yachiyo@BLOG

やおらたもとおりたい気分です。

スッコス

2005-04-25 | mine
あんまりにも goo が

もっちゃらもっちゃらもっちゃもちゃ

するもんではんで、

スッコスします。


これからも本店、ブログともに、ご来場お待ちしております。


yachiyo@BLOG 2nd は こちら から

携帯でもみれるようになりました
http://yaplog.jp/yachiyo_honten/

よろしく願います。

夢見鮮明

2005-04-22 | mine
新しいやちよは、小さな飲み屋が並ぶ細い路地をはいったところにあった。
『ここだ』
マスターが立て付けの悪いドアをむりやり開ける。

ついこの前まで、スナックをやっていたらしい。
照明のスイッチをいれると、ブーンと低い音がした。
紫がかったライトが蜘蛛の巣と、薄くなったソファを照らしている。
店のなかは死んだスナックで、偽物の花や偽物の花瓶、重いベルベットのカーテンやくすんだ壁一面のグラスたちのせいで息苦しいほどせまく感じた。
カウンターには備え付けのイスが5つ並び、どれもこれもどちらかにかたむいていた。

『奥は物置にしてたらしい。うちは奥の半分あれば物はおさまるよな。半分は客が入るように改装しようと思ってるよ。』
斜め後ろから、マスターの表情がよく読み取れない。
ライトが土気色に頬骨のあたりを浮かせていた。

***************

『先生。このラインはもっとこっち、よったほうがいいですか?』
わたしが先生の事務所を手伝ってから4ヶ月がすぎる。
わたしがここにきたときにいた線の細い男は、先週『実家に帰って発電を手伝う』と突然辞表を出した。
おかげでわたしが、やったことのない図面ひきまでやらされるはめになった。
わからない。
わたし、いったいこれ、なんの図面をひかされてるんだろう。
雑居ビルの3階に事務所はある。窓はない。簡単な応接セットとコピー機、灰色のキャビネット。製図のデスクを下から照らすライトの光がぼんやりかげをつくる。
先生はいつも、わたしの背中に限りなく近づく。
『もう少し右の幅せめて。そう、君は体臭もきつくないからいいね。家でも僕をてつだってもらいたいけど、娘やうちのがいたら、君も少しきにしてしまうかな・・・』
唇がわたしの、耳のふちをなぞっている。
『あの・・・せんせい?』
首から頬へと息が移って、やっぱり顔をそらしてしまう。
いけない。顔をそらしちゃだめだっていつもいわれるのに。
また殴られる、そう思ってぎゅっと目をつむる。
『今度うちにあそびにきなさい。うちのブースにはときおりサイジョウヒデキもやってきてはね・・・』
顔をあげれない。まだ見られている。息がここにある。
わからない。
今日はどうしてすぐに殴らないんだろう。

***************

わたしはやちよをたずねた。
細い路地に、うすぐらい看板が並ぶ。
墨色の壁。墨色のドア。オレンジにぼうっと灯る『やちよ』の文字。
『こんにちわマスター』

オープンしてから来るのははじめてだった。
手前のスペースは白い壁。黒いソファとガラスのテーブルのボックス席が3つ。黒いカウンターには背の高いスツールが5脚。
ガジュマルの鉢植えが乗った本棚をはさんで奥は、曇ったえんじの壁にベージュのソファ、こげ茶木目のテーブルのボックス席が4つ。
わたしは一番向こうのベージュのソファに腰を下ろした。
『ずいぶんおしゃれになっちゃいましたね。』
『あぁ。まえ店にきてたやつがよ、改装するっていったら、俺やりますっていうからよ。』
少しはずかしそうにマスターがいう。
壁の一角に、『昔のやちよの落書きされた壁』が絵のようにはめ込まれている。
『おめ、あれ食うか?ぐりとぐら。』
『んー今日はおれ、ビールのほうがいいな』

壁の『壁』をさわりながら思う。
わからない。
わたしはどうしてこんなにちぐはぐでしっくりこないんだ。


※すべてin my ドリームばなしです。

老い桜

2005-04-21 | mine
昨日、千秋公園はしとしと雨にぬれた、提灯が暗がりにじみます。

もうそろそろ桜の季節なんですね。

花見といえばやぱり、わたしがうら若き大学生だった頃をおもいだします。
観桜会の1週間ぐらい前から『プレ花見』または、『プレ「プレ花見」』等を寒空の下いたずらに繰り返しました。
もちろん、脱ぐ人は脱ぎますし、服は脱がずとも心は裸。あごがはずれるかとおもうくらいのバカさわぎでございます。
さくら?そんなもの、さいてようがさいてなかろうが、むしろ散ってしまっていたとしてもなんの問題もありません。

本番は、40人くらいでブルーシートを埋め尽くし、ちゃんぽんちゃんぽん、ほぼいっき。
わたしですか?いえいえまだそんなにはよっぱらってはいませんよ。
その証拠にほら、こんなによっぱらいの看病ができますが、なにか?
というたぐいの、過剰な看病が、あちらこちらで勃発。
かとおもえば、またもや自己紹介いっき。

おいぃーーーっす(左の皆様に)
おいぃーーーっす(右の皆様に)
おぃっすーー(正面の皆様に)

あきたーーけんりつっ
あきたーーみなみーーこーとーーがっこーーしゅっしんっ
こくりつあきただいがくーーーー
こーがくしげんがくぶーーー
かんきょうぶっしつくほっ(ヤベ!かんだ!)

『・・・・・・・・・・
んーーーーはいっ!
いっき!いっき!いっき!いっき!』

最終的に名をなのり、『いっきいかせていただきます!』といいきるまでに、何回いっきせばいいなや・・・。

誰も許してはくれないから、誰も許さない。そんなすてきなお花見がなつかしい。


そういえばいつだったか、寒風山のてっぺんで、なぜかきちんとならんで正座してオオギリしたこともありました。

人間は何時間酒を呑み続けられるのか。をテーマに、耐久呑みを華々しく開催したこともしばしば。

5時まで呑んで朝野球。というグダグダな企画も最近めったにおめにかかっていません。



栄養という栄養をほぼウヰスキーから摂取していたあの頃、わたしはいつもおなかいっぱいいっぱいの日々でした。


チクショー!もどりてーな!と、昔話をしはじめたら、もう老いのはじまりらしいですね。
がうーーーーーーん。

トニー滝谷という映画

2005-04-18 | other
『トニー滝谷』を見た。
結論から言うと、やっぱり、もう原作を読んだあとに映画を見るのはやめよう。

おれの中で村上春樹の小説は、おそらくセンチメンタルじゃない。
もっとたんたんとしていて、人間味が薄い、灰色の風景にときおり色がくっきりはいる、食べ物は匂いを持たない、それがそこはかとなくかなしい、けどそれでいい。
ひややっこなんかたべない。
サラダにあんなに塩をかけない。
コロッケにあんなにソースをかけない。

イッセー尾形が、トニー滝谷と父親の正三郎を二役演じるのはまぁいいとして。
イッセー尾形が、トニー滝谷の大学生時代もやっちゃうのはどうだろう。
おれはイッセー尾形の顔が好きだ。
彼にはきちんと年輪が見える。なるべくしてこの歳になった、という感じがとても好きだ。
それなのにロン毛のヅラをかぶり、美大生をマジメに演るなんて。

そしてみやざわりえ。
みやざわりえの演技が木村拓哉のそれとかぶってみえる。
『自然な演技』じゃなくて『演技された自然』を感じる。
なんだろうこの違和感は、わからないけど時々言葉と絵がばらばらになる。
(おれは『僕らの七日間戦争』のみやざわりえが好きだ。)

坂本教授のピアノがあざとい
ほとんどせりふがないこの映画。心象を音で表現しようとして突拍子もないときがある。
ただ優しく流れているはずの時間に、ボタンをかけちがえたピンクと黄色の水玉のカーディガンみたいな音がながれている。
(おれはアホアホマンをやってしまっていた教授が好きだ。)


なんだかちぐはぐにもわーんとしたな。

え!?もしかしてこの後味をねらったのか?

だったら、大成功です、わたしの負けです。。。。。。。。。

春の中に季節がうつろいます

2005-04-17 | mine
山菜のこんにちわ具合を観に、車を山へやる。
この前やちよであざみを食べたので、そろそろなのか!と、はりきって行ったのに、なんにもおがってない。
アオイの花がワラビの時期を教えてくれるように、あざみが出はじめたら、サシボやささだけやタラの芽がこんにちわしはじめるのだ。
なのにやっぱり、4月に入る直前の寒さがひびいてるのかな。今年は遅い。

サシボは赤い芽を土からちょろっと出して、こちらをうかがっている状態だった。
タラの芽もおなじようにかたくなだ。
しょうがないから、もう少し奥まで行って開いてないばっけをさがす。けど、どんな日陰に行ってもばっけは全開だ、ようは本当になにかありそうでなにもない時期に車を山にやってしまったのだ。

渓流の、せまい橋から釣りをしている人がいる。
『釣れますか?』
とたずねてみたら、びっくりしてこちらを見ている。焦点が川面からこちらにゆっくりうつって、眉間に小さくしわがよった。
『釣れませんよ。ここには何もいないから。』
『さかな、いないんですか?』
『。。ここは今は何もいないよ。』
この川には今さかながいないことを知りながら
この川に釣り糸をたらすその人の
なにか特別な『釣りの時間』を邪魔してしまって少し恥ずかしい。


天気がいい。
山をおりたので車を海にやる。
戸賀のほうまで行ってみようかとおもったけど、日曜は車が多いからもう少し近くにしようっと、砂利の駐車場にはいってぎりぎりに車をすすめた男鹿の海、今日は優しい。
ノートを開いて、えんぴつを持つ、たばこをすう。
海をひとりじめすれば、なにか自分からではってくるんじゃないかな、と、期待してた。
最近うた(歌)もうた(詩)もでてこないんだ。

でも自分は自分の期待にすら値しなかった。
遠くを行く船は、さっきまで視界の左端にいたはずだった。
たばこを吸う。プフーーーっと、たばこをかまえる左手をノートにクロッキーしている。
結局なにも産み出せないまま、船は視界の右端から消えようとしている。

ふいに、いつも足が冷たすぎてねむれないことを思い出した。
帰ろうっと。
あの、厚いスウェットでできた毛玉だらけのくつしたをはやくはきたかった。
海も山も、ただただ流れておれはすごくちっこかった。
眠ってしまいたかった。
出戸浜に行って、今海を見ている男鹿に沈む夕日を見ようと思った。
とてもすがすがしくせつなかった。

BGM:ハナレグミ『家族の風景』

なぜかリアルを夢にみた

2005-04-14 | mine
小学校3年生のときにコジマタカシという講師の先生が一年間担任だった。
本当は担任になるはずだった人が妊娠したのでかわりに講師の先生が来たのだ。

わたしは、いろいろなところをすこしずつまちがって、
コジマ先生のことを『お母さん』と呼びつけ、したった。

1年と2年は、シマモリ先生という『スプーンおばさん』だった。
シマモリ先生はリスみたいで、ていうかスプーンおばさんみたいでとてもかわいらしかったけど、いっしょに『キックベー』ができなかった。『ブッケ』も『手打ち』もできなかった。ときどきひどく咳き込んだ。

コジマ先生はみんなのお兄ちゃんみたいだった。みんながこっちこっちというので少し困った顔もさわやかだった。

ある日、金持ちのワダが金持ちじゃないだれかを泣かせた。
『おれんちだったらすぐ買ってもらえるもんねー』っていってるのが聞こえた。
コジマ先生があらわれて、ワダを殴った。ボゴっと鈍い音の後に、つぶれたカエルみたいなワダの泣き声がつづいた。

そのあと
コジマ先生は泣いているワダを、ひっし。と抱きすくめている。
ワダにしかきこえないトーンでなにかささやいている。
何回かズルンッ。ズルンッ。と、うなずくと、ワダは泣かせただれかにじりっと近づき、『ぼ・・・ぼ・・・ごべんなさい。』頭をさげてあやまった。

わたし、ポカーン。となってしまった。
まず、殴ったくせにだっこ。はじめてみた。
殴ったくせに、泣きそうになっている。はじめてみた。
さらに、ワダがひとにあやまっている。はじめてみた。

コジマ先生はワダに何ていったんだろう。

わたしはその日、おおきくなったら先生になる。絶対先生になる!と決めた。


それから、
おおきくなっても先生にだけはならない。絶対ならない!と決めた高校2年生の夏もいたずらにすぎ、気づいたらあの頃のコジマ先生と同じくらいの歳になってしまって昨日、夢に見た。
夢の中で9歳のワダはリアルに泣きわめき、わたしはなぜか25歳だった。


コジマ先生はあんなこと忘れてしまったろうか。
そして、シマモリ先生はご健在だろうか。

かめむし

2005-04-13 | other
昨今、わが友にかめむしの性交をおさめた写真を送りつけましたら、泣いて喜んで『さっそく使う』というエグゼクティブな回答をいただきました。

かめむし。
あいつらは触られて震えて怯えて少し期待して
『ヤ・・・ヤメテ・・・・ソンナフウニサワラナイデ・・・』
っていう嫌よ嫌よも好きのうち。みたいなささいな抵抗(刺激的なオイニー)を放つわけであります。

一方、人間様方々におかれましては、参考文献や御先代のよもやま話等から『かめむしを見つける→さわってみる=くしぇ!』というご理解がおありのはず。

にもかかわらず、さわらんとくさくないものをさわったらくせーとしりながらさわってくせーとはやしたてる。
ご理解あってもご協力なし。
いや、わかりますよ。駄目っていわれたらやりたくなるのが人間様のサガですものね。


しかし、

青森県弘前市では 『 へふりむす 』
新潟県東蒲原郡では 『 へくさんぼ 』
同   南蒲原郡では 『 くさくさむし 』
石川県鳳至郡では 『 へくそむし 』

あの小さなかわいらしい六角形にむかって、その呼び様はないであろう!
そんなコールじゃレスポンスくさくって当然ですよ!

ちなみに、おれがあいつらを 『屁っぷり虫』 とよぶときの 『っぷり』 は、『女っぷりが良い』 とかの 『っぷり』 ですので、これはいうてみれば敬意を表しているです。


BGM:クレイジーケンバンド 『タイガー&ドラゴン』

料理すること食べること

2005-04-10 | mine
料理をするのがすごく好きです。
野菜や肉や魚が、今切られてることに気づかないくらい優しく、スッと包丁をいれたい。
切られたことに気づいてない断面はまだ生きていて、
それだけでもうおいしそうだから、最近味付けが薄くなりました。
料理をしながらビールを飲むのが好きです。
おいしそうな音だなあ。おいしそうな色だなあ。これはすごいつまみになります。
父さんはたいていのものに文句をつけます。
母さんはなんでもうまいといってたべます。
それをききながらビールを飲むのが好きです。

人と御飯をたべることがすごく苦手です。
たべるのがすごく遅いし、いつ食べたらいいのか、いつしゃべったらいいのかよくわかりません。
ラーメンやさんでラーメンをたのまなくて、店の人やいっしょにいった人に嫌な顔をされます。
うどんやさんでビールだけたのんだら、『うちのお客さんじゃない』といってイスを取り上げられたことがあります。
一生懸命食べて、すぐにおなかを壊したり、吐いたりしてしまったことがあります。
どうしたらいいのかよくわかりません。


まぁ、なんだか、


なんだか、人との距離の取り方はむつかしいです。
『浅く広く』というのは、いってみれば『気遣い』で、
うまくできないわたしはやっぱり自分のことを考えすぎなんだろうな。
『深く狭く』いってしまうと、自分と人の境目がよくわからなくなってしまう、
やっぱり自分のことを考えすぎなんだろうな。

わたしはもう少しバランスのとれた人間になるために、
『自分を掘り下げること』を選んだけれど、
その方法が、自分を向いていたと思う。きっと、バランスをとるためにひとつも無理してなかったと思います。
それはちがうな。それは周りをわたしに近づけようとモガモガしていたにすぎなかったんじゃないかな。
バランスをとるっていうのは、わたしに可能か不可能かをみさだめることではないんだよな。

うまくいえないけど、もう閉じてはいません。



BGM:バンプがカバーしているピロウズのハイブリッド・レインボー

雑記

2005-04-09 | mine
会社の歓送迎会に若いコンパニオンが二人と若くないコンパニオンが二人ついていた。

父さん方は若いほうの二人に、もれっと、だらしなくなってしまっていて、傍観してるうちはどうでもよかったが、いざビールをつがれるとなると、やつらはおれにすら、セックスをアピってきて、おれはすごく緊張してしまい、次々とつがれては飲み干したら、「おねえさんいい飲みぷりねぇもひとつどうぞ」と、若くない方がはさまってきたので、そのくすんだ金歯が悲しかった。

うちの社長はすごい肉が大好きで、ものすごく常に肉を欲していて、社長がいる歓送迎会では、何十頭という牛や豚はスライスされ、焼かれ、しゃぶしゃぶされ、みなのものは誰の歓送迎もせず、ビールで肉を流し、焼酎お湯割梅入りで肉を流し、ただひたすら身体が肉でみちみちになるほど肉をほおばり、ウン十万という金を肉につかいはたし、ふてぶてしく帰る。

しかしながら、現在うちの会社は社長不在のため、今回は肉ではなく、副社長がよろこびそうな、御膳に品良く小鉢が並んだ料理屋で。ということがコンセプトだったはずなのに、あの女たちのアピール三昧といったら、食肉よりもリアルに肉々しいから、初期の緊張なぞどこへやら、あからさまにケンモホロロ対応だったおれは、2次会・3次会を懸命にこなし、やっとこさOVERTRIPにたどりついた。

マスターの茸さんとちんみりビールをのみ、夜のとばりにすっぽりくるまれてやわらかいさみしさをつまんでいたら、やぎうじが唐突にあらわれた。

平日の夜に秋田市でやぎうじを見つけるということは、もう絶対にかなり疲れやぎうじ周知の事実なんですが、なんだかおれは、すごく、がむしゃらに抱きついてしまって、というか、タックルがっついてしまって、自分でもびっくりした。

そして、『おい!!!元気でしたか!!』だけを連呼しながら、少し離れていすに座って落ち着いてみようと思ったんだけど、やっぱりまた腹のへった豚のように抱きついてしまった。そして、おちついたので離れた。

そのあとは、やぎうじとはなしたというよりは、茸さんに『へりくつばっかりこきやがって』とか『ひとのことばかにしてんだべ』とか『おめーなんかきらいだ!』とかいっぱいいわれながら飲んだ。いつもだったら泣いてかえるんだけど、昨日は茸さんのことばをあびせられるのがここちよかった。へんなの。

なんだ、脈絡ねーな。

今日はすごくスローに酒気帯びライフをおくった。スローに生きるためになるべく無駄な動きをとらないように気をつけたら、となりのKさんに『動体視力がなさそう』というレッテルをはられた。まんざらでもない。

かえりにやちよによって阪神戦の8回以降のだらだらを楽しんでから水辺の広場にいったら、川が氾濫して広場が半分水没してた。おもしろうそうだから車から降りて靴を履いたまんまずぶずぶはみでた川に入ってみた。雲と遠くの橋がやたら低くて風が川をなでる音がいっぱい聞こえた。

wind instrument

2005-04-03 | other
管楽器はとてもセンスィティブに音を出す。

自信のない人間に正しい音は出せない。

『間違った自信』のある人間も似たようなもので

そういった人間には『他人が聴くであろう自分の音』しか見えないからだ。

ここでいう正しさは音程ではない。

どんなにピッチがあっていても

『心と直結したニュアンス』のない音は気持ちよく響かない。


優しい音を出したい。

その気持ちばかりがたけても、『優しそうな』音しか出せない。

本当に優しい気持ちで吹いたときに

はじめて楽器がやわらかく振動する。

本当に優しい気持ちにはなれない。

そんなむなしい時は

本当に優しい人の音をよく聴くことだ。

その音を自分の内側にしっかり響かせて

あとは壊さないようにそっと重なればいいだけだ。

自分の内側に人の音をよくよく聴く人は

自分の重なり方が少し違っただけですぐわかる。

何が違って、どうやったら同調できるものかもすぐわかる。

わかろうとしなくてもわかる。