今年も年に一度、恒例となった「プロテスタント教会音楽について」の講義が終わった。
今年はあれもこれもとたくさんの内容を早口でしゃべるのはやめて、思いつくままにゆっくり話すことにしたが、聴いていた人はそのほうが理解しやすかったようだ。聴講者たちの書いてくれたレポートもとても面白く、楽しく読めた。
以下は、レポートを書いてくれた人たちへの返信です。
・・・・・・・・・・・・・・・
レポートを読んで(2007年)
皆さんのレポート楽しく読ませていただきました。
おおむねプロテスタント教会音楽についてまた、聖書とキリスト教について前向きな関心を示していただきうれしいです。
さて、皆さんのレポートの中にいくつか質問とか、もう少し説明を加えた方がよいことなどが散見されましたので、ここに少し書かせていただきます。
*全能の神というならなぜ現在も様々な悲惨な事件が次々に起こっているのか?原因が人間の侵した罪であるとしても、なぜその報いを罪を犯していない人が受けなければならないのか?人間に恵みを与える存在である神が人々に悲しみをもたらすようなことを容認しているように思える。もしも神がいるなら、どうして罪のない人が死んでしまったりするのだろうか?
この質問はそれこそ毎年のように出る質問ですし、私も出て当然の疑問だと思います。しかし、この疑問に対する明確な解答はありません。ただ、「この世界に存在する様々な悲惨の原因に人間の罪があること、罪のない人は一人も存在しないこと、しかし、神は愛であり、どんな悲惨をも人間にとって益として用いることがおできになる」ということは、聖書から読み取ることのできるメッセージです。実際、世界の歴史を見ると、想像を絶する悲惨な体験の中で神の愛と真実を経験し、その悲惨な経験が祝福されるために不可欠なものだったとの確信を持つに至った人々は枚挙にいとまがありません。「神は最大のマイナスを最大のプラスに変え得るお方だ」というのが答えになるかもしれません。最近の話では、
イマキュレー・イリバギザ著 堤江実訳「生かされて」 出版:PHP研究所 1600円
という本がよい例になると思います。ルワンダ虐殺を生き延びたカソリック信者の自伝です。生きるということ、生かされるということ、そして愛、赦し、信仰について考えるよいチャンスを提供してくれる本です。読んで絶対損しないと思いますよ。
*三連符、十六分音符の意味
これは、誤解しておられる方もおられたようです。三連符が常に「平安に満ちた穏やかな喜び」を表すわけではありませんし、十六分音符の連続が常に「湧きたつような喜び」を示しているわけでもありません。言葉だって、一つの単語がいつでもどこでも同じ意味を示すわけではなく、文脈によってそのときその単語がどういう意味であるかを判断しなくてはならないように、音形も、どの曲のどの場面でどのように使用されているかによってそこに表現される内容が変わってくることは当然です。ですから、喜びを表す十六分音符もあれば、違う状況では心の不安と波立ちを表す十六分音符もあり得るのです。
*入信したきっかけは?
これは私もぜひ一度お話しするか書くかしたいと思いますが、書けばあまりに長文になりますし、語れば長時間になってしまいます。そんなチャンスが来ることを願っていますが、今は控えさせていただきます。でも、私がクリスチャンになったのは24才の時で、ちょうど皆さんと同じ年頃のことです。もし個人的に知りたいと思われる方は私に声をかけてください。喜んで時間を作ります。
*現在のプロテスタントとカソリックの関係。ある種の敵意があるのか?あるいは歩み寄ろうとしているのか?また、ロシア正教をプロテスタントはどう見ているのか?
カソリックでもプロテスタントでも、そしてロシア正教でも本気で聖書に示されている福音を信じて従おうとしている人たち同士はすこぶる仲良くやっています。教理的な対立もほとんどありません。ですから、私が学んだ神学校ではプロテスタントの人もカソリックの人も仲良く机を並べて一緒に勉強し、ともに祈りあい、互いに愛し合って過ごしました。ただし、いわゆる儀式宗教としてかたちだけの信仰を持っている人たちとか、宗教をみずからの欲望追及の手段として利用しようとしている人たちが宗派的な対立をあおり、時には武器を取って戦うということはあります。アイルランドにおけるカソリックとプロテスタントのテロ応酬はその例です。当時テロリストだった人が信仰に目覚めて武器を捨てて宣教師になった経緯を書いた本が出ていますから、読んで見られたらよいと思います。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか」ヒュー ブラウン著 幻冬舎
(現在絶版ですがアマゾンで中古本が買えます)
*音楽と宗教はどの国においても深いつながりがあるが、いつの時代もそうだったのだろうか?
おそらくそうだと考えられますが、もちろんどの時代でも宗教と無関係の音楽もたくさんあったと思います。
*ロマン派以降の時代にとって、キリスト教はどうだったのだろうか?
古典派の時代あたりまではほとんどの作曲家が程度の差こそあれ信仰をもって音楽に取り組んだことでしょう。
しかし、ロマン派以降は世の流れが変わってきて人間中心のものの考えが広がりましたから、信仰を持たない作曲家もたくさん出てきました。ですから、ブラームスやブルックナー、ストラヴィンスキーのように明確な信仰を持った作曲家もいれば、ベルリオーズやラヴェルのような無神論者もいました。
*宗教は怖いものだとさえ感じる。
なるほどそう思ってしまうのも無理もない現状です。おかしな宗教がたくさんありますし、カルト宗教が血なまぐさい事件を起したりしていますね。しかし、真の宗教は人生の意味を教えてくれ、生きる力を与えてくれるものです。
*何か宗教を知るよい方法はないか?
うーん、これは難しい質問です。一番簡単なのはその宗教を本気で信じている信者さんと知り合うことですね。それと、その宗教の最も重要な経典(キリスト教なら聖書)を読むことです。
*演奏することでキリストを受け取り、神を体感するとはどういうことか?
これは説明が難しいのですが、聖書には「神は讃美(教会音楽)のなかに住む」とありますから、演奏したり聴いている時、そこにはキリストがいるという事です。そこに現実にいるキリストを「音楽を通して感じとる」という表現が最も近いかもしれません。
*教会という所はキリスト教徒でなくても気軽に入っていいのだろうか?
もちろんです。普通は大歓迎してくれるはずです。もし歓迎してくれないようならそこはニセ教会かもしれません。
*「バッハの音楽は、短調でシャープの調号が多いほど懺悔の気持ちが大きく、シャープは背負った十字架と同じだ」といわれているが・・・・。
うーん、調号にシャープが多いほど懺悔の気持ちが大きいとは必ずしも言えないと思います。調号におけるシャープはどちらかというとその音楽の色彩感を規定するように思います。それに短調だから暗いとか悲しいとか言うわけではないことは授業のときに語ったとおりです。ただし、臨時記号のシャープは十字架、すなわち「イエスの苦しみ」をあらわす場合が多々あります。「背負った」十字架であるかどうかはその音楽的文脈次第ですが。
*アヴェ・マリアは教会音楽ではないのか?カソリック教会では歌っているではないか。
プロテスタント的立場から言えば教会音楽ではありません。しかし、カソリック的立場から言えば立派な教会音楽です。これは神学的見解の相違です。ついでに言えば、カソリックの教会音楽の特徴はなんといってもその美しさにあります。それに対してプロテスタント教会音楽の特徴は語られる言葉の明瞭さです。もちろん、今私はごく大雑把な言い方をしています。例外はいくらでもありますよ。
*日本でのキリスト教の歴史や現在の様子。聖書の内容。音楽とのつながり。
うーん、これは範囲が広すぎてとても説明しきれません。ごめんなさい。でも、現在の様子はいくつかの教会を訪れてみればけっこう実感できると思います。
*ドミナントで終わるのは常にトニカ(キリスト)への方向性を持っているのか?
これも三連符や十六文音符と同じで、その音楽的文脈で判断しなくてはなりません。「来たれ聖霊よ!」の場合は明らかにそう読み取れますが、他の曲の場合はそうでない場合の方が多いと思います。それに、この解釈が成り立つのはC-durのトニカに行こうとするドミナント(G)の場合のみです。
*キリスト教に触れていく手始めには、まず聖書を読んだらいいのか?それとも、よくある宗教についての解説書などを読んだらいいのか?
まず、よくある宗教についての解説書などですが、その類の本でキリスト教についてきちんと解説した本は見たことがありません。やはり外側からその宗教を正確に観察し、分析することは難しいと思います。やはり信仰というのは内面の問題を扱うわけなので、当事者でなければなかなか説明できないことが多いと思います。その点、当事者であるキリスト教徒が書いた解説本は相当わかりやすくしかも正確な証言だと思います。
資料にも書いておいた図書 P.カヴァノー著 吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」出版:教文館 2500円、三浦綾子「新約聖書入門」「旧約聖書入門」「道ありき」、中川健一「日本人に贈る聖書ものがたり」(全4巻) 文芸社 等は安心して薦められます。やはり一番いい方法は、本気でキリスト教を信じている人と知り合うことと、その唯一の経典である聖書を読むことでしょう。聖書がとっつきにくい人は上記三浦綾子さんや中川健一さんの著作を読むとよいでしょう。
*イエス・キリストを「経験する」とは「信じる」とはまた違う意味なのか?どういう意味なのか?
信じるとはイエスに関する聖書からのまたクリスチャンからの情報をそのとおりだと確信することであり、経験するとは、その情報を「本当にそのとおりだなあ・・・」と実体験するということです。例えば、「敵を赦しなさい。敵を愛しなさい」という聖書の教えを実行してみて、それがよい結果を「生んだ!」という実体験をするというのが「経験」です。私は今もここにキリストがおられると信じていますが、バッハを聴いたり演奏するとき、キリストがここにおられると実感します。つまり、キリストの実存を信じているだけでなく、経験しているのです。
最後に、宗教を持つというのは自分の世界観を持つということです。人間にとって大切なことだと私は信じます。皆さんもじっくり考えてみてはいかがでしょうか。私は一人のクリスチャンとして「クリスチャンって最高に幸せだ!」と確信していますが、もちろんそれを皆さんに強制するつもりはありません。一人一人自分で考えて決定するべき問題です。何人も宗教を強制することはできません。信仰とは一人一人の個人的な決断なのです。
God bless you!
今年はあれもこれもとたくさんの内容を早口でしゃべるのはやめて、思いつくままにゆっくり話すことにしたが、聴いていた人はそのほうが理解しやすかったようだ。聴講者たちの書いてくれたレポートもとても面白く、楽しく読めた。
以下は、レポートを書いてくれた人たちへの返信です。
・・・・・・・・・・・・・・・
レポートを読んで(2007年)
皆さんのレポート楽しく読ませていただきました。
おおむねプロテスタント教会音楽についてまた、聖書とキリスト教について前向きな関心を示していただきうれしいです。
さて、皆さんのレポートの中にいくつか質問とか、もう少し説明を加えた方がよいことなどが散見されましたので、ここに少し書かせていただきます。
*全能の神というならなぜ現在も様々な悲惨な事件が次々に起こっているのか?原因が人間の侵した罪であるとしても、なぜその報いを罪を犯していない人が受けなければならないのか?人間に恵みを与える存在である神が人々に悲しみをもたらすようなことを容認しているように思える。もしも神がいるなら、どうして罪のない人が死んでしまったりするのだろうか?
この質問はそれこそ毎年のように出る質問ですし、私も出て当然の疑問だと思います。しかし、この疑問に対する明確な解答はありません。ただ、「この世界に存在する様々な悲惨の原因に人間の罪があること、罪のない人は一人も存在しないこと、しかし、神は愛であり、どんな悲惨をも人間にとって益として用いることがおできになる」ということは、聖書から読み取ることのできるメッセージです。実際、世界の歴史を見ると、想像を絶する悲惨な体験の中で神の愛と真実を経験し、その悲惨な経験が祝福されるために不可欠なものだったとの確信を持つに至った人々は枚挙にいとまがありません。「神は最大のマイナスを最大のプラスに変え得るお方だ」というのが答えになるかもしれません。最近の話では、
イマキュレー・イリバギザ著 堤江実訳「生かされて」 出版:PHP研究所 1600円
という本がよい例になると思います。ルワンダ虐殺を生き延びたカソリック信者の自伝です。生きるということ、生かされるということ、そして愛、赦し、信仰について考えるよいチャンスを提供してくれる本です。読んで絶対損しないと思いますよ。
*三連符、十六分音符の意味
これは、誤解しておられる方もおられたようです。三連符が常に「平安に満ちた穏やかな喜び」を表すわけではありませんし、十六分音符の連続が常に「湧きたつような喜び」を示しているわけでもありません。言葉だって、一つの単語がいつでもどこでも同じ意味を示すわけではなく、文脈によってそのときその単語がどういう意味であるかを判断しなくてはならないように、音形も、どの曲のどの場面でどのように使用されているかによってそこに表現される内容が変わってくることは当然です。ですから、喜びを表す十六分音符もあれば、違う状況では心の不安と波立ちを表す十六分音符もあり得るのです。
*入信したきっかけは?
これは私もぜひ一度お話しするか書くかしたいと思いますが、書けばあまりに長文になりますし、語れば長時間になってしまいます。そんなチャンスが来ることを願っていますが、今は控えさせていただきます。でも、私がクリスチャンになったのは24才の時で、ちょうど皆さんと同じ年頃のことです。もし個人的に知りたいと思われる方は私に声をかけてください。喜んで時間を作ります。
*現在のプロテスタントとカソリックの関係。ある種の敵意があるのか?あるいは歩み寄ろうとしているのか?また、ロシア正教をプロテスタントはどう見ているのか?
カソリックでもプロテスタントでも、そしてロシア正教でも本気で聖書に示されている福音を信じて従おうとしている人たち同士はすこぶる仲良くやっています。教理的な対立もほとんどありません。ですから、私が学んだ神学校ではプロテスタントの人もカソリックの人も仲良く机を並べて一緒に勉強し、ともに祈りあい、互いに愛し合って過ごしました。ただし、いわゆる儀式宗教としてかたちだけの信仰を持っている人たちとか、宗教をみずからの欲望追及の手段として利用しようとしている人たちが宗派的な対立をあおり、時には武器を取って戦うということはあります。アイルランドにおけるカソリックとプロテスタントのテロ応酬はその例です。当時テロリストだった人が信仰に目覚めて武器を捨てて宣教師になった経緯を書いた本が出ていますから、読んで見られたらよいと思います。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか」ヒュー ブラウン著 幻冬舎
(現在絶版ですがアマゾンで中古本が買えます)
*音楽と宗教はどの国においても深いつながりがあるが、いつの時代もそうだったのだろうか?
おそらくそうだと考えられますが、もちろんどの時代でも宗教と無関係の音楽もたくさんあったと思います。
*ロマン派以降の時代にとって、キリスト教はどうだったのだろうか?
古典派の時代あたりまではほとんどの作曲家が程度の差こそあれ信仰をもって音楽に取り組んだことでしょう。
しかし、ロマン派以降は世の流れが変わってきて人間中心のものの考えが広がりましたから、信仰を持たない作曲家もたくさん出てきました。ですから、ブラームスやブルックナー、ストラヴィンスキーのように明確な信仰を持った作曲家もいれば、ベルリオーズやラヴェルのような無神論者もいました。
*宗教は怖いものだとさえ感じる。
なるほどそう思ってしまうのも無理もない現状です。おかしな宗教がたくさんありますし、カルト宗教が血なまぐさい事件を起したりしていますね。しかし、真の宗教は人生の意味を教えてくれ、生きる力を与えてくれるものです。
*何か宗教を知るよい方法はないか?
うーん、これは難しい質問です。一番簡単なのはその宗教を本気で信じている信者さんと知り合うことですね。それと、その宗教の最も重要な経典(キリスト教なら聖書)を読むことです。
*演奏することでキリストを受け取り、神を体感するとはどういうことか?
これは説明が難しいのですが、聖書には「神は讃美(教会音楽)のなかに住む」とありますから、演奏したり聴いている時、そこにはキリストがいるという事です。そこに現実にいるキリストを「音楽を通して感じとる」という表現が最も近いかもしれません。
*教会という所はキリスト教徒でなくても気軽に入っていいのだろうか?
もちろんです。普通は大歓迎してくれるはずです。もし歓迎してくれないようならそこはニセ教会かもしれません。
*「バッハの音楽は、短調でシャープの調号が多いほど懺悔の気持ちが大きく、シャープは背負った十字架と同じだ」といわれているが・・・・。
うーん、調号にシャープが多いほど懺悔の気持ちが大きいとは必ずしも言えないと思います。調号におけるシャープはどちらかというとその音楽の色彩感を規定するように思います。それに短調だから暗いとか悲しいとか言うわけではないことは授業のときに語ったとおりです。ただし、臨時記号のシャープは十字架、すなわち「イエスの苦しみ」をあらわす場合が多々あります。「背負った」十字架であるかどうかはその音楽的文脈次第ですが。
*アヴェ・マリアは教会音楽ではないのか?カソリック教会では歌っているではないか。
プロテスタント的立場から言えば教会音楽ではありません。しかし、カソリック的立場から言えば立派な教会音楽です。これは神学的見解の相違です。ついでに言えば、カソリックの教会音楽の特徴はなんといってもその美しさにあります。それに対してプロテスタント教会音楽の特徴は語られる言葉の明瞭さです。もちろん、今私はごく大雑把な言い方をしています。例外はいくらでもありますよ。
*日本でのキリスト教の歴史や現在の様子。聖書の内容。音楽とのつながり。
うーん、これは範囲が広すぎてとても説明しきれません。ごめんなさい。でも、現在の様子はいくつかの教会を訪れてみればけっこう実感できると思います。
*ドミナントで終わるのは常にトニカ(キリスト)への方向性を持っているのか?
これも三連符や十六文音符と同じで、その音楽的文脈で判断しなくてはなりません。「来たれ聖霊よ!」の場合は明らかにそう読み取れますが、他の曲の場合はそうでない場合の方が多いと思います。それに、この解釈が成り立つのはC-durのトニカに行こうとするドミナント(G)の場合のみです。
*キリスト教に触れていく手始めには、まず聖書を読んだらいいのか?それとも、よくある宗教についての解説書などを読んだらいいのか?
まず、よくある宗教についての解説書などですが、その類の本でキリスト教についてきちんと解説した本は見たことがありません。やはり外側からその宗教を正確に観察し、分析することは難しいと思います。やはり信仰というのは内面の問題を扱うわけなので、当事者でなければなかなか説明できないことが多いと思います。その点、当事者であるキリスト教徒が書いた解説本は相当わかりやすくしかも正確な証言だと思います。
資料にも書いておいた図書 P.カヴァノー著 吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」出版:教文館 2500円、三浦綾子「新約聖書入門」「旧約聖書入門」「道ありき」、中川健一「日本人に贈る聖書ものがたり」(全4巻) 文芸社 等は安心して薦められます。やはり一番いい方法は、本気でキリスト教を信じている人と知り合うことと、その唯一の経典である聖書を読むことでしょう。聖書がとっつきにくい人は上記三浦綾子さんや中川健一さんの著作を読むとよいでしょう。
*イエス・キリストを「経験する」とは「信じる」とはまた違う意味なのか?どういう意味なのか?
信じるとはイエスに関する聖書からのまたクリスチャンからの情報をそのとおりだと確信することであり、経験するとは、その情報を「本当にそのとおりだなあ・・・」と実体験するということです。例えば、「敵を赦しなさい。敵を愛しなさい」という聖書の教えを実行してみて、それがよい結果を「生んだ!」という実体験をするというのが「経験」です。私は今もここにキリストがおられると信じていますが、バッハを聴いたり演奏するとき、キリストがここにおられると実感します。つまり、キリストの実存を信じているだけでなく、経験しているのです。
最後に、宗教を持つというのは自分の世界観を持つということです。人間にとって大切なことだと私は信じます。皆さんもじっくり考えてみてはいかがでしょうか。私は一人のクリスチャンとして「クリスチャンって最高に幸せだ!」と確信していますが、もちろんそれを皆さんに強制するつもりはありません。一人一人自分で考えて決定するべき問題です。何人も宗教を強制することはできません。信仰とは一人一人の個人的な決断なのです。
God bless you!