評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
総理大臣のオーラとは何か?
「文藝春秋」の9月号が拙宅に送られてきた。芥川賞作品の全文が載っているお得な号だが、それ以外にも、読み甲斐のある記事が多かった。
記事全体として、一番印象に残ったのは物理学者の戸塚洋二さんの癌闘病の記録である「あと三カ月 死への準備日記」だったが、その他にも岡田克也民主党副代表の「小沢さんと私は違う」や通称”霞ヶ関埋蔵金男”高橋洋一さんの「新『霞ヶ関埋蔵金』50兆円リスト」など、幾つも読み所がある。ちなみに、岡田氏の手記のサブタイトルは「『一度裏切った人間は二度裏切る』ことを私は学んだ」である(小沢代表を党代表として尊重するが、人間としては信用していないということだ、と山崎は読んだ)。
さて、この号の記事の中で、部分的に一番印象に残っているのは、佐藤優氏の「インテリジェンス交渉術」の中で、佐藤氏が橋本龍太郎元首相に「ある種の信念をもって」関与したことの説明で、橋本氏が通訳の米原万里さん(作家・ロシア語通訳。故人である)をホテルで襲おうとしたエピソードが長期間なぜか記憶として意識に上らなかった理由について説明することになる以下の下りだ。
「内閣総理大臣には独特のオーラ(後光)がある。そして、総理官邸には、何とも形容しがたい見えない渦巻きがある。ある限度を超えて、権力の中心である総理官邸に近づくと、この渦巻きに呑まれ、思想が変容してしまうのである。鈴木宗男氏、東郷和彦欧亜局長、筆者達もこの渦巻きに呑まれてしまったのだ。
渦巻きに呑まれた経験を持つ筆者には、別の状況で渦巻きに呑まれた人たちの内在的な論理を追体験することができる。小泉純一郎氏に使えた飯島勲秘書官、安倍晋三氏に仕えた井上義行秘書官はいずれも渦巻きに呑まれた人たちで、彼らには一般人に理解できない独自の思考回路が出来る。そして、その回路は、渦巻きから離れても閉じないのである。従って、平均的日本人とは異なった世界観をもつようになる」(「文藝春秋」9月号、349ページ)
総理大臣のオーラとは一体何なのだろうか。これは本当にあるのか。誰が総理大臣でもあるのか。
佐藤優氏には何度かお会いしたことがあり、直接お話を伺う機会があった。筆者とは考え方にちがう点があるが(筆者はアンチ・ナショナリストだし、キリスト教徒でもない)、博識で頭が良くユーモアを解する魅力的な方だと思うし、権威に屈して物の見方が歪むような人だという印象はない。でまかせを書いているわけではない筈だ、と思う。
一方、私が、常々不思議に思っているのは、今月号の「文藝春秋」にも登場されていて、最近多方面に売れている高橋洋一さんが、ご著書で安倍晋三氏のことを少しも悪く書いていないことだ。かなり前のことになるが高橋氏にもお会いしたことがある。佐藤氏とはタイプが異なるが(大雑把には文系アタマと理系アタマのちがいだ)、高橋氏も頭脳明晰な自信家で経済政策の職人である。権力におもねるとも思えないし、物事への理解力が乏しい人物には容赦と遠慮のない人に見えるのだが、なぜか安倍氏を批判しない。彼も、「ある限度を超えて」政策に関わった人だが、安倍氏にも、彼を感服させるようなオーラがあったということなのだろうか。率直にいって、信じられない。
ご本人は後悔していないのかもしれないが、高橋氏は、総理としての安倍氏の甲斐性がなかったことで多大な迷惑を被っているはずだ。「尽くしたが、仕え甲斐がなかった」という事情は、佐藤優氏と橋本龍太郎氏の関係に少し似ている。
総理大臣の「オーラ」といわれるものは、確かにどこかに存在するのだろう。想像するに(想像するしかないのは、残念でもあり、幸いでもある)、それは、周囲の人間の振る舞いと、これに呼応した本人(総理大臣)の振る舞いが共振して醸し出す雰囲気なのだろう。確かに、1日24時間ずっと佐藤氏のいう「渦の中」にいると、社会的動物である人間の現実認識を変える力を持っていてもおかしくはない。この雰囲気と一体化して、自分の意思が総理やこの集団に混じり込む実感の中に「権力の魔性」のメカニズムの中心があるのかも知れない。
しかし、一方で、佐藤優氏や高橋洋一氏のような知性を持った方々であれば、総理大臣を近くで見て、これを「一匹の生物」として等身大に眺め、バカにもすれば、同情もする、というような見方をしてもいいのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。
それにしても、福田康夫現総理にも「オーラ」を感じている人がいるのだろうか。いるとすれば心配なことだが、いないとすると別の意味で心配だ。
記事全体として、一番印象に残ったのは物理学者の戸塚洋二さんの癌闘病の記録である「あと三カ月 死への準備日記」だったが、その他にも岡田克也民主党副代表の「小沢さんと私は違う」や通称”霞ヶ関埋蔵金男”高橋洋一さんの「新『霞ヶ関埋蔵金』50兆円リスト」など、幾つも読み所がある。ちなみに、岡田氏の手記のサブタイトルは「『一度裏切った人間は二度裏切る』ことを私は学んだ」である(小沢代表を党代表として尊重するが、人間としては信用していないということだ、と山崎は読んだ)。
さて、この号の記事の中で、部分的に一番印象に残っているのは、佐藤優氏の「インテリジェンス交渉術」の中で、佐藤氏が橋本龍太郎元首相に「ある種の信念をもって」関与したことの説明で、橋本氏が通訳の米原万里さん(作家・ロシア語通訳。故人である)をホテルで襲おうとしたエピソードが長期間なぜか記憶として意識に上らなかった理由について説明することになる以下の下りだ。
「内閣総理大臣には独特のオーラ(後光)がある。そして、総理官邸には、何とも形容しがたい見えない渦巻きがある。ある限度を超えて、権力の中心である総理官邸に近づくと、この渦巻きに呑まれ、思想が変容してしまうのである。鈴木宗男氏、東郷和彦欧亜局長、筆者達もこの渦巻きに呑まれてしまったのだ。
渦巻きに呑まれた経験を持つ筆者には、別の状況で渦巻きに呑まれた人たちの内在的な論理を追体験することができる。小泉純一郎氏に使えた飯島勲秘書官、安倍晋三氏に仕えた井上義行秘書官はいずれも渦巻きに呑まれた人たちで、彼らには一般人に理解できない独自の思考回路が出来る。そして、その回路は、渦巻きから離れても閉じないのである。従って、平均的日本人とは異なった世界観をもつようになる」(「文藝春秋」9月号、349ページ)
総理大臣のオーラとは一体何なのだろうか。これは本当にあるのか。誰が総理大臣でもあるのか。
佐藤優氏には何度かお会いしたことがあり、直接お話を伺う機会があった。筆者とは考え方にちがう点があるが(筆者はアンチ・ナショナリストだし、キリスト教徒でもない)、博識で頭が良くユーモアを解する魅力的な方だと思うし、権威に屈して物の見方が歪むような人だという印象はない。でまかせを書いているわけではない筈だ、と思う。
一方、私が、常々不思議に思っているのは、今月号の「文藝春秋」にも登場されていて、最近多方面に売れている高橋洋一さんが、ご著書で安倍晋三氏のことを少しも悪く書いていないことだ。かなり前のことになるが高橋氏にもお会いしたことがある。佐藤氏とはタイプが異なるが(大雑把には文系アタマと理系アタマのちがいだ)、高橋氏も頭脳明晰な自信家で経済政策の職人である。権力におもねるとも思えないし、物事への理解力が乏しい人物には容赦と遠慮のない人に見えるのだが、なぜか安倍氏を批判しない。彼も、「ある限度を超えて」政策に関わった人だが、安倍氏にも、彼を感服させるようなオーラがあったということなのだろうか。率直にいって、信じられない。
ご本人は後悔していないのかもしれないが、高橋氏は、総理としての安倍氏の甲斐性がなかったことで多大な迷惑を被っているはずだ。「尽くしたが、仕え甲斐がなかった」という事情は、佐藤優氏と橋本龍太郎氏の関係に少し似ている。
総理大臣の「オーラ」といわれるものは、確かにどこかに存在するのだろう。想像するに(想像するしかないのは、残念でもあり、幸いでもある)、それは、周囲の人間の振る舞いと、これに呼応した本人(総理大臣)の振る舞いが共振して醸し出す雰囲気なのだろう。確かに、1日24時間ずっと佐藤氏のいう「渦の中」にいると、社会的動物である人間の現実認識を変える力を持っていてもおかしくはない。この雰囲気と一体化して、自分の意思が総理やこの集団に混じり込む実感の中に「権力の魔性」のメカニズムの中心があるのかも知れない。
しかし、一方で、佐藤優氏や高橋洋一氏のような知性を持った方々であれば、総理大臣を近くで見て、これを「一匹の生物」として等身大に眺め、バカにもすれば、同情もする、というような見方をしてもいいのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。
それにしても、福田康夫現総理にも「オーラ」を感じている人がいるのだろうか。いるとすれば心配なことだが、いないとすると別の意味で心配だ。
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例えば、総理就任直後の訪中と、いわゆる戦略的互恵関係を謳った日中共同声明とか、、、。
靖国問題での「行くとも行かないとも言及しない、個人的問題」とのスタンスも考え抜かれているような印象も持ちましたが、、、、(総理の靖国参拝にマスコミ、野党が大騒ぎさえしなければ、このスタンスで靖国問題はなくなっていたのではないでしょうか?)。
ナショナリズムの問題については、中国との関係と絡んで、近い将来、日本人だれもが様々な側面から(中国人のナショナリズムとの面からも)考えざるを得ない状況が生まれてくるようにも予感されます( そのときに、安倍前総理が何をしたかったのかが理解され、安倍総理の「先見性」「オーラ」が感じられるようになるのかもしれません )
首相の囲み取材などでも、丁寧な言葉を使ってるだけで「お前アホじゃねーの?」「つーかこんだけ不祥事連発してるんだからお前が辞めろよ」的な結構ひどい物言いでした。(実際は「責任を取って辞任するおつもりは?」といった感じでした)
あるジャーナリストは、囲み取材をやっている若手記者が聞くようなレベルを随分大きく超えている、とコメントしていました。
さすがに目の前にいる政治家、しかも一国の首相に対して辞めないの?と聞く=要するに辞めろという意見をぶつけるのはナカナカ出来ないと思いますが、アベ氏の場合それをさせてしまうくらいオーラが無かったと思いますがどうでしょう? まあ当時はアベ氏には何を言っても許されるような空気もあったので、そこらへんも記者の後押しをしていたのかもしれませんが。
福田氏はペキンで選手団に「せいぜい頑張ってください」と言ったそうです。日本のために頑張れなんていいません、というコメントもあったそうなので、そこら辺はいいと思うんですが、せいぜいって総理大臣が激励に使う言葉ですかね。。
オーラというより、総理大臣という肩書きにはオーラがあると思いますが・・・。
>これを「一匹の生物」として等身大に眺め、バカにもすれば、同情もする、というような見方をしてもいいのではないか
そういうスタンスだと、「身も心も国家の為に捧げ尽くす」ことはできないように思います。また、斯様な行動理念の持ち主でなければ、政権中枢において重用される機会も巡ってこないのではないか、とも思います。
少なくとも当人にとっては、「命の限り」職務を全うできることは、至上の喜びなのかもしれません。その職務が周囲から、あるいは後世になってどのように評価されるかなど、全く気にならない(or気にしている暇が無い)……という状況こそ、佐藤氏の言う「渦巻き」の中なのだろう、と私は解しました。
>ny様
>せいぜいって総理大臣が激励に使う言葉ですかね。
つまり「精々」ですよね? 京都で生活した経験のある知人によると、「違和感は無い」そうで。いまなお、公共交通機関などでも「せいぜいご利用ください」という掲示があるのだとか。
重箱ツッコミありがとうございます。
エントリーの文章を修正しておきます。
芥川賞に、福田康雄氏。共に大きな関心を持っていないせいか間違えてしまいました。それにしても、康夫→康男の間違いはともかく、芥川賞はずっと年に1回だと思っていました。
最も記憶に残っているのは「戸塚洋二という名前は絶対に覚えておいた方がいい。」という言葉。
世界的研究者を師匠に持った自分を自慢しているのではなく、師匠の凄さを自分が世界に知らしめていきたい、という決意のようなものを感じました。
お会いしたことはありませんが、そのエピソードから立派な方だったのだろうと想像します。
(いつもコメントが本筋と離れてますね。すみません)
ところで安倍氏ですが、思えば何故彼はあんなにも「攻撃」されたかと言えば、やはりそれは能力が低すぎたんだろうなあ。
たとえば、タウンミーティングのヤラセ問題。国民の意見を聞くなら聞く、聞かないなら聞かないでやればいいのに、聞くポーズはとりたいけど本当は聞きたくない。いや、もしかしたらもっと始末におけないかも知れない。教育基本法を改正した後で不具合が起きた時に、「だって国民がこう言ったんだよ」なんて、言質を取るためだったかも知れない。それだってじっくり考えて慎重にやれば、そこそこうまくいったかも知れないけど、結局は漏れてしまい、印象としては最悪。詰めが甘かったのか、もともとずさんだったのか。
たとえば「美しい国」。これだけ格差社会だ、年金問題だと内政厳しい折に、そんな抽象的な話をされても、国民の関心は低いに決まっているよ。格差社会も年金問題も安倍氏がつくった問題じゃないけど、自分がつくった問題じゃないから解決しなくていい、というわけにはいかない。平ちゃんさんが一番上で書いているように、就任直後に中韓訪問を行った際は、絵に描いた餅だけじゃなく、食える餅も作れそうな勢いでしたが・・・。
たとえば閣僚の汚職疑惑。これこそ「安倍氏」の問題ではないが、「安倍内閣」の最大の問題ではなかったのか。自分の選んだ閣僚だからねえ(もし自分で選んでないなら、その方が重大だけど)。さらに汚職疑惑が発生しても、あまり重要視しない姿勢が、国民には不誠実にうつったのでは?この時点での安倍氏は、景気対策に関してまったくの落第点であり、というより及第点を探すのが難しい状態。それまで安倍氏を支持していたであろう、「中国や朝鮮半島の奴らをとっちめてやれ!」という威勢のいい、しかしかわいそうな人たちでさえ、松岡大臣の答弁を聞いているうちに(ナントカ還元水→開示しなくても法律違反じゃない)、遠い目になっていったんじゃないかしら。
税金を使って、景気を良くしようとするも良し。日本を世界から尊敬されるような国にするも良し。長生きしたくなるような国にするも良し。
しかしことさら税金を使って、電通を儲けさせたり(タウンミーティング!)、議員の隠れ所得を増やしたり(かつ擁護したり)・・・。
そういや、相続税の問題、どうなったんだろ。まさか払ってないなんてこと、ないよね?
お金の話が多くなって、若干世知辛くなりましたが、お金は大切ですしね。ていうか、税金は国民のお金ですよ!
恋愛本として捉えると、こりゃ駄目だ、というのが率直な感想です。
行動経済学をもってしても「恋はいつでも未知なもの」でしょうね。
悪口言いたいから、同意しない人まで悪く言いたいとか
そりゃ引かれるわけだ。
なんか浅いな今回のは。
私は「気持ち悪さ」が先行してどうもだめです。
googleは素晴らしい企業だと思っていましたが、このサービスは生理的に受け付けません。
法律云々以前にだめです。
拙宅の近所をストリートビューしてみると、マンションの玄関の様子も、向かいの管理人がゴミ出しする様子も、詳細に写っています。確かに、ここまではっきりいろいろ写っていると少し気持ちが悪い。
書籍も外の風景もグーグルにとっては情報なのでしょうし、これを集めて誰でも見られるようにしようということなのでしょう。デジタルデータとして全てを集めても何とかなるという計算が彼らには出来ているのかもしれません。
自分は自分の周辺が常に誰に見られているかかもしれない、という仕掛けは気味が悪いのは確かですが、もともと「世間」には他人の目があるわけで、これが拡大しただけなのかもしれません。しばらくの間は気味が悪いけれども、この種のプライバシーの情報化に、自分も含めて、人は、徐々に慣れていくのかも知れないなあ、という気がします。
ただし、この「慣れ」のスピードは人によって異なるでしょうから、「慣れ」が遅い人は心理的に相当苦労するでしょう。
私個人は、「現在は少々気味が悪く、まだ慣れていないだろうけれども、やがて慣れるだろう」という感じです。
もしくは、やはり小泉時代からの右派の発言力の増大に危機感を持っていた左派が安部氏なら「組みやすし」と思って反撃に出たのではないだろうか?
あれだけ、閣僚の不祥事が続いたが福田総理になってなぜピタリと止んだのか?
自民党が急に清廉潔白な党になったのか?
いや、違うだろう。福田総理になった当座には色々出かかっていたが、マスコミが追及をしなかったのだ。
安部氏の閣僚だって、今なら問題にもされないくらいの事で辞任に追い込まれたり自殺に追い込まれたりした。(例えば最後のほうではネタに困ったのか10年以上前の当時なら問題の無かった小額のお金のことまで持ち出して叩いていたよね)
この、マスコミの「気に入らないから徹底的にアラを探して問題にしてやる。わしらを怒らすと怖いぞ!」
的な態度にマスコミは反権力ではなく、マスコミ自体が情報社会では権力そのものなどだと痛感したしだいです。
当時の新聞を客観的に見直してみてください。
マスコミの異様さにゾッとしますよ。
こんばんは(いま12日pm9:50頃です)
なんかあべさんのこと、甘いというのでしょうか。
みなさん。
ちょっと、思い出すだけで
①美しい国ってなに?
②お友達内閣の崩壊
③強行採決の横暴
④議論なし、右向き憲法改悪
⑤敵前投げ出し、税金の多額な無駄遣い
そして、なによりも「逃げない政治家」といっておきながら、
直前に逃げ出したという男としての情けなさは
特筆すべきものだったといえるでしょう。
それにしても、総理大臣のオーラとは、
個人につくというより、権力の魔力というべきなんじゃないかと思う。
誰がなんといおうとも、我ひとり行かん。
それは、甘美な誘惑と、大いなる錯覚と、一筋の真実でしょう。
マスコミが一種の権力であり、彼らの「基準」が曖昧且つ不安定なものであるのはその通りでしょう。
ただ、マスコミが安倍氏を「与しやすし」と思ったのも事実だろうと思います。彼は既に総理ではないので、直接的な表現を避けますが、相手にこう思われた大きな原因には、彼の主に能力的な資質の問題があったように思います。
対して、橋本龍太郎氏は威張り癖があって細かなところにこだわる他人に好かれにくい性格でしたし、文春の9月号に佐藤優さんが書かれているエピソードを見ても人間的に問題のある人だったようです。ただ、彼は、たとえば年金制度などに関して細かなところにも通じた、それなりの政策通でした。普通の人にない能力のようなものを他人に感じさせてもおかしくない人だったのではないか、という印象を私は持っています(首相時代から私は大嫌いでしたが)。
佐藤優さん→橋本首相と高橋洋一さん→安倍首相の2つの関係では、私は後者の関係の方が不思議です。
まして、高橋さんの場合、公募に応じてご自分で内閣府のスタッフになったわけで、この際に、ボスの能力だとか先行きだとかを値踏みしなかったのだろうか、と思うわけです。
でもそれで佐藤優さんなんかは、山崎先生より多く稼いでいるように見えるので(印税限定)、独立型、コンタクト中心型、それぞれ利害得失があるのでは。
佐藤優氏の言う「渦巻き」とはまたちがうレベルですが、地位に対する評価の違いというものが、社会人の場合、かなり生理的に近いレベルで存在するように思います。
サラリーマンでも、「社長」という肩書きを聞くと、「凄い人なのだろう」と感心してかしこまるタイプと、肩書きに反応しないタイプの二種類が居ます。
また、印象的に覚えているのは、かつて「ブッチホン」と呼ばれた直接電話が有名だった小渕恵三首相から何度か電話を貰った某民間人が、大いにかしこまって、嬉しそうにこのエピソードを話してくれたことでした。小渕さんは「凡人」を自称していた人で、自分からオーラを使った人ではないと思いますが、総理という地位には、それなりに効力があったようです。
同期会や合コンのような集まりでも、国会議員だとか、上場企業の社長だとかがいると、妙に興奮する出席者とそうでない出席者が居るような気がします。
私は、別に、独立独歩を意識しているわけではありません。独歩の無力である側面も知っているつもりです。有能で立派なボスがいれば子分になるのは平気ですが、あくまでも人物本位です。たぶん、地位に対する反応が鈍いのだと思います。
ちなみに、福田現首相については、総理としては高く評価していませんが、人物としては興味を持っています。皮肉屋で醒めたところは面白いし、経験から来る情報の豊富さも、話し相手としての価値を高めています。首相でなくなってから、美味しいワインでも飲みながら、世間話をすると楽しい相手ではないかと思っています(安倍さんの悪口なんぞで盛り上がりそうだなあ・・・)。
尚、佐藤優さん(人物的には好きです)のマーケティング・センスとハードワーキングには頭が下がります。見習わないといけませんね。彼には、大いに稼いでくれていいと思っていますが、健康には気をつけて欲しいなあと思っています。
先日、山崎さんをテレビで拝見しました。お顔や話し方等については、このブログを1年近く読んでいたのでイメージ通りだったのですが、お声についてはちょっとイメージと違っていました。自分の声をテープレコーダーに吹き込んで、再生したときの違和感に近いものでした。ブログを読むことだけで、私なりのイメージができあがってしまっていたようです。
その時のテレビでは、「普通の肉にも薬が使われているということなのか?」(不確かな記憶でごめんなさい。)というコメントをされました。一瞬ですが、番組全体に緊張感が走ったように感じました。
「報道する」には、「報道しなかったもの」、「報道したくないもの」あるいは、「どうでも良いとおもっていること」はでてきません。
伝えきれなかったものを拾い上げる一場面でした。
ブログを通しての山崎さんの一面しか知らなかったので、とても新鮮な気持ちがしました。
さて、昨年前半のことを思い起こすと、安倍首相がいろいろな会議に出席する姿をニュースでとりあげていました。首相が自分の席の前に現れると同時にお付きの人が椅子を座りやすいように出す。そして会議が始まる。という場面が多かったと思います。
「お膳立て」された会議に顔を出す。「出された高級料理を味わう人。」そんな印象しか思い出せません。
「憲法改正」、「ホワイトエグゼンプション」や「教育バウチャー」の方針も、今となっては絵に描いた餅となってしまいました。1年以上が過ぎ「実現しなかったもの」の功罪を言っても意味はないのですが、「言ったことを実現させる意志」が感じられるかどうかがオーラに関係すると思います。
(乱筆、乱文をお許し願います。)
たしかに、安倍氏の資質自体、打たれ弱かったし、実力もまだ総理の器(オーラ)ではなかったのでしょう。
そこらへんに育ちの良さが思いっきり出てしまいましたw
しかし、「美しい国」がよく揶揄されますが、私自身は理想を語るのはいけないことだとはおもいません。
いまの福田さんのように、この国をどうしたいのか?
いや、なにがしたいのかすらよく解らない人よりは好感をもちます。
国のトップに必要なのは細かい政策などに精通しているより、「この国をこうしたいんだっ!」っていう熱意みたいなものだと思うのです。
「好感がもてれば誰でもいいのか?」と、言われればそう簡単ではないのですが。。。
安倍氏は自分なりの理想が高すぎて(自分でもあいまいすぎてよく解ってなかったのかもw)、私達にうまく伝わらなかったし、伝えてくれるハズのマスコミに嫌われすぎた。
しかし、ここで一番言いたいのは、マスコミが嫌いな人物だからといって、本当に評価に値することが一切なかったのか?
細かい修正は必要だとしても意外と良い法案や政策もあったのではないか?
と、いうことです。
普段から取ってる新聞が朝日と毎日だからかもしれませんが、批判以外の客観的な記事があまり無かったような気がします。(色々と話題になることが多くて面白い新聞です)
一つの事柄でも、見る角度によって意見が180度変わるので客観的というのが一番難しいのだろうが。
結局、私が反マスコミってことなんでしょうけど、「マスコミの総攻撃」をみると、「お前ら、自分に甘いくせに、他人にはきびしいのぉ~~~!」って、思ってしまいます。
自分でもなにが言いたいか支離滅裂です。
お騒がせしました。
山崎 元さま
情報が簡単に手に入る故に、本当に必要な情報が見えにくくなる昨今、良質のブログを通して問題提起を楽しみにしております。
> 福田現首相については、総理としては高く評価していませんが、人物としては興味を持っています。
こんなところで山崎さんと意見の一致を見ることができてちょっと楽しいです。「総理としての評価」を下せる目を私は持っていませんが、福田さんのシニカルな笑いのセンスには評価すべきものがある、と思っていましたので。
まあそういう醒めた面白みと総理大臣向きの資質っていうのが、そもそも相容れない気はするのですが…
コメントありがとうございます。
理想を語ることって大切ですよね。
でも、分かる言葉で語ってもらいたいと思います。
美しい国ってどういうことですか?
わからないのです。
もうあべさんのこと、言わなくていいのかな。
と思っていたのですが、最近、また拉致問題で言ってますよね。
あきれます。
議員辞職でもして、2~3年おとなしくするべきだと
思います。
PS)
山崎さん、
今後の政治的イシューとして、
「移民政策」があると思います。
チャンスがあったら、取り上げてほしいです。
とりあえず、僕のブログに書きました。
その権力とは何かと聞かれると、恐らくは集団に於ける人事権でしょうね。人事権と言うのは、誰に自分の持っている権力を分け与えるかと言う行為だと思います。
日本国内の政治の話などの身近な話で終始してますが、世界を見ればその極致が見れるではないですか。
人生を変える本に上げてもよいですが、「マオ」を読めば、権力中枢を握った後の毛沢東の変質がよく分ります。スターリンも同じでした。多分評伝を読んでないので知りませんが、ポルポトも同類でしょう。この関係の専門家によれば、この3人が殺した自国民だけで3千万人になるそうだ。
(○○員さん、社会主義、共産主義はこれがあるから、わしゃ嫌いや。それを好むあんさんは信用でけん一番の理由やな。本質に目が覚めない人が多いのでしょうね。)
何故それだけの自国民を殺せたのかを「マオ」を読んで考えれば、オーラの本質が分かると言うものですよ。彼らが幼虫の時代は、頭が良くて、心根が優しいように見えたはずなのに、成虫になると何かから脱皮をするのでしょうね。そう言う意味では、安倍さんは幼虫のままだったのではないでしょうか。
安倍さんは頭が悪いという人が結構居るのですが、小泉さんなど滅茶苦茶頭が悪いと、慶応で同級生で友達だった栗本慎一郎氏がTVで口を極めて罵倒してました。(郵政選挙の時に誰かにそそのかされてTV出演していたけど、その後はトンと見ない人となった。自分の友達の悪口を言いに番組に出る魂胆が分りませんな私には。愚人たる私には、さもしい感じしか受けなかった。)だから、頭ではないのでしょう。小泉さんの場合は番頭が対応力の源だと言われてきたが、番頭さんが離れても結構スイートスポットに当たったコメントしてますよね。だから、頭ではない何かが、小泉さんにはあって、安倍さんにはないのでしょう。
単なる私の仮説ですが、高橋洋一氏から見て、安倍さんは自分の仕事を理解はしていないが邪魔をすることはなかったから、悪く思っていないと思います。今の政権は、彼の進めてきたことを全て埋め戻すような政策をやってるから、憎悪は現政権にだけ向いているのでしょう。
方向性が崩壊している現代社会の渦中でストレス過剰で胃痛を抱えてうずくまる首相というのは、なんとも現代にマッチしている絵だと思うのですが。史上最弱の首相の彼こそ、時代精神を体現するに相応しい逸材と思われますがいかがですか?
(オーラについては、いつだってそれは常に個人ではなく、権力組織のもたらすものですから・・・)