信仰と音楽(プロテスタント教会音楽について)

プロテスタント教会音楽について、キリスト教信仰と音楽との関係とか、あれこれ考えたことを書いています。

レポートを読んで(2007年)

2007-11-19 21:50:52 | Weblog
今年も年に一度、恒例となった「プロテスタント教会音楽について」の講義が終わった。
今年はあれもこれもとたくさんの内容を早口でしゃべるのはやめて、思いつくままにゆっくり話すことにしたが、聴いていた人はそのほうが理解しやすかったようだ。聴講者たちの書いてくれたレポートもとても面白く、楽しく読めた。

以下は、レポートを書いてくれた人たちへの返信です。

・・・・・・・・・・・・・・・

レポートを読んで(2007年)

皆さんのレポート楽しく読ませていただきました。
おおむねプロテスタント教会音楽についてまた、聖書とキリスト教について前向きな関心を示していただきうれしいです。
さて、皆さんのレポートの中にいくつか質問とか、もう少し説明を加えた方がよいことなどが散見されましたので、ここに少し書かせていただきます。

*全能の神というならなぜ現在も様々な悲惨な事件が次々に起こっているのか?原因が人間の侵した罪であるとしても、なぜその報いを罪を犯していない人が受けなければならないのか?人間に恵みを与える存在である神が人々に悲しみをもたらすようなことを容認しているように思える。もしも神がいるなら、どうして罪のない人が死んでしまったりするのだろうか?

この質問はそれこそ毎年のように出る質問ですし、私も出て当然の疑問だと思います。しかし、この疑問に対する明確な解答はありません。ただ、「この世界に存在する様々な悲惨の原因に人間の罪があること、罪のない人は一人も存在しないこと、しかし、神は愛であり、どんな悲惨をも人間にとって益として用いることがおできになる」ということは、聖書から読み取ることのできるメッセージです。実際、世界の歴史を見ると、想像を絶する悲惨な体験の中で神の愛と真実を経験し、その悲惨な経験が祝福されるために不可欠なものだったとの確信を持つに至った人々は枚挙にいとまがありません。「神は最大のマイナスを最大のプラスに変え得るお方だ」というのが答えになるかもしれません。最近の話では、
イマキュレー・イリバギザ著 堤江実訳「生かされて」 出版:PHP研究所 1600円
という本がよい例になると思います。ルワンダ虐殺を生き延びたカソリック信者の自伝です。生きるということ、生かされるということ、そして愛、赦し、信仰について考えるよいチャンスを提供してくれる本です。読んで絶対損しないと思いますよ。

*三連符、十六分音符の意味

これは、誤解しておられる方もおられたようです。三連符が常に「平安に満ちた穏やかな喜び」を表すわけではありませんし、十六分音符の連続が常に「湧きたつような喜び」を示しているわけでもありません。言葉だって、一つの単語がいつでもどこでも同じ意味を示すわけではなく、文脈によってそのときその単語がどういう意味であるかを判断しなくてはならないように、音形も、どの曲のどの場面でどのように使用されているかによってそこに表現される内容が変わってくることは当然です。ですから、喜びを表す十六分音符もあれば、違う状況では心の不安と波立ちを表す十六分音符もあり得るのです。

*入信したきっかけは?

これは私もぜひ一度お話しするか書くかしたいと思いますが、書けばあまりに長文になりますし、語れば長時間になってしまいます。そんなチャンスが来ることを願っていますが、今は控えさせていただきます。でも、私がクリスチャンになったのは24才の時で、ちょうど皆さんと同じ年頃のことです。もし個人的に知りたいと思われる方は私に声をかけてください。喜んで時間を作ります。

*現在のプロテスタントとカソリックの関係。ある種の敵意があるのか?あるいは歩み寄ろうとしているのか?また、ロシア正教をプロテスタントはどう見ているのか?

カソリックでもプロテスタントでも、そしてロシア正教でも本気で聖書に示されている福音を信じて従おうとしている人たち同士はすこぶる仲良くやっています。教理的な対立もほとんどありません。ですから、私が学んだ神学校ではプロテスタントの人もカソリックの人も仲良く机を並べて一緒に勉強し、ともに祈りあい、互いに愛し合って過ごしました。ただし、いわゆる儀式宗教としてかたちだけの信仰を持っている人たちとか、宗教をみずからの欲望追及の手段として利用しようとしている人たちが宗派的な対立をあおり、時には武器を取って戦うということはあります。アイルランドにおけるカソリックとプロテスタントのテロ応酬はその例です。当時テロリストだった人が信仰に目覚めて武器を捨てて宣教師になった経緯を書いた本が出ていますから、読んで見られたらよいと思います。

「なぜ、人を殺してはいけないのですか」ヒュー ブラウン著 幻冬舎
 (現在絶版ですがアマゾンで中古本が買えます)

*音楽と宗教はどの国においても深いつながりがあるが、いつの時代もそうだったのだろうか?

おそらくそうだと考えられますが、もちろんどの時代でも宗教と無関係の音楽もたくさんあったと思います。

*ロマン派以降の時代にとって、キリスト教はどうだったのだろうか?

古典派の時代あたりまではほとんどの作曲家が程度の差こそあれ信仰をもって音楽に取り組んだことでしょう。
しかし、ロマン派以降は世の流れが変わってきて人間中心のものの考えが広がりましたから、信仰を持たない作曲家もたくさん出てきました。ですから、ブラームスやブルックナー、ストラヴィンスキーのように明確な信仰を持った作曲家もいれば、ベルリオーズやラヴェルのような無神論者もいました。

*宗教は怖いものだとさえ感じる。

なるほどそう思ってしまうのも無理もない現状です。おかしな宗教がたくさんありますし、カルト宗教が血なまぐさい事件を起したりしていますね。しかし、真の宗教は人生の意味を教えてくれ、生きる力を与えてくれるものです。

*何か宗教を知るよい方法はないか?

うーん、これは難しい質問です。一番簡単なのはその宗教を本気で信じている信者さんと知り合うことですね。それと、その宗教の最も重要な経典(キリスト教なら聖書)を読むことです。

*演奏することでキリストを受け取り、神を体感するとはどういうことか?

これは説明が難しいのですが、聖書には「神は讃美(教会音楽)のなかに住む」とありますから、演奏したり聴いている時、そこにはキリストがいるという事です。そこに現実にいるキリストを「音楽を通して感じとる」という表現が最も近いかもしれません。

*教会という所はキリスト教徒でなくても気軽に入っていいのだろうか?

もちろんです。普通は大歓迎してくれるはずです。もし歓迎してくれないようならそこはニセ教会かもしれません。

*「バッハの音楽は、短調でシャープの調号が多いほど懺悔の気持ちが大きく、シャープは背負った十字架と同じだ」といわれているが・・・・。

うーん、調号にシャープが多いほど懺悔の気持ちが大きいとは必ずしも言えないと思います。調号におけるシャープはどちらかというとその音楽の色彩感を規定するように思います。それに短調だから暗いとか悲しいとか言うわけではないことは授業のときに語ったとおりです。ただし、臨時記号のシャープは十字架、すなわち「イエスの苦しみ」をあらわす場合が多々あります。「背負った」十字架であるかどうかはその音楽的文脈次第ですが。

*アヴェ・マリアは教会音楽ではないのか?カソリック教会では歌っているではないか。

プロテスタント的立場から言えば教会音楽ではありません。しかし、カソリック的立場から言えば立派な教会音楽です。これは神学的見解の相違です。ついでに言えば、カソリックの教会音楽の特徴はなんといってもその美しさにあります。それに対してプロテスタント教会音楽の特徴は語られる言葉の明瞭さです。もちろん、今私はごく大雑把な言い方をしています。例外はいくらでもありますよ。

*日本でのキリスト教の歴史や現在の様子。聖書の内容。音楽とのつながり。

うーん、これは範囲が広すぎてとても説明しきれません。ごめんなさい。でも、現在の様子はいくつかの教会を訪れてみればけっこう実感できると思います。

*ドミナントで終わるのは常にトニカ(キリスト)への方向性を持っているのか?

これも三連符や十六文音符と同じで、その音楽的文脈で判断しなくてはなりません。「来たれ聖霊よ!」の場合は明らかにそう読み取れますが、他の曲の場合はそうでない場合の方が多いと思います。それに、この解釈が成り立つのはC-durのトニカに行こうとするドミナント(G)の場合のみです。

*キリスト教に触れていく手始めには、まず聖書を読んだらいいのか?それとも、よくある宗教についての解説書などを読んだらいいのか?

まず、よくある宗教についての解説書などですが、その類の本でキリスト教についてきちんと解説した本は見たことがありません。やはり外側からその宗教を正確に観察し、分析することは難しいと思います。やはり信仰というのは内面の問題を扱うわけなので、当事者でなければなかなか説明できないことが多いと思います。その点、当事者であるキリスト教徒が書いた解説本は相当わかりやすくしかも正確な証言だと思います。
資料にも書いておいた図書 P.カヴァノー著 吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」出版:教文館 2500円、三浦綾子「新約聖書入門」「旧約聖書入門」「道ありき」、中川健一「日本人に贈る聖書ものがたり」(全4巻) 文芸社 等は安心して薦められます。やはり一番いい方法は、本気でキリスト教を信じている人と知り合うことと、その唯一の経典である聖書を読むことでしょう。聖書がとっつきにくい人は上記三浦綾子さんや中川健一さんの著作を読むとよいでしょう。

*イエス・キリストを「経験する」とは「信じる」とはまた違う意味なのか?どういう意味なのか?

信じるとはイエスに関する聖書からのまたクリスチャンからの情報をそのとおりだと確信することであり、経験するとは、その情報を「本当にそのとおりだなあ・・・」と実体験するということです。例えば、「敵を赦しなさい。敵を愛しなさい」という聖書の教えを実行してみて、それがよい結果を「生んだ!」という実体験をするというのが「経験」です。私は今もここにキリストがおられると信じていますが、バッハを聴いたり演奏するとき、キリストがここにおられると実感します。つまり、キリストの実存を信じているだけでなく、経験しているのです。


最後に、宗教を持つというのは自分の世界観を持つということです。人間にとって大切なことだと私は信じます。皆さんもじっくり考えてみてはいかがでしょうか。私は一人のクリスチャンとして「クリスチャンって最高に幸せだ!」と確信していますが、もちろんそれを皆さんに強制するつもりはありません。一人一人自分で考えて決定するべき問題です。何人も宗教を強制することはできません。信仰とは一人一人の個人的な決断なのです。

God bless you!
   

レポートを読んで(2002年)

2007-11-05 22:57:01 | Weblog
レポートを読んで(2002年)

「創造主なる神の存在」、「神の前における罪とその結果である死」、「罪と死の解決としての十字架と復活」について、ほとんどの人は初めて聴いたことであり、神の存在はともかく、罪や死、十字架と復活については全く荒唐無稽の話に感じたのではないかと思います。大体、罪の問題にしても、ここで言う罪とは創造主なる唯一の神の前での罪であって、神の存在のリアリティーを感じることがなければナンセンスなことであるのは当然でしょう。
私自身も、最初その話を聴いた時(25才のころですが)、クリスチャンという人種はなんと不思議な、おめでたいというか、非科学的というか、かわいそうな人たちだと感じたものです。
ですから、学生諸君がこの話をおとぎ話のように聞こえたり、非科学的に感じたりしたのは当然だと思います。しかし、その私がのちにクリスチャンになったのは、神の存在を認めざるを得ない体験を重ねて来た結果であり、今は神様の存在も、自分自身の罪深さも、また、十字架と復活によって与えられる罪の赦しと永遠のいのちも自分にとって全く違和感のない、至極当然のものとして信じ、受け入れ、その恵みを体験しています。そう、神の存在も罪の赦しも、これは体験なんですね。また、体の癒し、傷ついた心の癒し、超自然的な知識や知恵、能力の賦与も祈りによって体験する事が出来ます。もしも皆さんが何か問題を抱えているなら、私に声をかけてください。あなたのために喜んで祈りましょう。信じて祈るなら必ず神を体験します。


今回の皆さんのレポートを読んで、かなりたくさんの人が誤解しておられる事がありました。それは罪の結果としての死の問題です。

ここでいう死とは、(授業の中でもしっかり説明したつもりではありましたが伝わってなかったのですねえ・・・)肉体の死の事ではありません。聖書でいう肉体の死は肉体とたましいが分離するというだけで、それはいわば目に見える世界から、目に見えない世界への引越しのようなもので、決して人生の終わりではありません。ですからそれ自体は不幸なことでもありません。引越しの時は別れの故のさびしさはあったとしても、引越し自体を不幸だと考えることはないでしょう?幸いな引越しもあればそうとはいえない引越しもあるのです。
聖書の語る「罪の結果としての死」とは、私たちの存在そのものである「たましいと霊」が創造主なる神様から完全に分離してしまうこと、つまり、もはや一切神様からの祝福も恵みも受け取れない完全な暗黒の中に入るということを指しています。
ですから、「早く肉体の死を迎えるものが罪深く、長生きするものが善人である」とか、「肉体の死が罪の刑罰である」というのは全く非キリスト教的考え方です。また、「罪を犯せば神から罰せられる」という考え方も非キリスト教的な考えです。神は人を愛し、救う方であって、罰したりする存在ではないし、罪ゆえに人が受け取らざるを得ない「存在そのものの死」を神の一人子イエスに負わせて、あがないをなしてくださった方です。あくまで「神は愛」というのが聖書のメッセージです。


今回の授業は皆さんにとって、キリスト教を知る窓口が少しだけ開いたといった程度だと思います。多くの人が書いてくださったように、自分が信じるかどうかはともかく、クラシック音楽に対する聖書とキリスト教信仰の影響はすごく大きなものですから、知識としてはどうしても知っておく必要があると思います。これを機会にぜひ聖書を読んでみて、出来ればどこかの教会に継続的に出席してみることを強くお勧めする次第です。教会はどこであれ、信者でない人の出席を歓迎してくれるはずです。また、インターネットで礼拝風景を音声や映像で見たり聴いたりすることもできます。大和カルバリーチャペルという神奈川県の教会がインターネットとCS放送で礼拝を公開しています。この教会は今の日本でおそらく最もメジャーな教会の一つです。ぜひ覗いていただきたいと思います。HPアドレスは http://www.yamatocalvarychapel.com/index.html です。


また、書物によってさらに聖書とキリスト教を知っていくこともお勧めします。三浦綾子さんの「旧約聖書入門」「新約聖書入門」「道ありき」「ちいろば先生物語」等は解りやすく、心から推薦できるものです。


さて、皆さんの書いてくださったレポートですが、その中にあったさまざまなご意見、御質問を以下に抜き出して、私なりに回答を書いておきました。一つ一つのレポートに個別に答えを書くより、こうして列挙したほうが皆さんの参考になると思いましたので、御参照ください。


死を解決するとはどういうことか?キリストの復活でどうして死が解決されるのか?

イエスのことばがその解決となるでしょう。「私を信じるものは決して死ぬ事がなく、たとえ死んでも生きる。」つまり、肉体の死はその人の実存になんら害を与えることは出来ないということです。私たちの霊が肉体の死の前であろうと後であろうと、神様との交わりを回復し、神のいのちを受けて永遠に生きるということを言っています。
イエス御自身が肉体の死を経験され、三日後によみがえることを通して、そのことを証明されたわけです。


キリストは神の息子で神から遣わされて地上に来たということだが、いったい神は何人いるのか?

これはいい質問です。聖書をそのまま読むと、神はただ一人であり、父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神の三人であるという結論になります。つまり、神は「一人であって、同時に三人」です。この概念を「三位一体」と呼びます。キリスト教会内部の考え方として、この三位一体の概念を受け入れない教派はキリスト教とは見なさないという事になっています。ですから、「エホバの証人」はプロテスタントでもカソリックでも、ロシア、ギリシヤ等の正教でもキリスト教とは見ていません。


もし人間が罪人でなければ悲しみや苦しみはないのか?

もしこの世界にただの一人も罪人がいないのなら確かに悲しみや苦しみはなくなるでしょう。しかし人間は自分の罪に苦しみ、同時に他人の罪の影響も受けます。ですから、たとえ完全な正しい人が存在したとしても、その人が悲しみ、苦しみを味わないということはありません。神であり、完全な人であったイエスも地上にいる間、涙を流された事がしばしばでしたし、十字架の死という恥と苦しみを通られました。


もし神が存在し、神が人を愛しているなら、人間はもっと幸せになれるはずでは?

もちろん人間はもっと幸せになれます。神様がイエスにある罪の赦しと永遠のいのちという幸せを提供しているのですが、人間がそれを無視しているだけです。もしそのプレゼントを信じて受け取るなら、誰でも死によってさえ奪い取られることのない幸福を手に入れる事が出来ます。


キリスト教は人間ばかり優等で他の生き物については重要視していないところに矛盾を感じる。

これは誤解ですね。この地上の全ての生き物、自然をきちんと大切に管理していくということは最も基本的な人間の責務と考えられています。ただ、人間と動物を、全く同列に置くことはしません。人間と動物どちらを優先するかというと当然人間を優先します。これはキリスト教徒に限らず、誰でもそうすると思います。もし動物を助けるためなら自分の命を捨てるという人がいるなら精神が病んでいるでしょう。
キリスト教では人間と動物の決定的な違いは霊の有無と考えます。人間には霊があります。動物にはたましいはあるが霊はありません。神を礼拝する動物はいないからです。


医学の進歩は多くの人を死から救ってきた。医学によって死期を延ばすことは神の意志に背くことになるのか?

医学の進歩は神の恩寵であるというのがキリスト教の考えです。ですから、ルカの福音書を書いたルカは医者ですし、クリスチャンの医師はたくさんいます。というより、クリスチャンのパーセンテージが高い職業の代表が医者と音楽家です。人間を早すぎる死と苦しみから救うこと、音楽によってたましいに喜びを与えることはどちらも神に祝福されたすばらしい仕事です。


死ぬ存在(人間以外の動物も)は全て罪を背負っているのか?

人間は全て罪を背負ってますが、動物は罪を背負ってはいません。動物には霊がないので、神の前に罪も何もないのです。ただ、動物の死に人間の罪が関与していることは明らかです。


ヨーロッパの国では本当に進化論者が少ないのか。特に若者の意識はどうなのか?

国民のほとんどの人が進化論を信じている国は日本くらいであると言うのは事実ですが、今、西ヨーロッパの国々、いわゆるキリスト教国といわれている国で、進化論を信じている人々が急速に増加していることも事実です。ですから、今、イスラム圏を除くと、世界で一番クリスチャンの割合が低いのは日本であり、次に西ヨーロッパだといわれています。しかし同じヨーロッパ系の文化圏である東ヨーロッパ、南北アメリカでは創造論に立つ人のパーセンテージはかなり高くなっています。

ところで、進化論が科学的であり、創造論が非科学的であるというのは全くの誤解であり、どちらも「仮説」でしかなく、非科学的といえばどちらも非科学的であり、要はどちらを信じるかという問題です。ですから、世界中の科学者を見ると、創造論に立つ科学者と進化論に立つ科学者はどちらも多数います。特にアメリカは創造論に立つ科学者が多くいます。

では、皆さんのこれからの人生に祝福を祈ります。

2003年 レポートを読んで

2007-11-05 22:56:46 | Weblog
レポートを読んで(2003年度)

私の講義を聴いて、レポートを書いてくださった皆さん、最後まで熱心に聴いて下さり、それぞれに興味深いレポートを書いてくださってありがとう。冬休みにじっくりと読ませていただきました。

皆さんのレポートの中で多くの人が誤解しておられたり、疑問に思っておられる事がいくつかありましたので、少し補足しておきます。

* ミサ曲のクレド

クレドについて、多くの方がプロテスタント教会独自の信仰告白であると理解されていましたが、これはプロテスタントだけではなく、カソリック、正教を含むキリスト教世界共通の信仰告白です。世界のキリスト教会にはカソリック、正教、プロテスタント、またそれ以外にも多くの教派、教団があります。しかし、キリスト教内部の共通認識として、ミサ曲のクレド、すなわちニケア信条に同意するものだけをキリスト教と認めます。


* 教会音楽は最初ラテン語だったのではなく、
何人かの方が「教会音楽は最初全てラテン語で歌われていて、それがルターの改革によって自国語で歌われるようになった」と書いておられましたが、これは正確ではありません。
キリスト教会が成立した当時(初代教会の時代)、教会音楽はその土地の土着の言葉で歌われるのが当然だったと思われます。しかし、キリスト教がローマの国教となり、西方においてはカソリック教会の統制が強まり、ルター出現の直前にはラテン語で歌うのが原則になってしまっていました。それをルターが本来の姿に戻したといえます。
また、東方教会(正教)では別の歴史があるわけです。しかし、私も東方教会の教会音楽の歴史はあまりよく知りません。ぜひみなさんで調べてみてください。ロシア正教の音楽は本当に魅力的ですよ。


* 講義を終えてからもう一度調べてみてわかったのですが、

ロック調、フォーク調の教会音楽の出現の時期を、私は1980年ごろと言いました。
しかし、確かにそれが顕著になったのは1970-80年以降ですが、その起こりはもっと早く、第二次大戦のすぐあとにはアメリカ各地でぼちぼち出てきたらしいです。ただ、民衆の中から自然発生的に生まれてきたものですから当然発生がゲリラ的で、この時が最初とはっきりいうことはできないようです。
1990年頃にはまだ、ギターやドラムを「悪魔の楽器」と呼ぶ牧師もたくさんいましたが、この10年ほどの状況の変化は驚くべきものがあります。いまや活動的な教会ではクラシックはすっかり少数派になってしまいました。(しかし、私の教会ではしっかりクラシックの讃美歌でがんばっています。ロック調、フォーク調のものも使いますが・・・・)


* 私自身が演奏する時、何を思いながら演奏するのか?なぜ演奏するのか?という質問がありました。

教会音楽を演奏する時と普通に仕事で演奏する時とで、違いもありますし、共通点もあります。
違いといえるのは、教会音楽を演奏する時考えていることは、基本的に神様に対する献げものという思いで演奏していますが、そうでない時は聴衆に対してのメッセージとしての比重がより高くなるということです。しかしいずれの場合も演奏は神様への献げものであるとの認識が第一であることに変わりはありません。
共通点は、まず第一にどんな時でも自分がその曲を演奏することを喜ぶ。演奏しながらその曲を楽しむということです。
私はすぐれた音楽作品は全て(作曲者がキリスト教徒であろうとなかろうと)神様が作曲家を通して私たちに与えてくださったすばらしいプレゼントだと考えています。プレゼントを受け取るものに要求されるのはそれを100%喜んで受け取ることです。そしてその喜び、その楽しみをできるだけ損なわないように聴衆に分かちあいたいと考えています。
そのために気をつけていることはその作品の本来の姿をできるだけそのまま曇りなく再現していくということです。そのために自分にできる最大限の努力をします。

私は音楽家というのは音楽を通して神の栄光を現すものだと考えています。
しかし、大切なことは「音楽家が自分でがんばって神の栄光を表すのではなく、神様が音楽家を通してご自身の栄光を表してくださる」ということです。私たち音楽家のすべきことはいつも可能な限りの努力をするということだけだと考えています。あとは本番がうまく行こうと行くまいと、神様が全てを益としてくださってご自身の栄光を現してくださるでしょう。

同じように、人生全般においても、いつも自分のすべきことに最大限の誠実さと努力を持って取り組み続けることを第一に考えています。その結果がうまく行っても行かなくてもそれは神様にゆだねます。神様は私の成功を通してだけでなく、失敗を通してさえも自身の栄光を表してくださる方です。それが神が全能であるということの本当の意味だと思います。私はただ一生懸命に目の前のことに取り組むだけです。もし人生において何もかも成功しないといけないのでしたらこれほど大変なことはありません。すぐに燃え尽きてしまうでしょう。しかし神様は私たちの弱さも、罪も、失敗も何もかも知っておられ、それを赦し、それを用いてご自身の栄光を現してくださるのです。

* マタイ・ヨハネ受難曲とかロ短調ミサとかを聴く時、どのようなことを思いながら聴くのか?

感謝なことに、マタイ・ヨハネにせよ、ロ短調ミサにせよ、また、どんな教会音楽でもそれが信仰告白の音楽である限り、本当に共感と感動を持って聴く事ができます。たとえば、ロックやフォークは正直言って私にとって快適な音楽ではありません。しかし、そこで歌われている内容が、神様とイエスに対する信仰告白や讃美であれば音楽のスタイルはそれほど気になりません。
でも、それがバッハの作品となれば、そのメッセージの内容も、それを包む音楽も私にとって最高に価値のあるものです。その喜びは筆舌にしがたいものがあります。バッハの音楽を聴く時、また演奏する時、音楽家としても、一人のキリスト教徒としても人生における最高の喜びと感動を味わっているといっても過言ではありません。
神を礼拝する事が私にとっての最高の喜びであり、バッハの音楽は演奏するにせよ聴くにせよ、礼拝として最高のものの一つだからです。

最後に

自分の宗教というか、信仰を持つということはすごく大切なことです。人は意識するしないにかかわらず、必ず何かを信じて生きています。その対象をはっきりと意識するということは、自分の世界観を持つということにつながるからです。
人とは一体どういう存在なのか?どこから来て、どこへ行くのか?生きるというのはどういうことなのか?それらの問いに科学は答えてくれません。人間には体だけでなく、たましいと霊があるからです。聖書はそのことについて応えてくれる書物だと私は信じています。みなさんがキリスト教徒になるとかならないとかの問題は脇に置いたとしても、聖書の、また教会音楽の発するメッセージは探求する価値のあるものだと思います。ぜひその真髄に迫ってくださいますように。


2004年 レポートを読んで

2007-11-05 22:56:37 | Weblog
2004年 レポートを読んで


* 神はなぜ人間というものを創造したのだろうか?あるいは、神にとって人間とはどういうものか?

神はご自身の栄光をあらわすために人間を創造されたというのが聖書の答えなのですが、それでこの謎が解けるわけではないですよね。神が自分の栄光をあらわすのになぜ人間が必要なのかという質問が当然出てくるでしょう。
答えは結局「謎」です。
私たちにわかることは、神はご自身の全能の力と愛をもって、ご自身の栄光を顕されるために全世界と私たちを創造されたという「事象」です。それが何故なのかは、「神だけが知っておられる」ということで十分だと私は考えています。


* 今、世界では戦争や自然破壊といった問題が人間の手のよって起こっている。そういう人間を神は本当に愛しているのか?

こんなに、罪深く、自分勝手で傲慢な人間たちを神様が愛しておられるというのは、ちょっと信じがたいことですね。私も、自分が神に愛されているということは「驚くべき恵み」(アメイジング・グレース)だと思います。しかし、歴史的事実として、神は一人子イエスさまを地上に遣わし、十字架上であがないの死を成し遂げられました。そこに愛があります。
聖書にはこう書いてあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」<ヨハネの福音書3:16>


* 生まれはしたが数日でなくなってしまう赤ちゃんもいるが、その子らはどんな罪を犯したというのか?罪を犯すまではその被造物に愛を注ぐというのなら、なぜその子は死ななければならないのか、死ぬのが栄誉と神は考えているのか?

* 何の罪もなく、というか普通の生活をしているだけなのに、災害の犠牲になる人々、赤ちゃんとか、神様はどうして彼らをそんな目にあわせるのか?神が全能なら彼らを助けてくれるべきではないのか?

まず、赤ちゃんは自分の行動に責任がもてませんね。ですから当然、神が幼いたましいを罪に定めることはありません。では、早死にする赤ちゃんとか、災害の犠牲になる人々は一体何の理由があってそんなに悲惨な目に合うのでしょうか?
それは、やはり人間の罪のためです。
この世界ははじめ、良きものとして創られました。しかし、人間が自分の意思で神に反逆しために、この世界の支配権はいわば合法的にサタンに売り渡されてしまいました。ですから、この世界には罪と悲惨と死が充満しているのです。
人間は自らの意志で神に反逆してしまいましたから、人間がもう一度自分の意志で自らの支配権を神に差し出さない限り、全能の神といえども人間に助けの御手を差し出す事ができません。
そしてもう一つ大事なことは、早死にが一概に不幸とは言えないという事です。確かに、本人にとって、また時にはそれ以上に周りの人にとってそれは悲しく、寂しい出来事でしょう。しかし、人間の寿命は神の御手の中にあります。神が定められた寿命はその人にとって必ず完全です。大切なことはたとえ数時間の命でも、120年の齢であっても、それぞれの人生を100%生き抜くことです。人の命の長さは神の主権の中にあります。
ですから、私は今日突然の死を迎えても悲しくはありません。私の家族も寂しさを感じるかもしれませんが、嘆きはしないでしょう。天国への旅立ちですから・・・。後に残す人のことも心配しません。神様が必ず面倒をみてくださいますから・・・。ただ、できるだけ苦痛のない死に方をしたいという願いは持っています。


* どの宗教も最終的なところは同じなのでは?本質的なところではみな同じことを言っているのでは?違った宗教の間での神の存在とは共通するものなのか?

多くの宗教では共通点がたくさんあります。ですから、どれでも本質は同じではないかと考えている人はたくさんおられます。しかし、聖書の福音と他の宗教とは本質の部分で完璧に違っています。キリスト教の中心は道徳や倫理ではなく、キリストの「十字架の死と復活」です。イエスも言われました。「わたし(の十字架と復活)を通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません」と。
そういう意味では、キリスト教は狭い門です。しかし、イエスをキリストと信じるだけで、人種、国籍、性別、業績、教育程度、経済力、前歴、修行の程度、その他一切の条件関係無しに天国への道が開かれる、救いの道が開かれるのですから、これほど寛容なものはありません。


* カソリックとプロテスタントは対立しているということを聞くが・・・・。世界では宗教の違いで戦争が起こっているが・・・・・?

かつてはカソリックとプロテスタントの対立がありましたが、現在では実質的にはありません。私の通っている神学校では、プロテスタントの学生とカソリックの学生たちが机を並べて一緒に学んでいますし、両者とも同じ聖書を用い、イエスをキリストと告白する信仰に違いはありません。使徒信条、ニケア信条などの信仰告白文も全く同じです。
また、真の意味で神と聖書に導かれる宗教戦争は少なくとも新約の時代以後2000年間は一つもありません。宗教戦争といわれるものも、実態は人間の欲望、プライドなどが原因の戦争です。つまりは神は完全なお方ですが、人間は誰でも罪深く、間違いを犯すということです。


* 死後裁きがあるというが、その裁きに何を求めているのか?

神と神が注ぎ続けて下さっていた愛に対してどう応えたかが問われます。


* 永遠は虚無と同じくらいに怖いことだと思うが・・・・・。

もし、この地上のように不完全で罪深い世界が永遠に続くとしたら、それは恐ろしいことかもしれません。しかし、完全な世界、喜びと平安、愛と希望の世界が永遠に続くとしたら、これほどすばらしい事はないと思います。

* 神はなぜ一人でなければならないのか?

完全であって、全知全能の方は、当然ただ一人です。もし複数いるのであれば、それは全知全能の存在ではないということです。この世には様々な霊的存在がいます。天使もいれば悪魔も悪霊もいます。しかし、神はただ一人です。

* 神が完全であるということにかこつけて、神に何でも求めすぎてはいないか?

神には何でも、大胆に、恐れなく求めていいと聖書にはあります。そして、みこころにかなう願いであるなら、それは必ず聞かれるとも書いてあります。その祈りと願いが正しくよいものであるかどうかは、神がそのご主権をもって判断されます。ですから、私たちは何でも思いのままに求めてよいのです。


* 悪いことをしている人はたくさんいて、野放し状態なのは、たとえ死後の裁きが待っているにしても、不公平ではないか?

そんなことはありません。死後にさばきがある、しかもそのさばきが完璧であり、正しく、永遠であるなら、全ての収支決算があうわけです、不公平ということはありません。それに悪いことをしている人が野放しにはなっていません。もし、神がおられず、神が人の悪をとどめられる事が全くないのであれば、この世界はとっくの昔に崩壊していることでしょう。



*神がいなくても、人間が自分の意思で強く念じるというか希求すれば願いはかなうのではないか?

聖書には「人にはできないことも神にはできる」とイエスのことばがあります。つまり、人にはどんなに願ってもかなわない事があるが、神はみこころのままに何でもおできになるという事です。



*神が存在するとすれば人間の意志とか心の中に存在するのではないのか?

神は遍在、すなわちどこにでもおられます。人間の意志とか心の中にも働かれますし、物に対しても働かれます。物理的な世界、精神的な世界、そして霊的世界、その他どんな世界にも神はおられますし、働いておられます。


*作曲家が曲を作った時点で、それはすでに音楽だというが、それだけでは演奏家や聴き手にとってはその曲が存在しないのと同じではないか?神にとっても、作曲家の頭の中の音を聴くことができない限り、神様にとっても音楽ではないのではないか?プロテスタントの観点なしに山本はどう思うか?


まず、はっきりさせておきたいことは、クリスチャンとしての観点なしにものごとを考えるというのは私には不可能です。それはつまり、私ではなく、他人としてものごとを考えるということだからです。クリスチャンであるという事が私自身の存在の基盤です。基盤なしにものを考えたり、それを表明することはできないのです。
作曲家が曲を創った時点で、それはまぎれもなく音楽であり、その音楽は確かに実存していると私は考えています。しかし、おっしゃるように、演奏家や聴き手はその音楽の存在を知る事ができませんし、聴くこともできませんから、存在していないのと同じです。しかし、だからといって、その音楽が存在していないわけではありませんし、意味(存在意義)のないことでもありません。神は作曲家の頭の中にある音楽さえも聴く事がおできになります。
アンタル・ドラティという指揮者の母は、戦時中ナチの収容所にいたそうです。周りの人がどんどん絶望の中で死んでいった中で、彼女は生き延びる事ができました。その理由は、彼女はベートーベンの弦楽四重奏曲を全曲暗譜しており、それを毎日、まずはファーストヴァイオリンのパート、次はセカンド、そしてヴィオラ、最後にチェロパートと、日々くりかえして頭の中で鳴らし続けて、生きる希望を保ち続けたそうです。その時、彼女の頭の中には間違いなく音楽が存在していましたし、音楽が持つ最も崇高な力が発揮されていたという事ができます。
また、かつて私の家内が共演したペーターというピアニストは、毎朝練習を開始する前に1-2時間、必ず即興演奏をしていたそうです。彼の奥さんいわく、「それを聴いていたのは彼自身と神様しかいない」と。それは聴衆の耳に届くことは全くなかったのですが、まぎれもなく彼と神様の間にコミュニケーションとしての音楽が存在し、その音楽が彼と神様に、そして台所で家事をしていた奥さんに作用し続けていたという事ができます。
また、私自身も、(私だけでなくそれこそ小さな子供でさえ)心の中だけで即興演奏をして楽しんでいる時が多々あります。その時、私の心の中には音楽が存在しており、その音楽は私に生きる喜びを与えてくれており、神様もそれを聴いてくださっています。つまり、私と神様とのコミュニケーションがすでにそこに成立しているのです。
もちろん、私は音楽が聴衆に向かって響く必要がないなどというつもりは毛頭ありません。作曲家と演奏家、そして聴衆が音楽を通して心を通わせることは,音楽の最もすばらしい存在形態の一つです。しかし、音楽は作曲家と演奏家、そして聴衆とのコミュニケーションの媒介である以前に、まず人と神との間に存在し、相互に作用するものであると私は信じているのです。そういう意味で、音楽というのは、神が人間に与えてくださった最高のプレゼントの一つだと思います。人間がそこに存在している限り、誰でも、いつでも、楽しむ事ができる。いや、単に楽しむ以上に生きる希望や意味、力さえも与えてくれるものなのです。このように素晴らしい芸術に携わり、それを職業にする事ができるというのは、本当に素晴らしい事です。世の中に私ほど幸せな人はそうざらにはいないだろうと自分で思います。皆さんもそうですよ。皆さんこそ幸せな人です。音楽の素晴らしさをすでに知っているのですから。心からおめでとうと言いたい、Hallelujah!


*キリスト教徒でないと教会音楽は演奏できないのだろうか?するべきではないのだろうか?

そんなことはありません。たとえば教会堂は礼拝のためのものです。しかし、その建物は建築として意味があり、美術作品としての意味があり、雨風を避けるためにも役立ちます。極端な例では、戦時には砦として用いることもできるかもしれません。
すぐれた教会音楽は宗教や信仰を超えた普遍的な価値がありますから、信仰に基かないアプローチにも耐え得るものであり、その時でも十分にその音楽的価値を発揮できるものです。大切なことは演奏者が自らの立場、考え方をしっかりと持っているという事です。仏教徒から見たバッハ、「無神論者」から見たバッハ、ヒューマニズム的な観点によるバッハ、また、音楽の美しさだけをとことん追い求めた演奏とか、みなそれぞれ独自の価値があるでしょう。しかし、それと同時にその本来の方向性、つまりプロテスタントの信仰告白としての演奏がどういうものであるのかという知識はやはり必要だと思います。
また、クリスチャンではない人が演奏や鑑賞を通して教会音楽に接してくれるのは、私にとっての喜びでもあります。その事を通じて、演奏者も聴衆も神と聖書に出会う可能性が多少なりとも発生するからです。


* 無神論と無宗教の違い

多くの人が私は無神論ですと書いておられましたが、自分に対して「無神論」という言葉はあまり使わないほうがいいと思います。無神論というのは神と呼ばれる存在全てを否定する考えで、霊的世界の存在を否定する考えです。つまり、宗教の存在意義を全く認めないというか。、宗教を信じている人々を、軽蔑し、あわれむ考え方で、特にヨーロッパにおいてはテロリスト、犯罪肯定論者であるとみなされる可能性があります。「私は無神論者です」と語るということは、「私は信用できない人間です」と語っているのと同じなのです。つまり、目に見える結果が全てである。どんな手段を使おうと勝てば官軍、絶対的な悪は存在せず、善悪は全て損得で考える事ができる。「なぜ殺人がいけないのか?」「殺人を許容する社会では、自分が殺されるかもしれないから。」だから、「絶対に自分が安全であり、しかも益になるなら、殺人さえ自己実現のためにはとり得る手段である」という考え方を持って生きていますよという表明なのだと受け取られる可能性があります。
ですから、「私は特定の宗教を持ってはいません。神は存在するかもしれないと思っていますが、明確な信仰は持っていません。しいて言えば無宗教とでもいいましょうか・・・・・。」といった程度の事を表明しておけばいいと思います。
ヨーロッパに行くと、役場などの手続きの際、宗教を記入する場面があります。そんな時はためらうことなく、自分の家の宗教を書いてください。仏教とか神道(Shinto religion)とか書けば良いのです。これは絶対に覚えておいてください。無神論と書くとあなたの社会生活に重大な支障が生じる恐れがあります。

ただ、誤解のないように申し添えますが、私は「無神論」を表明している人たちが悪人だとは思っていません。

私自身、無神論者であった時期があり、その当時も私なりに誠実に生きてきたつもりです。

また、私の周囲に無神論を公言している、尊敬すべき人格者もたくさんいます。

2006年度 レポートを読んで

2007-11-05 22:56:16 | Weblog
2006年度 レポートを読んで

* 幼なじみを交通事故で亡くした。神がいるならなんでこんなひどいことが起こるのか?

そうですね。確かにこの世界には「なぜ?」と言いたいこと、というよりは「なんでやねん????」と叫びたくなるような理不尽極まりないことがたくさんあります。
ぼくもかつては、「神がいるなら何でこんなことが?神などいるわけない」と思ってました。

しかし、今になって思うことは、こんな悲惨な現実を生み出しているのはやはり人間自身だと思うのです。
そして、「神が確かに存在するからこそこんな罪だらけの人間が構成する社会が何とか崩壊せずに、この程度の悲惨さですんでいるのだろう」と思うようになりました。
実際、ナチのホロコーストとかルワンダの虐殺などの人間が引き起こした悲劇的犯罪や阪神大震災をはじめとする天災に直面して多くの人々が示した人間の尊厳を見るとき、「神の存在があればこそ、これほど崇高な人格の持ち主も存在し得るのだ!」と感じています。

聖さと邪悪、崇高さと低劣さが同居しているのが人間の不思議です。私はこれが神と悪魔が存在することの一つの証左だと考えています。


* 普段は神などいないと思うが、問題が起こると「苦しいときの神頼み」。そういうのはどう思うか?

人間には「罪性」と「神のかたち」としての神聖さとが同居しています。
「神などいない」という思いが罪の性質の典型であり、苦しいときとか問題が生じたときに神の御名を呼びたくなるのは、人間の内面に霊というものがあって本能的に神を知っており、求めていることを示していると思います。
つまり、すべての人は多かれ少なかれ二重人格なのです。霊的な存在であり、同時に精神的な存在、肉体的な存在です。ですから、時によって「神はいない」と感じたり、「苦しいときの神頼み」になってしまうことはごく自然なことだと思います。しかし、霊が目覚め、神との人格的な交流を体験するとき、神の存在を疑うことはなくなります。神の存在は非常に現実的なことなのです。そこに神がいるということ(「臨在」と呼びます)、それは「現実」です。


* 信仰のゆえの殺し合い、戦争、それはどういうことなのか?

本当にそれはどういうことでしょうか?あり得ない事ではないでしょうか?
というより、あってはならないことだと思います。自分の信念のゆえに人を殺す。疎外する。憎悪する。排斥する。そんなことは決してあってはならないことです。
キリストはなんと教えておられるのでしょうか?布教のためなら戦争も可としておられるでしょうか?正義の戦争なら勇気を持って戦えと教えておられるでしょうか?
断じて「NO!」です。

信仰のゆえに殺しあうのはその信仰の対象が間違っているか、信仰のあり方が間違っているかのどちらかです。
この世には多くの宗教戦争が存在しました。他宗教に対する迫害もあります。しかし、その真の原因は信仰ではありません。その原因は人間の罪であり、欲であり、自我です。自己保全欲です。
キリストの教え、すなわち聖書をそのまま素直に読むなら、宗教戦争は絶対に容認されるものではないことが判ります。
この点で多くの宗教者、それもキリスト教徒と自称する人たちが間違いを犯しました。血を流してきました。それは確かです。しかし、それは人の犯した間違いであり、神の犯した間違いではないのです。


* 「ルターは神への信仰と隣人への愛の奉仕のみに罪の赦しがあるとした」のか?

数人の人がこう書いておられましたが、おそらく同じ資料からの引用だと思いますが、これは間違った知識です。事典とか教科書の類にもよく不正確な記述があるものです。
ルターが主張したのは「どんなによい行いをしても、たとえ隣人への愛の奉仕を限界まで行ったとしても、それで罪が赦されるわけではない。罪の赦し、天国への入国資格はただ神・キリストに対する信仰によってのみ得られるのだ。」ということです。そして同時に「信仰によって罪の赦しを得た人は、必ずや隣人に対する愛の奉仕を実践する人へと造り替えられるはずだ」とも主張しました。つまり、隣人への愛の奉仕は「罪の赦し(救いと表現される)の条件」ではなく、「罪の赦し(救い)の結果」であると主張しました。これが聖書本来の教えであることを彼は「再発見」したのです。その結果が宗教改革でした。


* 聖書は人の手によって何度も編集されているのか?中には消された文章だって存在するのか?

旧約聖書も新約聖書も、その成立以来今日まで人の手によって編集されたり、意図的にカットされたりしたことは全くありません。有名な死海写本、シナイ写本の考古学的発見はそのことを証明しました。現存する多くの写本間の一致度は(同じ時代の他の文書資料に比べて見ればわかるのですが)ありえないほどの高さです。
羊皮紙やパピルスに記された原本がすでに消滅していることは事実ですが、現存する写本がその原本を非常に正確に受け継いでいることはすでに学問的に疑いのないものとして受け入れられています。
昨年「ダヴィンチコード」なる小説が話題になりましたね。この類の読み物はいつの時代にも存在しましたが、それらは決して学術書ではないのです。フィクションはフィクションとして楽しめばいいのですが、下手をすると間違った知識が刷り込まれますから注意が必要です。


最後に、
クラシック音楽だけでなく、ヨーロッパの歴史や文化を学ぶためには聖書とキリスト教に対する知識は非常に有益です。というより、不可欠なものです。
私は、すべての人がキリスト教信仰を持ってくださることを願っている一人ですが、信仰を持つとか持たないとかはひとまず脇において、まずは聖書とキリスト教に対する知識をたとえ少しずつでも増やしてくださればと願います。

一冊本を紹介しましょう。昨晩読み終えたばかりなのですが、すごい本です。
ルワンダ虐殺を生き延びたカソリック信者の自伝です。生きるということ、生かされるということ、そして愛、赦し、信仰について考えるよいチャンスを提供してくれる本です。読んで絶対損しないと思いますよ。

イマキュレー・イリバギザ著 堤江実訳
「生かされて」 出版:PHP研究所 1600円

では、今年度残された日々を楽しく有意義に過ごしてくださることを願います。

J.S.BACH ロ短調ミサ テキストに見る聖書思想

2007-11-05 22:55:27 | Weblog
J.S.BACH ロ短調ミサ テキストに見る聖書思想

ロ短調ミサの歌詞(通常のミサのことばとそれほど違いはないのですが)について思いつくままに語る時がありました。そのためのレジメを載せておきます。

5回続いたのですが、完走することなく中断してしまいました。

というわけで、未完ですし、それに、メモ書きのようなものなので、読みにくいかとは思います。でも、けっこうこの曲の理解に役立つと思うので、ここに改めて載せておきます。以前は別のWebページに載せていたものです。

J.S.BACH ロ短調ミサ テキストに見る聖書思想 
第一回 「キリエ」

第1曲 Kirie eleison.  キリエ エレイソン  <主よ あわれみたまえ>

第2曲 Christe eleison. キリスト エレイソン <キリストよ あわれみたまえ>

第3曲 Kirie eleison.  キリエ エレイソン  <主よ あわれみたまえ>

1 キリエ=主よ

主に対して従があります。主に対してしもべがあります。主よと呼びかけるとき自分は従である、しもべであると告白しているのです。

この言葉は特に初代教会の人々にとって、重大な意味がありました。当時はローマ帝国の時代です。皇帝が主として、神として君臨していた時代です。その中で、「私の主は天地万物を創造されたただ一人の神です」と告白していく事はいのちがけの事でした。それは口先だけの事ではなく、真の告白であるなら現代でもいのちがけの事になりうるのです。

さて、私たちがキリエを歌ったり弾いたり聴くとき、「誰があなたの主ですか。つまり、あなたは何のために生きるのですか。」との問いかけがそこにあります。

 3つの生き方があります。

1 自分が自分の主。自己実現を求めて。自分の人生は自分のために。世界は私のために。自分の栄光を求めて。
2 世間が主、他人が主。人様に迷惑をかけない生き方。世間体を第一に。主体性のない生き方。マザコン、ファザコンもこの一種か。

3 神、創造主が主。神に創られた者として神の栄光をあらわすために生きる生き方。


では、神を主として、神のしもべとして生きる人生とはどんな生き方でしょうか。

 *聖書によれば、神は創造者。
  『はじめに神が天と地を創られた。』(創世記1:1)

 *そしてご自身が創られた世界と、その作品の中の最高傑作である人間を愛しておられる方。
  『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』(創世記1:27)

  『神は愛です。』(第1ヨハネ4:16)

それゆえ、人は、創造性に満ちた人生を歩むとき、愛に生きるとき、神の栄光をあらわす事が出来ます。神に対して主よと告白して生きる時、それは神の僕として愛に生きます。クリエイティブに生きますとの決意表明に他ならないのです。

バッハはその主要な作品にしばしばS.D.G.と書きこみました。「sol deo gloria」ただ神にのみ栄光あれとの意味です。彼にとって生きることは、神の栄光に仕える、神を愛し隣人を愛する愛に生きる、そのために音楽を創造し続ける事に他なりませんでした。

今バッハの音楽を聞いたり、演奏したりするとき、あなたも問われています。あなたは何のために生きていますか。自分のためですか。それとも世間のためですか。あなたの人生には創造主からの貴い使命があることを認めますか。


2 エレイソン=あわれんでください。


人がその人生の意味を自覚すると、戦いが始まります。それは罪との戦いです。聖書でいう罪とは、「的外れ」という意味です。つまり本来の使命に生きないで、違う目的のためにその短い人生を使ってしまうことです。

人間の心の中には、自分中心の思いが住んでいます。本来神の栄光のために生きるべきと知っていながら、自分のために自分の栄光を求めて生きてしまうのです。

この戦いでは、何人といえども勝利する事は出来ません。聖書のローマ人への手紙に次のように書いてあります。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この言葉はこれを書いたパウロのみの告白ではありません。これは実に人類の誰もが告白せざるを得ない言葉なのです。もしあなたがそうは思わないというなら、あなたは自分と神を欺いているか、まだ罪と戦った事がないかのどちらかでしょう。バッハにとってもこれは切実な問題でした。なぜなら、『罪から来る報酬は死』<ローマ6:23>だからです。

だからこそ『あわれんでください。』なのです。人が神に向かって『主よ』と叫ぶとき、すぐに続けて『エレイソン』と叫ばざるを得ないのです。


3 キリストよ

 キリストとは救い主という意味です。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」<マタイによる福音書1:21>


 絶対者なる神の前で、ただあわれんでくださいと叫び続けるだけではあまりにも希望がないでしょう。エレイソンと叫ぶとき、そこに解放者としてのキリストを、救い主としてのキリストを期待しています。しかも、それは単なる希望ではなく、必ず応えられるれるという確信を持った期待の告白なのです。先ほど読んだローマ人への手紙の続きには

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
8:1今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

とあります。

 キリストよと呼びかけるとき、そこに解決があるとの確信と平安、慰めがともなわれているのです。この「キリスト エレイソン」が前曲とはうってかわって大変に明るく平安な曲想を持っていることに注目してください。それはもはや罪に苦しむうめきのようなエレイソンではなく、ここに救いがある、解放があるとの平安と希望に裏づけられたエレイソンなのです。

 バッハはこのキリストに希望をかけました。彼の創作の中心はイエス・キリストでした。彼の主であり、救い主であるキリスト・イエスを描き、彼に対する信頼と献身、讃美の調べを書き続ける事こそ彼の使命と信じてその生涯を過ごしました。


4 ふたたびキリエ・エレイソン

ここで調性もロ短調に戻ってもう一度キリエ・エレイソンと歌います。しかし、短調でありながら、嘆きの音調はありません。アラ・ブレーヴェの確信に満ちた調べです。

 バッハは確信を持って神を主と呼びます。また自分が死ぬべき罪人である事をはっきりと認めてそのうえでエレイソンと祈っています。キリストのゆえに主が必ずあわれんでくださると信じて。

 聖書のへブル人への手紙には、次のように書いてあります。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

バッハは神がおられることを信じていました。また神は求めるものには報いてくださる方であると信じました。だからこそ大胆にまた、心から「キリエ・エレイソン」と書き、奏で、歌う事が出来たのです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」<ローマ人への手紙10:13>

ロ短調ミサ(その二)

2007-11-05 22:55:14 | Weblog
ロ短調ミサ(その二)

第2回 MISSA-GLORIA ミサ-グロリア(その1)

第4曲 Gloria iin excelsisDeo,
    <いと高きところに、栄光が、神にあるように、>

第5曲 et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
    <そして地では、御心にかなう人々に平和があるように。>

1 天と地

 第4曲と第5曲は続けて演奏されますが、まず耳をひくのは天と地の対比です。バッハは全く性格の異なる二つの曲を当ててこの違いをあらわしています。しかし、この二曲が切れ目なしに書かれていることは注目に値します。(第4曲は3拍子、ちょうど100小節でおわり、第5曲は4拍子、嘆息のモチーフで始まり、フーガを展開し、最後はトランペットとティンパニを加えて輝かしく終わる。)


 天とは何か、地とはどこかと考えていくと長い論文がいくつも書けるほどに複雑になってしまうのですが、「神の世界と人間の世界」と考えていただけるとわかりやすいと思います。

 そのとき忘れてはならない事は、地は天に含まれるということです。たとえば、日本と世界の対比を考えてください。地球と宇宙でも同じです。日本は世界の一部ですし。地球も宇宙の一部です。聖書の示す世界は二元論の世界ではありません。

 神の世界はすべてのすべてにおよび無限の広がりを持ち永遠であるというのが聖書の主張です。その神の世界の中に人間が住み生きている「この世」と呼ばれる世界があります。それが地です。


 地は時間と空間の制約を受けていますし、我々人間の目から見ての矛盾がたくさんある世界です。現在の世界を見ても悪が栄え戦争や飢饉があり差別や迫害、ありとあらゆる悪に満ちています。しかし、神の世界には矛盾はありませんし、神の視点から見るとこの「地‐人間の世界」も「天‐神の世界」の一部なのです。つまり、私達の目から見ると、この地上は矛盾だらけですが、神の視点から見るならばすべては完全なのです。

 神を信じて生きるとは、この制限や矛盾のある世界に生きながら、神の無限なる永遠なる完全な世界を生きるということです。その事を聖書では『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』<ローマ人への手紙8:28>

『そら、ここにある。とか、あそこにある。とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』<ルカによる福音書17:21>との言葉で表明しています。



2 <いと高きところに、栄光が、神に>

さて、いと高きところ、天、神の国では何が求められているのでしょうか。すべてが完璧であるはずの神の国で求められているのは神の栄光です。すでに神の国では神の栄光があらわされているはずです。すべてが完璧な神の世界、足らないものは一つも無いはずです。にもかかわらず、さらに栄光があるようにと祈ります。なぜなら神の国に生きるものたちの存在目的は神の栄光にあるのです。

『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。』<イザヤ43:7>

ですから神の視点から見るならばすべてのものは独自の存在意義を持っています。この世界に不必要な命はあり得ないのです。キリスト教会が妊娠中絶に反対する理由の一つはここにあります。どの命もすべて神が神ご自身の栄光のために創造されたもので何人もそれを損なう事は許されません。


3 <地では、御心にかなう人々に平和が>

では、この地上、人間の世界でもっとも必要なものはなんでしょうか。それが平和です。
平和とはヘブル語でシャロームで平安とも訳せます。人間にとって、絶対必要なことは、お金でも健康でも地位でも名誉でもなく、平和であり平安です。あなたにとって平和、平安より価値のあるものがありますか。

『平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。』<マタイ5:9>
『どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。』<ローマ人への手紙15:33>


 さて、聖書には、3種類の平和について言及されています。

ア. 神との平和。

 聖書によれば、神と被造物の代表である人間との間に断絶があリます。それがすべての問題の根になっています。そしてその断絶を生み出しているものが罪です。神によって創られた人間がその本来の使命を忘れて、自己本位に生きること、それが罪だと、前回お話いたしました。その罪が人間と神の間で仕切りとなり、神と人とが対立関係、断絶関係に入ってしまったのです。

『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』<イザヤ書59:1‐2>

罪ゆえに神の敵になってしまった人間に希望があるでしょうか。人間が神に敵対していきつづける限り、希望はありません。その行き着く先は死です。

『罪から来る報酬は死です。』<ローマ人への手紙6:23>

 この状況を解決する事が人間には可能なのでしょうか。

 人間の側からは不可能です。なぜなら問題は人間の側にあるからであり、その問題は自力での解決が不可能だからです。罪は人間にのみあり神の側にはありません。もちろん、もし人間が自分の手で罪を解決する事が出きるのなら神との平和は実現します。しかし何人といえども自分の力で罪に打ち勝つ事はできません。皆さんも一度試して見られたらと思います。しかしたとえ1日でも、行動において、思いにおいて、言葉において、何の罪も持たずに生きることは出来ないとの現実に突き当たるでしょう。

 神と人との平和を回復するためには、神の側から手を差し伸べていただかねばなりません。そのための祈りが「キリエ エレイソン」でした。

 神はこの祈りに答えて、いや我々がそう祈るはるかに前、まだ神に敵対していたときすでに、平和を提供してくださっています。コリント人への第二の手紙には、

『こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。』<5:20>

とあります。神からの平和の申し出を受け入れるかどうか、それが私達に与えられた選択肢なのです。

 ただ、そのためには神と人との仕切りとなっている罪が処理されなければなりません。神は絶対的に聖いお方ですから、罪をそのままにしては人を受け入れる事は出来ません。しかし愛なる主は、ご自分の御子イエスキリストによって、私達の罪を解決してくださったのです。それが十字架です。十字架によって神と人との敵意(隔ての壁)は葬り去られました。

『敵意は十字架によって葬り去られました。』<エペソ人への手紙2:16>

十字架には神の愛が現れています。十字架によって神は我々に対する愛を表明してくださったのです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 <ヨハネによる福音書3:16>

 では、なぜ十字架でなければならないのでしょうか。それは謎です。神がそう定められたとしか答えようがありません。

『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』<ヘブル人への手紙9:22>

 十字架での死によって、神が私達の一切の罪を聖めてしてくださった。これがキリスト教の中心です。聖書の主題は、イエス・キリストであり、そのみわざの中心は十字架上での死なのです。


イ. 人との平和、

 罪を自己本位と解釈すれば良く理解できるのですが、罪が生み出すものは神との対立と断絶だけではありません。人との関係が破壊されます。病気の大半はストレスから来るそうです。ストレスの大半は人間関係の問題だそうです。人との平和が実現するときなんと多くの苦しみや悩み、問題が解決するでしょう。神との平和を自分のものとした人は必ず人との関係も解決の方向へと向かいます。

『敵意は十字架によって葬り去られました。』<エペソ人への手紙2:16>

との聖書の言葉は、人間どうしの関係にも言及しているのです。

 余談ですが、我々がステージ上であがってしまうのも人との平和がないからだといえないでしょうか。ステージで恐れを抱くとき何を恐れているのでしょうか。お客さんでしょう。なぜ聴衆が恐ろしく感じるのでしょう。そんな必要どこにもないのに。私達は自分を取り巻く世界との平和を持っていないことに気づかされます。

 人と人との間に平和をもたらすものは愛です。愛とは、一言でいって赦しです。神が人を愛してくださったとは赦してくださったと言い換える事が出来ます。人間同士の平和のために必要なことは、赦しです。たがいに赦しあう事によってしか平和は実現しません。神からの赦しを受け取った人は赦す事が出来る人になります。人を赦すことの出来る人は、人に赦しを乞う事も出来るのです。神に愛されたものは神を愛するようになります。神を愛するものは神が愛されている人を愛するようになります。そしてその人は人から愛されるのです。


『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』<ヨハネの第1手紙4:10‐11>


ウ.自分との平和。

 現代の問題のひとつに自分を受け容れることの出来ない人々の増加があります。自分の罪のゆえに、また他の人からの心無い取り扱いによって心に傷を負い、自分自信を不当に低く評価してしまうのです。過度の引っ込み思案、攻撃的な性格や言動等、多くの問題がここから発生し人間関係をさらには神との関係を破壊します。そしてそれがさらに自分を傷つけ縛りつける結果を生み、事態はさらに悪くなっていきます。「こんな自分ではだめだ、だめだ」との思いが悪循環を生むのです。

 どうしたら自分と和解できるのでしょうか。どうしたら自分を愛せるのでしょうか。

 そのためには本当の自分の価値を知る必要があります。あなたはご自分の価値を何によって判断されますか。私達は自分の価値を自分の業績や能力ではかっていないでしょうか。

 神様はそうではありません。イザヤ書43:4には、
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

とあります。またローマ人への手紙5:8には
『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』

とあります。私達はたとえ罪人であったとしても、能力が無かったとしても何一つ業績が無かったとしてもキリストが私達のために命を投げ出してくださるほどに神に愛されています。それだけの価値があなたにはあります。神がそう語っておられるのです。自分を大事にするべきだとは思いませんか。自分と和解すべきだとは思いませんか。それが出来たとき、平和が平安とも訳せることが実感できるでしょう。神との平和をいただき、人との平和を実現し、自分を受け入れる事が出来た人は、平安を得ます。

『地では、御心にかなう人々に平和があるように』<ルかによる福音書2:14>


第6曲

Laudamus te,<あなたを頌めます。>
benedicimus te,<あなたを讃えます。>
adoramus te,<あなたを拝します。>
glorificamus te.<あなたを崇めます。>

第7曲 Gratias agimus tibipropter magnam groriam taum.
    <私達はあなたに感謝をささげます。大いなるあなたの栄光のゆえに。>

4 讃美と感謝

6と7は讃美と感謝の曲です。宗教曲の基本は讃美と感謝です。神が創造者であり、我々が被造物であるゆえに、神を讃美し、感謝します。また、我々が罪ある存在であり、神が救いの主、平和の神であるゆえに、感謝し、讃美します。それが聖書の説く信仰生活の基本でもあります。ですから、キリエのない宗教曲はたくさんありますが、讃美と感謝のない宗教曲はほとんどありません、というより多分ないのでは?

次の曲からキリストへの讃美が始まりますが、それは次回。乞うご期待

ロ短調ミサ(その三)

2007-11-05 22:55:05 | Weblog
ロ短調ミサ(その三)

第3回 MISSA-GLORIA ミサ-グロリア(その2)

第8曲 
Domine Deus, rex coelestis, Deus Pater omipotens.
Domine Fili unigenite, Jesu Christe, altissime, Domine Deus, agnus Dei, Filius Patris.

<主なる神、天の王、全能の父なる神よ。>
<主なる独り子、イエス・キリスト、いと高き者、主なる神、神の子羊、父の御子よ>


1『三位一体』

<主なる神‐主なる独り子>の対応、4分音符、8分音符、16分音符の関係に注目。また、ここからイエス・キリストへの讃美が始まるが、二重奏で始まっています。


これらの表現はいずれも三位一体と関係があります。
皆さんは三位一体という言葉を聞かれた事がけっこうあると思います。これは実はキリスト教の神学用語なのです。
その意味は、「神は三人であってしかも一人である」ということです。

キリスト教は一神教であるとは世界史とか倫理社会で習われたと思います。そのとおり聖書は一貫して神は唯一であると主張しています。

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。<マルコによる福音書12:29>

神がただ一人であるという事はよく考えてみると当然の事です。しかも聖書によると神は全能ですからなおさらです。全能の神がたくさんいたらこれは大変な事です。ですから私は子どもの時(クリスチャンではなかった)もし神が本当に存在するのならキリスト教かイスラム教かどちらかの神しか考えられないと思っていました。どちらかといえば理屈っぽかったので、多神教はどうしても受け入れられませんでした。

ところが、聖書をよく読むと<父なる神>以外にどう考えても神としかいえない存在があと二人いる事に気づかされます。それが<子なる神イエス・キリスト>と<聖霊なる神>です。聖書では多くの個所でイエスを神と呼んでいますし、聖霊は神としての属性をすべて(全知、全能、偏在、愛、聖さ、義等)持っており、神と呼ばざるを得ない存在です。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」<ヨハネによる福音書1:1‐3>


また聖書の最初に「初めに、神が天と地を創造した。」< 創世記1:1>とありますがここでの神という言葉は実は複数形なのです。しかも動詞の創造したという言葉は、単数形が使われています。聖書にはそんな初歩的なミスが放置されているのでしょうか。否、聖書は誤りのない神の言葉であるというのが歴代のクリスチャンたちが命をかけて守ってきた信仰告白でした。聖書は神は唯一であると主張しており、同時に父と子と聖霊の3人の神がいると語っています。しかもその三者は一体でありその働きは単数形であらわされる働きです。この明らかに矛盾しているように思えることがらを過去の聖徒たちはそのまま受け入れてきました。そしてそれを三位一体と呼んだのです。

神は一人でありしかも三人である。神は三人いてしかも一人である。こんな非論理的な事をクリスチャンたちは信じてきました。その中には、ニュートンもいますしパスカルもアインシュタインもいます。そしてもちろんバッハも。みな少なくとも私たちよりは聡明で論理的な思考が可能な人たちでした。その人たちがこの事を受け入れ信じてきたのです。


第9曲 
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis. Qui tollis peccata mundi, suscipe deprecationem nostram.
<あなたは世の罪を取り除く方、我らをあわれんでください。あなたは世の罪を取り除く方、我らの願いを受け入れてください>

2『世の罪を取り除く方』

ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。<ヨハネによる福音書1:29>

聖書の主題はイエス・キリストです。

「モーセが書いたのはわたしのことだからです。」<ヨハネ5:46>

モーセが書いたというのは旧約聖書の中のはじめの5巻です。これらはイエス・キリストが出現する1300年も前に書かれました。にもかかわらずイエスは「モーセが書いたのはわたしのことだ」といわれました。聖書の主題はイエス・キリストです。そして、イエスとは誰かというと「世の罪を取り除く神の小羊」です。

仏陀は言いました。「人の苦しみの原因、それは罪だ。罪を捨てなさい。そうすればすべてが解決します。」これは真理です。そのため多くの人が罪を捨てようとして努力しました。難行、苦行、瞑想や慈善活動、ありとあらゆる努力を続けてきましたが、誰も成功しませんでした。

「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」<ヨハネによる第一の手紙1:10>

「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」
<ローマ人への手紙3:10>

罪に勝てる人は一人もいません。ただ「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストによってのみ罪からの救いがあります。イエスキリストは人をその罪から救い、同時に罪の結果からも救って下さる方です。これが聖書の主題であり、このミサ曲の主題です。もう一度整理してみると、

1 人はすべて罪人であり、自分の罪のゆえに、また他の人の罪のために苦しみを背負って生きている。

2 罪とその結果を自力で解決できる人は一人もいない。

3 イエスキリストは世の罪を取り除く神の子羊であり、人をその罪と罪の結果から解放してくださる方である。
これが聖書の主題であり、ミサ曲の主題であり、キリスト教の本質です。ではどのようにしてその解放(キリスト教用語では救い)が達成されたのでしょう。それはイエスの十字架です。十字架とは神のひとりごイエス・キリストが、罪の赦しのための「いけにえの子羊」として、犠牲となったという事です。ですから、この曲と、第17曲「十字架につけられ」の2曲がこのミサ曲の中でもっとも美しく、深く、しかも悲痛な調べとなっているのも当然といえるでしょう。

ついでながら、前曲のニ長調から、この曲ではロ短調に調性が下降しています。これは神であるイエス・キリストが人をその罪から救うために人間となって人間の世界に下りてきてくださり、十字架につけられるほどのどん底にまで降りてくださった事の象徴です。

<罪>という語の長い引き延ばしによる痛みの表現、<我らをあわれみたまえ>における低くつぶやくようなため息、胸を打つような低音の同音反復、流れ落ちる涙をあらわす二本のフルート、これらのものが渾然一体となって心を揺さぶる感動的表現を生み出しています。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」<テモテへの第一の手紙1:15>


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。<ピリピ人への手紙2:6‐8>


第10曲

Qui sedes ad dextram Patris, miserere nobis.
<あなたは、父の右に座しておられる方、我らをあわれんでください。>

短調のアリアであるが、悲しくはなくかえって希望を感じさせる曲です。天上の世界の表現としての軽やかな三拍子系のリズムに注目。


第11曲

Quoniam tu solus sanctus, tu souls Dominus, tu souls altissimus, Jesu Christe.
<なぜなら、あなただけが聖であり、あなただけが主であり、あなただけがいと高き方だからです。イエス・キリストよ>


「なぜなら」との言葉で始まるこの曲は、次の曲と共に、人がイエスに信頼しても良いという事の根拠を確信を持って告知している。ホルンはこの時代、告知者をあらわすために用いられた。「主」(Dominus)と「だけ」(souls)の2つの言葉だけに長いメリスマが使われている。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」<使徒の働き4:12>


第12曲

Cum Sancto Spirtu in gloria Dei Patris. Amen.
<聖霊とともに父なる神の栄光のうちに、おられるからです。アーメン>

非常に壮麗な音楽によって天におけるイエスの栄光を描写しています。ここで聖霊と共に父なる神の栄光のうちにと、三位一体についての言及があることに注目してください。

<父>には長く引き伸ばされた壮大な和音が、<栄光>には細かい上昇形のメリスマが当てられ、<聖霊>は木管楽器と弦楽器の軽やかに飛翔する16分音符によって表現されています。

次回はクレド(一回目)

ロ短調ミサ(その四)

2007-11-05 22:54:51 | Weblog
ロ短調ミサ(その四)

第4回 Credo クレド(ニケア信条)

ニケア信条とは、325年に当時おびただしく出現した異端に対して教義を明確化するべく召集された会議で、この信条の明文化以来今日に至るまで、キリスト教の信仰告白は全く変化していません。この信条を読めばクリスチャンと呼ばれる人たちが何を信じ何に従って生きているのか、おおよその事がつかめます。またこの信条に反する事を主張する人たちはキリスト教を自称していたとしても、それは異端です。ただここで注意する必要があるのは、この時にキリスト教の教義信条が創られたのではないという事です。すでに1600年も前から、1400年にわたって書きとめられてきた聖書に啓示される教えと信条が、まとめられたに過ぎず、聖書に反する、また聖書に付け加える何物もここに見出すことはできません。

第13曲
Credo in unum Deum, <私は信じます、唯一の神を、>


『私は信じます』

皆さんはクリスチャンというとどんな人を想像しますか。

クリスチャンといってもいろいろな人がいます。しかしその中にも共通点があります。その共通のものの中で最も重要なキーワードがこれです。

 「信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』」
  <ローマ人への手紙1:17>

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
  <ローマ人への手紙10:10>

 「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」
  <ローマ人への手紙3:28>

とあるように信じているかどうか、これが一番重要な事です。クリスチャンになる事を救われるとか、義とされるとか言います。これは聖書の用語なのですが、それは行いにはよらず信仰によるのです。つまりその人が何をしている人か、どんな性質の人かではなく何を信じているかが問題なのです。この事をルターは信仰義認と呼んでキリスト教の三大理念の一つと位置付けました(あとの二つは聖書主義と万人祭司制)。

ですからこのミサ曲で(また他のミサ曲でも)最も多くの部分を信仰告白であるニケア信条に割いていることは、バッハにとって(また他の作曲家にとっても)きわめて自然な事でした。もちろん「イワシの頭も信心から」ではなく、何を信じているかが問題です。それをこれから三回にわたって見ていきましょう。


(1)『唯一の神』

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
<第一テモテ2:5>

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」
<申命記6:4>

とあるように、神はただひとりです。唯一です。新約聖書でも、旧約聖書でも神がただひとりである事は、しつこいぐらい強調されています。(同時に3人であることも明確に書き記されていますが。)

音楽上の注目点

1 何のまえぶれもなく伴奏もなく突然始まるテノール声部。
(神が天と地を創造されたとき、何の前触れもなく、誰の助けも借りず、ただ神の言葉があってすべてが始まった。)

2 一拍遅れて始まり曲の最後まで続く通奏低音の4分音符。
(神の言葉によって歴史が始まり、神がその歴史が閉じられるまで、時の歩みは規則正しくとどまることなく続いていく。)

3 間奏なしに声部から声部に重なりあい最後まで歌い継がれていくテーマ。
(神のご支配は天と地のすべての領域におよんでいる。)

4 Credoが49回 in unum Deumが84回(7×12)、フーガのテーマが17回(10+7)くりかえされています。
(7も10も12も完全や全てとの概念をあらわす。また12は時の一巡り、イスラエルの部族数、使徒の数でもある。)

5 この曲と第20曲とにグレゴリオ聖歌のメロディーを使っている。
(当時から見ても古い音楽であるグレゴリア聖歌のメロディーを使う事によってこの信仰告白の古さ、不変性と普遍性を暗示している。)

第14曲
Patrem omnipotentem, factorem coeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium,
<全能の父、天と地の創造者、見えるものと見えないものすべての創り主を>


(2) 『神は全能者』

「神にとって不可能なことは一つもありません。」<ルカによる福音書1:37>
(しかし、ご自身の御心や御性質に反する事はできないこともたしかです。)

(3) 神は創造者、創り主

「初めに、神が天と地を創造した。」<創世記1:1>

この世界が自然にできたものではなく、神がご自身のご意志によって創造されたと全てのキリスト教徒は信じています。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
<ヘブル人への手紙11:3>


音楽上の注目点

1 最後に自筆で84と記入、全部で84小節。(7×12)

2 最初に通奏低音に現れ、全パートに広がっていく8分音符のモチーフは、「すべて」という概念をあらわしています。


第15曲
Et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum et ex Patre natum ante omnia saecula, Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero, Genitum, non factum, consubstantialem Patri, Consubstantialem Parti, Per quem omnia facta sunt, Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de coelis.

Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine et homo factus est.

<そして信じます、唯一の主であるイエス・キリストを。このかたは神の独り子であり、世のすべてのものより先に父から生まれました。神の神、光の光、まことの神よりのまことの神、父より生まれた方であって父より創られた方ではなく、父と本質を同じくして、万物はこのかたによって創られた。この御子は 私たち人のため、私たちを救うために天から下られた。

そして肉体を取って、聖霊により、処女マリアより生まれ、人の子となられた。>


この曲からキリストについての信仰告白に入っていきます。この第15曲には、キリストについての重要な概念がたくさん詰まっています。それぞれの概念とそれをあらわす聖書の言葉とを紹介しておきましょう。

(4) イエス・キリストは唯一の主

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」
<コリント人への第一の手紙8:6>


「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
<ピリピ人への手紙2:11>


(5) イエスは神の独り子
(神から生まれたものであって、神から創られたものではない。)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
<ヨハネによる福音書1:14>


(6) イエスは神

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
<ヨハネによる福音書1:1>


(7) 万物はこのかたによって創られた。

「すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
<ヨハネによる福音書1:3>

「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」
<箴言8:22‐31>


(8) イエスは光

「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
<マタイによる福音書4:16>

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」
<ヨハネによる福音書8:12 >


(9) イエスは 罪人である私たち人間のため、私たち人間を救うために天から下られ、人間となられた。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
<テモテへの第一の手紙1:15>


「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
<ピリピ人への手紙2:6‐8>


(10) イエスは処女マリアから生まれた。

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 」


「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
<マタイによる福音書1:18、23>


音楽上の注目点

1 二声部のうち一方が他方を絶えず模倣しますが、両者は完全には一致せず、常に微妙に変えられています。二声部の伴奏パートも同一の音型なのに異なったアーティキュレーションが指定されています。

「一声部は他声部から、キリストが神から生じるように、似姿として生じるのである。」
(シュヴァイツアー)


2 終わり近く「この御子は‐下られた」の部分以降の(59‐60、73‐74)の印象的なユニゾン下降。
(天から下ってこられたことの象徴)


3 「人の子となられた」の部分(70)の遠隔調への突然の移行。
(神の御姿であられる方が、人間となられた事の象徴)

 〔次回はキリスト教の二つの中心といわれる、十字架と復活についてです。〕

≪参考≫ プロテスタント教会音楽の基本理念を示す聖書のことば

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
<コロサイ人への手紙3:16>

ロ短調ミサ (その五)

2007-11-05 22:54:35 | Weblog
ロ短調ミサ (その五)

第16曲 

Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine et homo factus est.
<そして肉体を取って、聖霊により、処女マリアより生まれ、人の子となられた。>


テキストの意味については、前回 第15曲の時にお知らせしたとおりです。


音楽上の注目点

ヴァイオリンの下降音型は『はいりゆくべきものにあこがれただよう天の聖霊(神)』(シュヴァイツアー)をあらわし、そこにつけられたおびただしいほどのシャープ(ドイツ語でKreuzつまり十字架)はイエスが人となった目的を暗示している。

合唱パートも象徴的な下降音型で始まる。

重苦しい保続低音は罪に満ちた地上の低さをあらわす。

最後の人の子となられたの部分で、低音部にヴァイオリンと同じ音型が現れて聖霊(神)が、肉の中に降られたことを暗示する。


「十字架と復活」

キリスト教は楕円の宗教といわれることがあります。楕円には中心が二つあるように、キリスト教にも二つの中心があるからです。それが十字架と復活です。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」
<コリント人への第一の手紙15:3‐4>


ですから、第17曲と第18曲がクレドの中心であり、またこのミサ全体の中心ともいってよいでしょう。事実この二曲は奇跡のようにすばらしい。音楽的にもこのミサ曲中のクライマックスを構成するといっても言い過ぎとはならないでしょう。余談ながら、本来キリスト教で最も重要な記念日は聖金曜日と復活祭のはずなのですが、今ではクリスマスの方がすっかり幅をきかしています。聖金曜日と復活祭ははっきりと時期もわかっていますが、クリスマスが12月25日だとの根拠は全くありません。そのため純粋に聖書に忠実の生きることをめざす人たちの中にはクリスマスの行事を全く行わない人達もいます。


第17曲 

Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato,passus et sepultus est.
<そればかりか、私達のために十字架につけられ(これはポンテオ・ピラトのもとに行われた)、苦しみを受けられ、葬られた。>


「キリストは私達のために十字架につけられ」

十字架の意味はあがないです。私達人間は罪を犯したゆえに絶望的でありますが、イエスが十字架上であがないのいけにえとなってくださったので罪を赦されるのです。讃美歌の中に「神の義と愛のあえる所」との一節がありますが、十字架によって神の義と聖が全うされ、同時に愛が示されています。神は義であり、聖であるがゆえに罪に対しては刑罰が要求されます。それがいいかげんに済まされることはあり得ないのです。その刑罰とは死です。


「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
<ローマ人への手紙6:23>


しかし愛であられる神はその刑罰を人間におわす事をよしとされず、ご自分の御子に負わせられました。これが十字架です。バッハを含めて全てのクリスチャンはイエスを十字架につけたのは自分であるとの自覚を持っています。十字架によってのみ贖いが成し遂げられ、罪の赦しが得られます。

「 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」<ヘブル人への手紙9:11‐9:12>


「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」<ヘブル人への手紙9:22>


音楽上の注目点

反復される低音のモチーフはゴルゴダに向かうキリストの重い足どりを想起させる。

和声進行は極度の悲しみをオケのとぎれとぎれのモチーフはためいきをあらわす。

最後の4小節ではオケが沈黙し(通奏低音をのぞく)不可思議な転調を経てト長調の和音で終始する(復活の暗示か?)

「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」<使徒の働き2:24>

BWV12『泣き、嘆き』の第一曲の編曲であり嘆きの音調が全体を支配している。BWV12はなんとこのミサがかかれる35年ほど前の曲です。バッハの作曲技法が若い頃から一貫しており、その生涯を通じて最高水準であったことがわかります。



第18曲

Et resurrexit tertia die secundum scripturas, et ascendit in coelum, sedet ad dexteram Dei Patris,
Et iterum venturus est cum gloria judicare vivos et mortuos, cujus regni non erit finis.
<そして三日目によみがえり(これは聖書に記されている事が成就したのである)天に昇り、父なる神の右に座られた。またかしこより栄光をもってふたたび来られ、生きているものと死んだものを裁かれる。そしてその御国(ご支配)は終わる事がない。>


よみがえり、再臨、裁き、御国(御支配)がここでの焦点です。今日はよみがえりと御国について考えてみましょう。

「よみがえり」

イエスは十字架上の死から3日目によみがえりました。

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
<コリント人への第一の手紙15:19‐20>


この時の記事を見ると実に、500人以上の人が復活したイエスに直接会っています。その後約2000年近く経った今に至るまで、復活のキリストに直接出会った人はたくさんいます。

復活の意味は、罪とその刑罰である死に対する完全な勝利です。罪の赦しも復活があってこそ完全になるのです。またイエスを信じるものに与えられる永遠のいのちが単なる言葉の上だけではなく真実なものであることの証明でもあります。

「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」
<コリント人への第一の手紙15:53‐55>

「主イエスは,私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられたからです」
<ローマ人への手紙4:25>

「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって,私たちを新しく生まれさせて,生ける望みを持つようにしてくださいました」
<ペテロの第一の手紙ペテ1:3>


「御国」
天の御国、天国、神の国といろいろな呼び方をされますが、神が御支配される領域のことです。


さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
<ルカ17:20‐21>

とあるように神の国は既に始まっていますが、イエスの再臨の時完全なかたちで出現します。


「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」
<ヨハネの黙示録21:1-2>

その時その国に入ることが出来るのはイエスが自分の罪のために死んでくださった事を信じて義とされたものだけです。

「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」
<ヨハネの黙示録21:27>

そしてこの国にはおわりがありません。永遠に続きます。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
<ルカの福音書1:31-33>

この国には一切の苦しみもなく涙もありません(感激の涙はあるかもしれませんが)。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
<ヨハネの黙示録21:3-4>


全てのキリスト教徒はこの国の出現を今か今かと待ち望んで日々を過ごしているのです。

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
<ピリピ人への手紙3:20>



音楽上の注目点

これ以上考えられないほどの明るさと力強さを持った曲調

再臨、審判はバスによって歌われる。警告的な意味合い。

復活、支配の2語にあてられた非常に長いメリスマ。



次回は秋になると思いますが、聖霊、教会、バプテスマ、体のよみがえりについてです。