残された日々

貴重な時間を有意義に

発病2年総括

2007-06-04 15:08:36 | Weblog
06/04(月)
発病2年総括
なんだかんだ言いながら発病以来2年になった。
日記をひもといて見ると2年前(2005年)6月3日、禁煙して飴ばかり食べるので肥満をひどく気にしている。
その直後6/13以降6/30まで連日検査・検査の連続で遂に6/30には肺癌の宣告がなされた。
かなり冷静に対処していると自身では感じている。

2年間で胸のレントゲン写真は58回、CT写真は32回、放射線治療は33回、
抗癌剤点滴は6種類36クール、抗癌剤内服は2種類12週(TS-1)と84日(現在継続中のイレッサ)。

冷静に対応したとは思うが、うろたえたのは客観的な事実である。
同業者が同じ肺癌にかかり闘病半年であっけなく亡くなった。
この亡くなった人から半年遅れて私が発症したのでかなり参考になった。
夫人には大変お世話になり気丈にも何かと世話を焼いてもらった。

発病2年と言うのは何かと目安になる周期である。
最初の判定は非小細胞肺癌線癌ステージⅣ、
T2(3cm以上)N2(リンパ節転移あり)M1(遠隔転移あり)の絶望的症状である。
最初に投与される抗癌剤がシスプラチンとドセタキセルの場合、2年生存率は11.5%である。
肺癌告知された後、私は家族に余命2年から5年と告げた。
多分に希望的観測があるが、医学の驚異的な進歩のお陰で1割の生存率の仲間に入れてもらった。

最初は痛さは全くなかった。
痛さと言っても肩こりの延長みたいな痛さで病状には含めていなかった。
最初はひどい咳とたまに出る血痰であった。
咳はなかなか治らなかった。
リン酸コデイン散を毎食後1包づつ1年半以上継続した。
血痰が連続するようになり止血剤の点滴を1ヶ月以上続けた。
1段落して点滴を内服に切り替え完全に血痰が止まるまで2ヶ月以上継続した。
現在は血痰は全くなく、鼻出血も完全に止まった。
リン酸コデイン散も大量に残り、次女が時折飲んで効果を喜んでいる。

初期段階で肝機能が少し良くなかった。
γGTPの数字が飲酒と深い関係があることを知らされていたのでかなり気にしていた。
強力ミノファーゲンを毎日注射して貰っていたが、いつの日かこのアクションが消えていた。
その後、肝臓に転移したことが確認された。
CT画像で肝臓は黒っぽく写り、その中に転移が更に黒く移って見えるのだ。
抗癌剤カルセドや抗癌剤イリノテカン点滴にも効果なくむしろ拡大していた。
この頃からお酒がまずくなり、殆ど飲めなくなった。
現在のイレッサ内服で原発巣は劇的に縮小、肝転移も徐々に縮小してきた。
忠実に反映してお酒が飲めるようになった。
最初のきっかけは自家製の梅酒であった。
味を自由に調整できる強みで、好みの味に仕立てていたので、まずかろう筈もない。

酒が飲めないと食欲がわかないとは酒飲みの悲しい性である。
食べないから体重はどんどん減少する。
05年06月末ー66㎏ 入院前、肥満一歩手前で安定
05年12月末ー71㎏ 入院で無為徒食、一気に5㎏増加。
         (入院07/04~10/05 2度目の入院11/29~12/16)
06年07月末ー64㎏ 退院して徐々に減少。
06年12月末ー62㎏ 減少傾向は続く。(入院10/03~11/10)
07年03月末ー56㎏ また一気に減少した
07年05月末ー55㎏ 下げ止まりの様相
体重が変化すると家内が右往左往する。
洋服が合わないのである。
体重が減少してどんな不具合が発生するのか詳しくは知らないが、
現状で特に問題がなければ良しとしよう。
BMI21.0程度で標準体重の中間地点だ。

眼が良くない。
最初のMRI画像に既に異変があり退院前のMRI検査では顕著な異常がある。
主治医も放射線科の医師団も明らかな見落としであった。
この時点で何らかの対応をすれば病気の進行を制御できたかどうか微妙なところである。
この時点で私は別の治療法を選択した。
行きつけの病院でリニアック放射線治療を提案されたが、強く拒否してサイバーナイフを希望した。
主治医は申し訳ないを繰り返し紹介状を書いてくれた。
結果的にこの治療が大成功だったことを眼科の医師が繰り返し教えてくれた。
サイバーナイフは大成功だったが、やはり限界はある。
癌細胞は消滅までいかなくても、かなりのダメージを与えていた。
眼底が冒され網膜が壊れているらしい。
「眼科的に治療法はありません」と明確に突き放された。
左眼は現在かすかに明かりを感じる程度だが、眼が開いていると言う安心感が表情を明るく保つ。

痛さは昨日のブログで詳述した。

発病2年、その他の項目は追って詳述予定。

最新の画像もっと見る