評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
人は所属組織が何割か?
実は、先日の日銀人事のエントリーは、これから書く話の前置きなのだった。しかし、だらだら書いているうちに長くなったので切り離して独立させた。従って、以下が本題なのだが、そうたいした話ではない。
さて、副総裁候補になった渡辺・元財務官・一橋大教授は、新聞報道的には、財務省出身だということで、「人物本位」には見て貰えなかったということになっているが、これは、ご本人にとってはどの程度不本意なことなのか。職場としては、日銀副総裁の方が給料は高そうだが、一橋大学の先生の方が自由だろう。どちらがいいかはご本人次第だが、どうなのか。
渡辺氏が日銀副総裁の方を取りたいとしたら、「私は、もう財務省を離れて、一橋大の教授なのに、私を財務省出身者としてしか見ない世間はけしからぬ」と思うかも知れない。また、ご本人としては「財務省とは何の関係もなく、日銀に奉職する」と燃えていたかも知れない。これは表面的には納得できる話で、転職した民間人が以前に勤めていた会社の人として人物判断されると不本意だろうし、そもそも、所属組織を離れた個人として、どうして認めてくれないのか、という点が釈然としない。
ごく卑近な例だが、私の場合も、直近2回の転職(明治生命→UHJ総研;UFJ総研→楽天証券)は、所属組織に制約されずに個人として発言できる立場を確保することが主な目的だった。ちなみに、UFJ総研は私の勤務当時、「時間の自由」があり、「発言の自由」も確保された、行動の制約が小さないい会社だったが、親銀行が事実上吸収合併されて実質的に三菱グループ入りした後にも「発言の自由」が確保されることに自信が持てなかったので、念のため、発言の自由が確保される別の会社に移ることにした。合併して出来た研究所が、その後どうなっているのかは分からない。
通常の金融機関に勤務する場合、たとえば銀行に勤めながら、同時に経済評論家として活動することは、制約が大きくて困難だろう。銀行自体が行員の行動や発言を規制するし、世間もその個人の発言を勤務先の銀行の発信する意見としてしか聞かないだろう。
発言者の「所属はどこか」という観点から話を解釈するという世間一般の傾向はなかなか修正しがたい。それを嘆いている私本人からして、その傾向から完全には自由でないという自覚がある。
敢えて、その理由を考えると、世間は個人について得られている情報が限られているから、その個人の所属組織を知ることによって、なにがしか個人を判断し、且つ安心しようとするのだろう。実際、人がどこの誰か分からない状態は相手に緊張を強いるから、所属組織を早めに明らかにすることは、社交場のマナーの一つでもある。
自己紹介する場合に、(A)「東京都新宿区在住の49歳、山崎元です」と言ってもあまり安心してくれないから、(B)「楽天証券の山崎元です」とか(C)「経済評論家みたいなことをやっていますが、サラリーマンとしては楽天証券に勤めています」などと自己紹介しなければならない。本来は、銀行員だろうと、公務員だろうと、個人の名前で(もちろん実名で)かつ(A)のような一個人の立場で意見を発表する権利を持ち、世間がそれを受入なければいけないと思うのだが、世間の人々の、情報処理の節約欲求と、会社・官庁などの組織が社員・公務員などの行動を制約して管理したいとする欲求、それに、(組織人である)自分が不自由なのだから(同様に組織人である)他人も不自由であって欲しいという嫉妬心のたぶん三つの心理が働いて、上手く行っていない。
私の場合、かつてUFJ総研に所属していたり、今、楽天証券にも勤務していることによって大きな不便を被ったことは多くはないが、それでも、自分のコメントがUFJグループのものであると解釈されて一揉めしたことがあるし、楽天の関係者という理由でテレビの関係の方から警戒されたりしたことがある。人と会って挨拶する際には、楽天証券の名刺を使うことが多いのだが(メールアドレスはプライベートなアドレスにしている)、相手が楽天のことを話し始めたりして話が噛み合わない場合もあり、「経済評論家」(←特に好きな名乗り方ではないが便宜上)という肩書きで、自分の会社の住所と所属事務所の連絡先を書いた名刺を作らなければならないなあ、と思っているところだ(ネットの名刺製作サービスではテンプレートが上手く対応したものが見つからない。探し方が下手なのだろうか)。
もとの話題に戻って、渡辺氏の場合だが、世間常識的には(私は財務省人事の実態を詳しく知っているわけではない)、元の所属組織である財務省が職の世話をしてくれているのだろうから、実質的に財務省の人だと思われるのは仕方がないだろう。先に総裁候補だった武藤氏よりも年次が下だから副総裁候補といった具合に、財務省の人事秩序に従った動きになっていた点も含めて、受ける印象は財務省のタマだ。こうした事情は、メイン融資先を多数持っている銀行など(都銀と信託銀行ではこの点で大差が付くようだ)、民間会社でもOBの就職先を持っていて再就職の面倒を見ている会社の社員にもあてはまるし、そうした社員の多くは、自分が○○銀行出身であるとか、××商事出身だとか、出身であると同時に実質的な所属先である組織の名前を早く名乗りたがる(渡辺氏がそういう方なのかどうかは存じ上げない)。
「人は見かけが9割」という上手なタイトルの本があったが、公務員の場合「人は所属組織が8割」といった感じだろうか(あとは、「年次」が15%?)。銀行員の場合なら、それぞれ5%減というくらいだろうか。
人を所属組織で判断するのはある程度は仕方がないし、人の側が、組織を利用するのもやむを得ないが、先に述べたように、個人が、組織人とは異なる「純粋に個人の立場」で発言できるような社会ではあって欲しいものだと思う。個人が真に個人の立場を持てる社会の方が、ずっと面白い社会になるだろう。
さて、副総裁候補になった渡辺・元財務官・一橋大教授は、新聞報道的には、財務省出身だということで、「人物本位」には見て貰えなかったということになっているが、これは、ご本人にとってはどの程度不本意なことなのか。職場としては、日銀副総裁の方が給料は高そうだが、一橋大学の先生の方が自由だろう。どちらがいいかはご本人次第だが、どうなのか。
渡辺氏が日銀副総裁の方を取りたいとしたら、「私は、もう財務省を離れて、一橋大の教授なのに、私を財務省出身者としてしか見ない世間はけしからぬ」と思うかも知れない。また、ご本人としては「財務省とは何の関係もなく、日銀に奉職する」と燃えていたかも知れない。これは表面的には納得できる話で、転職した民間人が以前に勤めていた会社の人として人物判断されると不本意だろうし、そもそも、所属組織を離れた個人として、どうして認めてくれないのか、という点が釈然としない。
ごく卑近な例だが、私の場合も、直近2回の転職(明治生命→UHJ総研;UFJ総研→楽天証券)は、所属組織に制約されずに個人として発言できる立場を確保することが主な目的だった。ちなみに、UFJ総研は私の勤務当時、「時間の自由」があり、「発言の自由」も確保された、行動の制約が小さないい会社だったが、親銀行が事実上吸収合併されて実質的に三菱グループ入りした後にも「発言の自由」が確保されることに自信が持てなかったので、念のため、発言の自由が確保される別の会社に移ることにした。合併して出来た研究所が、その後どうなっているのかは分からない。
通常の金融機関に勤務する場合、たとえば銀行に勤めながら、同時に経済評論家として活動することは、制約が大きくて困難だろう。銀行自体が行員の行動や発言を規制するし、世間もその個人の発言を勤務先の銀行の発信する意見としてしか聞かないだろう。
発言者の「所属はどこか」という観点から話を解釈するという世間一般の傾向はなかなか修正しがたい。それを嘆いている私本人からして、その傾向から完全には自由でないという自覚がある。
敢えて、その理由を考えると、世間は個人について得られている情報が限られているから、その個人の所属組織を知ることによって、なにがしか個人を判断し、且つ安心しようとするのだろう。実際、人がどこの誰か分からない状態は相手に緊張を強いるから、所属組織を早めに明らかにすることは、社交場のマナーの一つでもある。
自己紹介する場合に、(A)「東京都新宿区在住の49歳、山崎元です」と言ってもあまり安心してくれないから、(B)「楽天証券の山崎元です」とか(C)「経済評論家みたいなことをやっていますが、サラリーマンとしては楽天証券に勤めています」などと自己紹介しなければならない。本来は、銀行員だろうと、公務員だろうと、個人の名前で(もちろん実名で)かつ(A)のような一個人の立場で意見を発表する権利を持ち、世間がそれを受入なければいけないと思うのだが、世間の人々の、情報処理の節約欲求と、会社・官庁などの組織が社員・公務員などの行動を制約して管理したいとする欲求、それに、(組織人である)自分が不自由なのだから(同様に組織人である)他人も不自由であって欲しいという嫉妬心のたぶん三つの心理が働いて、上手く行っていない。
私の場合、かつてUFJ総研に所属していたり、今、楽天証券にも勤務していることによって大きな不便を被ったことは多くはないが、それでも、自分のコメントがUFJグループのものであると解釈されて一揉めしたことがあるし、楽天の関係者という理由でテレビの関係の方から警戒されたりしたことがある。人と会って挨拶する際には、楽天証券の名刺を使うことが多いのだが(メールアドレスはプライベートなアドレスにしている)、相手が楽天のことを話し始めたりして話が噛み合わない場合もあり、「経済評論家」(←特に好きな名乗り方ではないが便宜上)という肩書きで、自分の会社の住所と所属事務所の連絡先を書いた名刺を作らなければならないなあ、と思っているところだ(ネットの名刺製作サービスではテンプレートが上手く対応したものが見つからない。探し方が下手なのだろうか)。
もとの話題に戻って、渡辺氏の場合だが、世間常識的には(私は財務省人事の実態を詳しく知っているわけではない)、元の所属組織である財務省が職の世話をしてくれているのだろうから、実質的に財務省の人だと思われるのは仕方がないだろう。先に総裁候補だった武藤氏よりも年次が下だから副総裁候補といった具合に、財務省の人事秩序に従った動きになっていた点も含めて、受ける印象は財務省のタマだ。こうした事情は、メイン融資先を多数持っている銀行など(都銀と信託銀行ではこの点で大差が付くようだ)、民間会社でもOBの就職先を持っていて再就職の面倒を見ている会社の社員にもあてはまるし、そうした社員の多くは、自分が○○銀行出身であるとか、××商事出身だとか、出身であると同時に実質的な所属先である組織の名前を早く名乗りたがる(渡辺氏がそういう方なのかどうかは存じ上げない)。
「人は見かけが9割」という上手なタイトルの本があったが、公務員の場合「人は所属組織が8割」といった感じだろうか(あとは、「年次」が15%?)。銀行員の場合なら、それぞれ5%減というくらいだろうか。
人を所属組織で判断するのはある程度は仕方がないし、人の側が、組織を利用するのもやむを得ないが、先に述べたように、個人が、組織人とは異なる「純粋に個人の立場」で発言できるような社会ではあって欲しいものだと思う。個人が真に個人の立場を持てる社会の方が、ずっと面白い社会になるだろう。
コメント ( 15 ) | Trackback ( 0 )
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個人を見るとき、所属組織や学歴(出身と言ってもいいかも?)を偏重する傾向については、故阿部謹也の「世間論」が分析したような日本社会の特徴のひとつかもしれません。
米国人でも、自己紹介のときに「スティーブ、○○大MBA」とか言う人がいますが、自分が努力して獲得した勲章を自慢する人はいるし、人を見るときにそれを重視する人はいます。優秀で学位を取った証拠となる「with Distinction」なんてのを強調したり。Ph. Dをことさら、強調したり。
でも、所属組織を単独で重視する傾向はきわめて低いように思います。それは、おそらく合理的に考えて、所属組織がその個人の資質を示す割合は大きくないからだと思います。
だから、普通自己紹介やしばらく付き合っても、ファーストネームだけの付き合いが続く場合が多いのでしょう。
それに比較すると、日本人は所属組織がその個人の資質(や力、能力?)を示す割合を過大に評価する傾向があるようですね。
お世話様です。初めてコメントします。
私は某県の地方公務員です。
地方公務員といえども、やはり業者の方々が低姿勢でみえることはあります。でもそれは、自分が○○県の○○課にいるから、ということは理解しているつもりです。将来的に組織を離れて自分個人が評価されたい、という目標はありますが、それには程遠いかもしれません。
というわけで、「公務員だから」と再就職を否定されるのは心外ですが、公務員にも年功序列で高い地位に登っている人が多くいます。
今回の渡辺氏の件ですが、私はちょっと仕事に取り紛れて渡辺氏の所信を聞いていないのですが、私はこういうときには「自分の言葉」を大切にしています。「自分なりの解釈で話す人はそれなりに(完全に理解していなかったとしても)自分の意思を持ってものごとを進めようとしていると思います。反対にどっかで仕入れた綺麗な表現をつなぎあわせて話すような人の話は、話半分で、はあまり信用しません。
渡辺氏はどうだったのでしょうか。
それこそ、博士号をとっていたとしても「だから何?」というのが日本社会では一般的です。
海外、特に欧米ではそれが一つのステータスであり自己の能力の証明として一定の尊敬を集めますが、日本社会で重要なのは「個人の能力」ではないということなのでしょう。
こういった社会慣習がどういう経過で生まれたのかは非常に興味がありますが、幕藩体制にまで行き着いてしまうものなのかもしれませんね。
しかし官庁の人事管理システムは退職したとかそういうこととは関係なくローテーションしているのは事実でしょう。
天下りというのは厳然として存在しているでしょう。一度その絆を断ち切るべしと言うのは正しい判断と思います。
渡邊さんが副総裁にならなければ日本はつぶれるのでしょうか。それほど人材難とも思えませんが。この際、官僚の「縄張り」を否定するというのはもっと大事なことと思います。
私達人間は日々出会う人間の情報の1%も持っておらず、その中で不安に駆られずに生きていくには「こういう要素を持っている人間はこういうものだ」と決め打ちして生きていく他ないということになります。
情報が非対称であればあるほど、人は「直感」によって「わかった気になって」自分をごまかしていくしかなくなるのですが、これまた、人間心理の不思議で「実際にはただ決め付けている」だけに他ならない状況の方が、むしろ人は「正確な判断をした」と自信を持つ傾向があるようです。
人が他人に対してその所属組織や、学歴などでその人を判断しようとするのは、それが楽だからだと私は思っています。誰にでもできることですからね。
もちろん、私自身もそういう傾向があるのですが、「この人とは長く、良い付き合いをしたい」と感じた人に対しては、そういう見方をしないように努めているつもりです。
日本人は個を組織の中で埋没させられて生きてきました。ようするに全体主義です。
ただし中国や北朝鮮韓国などと比べると日本も昔に比べればずいぶん全体主義色が弱まっていますね。
山崎先生のおっしゃるとおり個人の権利がもっと尊重される社会に日本がなってほしいものです。
会社=人生という人が大半というのはいいすぎでしょうか。
日本はかなり組織の国です。中国は個人主張がかなりする国です。北朝鮮には行ったことはないのでなんともいえませんが、マスコミの宣伝だけで物事を判断するのは危険です。
組織内で純粋培養された見知ったアメーバ細胞が順繰りになるだけ。もともと中途採用などの異端細胞は途中で放り出されるか、無力化してしまう。
英語が出来ても出来なくても給与は同じ。個人の能力差はないことになっており、それより和が大事。
終業後、飲み会に来ないやつは出世しない。
日本人は突出した人物を好まないので、ホリエモンや村上某など自己の能力をひけらかす輩は即逮捕、島流しにする。
小学校の先生のいうとおり、皆能力は同じはず、ただ勉強しないから、仕方を教えて上げれば皆平均点取れるはず。
日産のゴーンは、個人能力のものすごく高い人間だが、あれは外人だから許せる。
大前研一は鼻につき許せない。日本人なら私もあなたも能力は一緒の筈・・・・と思いたい。同じ顔して私の脳みそがあなたに劣後しているとは信じたくない。
身体能力については、あまり、そう思わないらしい。
残念。実は生まれたときから知能、記憶力、理解力など脳力も最初から違うのです。
でも、どうやら、少子化に伴って米国流個人の時代がいやおうなく日本にも押し寄せています。
仮説ですが、日本(人)が昔からもこれからも組織好きであるという話はウソで、決まった仕事をきちんとこなす人が求められる第二次産業から、自立(個人が自らの立場を持てる)した人が求められる第三次産業に世が移り変わる中、まだ日本は世に合った社会や教育に変化できていないだけなのではないか(=今後は変化する)と考えたからです。
日本でも第一次産業時代は組織好きでなかった、といった事実があるといいのですが、今のところ何の根拠も持ち合わせておりません…
週間ダイヤモンドの「個人投資家向けの株価指数をつくりたい」を読ませていただきました。
山崎印の独自指数、ものすごく楽しみです。
"make sense!"な思想を持った指数を期待しています。
様々な考えを反映した指数とそれに連動したETFの活発な取引、そんな状況が投資家としての個人的な夢です。
というわけで、今後のご活躍応援しております!
私はお客様が所属しているお会社さんをいかに動かすことができる人物か?を重視してお付き合いしています。
お客さまその人の発言が社内で信頼されていなければ、動かすことが出来ないという事実を多く見てきたからです。
私は自分の理想だけ語る人間も嫌いですし、当然自分の理想が実現できない言い訳をする人間も嫌いです。
自分の理想に向けて出来ることをコツコツと積み重ねていく人が実際にいますし、正直その多く人が偉くなっていています。
社内や社外で人望のある人というのは、同じ会社で同じ業界で長い時間をかけて勝ち取った事実に信頼を感じます。
その信頼に意味があるのかどうかは、その人本人の感じ方だと思いますが、私は尊敬します。