今朝(2015/8/12)の神奈川新聞に
終戦直後に保護され、亡くなって埋葬された
混血児たちの記事が大きく出ている。
三木崇記者の熱心な取材によるものである。
JR根岸線山手の駅を降りて、向かいの丘へ
少し上がったところにあるのが根岸外国人墓地。
横浜にある四つの外国人墓地のひとつだ。
先日もここで書いたが、概略を簡単に
説明させていただく。
墓地の上にある仲尾台中学校で教師をして
おられた田村泰治さんは、生徒達とともに
墓地の清掃、調査、研究を続け、1997年に
上梓された「郷土横浜を拓く」という史論集に
その成果を詳しく書かれた。
あまり人に知られていないこの墓地には
終戦後、占領軍である米軍兵士と日本女性との間に
生まれた子供、800人余りが、ひっそりと
葬られているという。
横浜は空襲で焼け野原。治安、食糧事情は最悪。
人の心はすさみ、混血児差別も公然と行われていた。
そんな頃に生まれ、生きることの出来なかった子供達である。
1999年、山手ライオンズクラブは、クラブ創立
30周年として、そうした子供達のための慰霊碑を建てた。
私はこの話を取材し、「天使がブルースを歌う」(毎日新聞社)
というノンフィクションを書いた。
慰霊碑建立のためのチャリティーソングを
歌手のエディ藩さんとともにつくり、協力させていただいた。
子供達のことを説明した碑を慰霊碑のそばに
建てることは、横浜市役所が許可しなかった。
いまも慰霊碑は墓地にぽつんと立っているが
それが「片翼の天使」(翔べない天使達)を表したものだと
知るすべはない。

しかしその時点では、墓地の門のそばにある
案内板に、「ここには米軍兵士と日本人女性との間に
生まれた子供達が800人くらいも眠っている」ということが
ちゃんと記載されていた。案内板は日本語と英語で
書かれており、この記載があったのは英文の方だけではあるが。
慰霊碑を建てることに神経質だった横浜市衛生局だが
そのわりに墓地に対して興味がなかったらしく
この案内板の文言に気付かなかったようだ。
が、慰霊碑が建てられた翌年になって、ようやく
気付いたらしく、子供達の部分が書き換えられ、
削り取られていた。
いまも英文の方だけ、不自然にかすれて読めない状態である。
神奈川新聞の三木記者が、このことを調べ直すというので
私も取材に同行させていただいた。
終戦直後、このような混血児を多く保護した
山手の聖母愛児園、慰霊碑建立の実行委員長だった
YC&AC総支配人の依田さん、調査研究をされた
田村泰治さん、さらには英連邦墓地、
聖母愛児園の墓地があった聖母の園などを、三木記者と
一緒に訪れたが、横浜市役所だけは、私が来ることを拒んだ。
理由も言ってくれず、ただ、山崎洋子は来てはならないと。
私は関西に生まれたが、子供の頃から横浜に憧れ
念願叶って浜市民になった。
横浜を愛することにかけては、昔も現在も
人後に落ちないと自負している。
横浜のイメージを悪くしようとか、貶めようとか
そんなことを考えたことは一度もない。
愛するが故に歴史の事実を知りたいだけだ。
なのに、こちらの話も聞かず、理由も言ってもらえないまま
「来るな」と拒まれた。
この人達と私とでは「愛」のありかたが違うのだろう。
ただただ、哀しく残念である。
しかしこのたび、三木記者が取材の成果を書いてくださった。
22面は「裏面史どう向き合う」

後ろの21面にも「消された〝天使〟たち」
という大きな記事が。(聖母愛児園と児童相談所のの取材中心)

写真では読みにくいと思うので、
ぜひ、神奈川新聞を購入し
じっくり読んでいただきたい。
終戦直後に保護され、亡くなって埋葬された
混血児たちの記事が大きく出ている。
三木崇記者の熱心な取材によるものである。
JR根岸線山手の駅を降りて、向かいの丘へ
少し上がったところにあるのが根岸外国人墓地。
横浜にある四つの外国人墓地のひとつだ。
先日もここで書いたが、概略を簡単に
説明させていただく。
墓地の上にある仲尾台中学校で教師をして
おられた田村泰治さんは、生徒達とともに
墓地の清掃、調査、研究を続け、1997年に
上梓された「郷土横浜を拓く」という史論集に
その成果を詳しく書かれた。
あまり人に知られていないこの墓地には
終戦後、占領軍である米軍兵士と日本女性との間に
生まれた子供、800人余りが、ひっそりと
葬られているという。
横浜は空襲で焼け野原。治安、食糧事情は最悪。
人の心はすさみ、混血児差別も公然と行われていた。
そんな頃に生まれ、生きることの出来なかった子供達である。
1999年、山手ライオンズクラブは、クラブ創立
30周年として、そうした子供達のための慰霊碑を建てた。
私はこの話を取材し、「天使がブルースを歌う」(毎日新聞社)
というノンフィクションを書いた。
慰霊碑建立のためのチャリティーソングを
歌手のエディ藩さんとともにつくり、協力させていただいた。
子供達のことを説明した碑を慰霊碑のそばに
建てることは、横浜市役所が許可しなかった。
いまも慰霊碑は墓地にぽつんと立っているが
それが「片翼の天使」(翔べない天使達)を表したものだと
知るすべはない。

しかしその時点では、墓地の門のそばにある
案内板に、「ここには米軍兵士と日本人女性との間に
生まれた子供達が800人くらいも眠っている」ということが
ちゃんと記載されていた。案内板は日本語と英語で
書かれており、この記載があったのは英文の方だけではあるが。
慰霊碑を建てることに神経質だった横浜市衛生局だが
そのわりに墓地に対して興味がなかったらしく
この案内板の文言に気付かなかったようだ。
が、慰霊碑が建てられた翌年になって、ようやく
気付いたらしく、子供達の部分が書き換えられ、
削り取られていた。
いまも英文の方だけ、不自然にかすれて読めない状態である。
神奈川新聞の三木記者が、このことを調べ直すというので
私も取材に同行させていただいた。
終戦直後、このような混血児を多く保護した
山手の聖母愛児園、慰霊碑建立の実行委員長だった
YC&AC総支配人の依田さん、調査研究をされた
田村泰治さん、さらには英連邦墓地、
聖母愛児園の墓地があった聖母の園などを、三木記者と
一緒に訪れたが、横浜市役所だけは、私が来ることを拒んだ。
理由も言ってくれず、ただ、山崎洋子は来てはならないと。
私は関西に生まれたが、子供の頃から横浜に憧れ
念願叶って浜市民になった。
横浜を愛することにかけては、昔も現在も
人後に落ちないと自負している。
横浜のイメージを悪くしようとか、貶めようとか
そんなことを考えたことは一度もない。
愛するが故に歴史の事実を知りたいだけだ。
なのに、こちらの話も聞かず、理由も言ってもらえないまま
「来るな」と拒まれた。
この人達と私とでは「愛」のありかたが違うのだろう。
ただただ、哀しく残念である。
しかしこのたび、三木記者が取材の成果を書いてくださった。
22面は「裏面史どう向き合う」

後ろの21面にも「消された〝天使〟たち」
という大きな記事が。(聖母愛児園と児童相談所のの取材中心)

写真では読みにくいと思うので、
ぜひ、神奈川新聞を購入し
じっくり読んでいただきたい。