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「空想から科学へ」フランス革命の5年間をみて①

2017-04-16 04:20:47 | 日記
フランス革命は、1789年7月14日、第3身分の国民が集まった議会を国王が弾圧してきたのに抗議して、パリの民衆が決起し、圧政の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃し、3万2千丁の小銃を奪ったことから始まりました。
 革命の時期には条件がさまざまに生まれますが、直接の火が付くきっかけは、王政の無駄使いでした。資本論にもでてくる資本主義社会の利潤第一を象徴する有名な言葉に「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」という言葉があります。これはもともとフランス国王の愛人が贅沢三昧をして財政が破たんしてきて、大臣がそこことを伝えたときに「財政危機の話なって、私が死んだあとのことにしてよ」と大臣を追い返したことにあります。

 民衆の決起をきっかけに権限を握った国民議会は、まず「封建制廃止宣言」、続いて「人権宣言」を発表。これはアメリカの独立宣言に続くものでヨーロッパでは最初の人権宣言です。
 この宣言が出される背景には、フランスの封建体制を批判を批判する思想家、理論家の強力な流れが生まれてきていて、その一人である
ルソー(1713~78年)は「人間不平等起源論」という本を革命の34年前にだし、人間は生まれながらにして平等だった、不平等は人間が生まれてから社会に持ち込まれたものだということを訴えていました。
 しかし、この人権宣言が保障したのは、男性の人権だけであり、女性は除外されていたことは、18から19世紀のブルジョア民主しゅいぎの歴史的限界でした。

 パリの変動に刺激されて、農村部でも暴動や蜂起がおこり始め、フランス全土が騒然となるなか、国王の逃亡事件が起こります。国王は外国と通謀して国内の革命をつぶすたくらみの乗り出したのです。
 このころから革命は、第2段階に入ります。1791年につくられたフランス憲法にもとづき、1791年選挙で立法議会が成立し、その議会のもとで、攻め込んでくる反革命干渉軍に対して革命フランスを防衛する戦争がはじまります。反革命連合は、オーストリア皇帝とプロイセン王がフランス革命に反対する宣言を発表し、1792年4月に戦争がはじまりました。イギリスも加わり、1793年には、スイスとスカンディナヴィア諸国を除く全ヨーロッパが反革命干渉軍に参加したのです。

 マルセイユ地方から来た義勇軍が勇ましい歌を歌いながら祖国防衛に参加します。そのときに歌っていた歌が「ラ・マスセイエーズ」で今のフランス国家です。
革命の段階も、戦争に勝つためにももっと強力な革命政府を、とパリの民衆が決起したのが1792年8月のことで、最初のバスティーユ州毛の際は突然でしたが、パリの各地区に民衆の革命組織ができて、準備されたうえで、8月10日政府や議会を包囲、王宮も占領して、王政をやめて共和制にすすもうという要求を国民議会につきつけます。共和制は人権宣言の先輩であるアメリカですでに実現されていたのでした。  つづく


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