雑貨のある暮らし

自分なりの雑貨との暮らしや
インドネシアで暮らした日々についてお話します。
気軽にコメントしてってくださいね♪

トラジャ紀行~旅の思ひ出編~

2006-08-28 07:28:24 | インドネシアでの暮らし。
 今日は静岡はパッとしないお天気です。どんよりして、と言って
特別涼しいってわけでもないし、クサクサしちゃいます。
 
 この辺は田舎なので、畑では定期的に油かすが撒かれます。ウ○コ
臭いので住み始めた頃はいささか参りましたが、2年も経つと慣れて
しまって、ここに住んでるんだなぁ、なんて。朝から汚い話、
ごめんなさい。

 トラジャ旅行の話に戻りましょう。
 
 2泊3日の旅は無事に終わりました。正直、インドネシアでは長距離の
車に乗るたびに、事故が心配
です。それがたとえ知り合いの運転で
あっても、です。
 この旅も無事に行って来れたことを、帰った翌朝、目が覚めて真っ先に
喜びました。ああ、何事もなかった!
 
 それにしてもこの旅、本当に面白かった。別に民族に関して特別
興味を持っていなくても、トラジャ民族の風習には好奇心が沸いてき
ます。
 トラジャ式葬儀、水牛の生贄、人骨転がる墓地、豚料理、がけ崩れ、
そして通訳なしの旅行…
初めての経験もたくさんしました。
 私は考え方の浅い人間なのでこういうときにちゃんとしたことが言え
なくてお恥ずかしいのですが、一番思ったのはいい経験をしたということ
ですね。
 日本は情報化社会で、知りたいと思ったことをありとあらゆる方法で
調べ、知ることが出来ます。一方で、電気もない山の中で、あの絶景を
毎日眺めながら、ひたすら田畑を耕して一生を送る人々もいます。
私たち情報社会のほうが便利であることは確かですが、幸せだとは断言
できない自分がいます。もし人の心の中が割って見られるなら、あの
景色を毎日毎日見て過ごす人の心は、私の心と比べて透き通っているの
かな。瞳も透き通っているのかな。そんな取り止めのないことを、2日目
山を降りながら考えました。
 どんな情報も知ることが出来る世界で暮らしながら、こんな生活が
あることを知らなかったことも皮肉な話です。
 
 ただただ、驚かされ、考えさせられ、温められ、癒された3日間でした。
  
 絶対また行きたい!そう思わせる魅力のある町です。旅人の
間では「トラジャには魔物がいる」と言われているとか(←嘘です)。
 
 さて、この旅行で買った土産物については、次回「我が家のお宝(私物)」
のコーナーでお話します。

ジェンガラお買い得セット出ました~!!

2006-08-28 00:13:44 | 見てみて!(商品紹介)
                   

 フランジパニ・バリから夏バテも吹き飛ばすジェンガラお買い得セット!!
のご紹介でっす。
 
 バリの有名ホテル「ピタマハ」の名前をもらった可愛らしいポットに
当店人気の定番プレートやカップを組み合わせ、1~2人用のモーニング
やティータイム向けのセットをご用意いたしました。
 それぞれ限定1~2セットとなっております。お早めにチェックチェック
なさって下さいね~。

 
↑↑↑ピタマハポットは思わず手に取りたくなる、可愛いフォルム
     グリーンブラウンとクリームカハラ、人気のカラー2種です

♪ご紹介のジェンガラお買い得セットはこちらから♪
↑↑↑セットはどどーんと13種類。お早めに!!
 
♪バリ雑貨のお店フランジパニ・バリのHPはこちらから♪
↑↑↑人気のジェンガラ商品のほか、アジアンなアタ雑貨、そして私が
個人的に大好きなファブリックも、多数あります。ぜひ一度覗いて
みてくださいイイネ!イイネ!イイネ!



♪フランジパニ・バリからのお知らせ♪

2006-08-23 03:42:08 | 見てみて!(商品紹介)
 20日にmyボスが帰国しました~。
 
 今回の仕入れはなんと言ってもジェンガラのセール
 しかも開店を待って並んでいる一般のお客さんを横目で見ながら、
オープン前に店内に入れてもらい、自由に選ばせてもらったそうですよ
                      (ムフ、特別扱いです。
これもひとえにジェンガラとmyボスとの信頼関係なんですよ~。
 なので、HPトップでもご報告していますが、ティー、モーニング、
ランチなど用途別にコーディネイトした各セットをどーんと太っ腹な
破格値にてご提供
いたしちゃうそうなので、アップをお見逃しなく
 
 アタもハイクオリティのものが入荷したそうです。myボス、普段は
明るく優しいボスですが、商品を選ぶ時は厳しいボスに早変わり。
 毎回、妥協しない厳しい選考眼に選ばれてきた子(アタ)たちは
長~くお使いいただける逸品揃いです。
 今回はオリジナルのゴミ箱も入荷したそうです。私もまだ商品を見て
いないので、個人的にアップが楽しみです。
 
 新商品のアップまで少々お時間を頂きますが、メルマガでアップ日時を
お知らせいたしますので、これを機にメルマガ登録をオススメしま~ス
 ♪フランジパニ・バリ メルマガ登録はこちらから♪ 
                            イイネ!イイネ!イイネ!
 
 また、今後はアパレルにも力を入れていきたいとのことなので、
現地ブランドの衣類以外に、フランジパニ・バリらしいオリジナル商品を
開発していきたいと思います。
 今後ともフランジパニ・バリにご注目下さい。

 ♪バリ雑貨のお店フランジパニ・バリのHPはこちらから♪
 ↑↑↑まだ新商品アップ前ですが、他にも人気商品多数ございます~。

 ♪フランジパニ・バリのファッション館
         フランジパニ・ドゥイのHPはこちらから♪

 ↑↑↑アタバッグのセールやってま~す。

トラジャ紀行 その4

2006-08-22 11:46:16 | インドネシアでの暮らし。
 以前書いていたブログで、いつかトラジャのことを書こう書こうと
思いながらも、トラジャ旅行は書くことがたくさんすぎてつい億劫
になり、書かないまま今に至っていました。
 今回、世間は夏休みということで思い切ってこの超大作(?)の投稿に
踏み切りましたが、早いものでトラジャ紀行も最終日です。
 
◇3日目◇
 

 3日目の朝、早く目が覚めてベランダに出ると、朝もやに浮かぶ
トンコナンハウス(ホテルの棟ですが)がとても幻想的でした。
 この後、もやが晴れると空には虹がかかり、よく見るとその上に
もう1本かかっていて、W虹なんて初めて見てラッキー。
 そういえばこの日は夫ヨシオ30回目の誕生日でした
 
 帰りはヨハネスと彼の妻子も一緒することになり、ランテパオまで
1時間かかるので、10時頃ホテルを出発しました。
 ヨハネス一家と合流すると、まずは昼食。1日目から連日お世話に
なったあのレストランに、また入ります。
 
 腹ごしらえがすんで、いざ帰路へ。…と思いきや、ヨハネスは
もう一ヶ所だけ見せたい場所があるといいます。「みんな疲れてるだろう
から早く帰ろう」とたしなめる奥さんをよそに、ヨハネスは気ままに
車を走らせます。結構無邪気です。
 
 そうして着いたのは、トラジャの数多くのトンコナンハウスの中でも
特に古い建物のある場所でした。
 前日に山で見たたくさんのトンコナンも、屋根はトタンで出来ているのが
普通で、日本で言う「かやぶき」のようなものは多くは見かけ
ませんでした。
やはりメンテナンスを考えるとトタンは丈夫で、
定期的に葺きなおす必要がないですものね。時代の流れで仕方がない
ことでしょう。
 一方、ここで見たトンコナンの屋根は伝統的なかやぶき屋根で、本当に
見るからに古そうなその屋根はシダに覆われていて、そこだけ
時間の流れが止まってしまったかのように静かに建ち並んでいました。


 トラジャ独特の模様が施された壁も立派で、柱にずらっと飾られた
水牛の角にも驚かされます。こんな時、自分の感情を言い表す語彙の
少なさに我ながら情けなくなるのですが、昔見たことのある景色を
思い出したような、懐かしいような、初めて見たのになんだか不思議な
気分でした。


↑↑↑なんとも趣のあるたたずまいです。どれくらい古いものかは
聞きませんでしたが。


↑↑↑家の前には木で作られた水牛の頭(角は本物)が飾られています。
水牛はこの土地の暮らしと密接な関係があるようです。
 トンコナン独特のこの模様には、ひとつひとつ意味があるの
だそうです。お土産屋さんでこのモチーフの意味を説明した小冊子を
購入しましたが、いまだに読んでいません…。
 さほど遠回りはしていなかったようで、時間もロスと言うほどの
寄り道ではなく、ここに連れてきてもらって良かったという思いのほうが
大きかったです。
 
 さて、今度こそいざBへ。
 すると今度はヨハネス、パロポ経由で帰ろうと言い出しました
パロポはランテパオから真東に行ったボネ湾沿いにある町で、海岸線
沿いを走ると景色がいいとのことで、私たちの住むB町のあるワタン
ポネ
も湾沿いにあるため、パロポを経由してぐるっと回って帰っても、
さほど時間は変わらないらしいのです。


↑↑↑スラウェシ島全体と南東部の拡大地図。
 拡大図のほうで、マカレとパロポ、ワタンポネを丸で囲って
見ました。位置関係がお分かりいただけるでしょうか。
見にくくてスミマセン。。。

 滅多に行くチャンスなんてないしせっかくの旅行なので行ってみよう!
というわけで一路パロポへ。トヨタのKIJANの車中は、運転席にデディ、
助手席にY氏、後部座席にヨハネスと妻子、一番後ろの3列目に私たち
夫婦が乗り込み、ちょっと窮屈ではありますが、わいのわいのと
賑やかに走り出します。
 
 1時間強走ると道が崖沿いになり、もうすぐ海が見えるというので
期待が高まります。
 …すると…
 道路脇に止まっている車がちらりほらり見え始め、その数は増して
いき、彼らが私たちに何か言っています。
 …ん…?
 「この先で崖が崩れて道が塞がってるよ!」
 え、えええええぇぇぇぇ!!
 彼らの言葉を疑うわけではありませんが、とりあえず進んでみよう
ということで、車で行ける所まで進み、それから車を降りて(かなりの
野次馬根性です)歩いて行くと…あっりゃー、崩れてる崩れてる…。
派手にやられています。


 一応すでに瓦礫除去の重機が来て作業をしてるのですが、どう
考えても1時間やそこらでは再開通しそうもありません。周りを見ると
大型バスの乗客などは、外に出てお皿を配り、昼食の準備に煮炊きを
始めている人々もいます。(みんな慣れてる…)

 
 結局私たちは泣く泣く(ToT)引き返すことにしました。パロポの
海岸線、見たかったなぁ…(ToT)。
 思わぬところで時間を無駄にしてしまいましたが、もと来た道を
引き返します。ランテパオ、マカレと通り過ぎ、3日前に来たルートを
逆に走ります。
 
 山道を抜け、道が平坦になると男子トイレ休憩。ヨハネスの息子(5)
も含め男衆5人が車の脇で横1列に並び、立ちションする背中を車の中
から眺めながら、ヨハネスの奥さんと私は「やれやれ、男って奴は…」
 本当、男の人は楽でいいです。私は長距離移動の時はなるべく水分を
取り過ぎないように心がけてるのに。

 途中、運転はデディからヨハネスに代わると、まぁ運転の荒いこと!
Bに着くまでに人の1人や2人は轢いてしまうのではないかとやきもき
するほどでした。
 あたりは真っ暗になり、だんだん疲れも増してきます。でもヨハネスは
快調に飛ばし続けます。
 やっとの思いでBに着いた時にはすでに夜10時で、夕飯も食べずに
ここまで来たので、町でミークリン(かた焼きそば)の持ち帰りを買い帰宅。
 ランテパオを出てから10時間、ホテルを出てから12時間かかり、
部屋に入ったときはヘロヘロで、もう古ぞうきんのような気分でしたが
とにかくお腹がすいていたのでミークリンだけはしっかり食べました。
 
                         《紀行あとがきへ続く》

トラジャ紀行 その3

2006-08-21 12:24:24 | インドネシアでの暮らし。
◇2日目のつづき◇
 衝撃的な葬儀見学の後、ヨハネスの案内で私たちの観光は続きます。
  
 次に私たちが訪れたのはロンダの洞窟にある墓地。この一帯は風葬の
習慣があり、洞窟の入口や中だけでなく、崖の高いところに杭を打って
ベランダ状の足場を作り、その上などにも遺体を祭ってありました。
見える所にあるものはみんな白骨化していて、あまり無造作に
まとめられているので、なんだか人の骨ではないような錯覚さえ覚え
ました。
 

↑↑↑洞窟の入口の人骨。頭上にも。

 洞窟の中は水が滴っていて、足元に気をつけながら進むと、あちこちに
むき出しの骸骨やお供えの花が点在していて、ランタン片手に案内人が、
やれこれは病気で亡くなった子供だとか、これは身分が違うために心中
した若い男女だとか、説明してくれます。
 かつては風葬だったこの習慣も、今ではやぐらを立ててしばらくそこに
安置する方法を取っているそうで、私たちが訪れた時、まだ新しいやぐらの
上に棺桶が祭られていました。死者の生前の姿の人形を作り、やぐらの前に
立ててありました。おばあさんでした。

 次に行ったのは、岩穴墓地。清流の流れる小さな川や田植えの緑が
まぶしい、とてものどかな山の中にぽつんとそれはありました。
大きな大きな岩の壁面を掘って、中に遺体を安置するお墓です。入口は
60cm四方ほどしかなく、小さいですが中は意外と広く、一ヶ所に10人
くらいの遺体が納められるそうです。日本と同様に、ひとつの家族が
同じお墓に入ります。お墓の入口にはトラジャ独特のカラフル模様の装飾が
施された扉がついていて、言われなければこれがお墓だとはわかりません。
 

↑↑↑大きな岩の集団墓地。この岩の大きさにも圧倒されますが、ここに
これだけの数のお墓を作る労力にも驚きます。作業途中の穴もあります。
硬い岩なので、職人さんが毎日作業しても、出来上がるまでに1年かかる
そうですヨ。(私たちが見たとき作業してなかったけど、本当に毎日やって
るのかなぁ…
 
 それからさらに山を登り、ヨハネスは自分のおばさん(彼の
おばあさんの姉妹?)の家に連れて行ってくれました。彼が一番連れてきた
かった場所のようでした。
 広い敷地の中に何棟かの住居と、貯蔵庫らしきトンコナンハウスが
建っていて、車で乗り入れると外で遊んでいた子供が10人くらい集まって
きました。
 おばさんはとても歓迎してくれて、家の中を案内してくれました。
いくつもの部屋を通り抜けると、棺桶のある部屋に来ました。そう、遺体
です。前年の12月に103歳で亡くなったおばさんのおかあさんで
翌年の9月に葬儀を挙げるまで家に安置してあるそうです。
 遺体は布に包まれてお棺に納められていましたが、においなどは全く
気になりませんでした。この辺は高地で湿度も低く本当に涼しいので、
遺体は腐らずにミイラ化するんだそうです。

 部屋はきれいに装飾されていて、亡くなったおばあさんが生きていた頃と
同じように家族から慕われ大事にされていることが伝わってきました。
 

↑↑↑おばあさんのご遺体は撮影を控えていたら「ぜひ撮ってくれ」と。
子供たちは純粋無垢で、日本人への興味を隠しません。
 
 それから外のあずまやで本場のトラジャコーヒーをご馳走になり
ましたが、このうまかったこと!!コーヒーの味はよくわからない私ですが、
この味は忘れることができません。
 おばさんともお喋りしましたが、この辺りにはかつて日本軍が進駐して
いたそうで、子供時代おばさんは日本人がやっている学校に通っていた
そうです。「こんにちは」「ありがとう」など簡単なあいさつを日本語で
知っていて、「真白き富士の根」という昔の賞揚歌も歌って聞かせてくれ
ました。
 
 離れにあるトイレを借りたら扉がしっかり閉まらず、まぁインドネシア
ではよくあることなので気にせず用を足していたら、子供たちがすき間から
覗いていたのが笑えました

 おばさんの家を後にして、山を降りました。帰り道、いくつのも山が
連なっているその景色はまさに絶景で、特に山のてっぺんから下まで
続く棚田には言葉を失うほどでした。後にも先にも私はこれ以上のもの
を見たことがありません
 所々点在するトンコナンハウスにも趣があり、不思議な懐かしさがあり
ます。町でトンコナンを見かけずがっかりしましたが、山の中にはちゃんと
存在していたんですね。


↑↑↑(上)山から下を見下ろす。遠く(写真中央右上近く)に
トンコナンハウスが小さく見えます。
(下)てっぺんから下まで続く棚田。写真に納まりきれません。 

 町に着いた時もうあたりは真っ暗で、ヨハネス行きつけのワルンに
入りました。豚料理の店で、豚肉のぶつ切りを竹筒に詰めて蒸し焼きに
した名物料理を食べました。なんだか黒くて見かけが悪いのですが、
味は最高!!
 Bがイスラム色の強い町で豚肉がまったく食べられないため、
余計おいしく感じたのかもしれませんが、くたくたで食欲がなかったにも
かかわらず、おかわりしてがんがん食べちゃいました。
 
 案内を申し出てくれたヨハネスは、私たちの予想以上にたくさんの所へ
連れて行ってくれ、色々な経験をさせてくれました。本当に長い1日
でした。
                             《つづく》

トラジャ紀行 その2(ちょっと衝撃のある写真アリです)

2006-08-20 00:03:12 | インドネシアでの暮らし。
 今日はおっそろしく暑かったですね。掃除機をかけながら汗が滴って、
「わ、もしかして痩せるかなぁ?」…そんなんじゃ痩せないって…
 さて、昨夜に引き続きトラジャの旅です。今日はちょっと衝撃的な写真を
含んでいますのであらかじめご了承下さい。

 
◇第2日目◇
 前夜にヨハネスと連絡が取れたので、この日はランテパオにて待ち合わせ。
前日に入ったレストランでまた食事をして、車の運転はヨハネスに交代し、
山へ向いました。
 
 まず行ったのはヨハネスの親戚の葬儀。
 この地方は独特のスタイルの葬儀を行うことで有名で、なんと葬儀は
観光化されてるんです。
(葬儀の有無、場所などはホテルで教えてくれます。)
 彼らにとっては、葬儀こそが人生最大のイベントであり、そのために大金を
使います。お金の足りない家では、葬儀に十分なお金が貯まるまで葬儀を延期
します。その場合、遺体は布で包んで家の中に保管するのですが、それに
ついてはまた後ほどお話しましょうねぇ。
 
 葬儀会場は山のふもとにありました。広い敷地の中に親族控え棟(というか
東屋)、遺体を祭る棟、儀式を執り行う広場やそのまわりに儀式用の建物などが
あり、親族控え棟でしばらくコーヒーを飲みながら待機した後、葬儀場へ。

 広場にはたくさんの水牛や豚が繋がれていて、広場の周りはものすごい人で
ごったがえしていました。


↑↑↑それまで人もまばらだった会場は、みるみるうちにこの人だかりに。

 みなさんお察しかと思いますが、水牛や豚は――そうです生贄です
これから生贄として喉を切られていくわけです。この生贄の数こそが生前の
ステータスとされていて、そのためにみんな、葬儀を延期したり借金したり
してお金を工面するわけです。この日は水牛だけで30頭、豚は数えません
でしたがもっといたと思います。お金持ちの家では、水牛が100頭を越える
大きな葬儀もあるそうです。

↑↑↑白毛の水牛ほど値が高く、これもステータスになります。この日の
この白毛くんはRp3000万だったそうです。(まじ?) 
 それにしても水牛ってでかい。B町では普通の牛が主流で水牛はほとんど
いなかったので、その大きさに圧倒されます。ほとんど犀ですね

 以前ディスカバリーチャンネルでトラジャのことをやっていたのを見たとき、
これには恐ろしくて目を開けていられませんでした。その状況が今まさに目の前
にあると考えただけで、ちょっと足がすくんできました。 


↑↑↑そして牛を切る儀式は突然幕を開けます。(クリックすると
大きくできます)
 
 1頭にそれぞれ1人の牛引き人がついていて、サビサビの頼りないナタで
喉元をグサッといくのですが、上手な人ほど軽く振り上げ、簡単そうにやって
のけます。水牛は一瞬暴れますが、出血量がすごいのでその場に倒れます。

 一頭倒れるごとに人々の興奮は上がっていきます。しかもこの儀式、
広場内で秩序よく進められるのかと思いきや、人々の興奮に乗ずるように
そこここでバッタバッタと倒され、広場の向こう側に注目していたら
すぐ近くで水牛がどさっと倒れる音がしたり、切り損じて暴れて逃亡する
水牛なども出て、もうてんてこ舞い!
 それでさらに人々の興奮は高まり、あたり一面血の海なのに、不思議と
怖さは全然なく、感覚が狂ってきて、これが葬儀なんだか祭りなんだか
わからなくなってきました。

 
 私の隣に中学生の男の子がいました。学校の帰り(サボリ?)に友達と立ち
寄ったようです。彼が私に声をかけてきました。
「なにじん?」
「日本人」
「こういうの日本にある?」
「ないよ」
「怖い?」
「うーん、ちょっとね…」
 すると彼は言いました。
「僕たちは大好きなんだ。だってご馳走が食べれるもの。家族で分けて
みんなで食べるんだよ。だからこれを見るのは大好き。」

 そういえばヨハネスも、この肉は切り分けられて親戚中、近所中に
配られるんだと言ってたっけ。
 実際、見ているうちに男衆が広場に入ってきて、水牛の角にロープを巻き
何人もで引っ張って集め、皮を剥ぎはじめました。(夫ヨシオは知らない人に
呼ばれて、この牛を引っ張る作業を手伝わされそうになってました。)

 その光景を見ながら、考えました。
 この一見残虐な行為は、本当に残虐なのでしょうか?確かに、葬儀に
動物を殺して喜ぶ人々なんて、私たちの常識から考えるとちょっと異常です。
 でも普段から日常的に水牛や牛肉を食べているような人間はごく一部です。
B町でも一般庶民は、だいたい魚、良くて鶏肉でした。
 ここの人々の興奮や歓声はたまのごちそうにありつけるというストレートな
反応なのでは…? みんな肉が自分たちの口に入るまでのプロセスを日常の
風景から知っています。だからこの命を無駄にしません。最後まできれいに
食べつくします。
 正直、ハッとなりました。私たちのほうこそ、どうなのだろうと。
 日本ではスーパーに行けば豚も牛もパックに入って売られています。
それを見て、生きている豚や牛を思い描くでしょうか?命を頂いてるといちいち
意識するでしょうか?
 ――私はしたことがありません。でもこの日以降、たまにですが、意識
するように心がけるようになったのは事実です。
 
 衝撃的で度肝を抜かれましたが、考えさせられもする、奥の深い経験でも
あったとつくづく感じました。
                              《つづく》

トラジャ紀行 その1

2006-08-19 00:35:00 | インドネシアでの暮らし。
 トラジャをご存知ですか?コーヒーを好きな方なら、豆の産地として
思い出されると思います。インドネシアスラウェシ島中部の高地に位置し、
独特の民族文化をもつ土地です。州都でもあるマカッサルからだと車で
8時間。私たちのいるB町からだと6時間。せっかくいい環境にあって
時間もあるのに、このチャンスを逃す手はないと思い立ち、2002年の
イスラムの祝日を利用し、2泊3日で行ってきました。その時の模様を、
日を追ってお話したいと思います。
 
 面子は同じ駐在のYさん(62)と住み込みコックのデディ(33)、私たち夫婦の
4人。トラジャ出身の知り合いが、偶然にも親戚のお葬式で帰省するという
ので、現地で落ちあうことになりました。
 
◇1日目◇
 朝6時に自宅を出発。デディはクリスチャンなのでこの祝日は関係
なく、しかも以前マカッサルからトラジャに豚の飼料用のおからを
運ぶバイトをしたことがあるそうで道に詳しく、今回は運転手に
任命されました。
 
 B町から北東へひた走ること6時間。トラジャへ到着。はじめの
4時間は平坦でほぼ直線の道だったので調子良かったのですが、
途中から山道になり、車に乗ってるだけでも結構くたくたになりました。
 
 ↓既に作ってあったアルバムのフィルム写真をデジカメで再撮影
 したものなので、かなり画像が悪いです。すみません。。。

↑↑↑トラジャへ向かう道からの眺め(山)。途中、崖沿いに建った
半屋外の食堂でトイレ休憩。パノラマの絶景を眺めながら白飯と簡単な
料理がたべられます。でもここでの一番のご馳走はこの景色!
この景色をおかずにご飯が2杯は食べられそうです。
 
 まずホテルへ。私たちの泊まるのはトラジャ中心部ランテパオから
車で1時間弱手前のマカレという町のHOTEL SAHID TORAJA。
 トラジャの伝統的家屋トンコナンを模したコテージタイプのホテルで
私たちの水準ではかーなーりの贅沢ゾーンに属する部屋でした

↑↑↑客室棟。1棟4室で、1部屋かなり広いです。このトンコナン型の
客室棟が建ち並ぶ様はいかにもトラジャって感じでわくわくします。
 
 ちょっと休んでからランテパオへ。観光地と聞いていましたが
小さな町で、土産物店も数件しかなく、まだ開発されていない
素朴さの残ったところでした。
観光客の姿もほとんど見られず、
たまに欧米人のバックパッカーを見る程度。
 「トラジャと言えば」のトンコナンも、想像していたほど建って
いなくて、トンコナン仕立ての看板とか、その程度でちょっと
がっかり

  
 トラジャ出身のヨハネス(37)と連絡が取れず、1日目はランテパオの
町をざっと見るにとどまり、レストラン(私たち以外の客ゼロ)で食事を
して、町に1件だけあったスーパーで水やお菓子、蚊取り線香などを調達
してホテルに戻りました。
 ホテルは閑散としていて、宿泊客は私たち以外に1組しかおらず、
夕食を取ったホテルのレストランもテーブル1つ分だけ照明をつけて
それ以外は消してあり、注文する料理の半分は品切れというあんばい
(そういえばレセプションも電気消えてた…。)
 それでもホテルの従業員たちは温かいインドネシアン・スマイルで
接してくれるので、「まぁいいか」と思えてきます。
 
 高地にあるため夜は寒いくらいで、部屋にエアコンもありません。
 ホテルの周りは田んぼと山以外に何もなく、ホテルの中も外も
ひっそりと静まり返った、本当に静かな夜が更けていくのでした。。。
                                《つづく》

言葉のはなし その2。

2006-08-17 22:22:00 | インドネシアでの暮らし。
 前回、インドネシア語を覚えるための先生が、生活に関わるすべての
人たちだったと話しました。今日は覚えるプロセスのお話です。
 
 私たちは夫婦揃って語学があまり得意ではありません。私なんかは、
結婚前には英会話を習ったりもして嫌いではないのですが、努力以外に
センスもあるんだろうと言い訳をしつつ、ほとんど話せません

 
 そんな私たちが放り込まれたBという辺鄙な町。もちろん通訳は
いましたが、その人ばかりに頼ってばかりもいられません。
 幸いみんな気さくで人懐こい人ばかりです。こりゃ話すしかない。
時間のあるときはなるべく従業員たちと一緒にいるようにしました。
みんな暇つぶしに、このへんてこな日本人とのへんてこな会話に
付き合ってくれます。
「○○って知ってる?」「●●は日本にある?」
 「日本は…」「日本人は…」みんな日本に興味があるようでいろんな
質問をしてきます。日本という国が想像もつかないようで、
「日本は雨降る?」「日本に猫いる?」なんて笑える質問も。
 途中でわからない単語があると「何それ?」私が聞きます。私が
インドネシアに行ってから最初に覚えたのは「apa?(何?)」だった
かも知れません。とにかくゼロからのスタートです。訊くことは尽き
ません。
 
 誰と話しても誰に訊いても、親切に教えてくれました。教える言葉も
インドネシア語だから、これがなかなか理解できない。でもちょっとした
きっかけ(知ってる単語だったり身振り手振りだったり)で理解できると
お互い喜んだりして。これが牛歩ながら結構勉強になります。
自分でも本で単語や会話を覚えもしましたが、本で覚えた単語は応用
しにくくすぐ忘れてしまう一方で、人との会話で覚えた単語はすぐに使えて、
使えばすぐ身になりました。
 
 日本に戻りもう3年になります。せっかく覚えたわずかなインドネシア
語も、もう忘れかけています。
 それで、これはやばいと思い、最近また独学で勉強を始めようかと
思っています。
 もちろん先ほども話しましたが、本で覚えるよりも人と話したほうが
効率はいいです。でもここではそんなチャンスはないし、何よりB町で
覚えたインドネシア語はあくまでも「口語」で、しかもなまりが強い。
ちゃんとした変化形も覚えたいし、ちっとは文章が読めるようにも
なりたい。
 
 って、時間の使い方が下手でなかなか効率のよい生活ができない私
ですが、まぁ期限が決まっているわけではないし、ノルマもない。気長に
やっていきます。でも頑張るぞー、おー。

言葉のはなし。

2006-08-14 22:23:35 | インドネシアでの暮らし。
 もうずいぶん前になりますが、私たちのインドネシア行きが
決まった時の話です。
 
 当時結婚したばかりで、やっぱり静岡にいた私たちは、近場に
インドネシア語を教える語学学校がひとつもなかったため、
とりあえずインドネシア語会話の本で独学を始めました。
 数字や体の部位を画用紙に大きく絵で表したり、家中の物に
インドネシア語で表記した名札をつけたり。
 …でも、それが全然覚えられない結局私たちがインド
ネシアに渡った時、覚えていたのは「selamat pagi(=おはよう)」
「nama saya ○○(=私の名前は○○です)」の2つだけでした。
全く何をやってんだか。トホホ
 
 現地B町は超田舎なので語学学校なんてものはなく、私たちは
生活を通して覚えていくしかなくなりました。毎日、従業員と話す。
漁師と話す。女中と話す。それ以外にも、工場の大家さんや工場で
作業をしている大工や溶接工、とにかく私たちの周りにいるすべての
人がインドネシア語の先生です。
 彼らはみんなとても人なつこく気さくで、日本人が珍しいので
気軽に声をかけてきます。漁村でも市場でもワルン(食堂)でも、
本当にどこででも。
 
 ただ、インドネシアにはインドネシア語という共通語のほかに、
各地域で定着している民族語があり、その数は100とも200とも
言われています。
 実際、私たちのいたB町で使われていたブギス語も、車で3時間も
走れば同じブギス語でも少し変化するようでした。
 土地の者同士はこのブギス語で話します。お年寄りの中には
ブギス語しか話せない人もいます。ブギス語は、とてもじゃないけど、
インドネシア語もままならない私たちが覚えられるような代物では
なかったので、結局ほんの少しの単語しか覚えられませんでした。
 さらに悲しいことに、肝心なインドネシア語もあまり「もの」には
なってません(ToT)。夫ヨシオのさわやかスマイル(←妻の私が
言うのもなんですが超さわやか)と私のおかしな身振り手振りで
まあ生活には困らないという程度のコミニュケーション術は身に
つきましたが。
 
 たとえうまく通じなくても、言葉の違う人と交流するのは楽しい
ですね。私は大好きです。お互いが真剣に話そうとしたとき、話の
内容は相手にうまく伝わらなかったとしても、言葉で表現できない、
目に見えない何かで相手とつながった気がします。
 そんなことを考えていると、またB町に行きたくなっちゃうミナコ
なのでした。。。
                        次回へつづく。。。

仕入れ中です

2006-08-14 21:12:41 | 見てみて!(商品紹介)
 このブログも本来はバリ雑貨のお店「フランジパニ・バリ」
の商品を紹介することを目的として始まったものでしたが、最近は
私ネタばかり投稿してスミマセン
 
 この11日から20日まで、myボスが仕入れ出張に出掛けて
おります。
 みなさんからご好評いただいているジェンガラアタのほか、
今月からオープンした2号店「フランジパニ・ドゥイ」向けの
アパレル商品も、myボスが厳しい選考眼で選り抜き、仕入れて
参りますので、新商品アップをお見逃しなく。。。
 
 私はというと、最近生意気さが増してきた娘と、女同士の
熱いバトルを繰り返す毎日です。
 それにしても毎日暑いですねぇ。みなさまも体調には十分に
お気をつけて、お互いがんばりましょうねぇ