サッカークラブ事務局日誌

横手FC・横手市サッカー協会・東北クラブユースサッカー連盟の事務局日誌です。

中村俊輔 マリノス 昔話 中村さん

2009-06-23 13:40:20 | その他サッカーについて

マリノスが秋田で試合をしました。


その時、マリノスの運営委員と一献傾ける機会がありました。


新人でシュンスケっていうのが良いんだよって話になって、じゃ将来のためにサインをもらっておきたいねって、お願いしたのが、これです



10番を背負っていたときにもらったやつですけど・・・


その新人の時のエピソードは、97年ワールドユースの大会でマレーシアに行って●●●●●をしたとか、(彼の名誉のためにもここには書けないけど)いろいろ面白い話を聞くことができました。


それから数年たって、日本を旅立ちイタリアやスコットランドに移籍したのは皆さんもご承知の通りでしょう。


そして、今回念願のスペインへ・・・


頑張ってほしいものです。


ただ、今回の件でマリノスのフロントがボロクソに言われてますが・・・


当時の運営委員で現在取締役の、奇遇にも「ナカムラ」さんという、こんな人もいるのですが・・・




以下、日刊スポーツの記者ブログより

横浜の輝き支える男:盧載鎭
 どのジャンルにも、表には出ない、いわゆる「陰の功労者」が必ずいる。今回は、サッカーを約10年間取材した中で、私一押しの「縁の下の力持ち」を紹介したい。

 2年連続のJ優勝を支えた横浜の中村勝則取締役(48)である。

 1979年から日産自動車サッカー部のマネジャーを7年間務めた。86年から日産本社の営業部で働き、J開幕前の92年に日産プロサッカー準備室の一員としてサッカーの世界へ戻った。J元年の93年にはJリーグ運営委員会など7つの委員会にも所属。99年から強化本部長、03年には取締役になった。

 横浜のNO・2のポストに就いたが、地味なことにも労を惜しまない。左伴社長の補佐・参謀役が主な仕事だが、一方では選手家族のケアや外国人選手の世話なども率先してこなす。引退した選手の面倒も見る。

 99年末、ミスターマリノス・井原正巳にクビ宣告をしたのが、当時強化本部長の中村氏だった。日産時代から10年間在籍した功労者で1億円プレーヤーのスター選手に0円提示した。恨まれて当然。しかし3年後、井原が引退試合の相談をしたのは中村氏だった。他にもラモス瑠偉や北沢豪の引退試合も手伝った。当時「なんで他のチームの選手まで面倒を見るのか」と聞いたら「日本リーグ時代から苦労した仲間なんだ。手伝うのが当然でしょう」と返ってきた。

 J創立とともにサッカーの知名度が高まり、有名選手の後援会発足がブームになった時期がある。中村氏は井原、川口能活、小村徳男、鈴木正治らの後援会の規約作りにもアイデアを出し、会合にも出席するなど、バックアップした。

 また好きでもないハンバーガーセットを頼んで、それに付いている景品を選手の子供にあげたり、休みを返上してまで外国人選手の家族のために、子供の幼稚園や学校を探したりもした。「家族が日本の生活に慣れないと、選手のパフォーマンスにも影響するから」の信念があったからだ。

 今年5月には、昨季で横浜をクビになった韓国代表MF柳想鉄が日本にひざの治療に来たとの情報をキャッチすると、東京へ車を飛ばした。一緒に食事して悩みの相談にも乗った。柳は「僕をクビにした人だけど、日本にいる間、絶えず家族の面倒を見てくれたから。その恩は忘れない」と話した。

 心配りはスタッフにまで及ぶ。「記念日手帳」を作成し、現役や引退した選手、スタッフや部下の家族全員の誕生日、結婚記念日、身内の命日など365日中、250日以上がメモされている。部下の子供の誕生日には横浜市内の自宅に招待し、誕生パーティーも開く。

 中村氏の功績は、表彰に値しないものなのかもしれない。だが、こういう人がいる限り、横浜はこれからもJの中で輝きを放ち続けるだろう。



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