新しいやちよは、小さな飲み屋が並ぶ細い路地をはいったところにあった。
『ここだ』
マスターが立て付けの悪いドアをむりやり開ける。
ついこの前まで、スナックをやっていたらしい。
照明のスイッチをいれると、ブーンと低い音がした。
紫がかったライトが蜘蛛の巣と、薄くなったソファを照らしている。
店のなかは死んだスナックで、偽物の花や偽物の花瓶、重いベルベットのカーテンやくすんだ壁一面のグラスたちのせいで息苦しいほどせまく感じた。
カウンターには備え付けのイスが5つ並び、どれもこれもどちらかにかたむいていた。
『奥は物置にしてたらしい。うちは奥の半分あれば物はおさまるよな。半分は客が入るように改装しようと思ってるよ。』
斜め後ろから、マスターの表情がよく読み取れない。
ライトが土気色に頬骨のあたりを浮かせていた。
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『先生。このラインはもっとこっち、よったほうがいいですか?』
わたしが先生の事務所を手伝ってから4ヶ月がすぎる。
わたしがここにきたときにいた線の細い男は、先週『実家に帰って発電を手伝う』と突然辞表を出した。
おかげでわたしが、やったことのない図面ひきまでやらされるはめになった。
わからない。
わたし、いったいこれ、なんの図面をひかされてるんだろう。
雑居ビルの3階に事務所はある。窓はない。簡単な応接セットとコピー機、灰色のキャビネット。製図のデスクを下から照らすライトの光がぼんやりかげをつくる。
先生はいつも、わたしの背中に限りなく近づく。
『もう少し右の幅せめて。そう、君は体臭もきつくないからいいね。家でも僕をてつだってもらいたいけど、娘やうちのがいたら、君も少しきにしてしまうかな・・・』
唇がわたしの、耳のふちをなぞっている。
『あの・・・せんせい?』
首から頬へと息が移って、やっぱり顔をそらしてしまう。
いけない。顔をそらしちゃだめだっていつもいわれるのに。
また殴られる、そう思ってぎゅっと目をつむる。
『今度うちにあそびにきなさい。うちのブースにはときおりサイジョウヒデキもやってきてはね・・・』
顔をあげれない。まだ見られている。息がここにある。
わからない。
今日はどうしてすぐに殴らないんだろう。
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わたしはやちよをたずねた。
細い路地に、うすぐらい看板が並ぶ。
墨色の壁。墨色のドア。オレンジにぼうっと灯る『やちよ』の文字。
『こんにちわマスター』
オープンしてから来るのははじめてだった。
手前のスペースは白い壁。黒いソファとガラスのテーブルのボックス席が3つ。黒いカウンターには背の高いスツールが5脚。
ガジュマルの鉢植えが乗った本棚をはさんで奥は、曇ったえんじの壁にベージュのソファ、こげ茶木目のテーブルのボックス席が4つ。
わたしは一番向こうのベージュのソファに腰を下ろした。
『ずいぶんおしゃれになっちゃいましたね。』
『あぁ。まえ店にきてたやつがよ、改装するっていったら、俺やりますっていうからよ。』
少しはずかしそうにマスターがいう。
壁の一角に、『昔のやちよの落書きされた壁』が絵のようにはめ込まれている。
『おめ、あれ食うか?ぐりとぐら。』
『んー今日はおれ、ビールのほうがいいな』
壁の『壁』をさわりながら思う。
わからない。
わたしはどうしてこんなにちぐはぐでしっくりこないんだ。
※すべてin my ドリームばなしです。