宣。泣き叫べ,タルシシュの船よ。ティルスは破壊され,住む家もなくなった。キティムの地から帰るやいなや/彼らはそのことを知らされた。(イザヤ書第23章1節)

へゼキア王(King Hezekiah)の父アハズ(Ahaz)の時代の日時計。.....見よ,わたしは日時計の影,太陽によってアハズの日時計に落ちた影を,十度後戻りさせる。太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った。(イザヤ書第38章8節)
イザヤは答えた。「ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束なさったことを実現されることが分かります。影が十度進むか,十度戻るかです。」ヒゼキアは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ影を十度後戻りさせてください。」そこで預言者イザヤが主に祈ると,主は日時計の影,アハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせられた。(列王記Ⅱ第20章9~11節)
(注):聖書には同じ地名,人名などが色々な書に出てきます。