
高梁市役所から望む備中松山城(職員の方に頼んで屋上から撮影)
住所:岡山県高梁市内山下
備考:日本100名城、国指定史跡、現存天守
愛媛県松山市にある松山城と混同を避けるために、備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)と
一般的に呼ばれている。別名で「高梁城(たかはしじょう)」と呼ぶ。
備中松山城は、秋庭重信が延応2年(1240年)に築いたのが最初とされる。城のある臥牛山(がぎゅうざん)は
中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として機能していた。
江戸時代になり、小堀正次・政一(遠州)親子の築城を経て、天和年間(1681年~84年)、水谷勝宗の大改修で
近世三大山城とされる最終的な形となった。城の縄張りは4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の
本丸に建つ。二重二階の天守は現存する天守の中では最小であるが、日本一高いところに建っている。平成に入り、
本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。


三の平櫓東土塀(重要文化財)


天守(重要文化財)



二重櫓(重要文化財)
住所:岡山県高梁市内山下
備考:日本100名城、国指定史跡、現存天守
愛媛県松山市にある松山城と混同を避けるために、備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)と
一般的に呼ばれている。別名で「高梁城(たかはしじょう)」と呼ぶ。
備中松山城は、秋庭重信が延応2年(1240年)に築いたのが最初とされる。城のある臥牛山(がぎゅうざん)は
中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として機能していた。
江戸時代になり、小堀正次・政一(遠州)親子の築城を経て、天和年間(1681年~84年)、水谷勝宗の大改修で
近世三大山城とされる最終的な形となった。城の縄張りは4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の
本丸に建つ。二重二階の天守は現存する天守の中では最小であるが、日本一高いところに建っている。平成に入り、
本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。


三の平櫓東土塀(重要文化財)


天守(重要文化財)



二重櫓(重要文化財)
