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仏印の思い出

2008-11-19 12:47:07 | Weblog
私は昭和19に応召して兵隊で仏印(現ベトナム)にいた。
終戦になり23年に復員した。

兵隊として捕虜として過ごした時代のことであり、正確さわ疑問だが…


現地の民家には便所がないのは、税金をとられるからと聞いた。
鉄道の枕木はレールは、レールと同じ鉄製である。


終戦後仏印にいて思ったのは
フランスの植民政策として可憐追求が激しく行われたのであろうと思った。
また、日本が満州国を作ったが、五族協和を称えていたこととの差異を思った。

同時に植民政策としてどちらが有利かも考えた。
フランスの可憐追求の植民政策も、日本の五族協和植民政策も、ともに終わりがあるものならば、果たしてどちらが有利であろうかと考えた。


今、日本は中国への侵略は無かったと称える人がいるのを聞き、改めて思い出した。

日本に侵略の意思があかったとしても、相手国の人たちに反日本の思いがあったと
思われる。
終戦の翌日には相手国民衆の反撃を受けている。鬱積した反抗が爆発したのであろう。



幼い恋心

2008-11-14 22:51:16 | Weblog
親しい女性のプログにありました。
「まだ早い?!」
今日自宅へ帰るとかわいいキーホルダとともに
手紙が置いてあった。
丁寧に石で飛ばないようにとめてあり
次男宛の手紙。

「好きです。結婚してください。」

そうかあ。
小学2年生でもこんな手紙のやりとりあるんだね~。

当の本人はあまり興味がない様子。



(毎日のように「あそぼー」とやっくるそうだ。)




私の幼い頃、小学6年くらいだったか近所の女の子に、恋心を抱いていた。
でも手紙とまではいかなかった。
世も変わってきたのだろうか。

女性のスーツ

2008-11-14 22:21:02 | Weblog
私たちの世代は、緒方貞子さんや田嶋陽子さんといった「働く女性第一世代」の次にあたる、いわば第二世だと思っています。
第一世代は名目だけの男女平等でしたが、
86年に男女雇用機会均等法が施行されたこともあって、
第二世代は男女同格な扱いを受けてきました。
それでもまだ「空気のような差別」は残っています。
パーティに行けばずらりとダークスーツの男性が並んでいますし、新幹線のグリーン車や飛行機のビジネス席を見回しても女性はまだ1~2割程度。
働く女性が増えたといっても、もう一つ上のエグゼクティブ層となると日本はまだ数は少ないのです。
欧米の場合、半数近くが女性ということも珍しくありません。

第一世代の女性は、男性社会の中で自分たちをの存在を主張するためか、赤や青、緑といった原色のスーツを着ていることが多かった。
逆に第二世代は、私を含めほとんどがダークスーツです。
男性と似たものを着ることで、自分たちは男性と同じようによく働きますよ、と示している。
ダークスーツはひとつの記号なのです。 文春20年11月号 勝間和代(経済評論家)


そう言われると、そうかと思う。


人生のフィニッシュ

2008-03-27 00:24:46 | Weblog

流血の役レスラーは語る。(文春3月号)

引退と言えば私にはこんな夢がある。
観客でふくれ上がった大きな会場で試合をしている。
そこで私は得意技の、体重を乗せてヒジを叩き込むエルギー・ドロップを決める。そのまま相手に覆いかぶそると、レフリーがカウントを数える。「ワン・ツー・スリー」レフリーが勝った私を抱き起こして、手を挙げようとするが、その時に私はすでに死んでいる。
こういう形で人生のフィニッシュを迎えることができれば幸せだ。



私はそこまでは思いつかなかった。絵筆をにぎったままのフィニッシュとは。
ぴんぴんころり、くらいである。3日寝てころり。




絵 : リビングストンデージー

トイレとベッド

2008-03-27 00:01:55 | Weblog

流血の悪役レスラーが語る。(文春3月号)

70年代にはジャパニーズ・スタイルしかなく、用を足すたびにスワット(足を屈伸するトレーニング)をしなければいけなかったので閉口していた。
いまは西洋式のトイレも増えたし、あの、お湯がビュッと出るトイレは最高だ。

ベットも一般的になった。一昔前の宿泊施設にはベッドがなく、私も布団で寝ていた。私は体が重いので布団から起きるの大変だった。畳の上を壁まで転がっていき、壁につかまりながら起き上がったりしたものだ。



私は布団から起き上がるのに大変な苦労をするようになっていた。さっさと起き上がることは到底不可能である。
ベットに代え、その苦労は解消してした。
苦労がないだけに、その能力はますますなくなることだろう。

トイレは和は避けている。立ち上がるのにくろうがある。




絵 : もくれん

瑞々しく

2008-03-20 10:15:34 | Weblog

「人の一生で大事なのは、どう枯れるかではないでしょうか。
干物になったらだめですね。
瑞々しく枯れたいんです。」

(文芸春秋20年3月号 作家・作詞家松本隆)





絵:琵琶湖のヨットハーバー

ばんぺいゆ

2008-01-21 20:45:54 | Weblog

晩色柚(ばんぺいゆ)を八代の孫から、90歳の祝いにもらった。

今までばんぺいゆをうまいと思った経験はなかった。
だが、今度のはうまかった。

コクはないがサッパリした美味。


晩白柚は原産地マレー半島。昭和10年頃から熊本県果樹試験場で試作され、八代地方に適することが判り、昭和30年代から栽培され八代の特産物として商品価値の高い果実となっている。
平成3年世界のジャンボみかんとして認定された果実である。


ばんぺいゆ 1個   2kg
ぼんかん  1個 138g




ばんぺいゆの色が緑に見えるが黄色である。
写真 : ばんぺいゆ・ぼんかん

90歳

2008-01-09 14:13:31 | Weblog

誕生日 大正7年1月9日(1918年)

世の中
この時代は第一次欧州大戦のあと大正デモクラシーの安定期とみられるが、都市に享楽的な文化が生まれ、スラムの形成、民衆騒擾、労働争議など社会的な矛盾が深まった。



ワイフ貰ってうれしかったが
いつも出てくるおかずはコロッケ
今日もコロッケ明日もコロッケ
これじゃ年がら年中コロッケ

この歌が生まれたとき、生まれたとは知らなかった。


浦田 豊個展に寄せて(2002年10月)   竹本 保(銀光会会長)
(略)84歳の今日も絵の創作に意欲をもって励んでおられることは、高齢化社会のよき模範であり、なかなか少ないのではないでしょうか。
浦田さんの作品は、近年ますます色も明るく、元気なものが多くみられます。
本人の熱意は勿論ですが、特に付言したいことは、浦田さんの手となり足となって奥様の陰の尽力です。どこの研究会場でも浦田さんの傍らには奥様の姿をお見受けいたしました。
今回の個展の成功はご夫妻お二人の協力の賜物でしょう。(略)
(竹本先生は個展の前に亡くなられました。病床にあって書かれたものです。)

私は幼い頃から病弱だった。
運動会はイヤだった。走るのは不得手。
絵はいつも教室のうしろに張り出されていた。

柳に風折れなしとか。

桃太郎、金太郎のように太郎とつけたらと豊太郎
誰もが「ゆーちゃん」

豊太郎はミクシーで88歳に生きあがった。


幼いときから母に支えられ、妻にささえられ、私の今日がある。



兵隊では応召で仏印(ベトナム)。
炊事当番では薪わり、石炭運びはペケ。
射撃は小隊長より点が上で羊羹の褒美。
銃を担いで長距離走るのは上位。

兵隊では上等兵で下から2番目の位。


アメバー赤痢になって体はふくれあがり、肺を圧迫し十分空気が吸えない状態になって、あと何日かと。
終戦となり、特効薬エメチンを注射、たちまち回復。
終戦が私の命を助けた。運命か。

復員後、熊本県庁。
労働委員会事務局では労働争議にかかわり説得のしかたが身についた。
双方の主張を聞くことからはじめた。
その後の職場でも、退職後も役立った。

人事課では新任の監督者研修を担当。
いつか職場の多くの人を動かす能力が身についた。

福祉関係では知事代理で身障者のパラリンピックに参加、福祉への理解。
握手もここで覚え身についた。今もそうしている。



町内自治会長は10年。その間に小学校区の青少年協議会長、公民館長。
「あいさつのまち ふれあいのまち 花のまち」
節水の問題で市役所の若い職員がなっぱ服できて「驚いたことがある。道々皆さんからあいさつを受けた」という。
水資源のことで市役所が説明会を開きたいと要請があった。
そのときは400人の人が集まってくれた。これには市の課長はじめ驚かれた。以来市の信任は深く。
水資源愛護賞と副賞30万円。
花つくりでは、毎日新聞社の表彰をうけた。


大連・旅順の学校出身者の「旅大合同同窓会」会長を26年。
アカシアにあこがれる者たちの集いである。年1回130人参加。



63歳 油絵  68歳 車の免許  70歳 ワープロ  75歳 カメラ  84歳 パソコン 85歳 デジカメ  87歳 ブログ  88歳ミクシー


大きな節目を越えた。



絵 : マンドリンのある静物

今年の事 (2007年)

2007-12-31 09:52:37 | Weblog

私の10大ニュースではないが、今年のことを忘れないために。

1 ひ孫は、今年生まれの一人を加え8人となった。少子化対策。
2 今年ミクシーに載せた絵は639枚。うち油彩は47枚。ローソクの最後か。
3 新築祝いなどで差し上げた油彩は3人へ5枚。役にはたったが、惜しい気も。
4 89歳の終わりかた、整骨院のリハビリで歩きやすくなった。復旧の力が残っているのか。
5 車の運転を5月にやめた。遅すぎだが、事故のないうちに。
6 車をやめたので、パソコン教室・崇城大美研はやめた。長年通っていた病院は、バス路線のあるところに代えた。一箇所では看護師長さん涙の別れ。
7 旅大合同同窓会長を26年つづけていたが、やめた。すべての役職はなくなった。
8 銀光会展・東光展など公募展は今年で終わりとした。最後に今年東光展小品部門に入選した。いちょうの会はやめた。
 銀光会・東光会は20年1月9日誕生日にやめたい。
 近くの公民館で絵画の学習はつづける。
 絵仲間3人毎月のスケッチ会楽しくガンバった。
10 ブログのタイトルを「90までガンバルつもり」としていたが「描けるまでガンバルつもり」と改めた。



(絵) : 江津湖広木公園

はつゆめ

2007-12-29 07:43:07 | Weblog

ゆめは毎夜何度もみる。

今日の夢はみたことのない夢である。
夢にも種類があるのだと知った。


友だちとどこか分からないが歩いている。
どんどん歩いている。

いつのまにか馬の背のような岩に馬乗りになって進んでいく。

突然パッと開けた。
海がみえたのだ。

そこでも馬の背よりは、広いけどやはり馬乗りですすんでいく。
馬乗りの岩には彫刻がほどこされている。

ややすすむと、1メートルほどもある大きな人間の頭部の彫刻があった。
友人は彫刻の頭部を押し倒して海に落としてすすんでいる。
何度か海に突き落としていた。

頭部彫刻と頭部彫刻の間は間隔があいて海の水面がある。
僅かな間隔を水に入って進んだ。

陸には家も見える。
カメラを買って景色を写し皆に見せようと思う。

ここがどこかも尋ねたいと思った。 



どうやら絵になるところを探していたようだ。



こんな夢ははじめてだから初夢。
まったく違った夢である。




(絵) : バラ