私の故郷はチベットではアムド地域のンガワ(もしくはンガパ)と言いますが、中国側では四川省のアバチベット族チャン族自治州アバ県と言われております。今回の地震はこのアバ自治州の南部で起こりました。
震源地の汶川県、被害の大きかった映秀、都江堰は成都からバスで田舎に帰るとき必ず通る町です。特に、汶川県はンガワを出て、その日の晩に必ず宿泊する町で、次の日に成都に向かっていました。また成都から帰るときにも汶川県で昼食を取ったり、休憩をしたりしていました。そのため、私個人としても非常に思い出深い町なのです。
今回は弟の息子を含め、2人の甥と姪が汶川県の高校と師範学校で寮生活をしていて、被災しました。県の中心部にある学校は強い揺れによって、校舎のほとんどが使えなくなってしまいましたが、幸い倒壊はしなかったので、甥も姪も無事でした。
地震発生の当日、弟2人と2番目の兄も自分の息子、娘を助けるため、汶川県に向け、車で出発しましたが、途中の橋が落ちていたため、引き返し、次の日の再チャレンジで、迂回路を通って、なんとか途中まで行きました。但し、そこからは道が寸断されていたので、上の弟と2番目の兄は徒歩で汶川県に向かったのです。その道中は非常に危険なものでした。今にも土砂崩れの起きそうな山肌をいくつも越えながら、2次災害に遭われたのではないかと思われる何体もの遺体も見たそうです。幸運にも、彼らは汶川県で甥、姪たちと会うことができ、すぐに故郷ンガワに連れ帰ったのですが、帰路も同じように大変危険で、生きた心地がしなかったそうです。
実は、一番上の兄も運送業を始めたばかりの次男の運転するトラックに乗っていて、汶川県の53キロ手前で地震に遭いました。兄らふたりも弟たちと同じ日に命からがら故郷に帰りました。
私の身内ももしかすると命を落としていたかもしれません。人事ではありません。今回の地震できわだっているのは、学校の倒壊であり、それによって亡くなった子供たちの数が異常に多いということです。犠牲になった子供たちのことや命は助かったものの大きな怪我をした子供、家族を失った人々の悲しみを考えると、沈黙を保つことなどできません。もちろん使命感というのもありますが、今のところは、ただ困っている人々を少しでも助けてあげたいという衝動に突き動かされているのです。
この11年間、チベットの学校建設活動、教育支援をしてきましたが、この度、これとは別に四川省大地震救援基金を設立しました。
被害にあった子供たちの学費などの支援、倒壊した学校の修復費の支援をしたいと思っています。
中国の政府や外国の救援隊もよく頑張っておられると思います。幹線道路上の大きな町では懸命な救援活動が行われ、中国全土、海外からはたくさんの義捐金も入ってきているようです。これらの町の復興は今後少しずつではありますが、進んでいくと思います。けれども、道中で地震に遭った一番上の兄が言うには、山の奥のほうに点在している集落まではまだまだ救援が入っていないとのことでした。
私は山の上の集落で生活している人々のことはよく理解しているつもりです。この人々は1年の収入を夏の間に稼ぎます。山の傾斜面を利用して、白菜やりんごを栽培し、秋に収穫して、道路脇で通行人に販売したり、標高が高く、農作物があまり取れない北方の草原地域の人々に売ったりして生計を立てているのです。けれども、今回の地震で、それらの畑も壊滅的な打撃を受けたことは容易に推察できます。運良く生き残ったとしても、生活の糧がありません。また、これらの集落の子供たちは就学適齢期になると、そのほとんどが町の学校で寮生活をしますので、もしかしたら、町に出た子供たちは助かり、山に残った親御さんたちは亡くなるといったことも充分に考えられるのです。
私はそのような集落の人々、子供たちの支援もできればと考えています。
本当は今すぐにでも飛んで行きたい気持ちなのですが、7月末まで公演の仕事が入っているため、被災地に行くのは、どうしても8月になります。現地では被害に遭われた方々のお話を直に聞いて、実際にどのような支援を必要としているのか、その調査結果に基づいて、具体的な支援計画を立てるつもりでいます。
とにかく、一日でも早く親たちが元気に畑を耕す姿、子供たちが笑顔いっぱいで学校生活を楽しむ姿を見れますよう、この地域で生まれ育ったひとりとして全力を尽くしたいと思っております。
なお地震の救援に関しては、まずは今年1年を期間といたします。
秋に被災地から戻りましたら、詳細をご報告させていただきます。
最後になりますが、皆様の温かいご支援とご協力、心よりお願い申し上げます。
チベット学校建設推進協会
バイマーヤンジン
2008年5月26日
震源地の汶川県、被害の大きかった映秀、都江堰は成都からバスで田舎に帰るとき必ず通る町です。特に、汶川県はンガワを出て、その日の晩に必ず宿泊する町で、次の日に成都に向かっていました。また成都から帰るときにも汶川県で昼食を取ったり、休憩をしたりしていました。そのため、私個人としても非常に思い出深い町なのです。
今回は弟の息子を含め、2人の甥と姪が汶川県の高校と師範学校で寮生活をしていて、被災しました。県の中心部にある学校は強い揺れによって、校舎のほとんどが使えなくなってしまいましたが、幸い倒壊はしなかったので、甥も姪も無事でした。
地震発生の当日、弟2人と2番目の兄も自分の息子、娘を助けるため、汶川県に向け、車で出発しましたが、途中の橋が落ちていたため、引き返し、次の日の再チャレンジで、迂回路を通って、なんとか途中まで行きました。但し、そこからは道が寸断されていたので、上の弟と2番目の兄は徒歩で汶川県に向かったのです。その道中は非常に危険なものでした。今にも土砂崩れの起きそうな山肌をいくつも越えながら、2次災害に遭われたのではないかと思われる何体もの遺体も見たそうです。幸運にも、彼らは汶川県で甥、姪たちと会うことができ、すぐに故郷ンガワに連れ帰ったのですが、帰路も同じように大変危険で、生きた心地がしなかったそうです。
実は、一番上の兄も運送業を始めたばかりの次男の運転するトラックに乗っていて、汶川県の53キロ手前で地震に遭いました。兄らふたりも弟たちと同じ日に命からがら故郷に帰りました。
私の身内ももしかすると命を落としていたかもしれません。人事ではありません。今回の地震できわだっているのは、学校の倒壊であり、それによって亡くなった子供たちの数が異常に多いということです。犠牲になった子供たちのことや命は助かったものの大きな怪我をした子供、家族を失った人々の悲しみを考えると、沈黙を保つことなどできません。もちろん使命感というのもありますが、今のところは、ただ困っている人々を少しでも助けてあげたいという衝動に突き動かされているのです。
この11年間、チベットの学校建設活動、教育支援をしてきましたが、この度、これとは別に四川省大地震救援基金を設立しました。
被害にあった子供たちの学費などの支援、倒壊した学校の修復費の支援をしたいと思っています。
中国の政府や外国の救援隊もよく頑張っておられると思います。幹線道路上の大きな町では懸命な救援活動が行われ、中国全土、海外からはたくさんの義捐金も入ってきているようです。これらの町の復興は今後少しずつではありますが、進んでいくと思います。けれども、道中で地震に遭った一番上の兄が言うには、山の奥のほうに点在している集落まではまだまだ救援が入っていないとのことでした。
私は山の上の集落で生活している人々のことはよく理解しているつもりです。この人々は1年の収入を夏の間に稼ぎます。山の傾斜面を利用して、白菜やりんごを栽培し、秋に収穫して、道路脇で通行人に販売したり、標高が高く、農作物があまり取れない北方の草原地域の人々に売ったりして生計を立てているのです。けれども、今回の地震で、それらの畑も壊滅的な打撃を受けたことは容易に推察できます。運良く生き残ったとしても、生活の糧がありません。また、これらの集落の子供たちは就学適齢期になると、そのほとんどが町の学校で寮生活をしますので、もしかしたら、町に出た子供たちは助かり、山に残った親御さんたちは亡くなるといったことも充分に考えられるのです。
私はそのような集落の人々、子供たちの支援もできればと考えています。
本当は今すぐにでも飛んで行きたい気持ちなのですが、7月末まで公演の仕事が入っているため、被災地に行くのは、どうしても8月になります。現地では被害に遭われた方々のお話を直に聞いて、実際にどのような支援を必要としているのか、その調査結果に基づいて、具体的な支援計画を立てるつもりでいます。
とにかく、一日でも早く親たちが元気に畑を耕す姿、子供たちが笑顔いっぱいで学校生活を楽しむ姿を見れますよう、この地域で生まれ育ったひとりとして全力を尽くしたいと思っております。
なお地震の救援に関しては、まずは今年1年を期間といたします。
秋に被災地から戻りましたら、詳細をご報告させていただきます。
最後になりますが、皆様の温かいご支援とご協力、心よりお願い申し上げます。
チベット学校建設推進協会
バイマーヤンジン
2008年5月26日