選挙ブログ

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宮崎政界~政争の四半世紀

2007-01-16 | 大分・宮崎
 県知事選に当たり、保守分裂の経緯が分からないとの声をいただきましたので、まとめました。
 宮崎の保守対立の構造は、郵政騒動と根の深さが段違いに異なり、四半世紀も以上も続いています。
 経緯を紐解くと、対立の構造が余計にわからなくなります。

 ①知事と国会議員の確執から、②知事が逮捕される疑獄事件が発生。
 その後、真偽不明の暴露合戦、双方が矛を収める形で、松形知事が誕生。
 ③松形を知事に戴きながらも、江藤・上杉を中心に絶えず紛争が勃発。
 ④01参院選公認問題をめぐり、長峯と上杉に確執が生まれる。
 ⑤03知事選で、松形後継をめぐり保守分裂。
 ⑥03衆院選で、大物の引退が相次ぎ、各々の後継者が無所属として戦う。
 ⑦04参院選で、長峯派の松下が、上杉を破る。
 ⑧郵政騒動で、参院落選の上杉、衆院落選の黒木・持永と造反組が戦う。
 ⑨宮崎市長選で、中山が津村と戦い、津村支持派との保守分裂。
 ⑩07宮崎県知事選。

 内紛に次ぐ内紛、しかも、対立構造が毎回微妙に違っていたりもします。  

=79黒木事件=

 宮崎県では79年、当時の黒木博知事が「受託収賄」で逮捕、起訴された。
 その後、二審で無罪が確定している。
 この事件は同知事の6選阻止のため、反黒木派による、仕組まれた政治的陰謀事件であったとされる。
 この時の知事の秘書が、安藤であった。

 これ以降、黒木派と反黒木派が激烈を極めた抗争を繰り広げることとなる。
 黒木派=瀬戸山・上杉・民社党、反黒木派=江藤・社会党という構図であった。
 前回選挙で小谷政一を立てるなど、知事の黒木博と対立した江藤。
 黒木とは、姻戚関係も含め、深い結びつきを持つ上杉。
 とりわけ、この二人の対立は激しかった。

=松形時代=

 黒木は辞職に際して、旧林野庁出身の松形を後継者に指名した。
 
 その、松形祐堯は79年から03年まで6期勤めた。
 黒木博も59年から79年の20年という長期政権であった。

 松形は最初の選挙こそ6割強の得票率に留まったが、83・87・91の選挙では9割に迫る得票で当選。
 多選の弊害の声が出始めた95知事選でも7割を超える得票で5選を果たした。

 そんな中、県庁内で台頭してきたのが、牧野である。
 県庁で逆らえるものがいなかったといわれる。 

 99知事選には、松形県政を支えてきた県議会自民会派から議長・副議長経験者、そして県幹部であった安藤らの保守候補を含む六人が乱立した。
 6選を果たした松形であったが、得票率は4割強と冴えないものであった。

 松形の長期政権下における閉塞感は、県民の間に広がりつつあった。

 02えびの市長選。
 松形の実弟が四期で市長職を退いた。
 その松方後継候補が、大きな後援母体を持たない宮崎道公に、大差で敗れた。
 市政に対する有権者の不満が組織型選挙を凌駕した。

 松形政権が終わりに近づいていることは、明白となった。

=01参院選=

 上杉は、平成研の参院会長という権力絶頂期で、青木の右腕と目されていた。
 その上杉が、参院現職の長峯の公認を外し、自派の候補を公認とした。
 長峯が、息子や松下を通じ江藤拓と接近したことが争いの発端とされるが不明。
 このことが、新たな紛争の火種となり、04参院選を経て、今に至る。

=03知事選=

 松形は6期で知事の引退、後継と目されたのが県出納長の牧野俊雄であった。
 

 安藤忠恕が知名度を伸ばしていることに、牧野陣営は焦りを感じていた。
 参院議員の上杉光弘の周囲に立候補の動きが見える。

 永田町の江藤派事務所で衆院議員の江藤隆美と上杉光弘が歴史的な会談。
 松形時代に絶え間なかった抗争の和解の契機となるかに見えた。

 宮崎市長の津村重光は、民社党出身ながら自民とも満遍なく付き合ってきた。
 知事選転出が噂されたものの、本人が立候補を否定した。

 99知事選で約八万千票を得た元県議会議長の工藤悟は色気を隠さない。
 01参院選に立候補した長峯基、東治男は国政にこだわる姿勢をみせる。


 安藤も牧野も県庁出身。
 安藤は前回選挙に出馬するまで、牧野と同様に、松形を支える立場であった。
 候補者としての色合いに、大きな違いは無かった。
 ただ一点、牧野は「松形の後継者」であっただけだ。


当選 安藤忠恕  274 無・新

落選 牧野俊雄  248 無・新

 
 長期政権で権勢を誇っていた牧野に、宮崎の主要な団体の支持が集まってくる。
 牧野断然有利との下馬評であった。
 しかし、蓋を開けてみれば、当選したのは安藤であった。

 松形政権での閉塞感は、県民の間で充満していたのである。

 選挙結果が出るまでは牧野陣営には溢れんばかりの人がひしめいていた。
 「安藤当確」が報道され、牧野の事務所をテレビが映す。
 すると、さっきまで立錐の余地なしであった事務所が閑散としていた。
 当選確実だったはずの牧野が、支援者が誰もいなくなった選挙事務所に一人立っていた。
 安藤の報復を恐れた牧野の支援者が、雲の子を散らしたのである。
 
 03知事選では、松形後継の牧野に江藤派が与し、劣勢の安藤候補に終盤、形勢を観ていた上杉派が加担して勝利したといわれる。

 安藤は当選直後の幹部職員人事で、40人に近い「報復人事」を行った。
 その後、安藤は中山成彬衆院議員に急接近、直前まで、東京・中山後援会の副会長であった坂佳代子を副知事に起用した。

=03衆院選=

 江藤隆美(中曽根)、大原一三(田中)、持永和見(大平)、堀之内久男(中曽根)が引退。
 長年の対立構造から、後継候補者の一本化は不可能であった。
 2区で江藤拓・黒木健司、3区で持永哲志・古川禎久が無所属で出馬。
 分裂選挙の末、江藤・古川が当選。

=04参院選=

 自民会派の松下が離党し、上杉が落選。
 (別掲)

=05衆院選=

 郵政騒動が絡み、事態が収集不能。
 (別掲) 

=06宮崎市長選=

 自民党県連は不介入、公明党県本部は自主投票であった。

 戸敷は、一旦住民投票によって合併特例区の区長に選ばれ、新市の地域担当助役に内定していた。
 しかし、中山成彬衆院議員が県都の自民系市長奪回を名目に擁立、突然立候補を表明した。

 選挙戦は、戸敷が佐土原特例区以外には足場がなく、中山の後援組織丸抱えとなり、津村vs中山の対決となった。

 中山の戸敷推薦要請を、前例がないとして自民党県連は了承しなかった。
 これを受け、中山は、津村支持の県議・市議の非公認・除名を公言、津村支持の県議・市議の猛反発を招いた。
 中山は、この発言で、自民対非自民の選挙戦略を自ら崩した。

 また、中山は自民党県連を経由せず、直接東京の党本部を動かし、国会開催中であるにも拘わらず、連日国会議員を動員した。

 安倍晋三・内閣官房長官のメッセージが読み上げられた。
 さらに、片山虎之助・参院幹事長や山谷えり子・参院議員などの国会議員が来援し、拉致問題で名を馳せた中山恭子夫人(元内閣参与)も活用した。
 戸敷のビラに、安藤忠恕宮崎県知事が登場、戸敷支援を明確に打ち出した。
 安藤=中山の密月ぶりを窺わせた。

 また、右翼団体による津村糾弾など、なりふり構わぬ選挙戦が展開された。

 3期の実績のある津村も、思わぬ苦戦を強いられた。 

しかし、津村重光が、どうにか戸敷正をかわし、4選を果たした。


当選 津村重光  800 無・現 4選 =民主・社民推薦

落選 戸敷 正   702 無・新  

落選 松本 隆    54 共・新


2 コメント

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修正 (元住民)
2007-07-30 22:58:11
この手の対決は中選挙制度に遡ります。というのも、宮崎1区(定員3)は旭化成のバックアップのある民社党の指定席を除けば、自民2人+社会党で2議席を争う激戦区で、毎回落選者が違う凄まじいものだったからです。その闘いに置いて、県内唯一人口の集中を続ける宮崎市長との関係が段々重要になってきます。それでも1974年までは宮崎市長選挙は保革対決でしたが、社会党凋落の影響で独自候補見送りとなった1978年からは保守対決になります。この時、清山市長(江藤)に挑戦した中村(大原)が社会党の支援を受けて当選し、その復讐のような形で半年後に黒木疑獄が起こり、続けて保守分裂の県知事選挙(1979年)となります。この時、小森(何派か知らない)と小谷(江藤派)が立って、社会党は小森を応援しました。

という訳で、社会党が1980年前後に知事選/市長選で組んでいたのは江藤でなく大原(反江藤)です。

あと、松形は参議院選挙にでて落ちたのを『無害』と思われて、リリーフがわりに知事になったという経緯があります。それで、黒木(宮崎交通派)の後継者でありながら、敵陣営のフェニックス(シーガイア)の佐藤社長と組むという事がありえた訳です。
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ありがとうございます (やおよろず)
2007-08-25 01:21:44
 地元民でしかわからない細かな事情やニュアンスに関する情報は、とてもありがたいです。
 なかなか、得られる情報も限られてきますので、どうしても、単純化等によって誤謬が含まれてしまいます。

 これからも、お気づきの点があれば、指摘してください。
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