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西安小雁塔新年祭り

2011-02-15 13:44:05 | 西安観光地

西安小雁塔で催行してる2011年の新年祭り。

今年はウサギの年ですね!

これは全部トウモロコシで作ったウサギですよ!

楽しめる人々。

西安小雁塔の様子。

 

西安旅行観光相関サイト:http://www.westpassion.com


中国のネット用語集④

2011-01-26 15:08:06 | Weblog
ああ、これ以外の用語はとても多くて、今全部を書くことができません(-A-;)。以後でゆっくり補完しよう!
      面白いネット用語を紹介してあげよ:

  >和谐(harmony)
  元の意味:ハーモニー  今:ハーモニーの為に,何か削除します
  例え:刚刚那个性感的视频被和谐掉了!(先のちょっとセクシーなテレビは削除させました!)
  
  >打酱油(buy some sauce)
  元の意味:醤油を買う/醤油をかける  今:オレと関係ない
  例え:
    中国語:关我什么事, 我是来打酱油的。
    日本語:俺と関系ないぜ、醤油をかけにに来ただけだ。(男)
        あたしと関系ないわ、醤油を買いに来ただけなの。(女)
  
     「天朝」
  「朝」という字は「国」のこと?。日本では「本朝」=日本、「異朝」=外国。
  「天朝」は自嘲的な呼び方とは知らなかった。
  
     「帝都」
  昔の帝国の首都、という意味だから、中国では北京、日本では東京でしょうね。
  
     「魔都」
  「魔都」と言ったら上海です!
  shanghaiという動詞があるのを知ってますか?
  「上海の酒場で一人で酒を飲んでいると、見知らぬ人が酒を飲ませてくれる。
  たくさん飲んで寝てしまう。朝に目が覚めると、船の上。船が帰るまで、水夫として
  働かされる。こうしたことを「shanghaiされる」と言う。帰港すれば解放されるし、
  給料ももらえる。なんとなく間抜けだけど、ちょっと恐い。」
  魔都の名前にふさわしい言葉ですね。
  
  「妖都」
  これが広州だとは知らなかった。広州はあやしい都なのですか?www
  
  「11区」
  百度では「日本」が禁止wordだから「11区」と呼ぶ、って本当ですか?
  
  「棒子」
  私が聞いたのは、「これは韓国人に対する蔑称で、「棒子」と言われると韓国人は怒る」と。
  どうなんでしょうかね?

中国のネット用語集③

2011-01-05 10:34:25 | Weblog
>「灌水」
  意味:雑談スレ、雑談すること。
  例:①一起来灌水吧。(一緒に雑談しようせ。)②这个帖子禁止灌水。(このスレは雑談を禁止です。)
  特別:気軽に「灌水」しないでください。これは無礼のことです。
  
  >「控」
  意味:Complexの音訳、あるものが大好き。
  
例:①我控初音Miku。(私は初音ミクが大好きだ。)②她最控猫耳了。(彼女は猫耳が大好きだんだ。)
  他の使用:萝莉控(ロリコン)など、××控(××コン)。
  
  >「YY」
  意味:妄想。漢字表記は「意淫」(Yì Yín)、出典「紅楼夢」。
  
例:①初音Miku是我的老婆!——YY中。(初音ミクは俺の嫁!妄想中)②别YY了。(妄想なんってはやめとけ。)
  他の使用:YY文(内容は妄想の文章)など。
  
  >「傲娇/蹭得累/口嫌体正直」
  意味:ツンデレ。
  例:①她是个傲娇。(彼女はツンデレ。)②傲娇最萌了!(ツンデレ萌えぇぇぇ!)
  特別:「傲娇」は意訳、「蹭得累」は音訳、「口嫌体正直」(口が嫌だと言っても体は正直)は最近から現れるの言葉。
  他の使用:病娇(ヤンデレ)。

中国のネット用語集②

2010-12-17 15:23:15 | Weblog
>「楼主」
  意味:スレの作者、1さんの通称。
  例:①楼主你好。(1さんこんにちは。)②楼主谢谢你。(ありがとう、1さん。)
  特別:沙发(スレの2さん)、板凳(よった後の返信)、抢沙发(2の位置を奪い合いww)
  
  >「帖子/贴子/帖」
  意味:スレの通称。
  例:①这是一个有趣的帖子。(これは面白なスレですね。)②你看过这个帖子吗?(君はこのスレを読みますか?)
  他の使用:回帖(スレを返信)、删帖(スレを削除)、连帖(スレは重複)
  
  >「博客」
  意味:Blog。
  例:①我的博客。(私のブログです。)②欢迎来到我的博客。(私のブログにようこそ!)
  
  >「泪流满面/内牛满面」
  意味:とても感動だから、涙がほろほろと流れます。
  例:①这个画面我泪流满面了!(このシーンは感動したァァ!)②真是好漫画……我泪流满面了。(これはいい漫画…超感動だよ。)
  
特別:「内牛满面」は「泪流满面」の近似音の誤植化。意味は同じ。なんか、ある麺の感じ?!wwww

中国のネット用語集①

2010-12-14 11:35:52 | Weblog

ここで私は日本の皆さんのために紹介したくて、大陸中国の掲示板や同人交流のネット用語です。
これは自分の収集して整理したので、実際の意味は多少違うですが、基本的な意味は間違いない。
日本語下手だから、ご勘弁を(‵A′;)
それでは、始まるよ~

>「囧」
  意味:顔文字。うなだれた様子、落胆した様子(或いは気持ち悪い。平常には単独出現、でも「囧rz」などもある。
  例:①真囧,今天迟到了……(まったく、今日は遅刻だな…)②囧rz,这部动画又作画崩坏了。(orz、このアニメまた作画崩壊かよ。)
  元の意味:古代漢字。意味は「照らす、光明」。書き方もとは「冏」、意味は同じ。
  中国語の読み方:jiǒng
  日本語の読み方:ジオン(近似音)
  日本語の入力方法:不明…

これは混乱する語句をもたらしやすいのですね…
  この用語は特例がある。もし交流の中に、「阿囧」と呼ばれるの人、その意味は大体「涼宮ハルヒの憂鬱」の「キョン」です。なぜなら、多分キョン君の突っ込みのせいで、皆も「囧」そういう状態が入るかもしれないなwwwちなみに、「キョン」の中国語名は「阿虚」。

 

 

中国西部の美景-青海湖

2010-10-14 10:24:05 | Weblog
この間、中国西部に位置する西寧市へ行きました。西寧の観光地と言ったら、やはり中国で最大の内陸湖である青海湖のことです。天気のいい日に観光に行きました。空気も景色も大変すばらしいと思います。








西安の油菜花が咲く

2010-03-10 10:32:57 | 西安観光地

春が来た!油菜の花が咲きました!とてもきれいですね!

西安の南に位置する安康という所で撮った写真です。

 

詳しい情報は:西安旅行までご参照ください。


西安での元宵節

2010-02-25 16:46:09 | 西安観光地

昨日は中国の伝統節日元宵節です。

中国各地はいろいろな慶祝活動を催行しました。

下記は西安での元宵節についての写真。

西安の城壁(南門)で行われていた元宵節提灯の展覧会。

西安城隍宙で祈福の人々。

 

 

 

 

詳しい情報は西安旅行  中国旅行 をご参照くださいませ。

 


シルクロード――喀什編④

2010-01-11 09:36:12 | シルクロードの旅
エイティガール寺院ほか市内にも見所は多い

イスラムの文化を濃厚に反映したカシュガルは、町のなかを歩くだけでも刺激にあふれている。特に、町の中心にあるエイティガール寺院の周辺は、バザール街であり、ウイグル族の生活のなかにどっぷりとつかるおもしろさに満ちている。中国の町では少なくなったと言われている毛澤東像も人民東路人民公園前に健在だ。市内中心地は歩いても1時間あれば回ることが出来るので、歩くことをお薦めする。また、レンタサイクルを利用するのも便利である。ロバ車は市の中心部は走行禁止になっているので、郊外に行く時に利用するようにしよう。

中国最大のイスラム寺院といわれるエイティガール寺院は、カシュガルのシンボルだ。

寺院の総面積は1万6800㎡。門楼の左右に建つ18mの円筒形の小塔(毎朝、ここから礼拝の呼びかけが行われる)を見ながら12mの門楼を潜ると、広大な敷地のなかに多くの建築物が連なっている。全長160m、奥行き16mの礼拝堂は140本の柱をもち、天井には花草模様があしらわれている。400人の学生が住み96教室をもつ教経堂などの建物もある。

寺院の創設は、1442年ころにカシュガル王が建てた小清真寺がその基で、18世紀後半、旅行中にカシュガルで病死したウイグル女性の遺産によって現在の大寺の基礎がつくられたと伝えられる。1872年にはさらに大修建が行われ、現在の規模になったものだ。

モスクは本来、異教徒の立ち入りを禁止するが、観光名所でもあるここでは礼拝の時間以外に見学ができる。ただし、短パンなどラフな服装は不許可だ。

寺院前の石段にはたくさんのウイグルの人々が腰をかけている。日の出・朝・昼・日没・夜の5回礼拝が行われる寺院のなかの厳粛さとは全く異なる開放的な光景だ。

寺院前の広場は普段でも多くの人で賑わう。路上の床屋、ナンなどの食べ物やさまざまな物を売る屋台などが並び、おなじみのシシカバブーや、ときにはイスラム料理ではないが砂鍋と呼ばれる鍋料理に出会えるかもしれない。少し油濃いスープだが、イスラム料理にあきた旅行者には最適であろう。寺院の周辺の賑わいは、日本でいえば東京の浅草のようなものだろうか。寺院を中心にちょうど浅草の仲見世のような具合に、前を走る解放路を挟んだ両側周辺の路地はバザールとなっている。因みに、バザール(市場)という言葉はペルシャ語が原語で、日本でも、明治時代は「中近東諸国の街頭市場」という限定された意味で使われていた。こんなことからも、歴史的に東側(中国)の世界よりも西側(中央アジア・中近東)の世界の影響を強く受けてきたカシュガルを理解できる気になってくる。民族ナイフ・ウイグル帽・鳥打ち帽・金属食器・新疆シルクや刺繍があざやかなチョッキ、背広の布地、仕立屋、アクセサリーなどの店が所狭しと並んでいる。

繊維類を扱う店が集中する通りはウイグル族女性のファッションのメッカとなっている。また、自分の好みに合わせてその場で加工してくれる貴金属店で品定めをしているイスラム女性に出会ったりする。イスラム女性も金の指輪が大好きなのだ。こうした所を覗いて見るのもおもしろいだろう。総合食料品売り場となっている地下街には、地方色に富んだ品々が並ぶ。


寺院に向かって左の通りをまっすぐに行くと職人街があり、道の両側に、帽子・靴・金属アクセサリー・民族楽器・木工細工・台所用金属製品などの店が並び、それらを製造するトントン・カンカン・コンコンという音が響き、商店が店一杯に並べられ、店によっては通路まで溢れている。通りを歩いていると、いろいろな店から心地よいリズムの音が聞こえてくる。そこには、今なお手作り職人芸にこだわる人々の生活がある。しかし、年々少しずつ変わってきており、今でインドやパキスタンの製品を並べる店もある。

さらに、市街地からホージャ墳に行く途中の吐曼河を渡った付近一帯では日曜バザールが開催されている。ここには、衣類から日常生活用品とあらゆる物がそろっているほか、その一角は農貿市場となっていて、近郊から、野菜や家畜などが集まり大勢の人が集まる。羊を追うための大切な馬も売りに出され、時には走らせて市にかける。まるで、競馬の予行演習みたいである。馬具用品もずらりと並び、大盛況である。

人込みを離れてのんびりしたいと思ったら、毛沢東の前から人民東路を東に400mほど行ったところにある東湖公園がお薦めだ。人造湖だが湧き水に恵まれ、魚釣りをする市民の姿もみられる美しい公園だ。人民東路をさらに東に進んだ左手には絲綢之路博物館がある。シルクロードの歴史をしりたいと思ったら立ち寄ってみよう。

カシュガルでは、子供たちの繰り広げる民族舞踊も見学できる。ウイグル族の子供たちが通う民族幼稚園で、観光客のために行っているものだ。舞踊の見学だけではなく、一緒に踊ったり、保育風景を参観したりもできるので有意義な時間を過ごすことが出来る。ウイグル族の子供たちの愛くるしさとやんちゃぶりはなかなかのものだ。ウイグル族の文化に触れるいい機会なので、ガイドさんや旅行社に手配を相談してみる価値はある。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――喀什編③

2009-12-07 10:49:56 | シルクロードの旅
香妃の悲劇を伝える優美な墳墓

町の北東約5kmに、ホージャ(和卓)墳・香妃墓がある。17世紀初めから18世紀半ばまでカシュガルの宗教・政治の実権を握っていたホージャ一族の墓である。ホージャとは、もともとサーマン朝(874~999年)の官職名だったが、その後、イスラム教の宗教貴族として宗教・政治の実権を握るようになった。カシュガルのホージャの初代は17世紀初めにサマルカンドからカシュガルにやってきたマハドム=イ=アゼム。1640年にアファクが父ユースフ(初代の孫)の墓として建てて以来、ホージャ一族の人々が埋葬された。緑と青のタイルで覆われたドームと色とりどりのタイルを用いた柱をもつ優美なイスラム建築のなかに58の墓があり、72人が埋葬されている。

また、この墳墓は「香妃」と呼ばれた女性の伝説によって、一般的に親しまれている。香水をつけないのに砂棗の花の馥郁とした香りがするのでそう呼ばれた香妃は、アファクの孫ジハーンとその兄ブルハン=ウッディーンの連合軍が清朝の大軍の攻撃を受け敗れた時、北京へ連行され、乾龍帝の妃になることを強要される。その後のことは定かではないが、乾龍帝の意に従わず殺され、遺体はカシュガルに運ばれ、この墓地に葬られたと伝えられている。『香妃恨』という京劇の演し物にもなった香妃伝説によって墳墓は全国的に知られ、香妃墓と呼ばれるようになった。建物の中央のひときわ大きな墓がアファクのもの、右手奥の赤い布をかけたものが香妃の墓である。

ホージャ墳には、このほかに本来の一番古い建物である説教壇、54本の柱がそれぞれ異なった装飾をもつ礼拝所、簡単に礼拝を済ますための早礼所などの建物が木々の間に建っている。礼拝をするための建物の内部は何ひとつ装飾的なものを置かないがらんどうで、それがイスラムの雰囲気を濃く感じさせる。ホージャ墳の塀の外には、ホージャ墳の近くを望む一般のイスラム教徒の広大な墓所もあり、前庭から塀の向こうを覗きみることになるが、こちらもなかなか興味深い。広大な墓所のなかのおびただしいさまざまな規模の墓もまた、イスラムそのものである。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――喀什編②

2009-12-01 12:52:42 | シルクロードの旅
タクラマカン砂漠の西に位置する中国最西端の町カシュガルは、シルクロード西域北道(天山南路)と西域南道が交わるオアシスで、古くから東西交易・交流の要の役割を果たしてきた。旅をする者にとっては大切な停泊地であり、旅を続けるための補給や準備、休息ができる貴重な町だ。そのために、東西の商人が集まり、市場の賑わいがうまれているのだ。東西の民族の十字路の町がカシュガルなのである。

カシュガルの人口は27万人で、ウイグル族が68%、漢族が22%を占め、残りの10%は15の少数民族で構成されている。宗教はイスラム教が主流で、全人口の74%がイスラム教徒だ。面積98k㎡、年間降雨量60~80mmと、日本の一ヵ月にも満たない量だが、天山山脈から流れ出てくる雪解け水により水量は豊富だ。そのために、農業が主要な産業として成り立っている。平均気温は、最も寒い1月でマイナス6.4℃、最も暑い7月で25.8℃と、厳しくはない。―

町にはポプラ並木が続き、ロバ車が行き交い、中近東風の音楽が流れ、ドッパ(刺繍を施した四角い帽子)をかぶり髭をたくわえた男たち、矢がすりの民族模様のワンピースを着た女たち、いまではそれほど多くはないがパルダ(顔を覆う布。チャドル)を被る女たちが行き交い、露天の店ではナンやシシカバブーが売られている。「ここが中国なのだろうか」と思わせる最果ての町(中国最西端の市)だ。

カシュガルが歴史上に登場するのは前漢(紀元前202~後8年)の時。『漢書』の「西域伝」に次のように記されている。

「疏勒国、王は疏勒城に治す。(中略)東は都護治所に至る二千二百一十里、南は莎車に至る五百六十里。市列有り、西は大月氏、大宛、康居の道に当たる也」

疏勒国とは今のカシュガルのこと。市列とはバザールのことだが、カシュガルは2000年前からシルクロードの要衝であり、東西交易の地としてバザールが盛んだったのだ。また、大月氏に行く張騫がここを通り、班超が活躍し、鳩摩羅什が大乗経を学び、玄奘三蔵やマルコ=ポーロが滞在した地でもある。唐代には安西四鎮のひとつであり、「伽藍数百、僧徒万余」(玄奘)といわれるほど仏教も栄えたが、漢民族の支配が弱まるにつれ、10世紀にトルコ人とイスラム教が流入した。このころからカシュガルと呼ばれるようになったという。西域のイスラム化はこの時期に端を発するといわれている。現在、この地に仏教の痕跡がほとんどないのは、イスラム教が、改宗に厳格なことや偶像崇拝を禁じているために仏像などが破壊されたことによるといわれる。

その後、13世紀にチャガタイ汗国に属し、明代にはカシュガル汗国の首都となった。清の疏勒州、中華民国の疏勒県を経て、解放後の1952年には市制が布かれ、以来、南彊地区の中心都市となっている。

現在、開封政策の進展によって、タジキスタンやキルギスなど、あるいは中パ公路を通じてパキスタンとの交易が行われ、かつての「バザール都市」の面目躍如という熱気を復活させている。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――喀什編①

2009-11-27 10:29:08 | シルクロードの旅
漢字で喀什、カタカナでカシュガル

喀什はカーシーと発音する中国語で

カシュガルの前半だけをとった中国式呼称だ

カシュガルはウイグル語で玉の市場などを意味する

古くから東西交流の拠点として栄え

それゆえに主流のウイグル族と漢族のほか

居住している少数民族は15を数える

東と西の社会のせめぎあいの中で生きてきた町だ


参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編③

2009-11-23 09:31:34 | シルクロードの旅
砂漠に点在する仏教遺跡の数々

郊外に目を転じてみると、数々の遺跡が点在する。いずれも砂漠の中に立つものだけれど、この地域の長い歴史を体現する史跡として興味深く感じられるはずだ。

まず訪れてみたいのが、キジル千仏洞だ。クチャからは西北に約70kmほど行った拜城県にある石窟。ムザルト河北岸の断崖にあり、その長さは延々2kmにもおよぶ。新疆でも最大規模の石窟とされる大きさだ。

現在230余りの石窟が確認されていて、仏殿と僧坊で構成される。この中で最大の見どころとなるのは第38窟で、一般には楽舞洞の名で知られている。入口の壁の上には弥勒菩薩が描かれ、天宮伎楽図(4世紀頃の作)がある。伎楽天の持っている楽器は、弓型ハープ・五弦琵琶・横笛・ひちりき・阮咸などで、日本の雅楽のルーツともいわれている。

特に興味深く感じられるのは琵琶で、琵琶の起原はペルシア・アラビアとされ、やがてインド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来した。シルクロードを伝わってきた楽器を始めとして、さまざまな文化の源流をさかのぼることができるものとして注目されている。

そもそも亀茲国が名高い理由の一つに、亀茲音楽がある。この亀茲音楽は現在もウイグルに引き継がれて今日までのこっているが、クチャに残る遺跡の数々は、当時の繁栄を偲ばせてくれるもの。

この他、仏教経典に関わる故事や人物・山水・動物など、さまざまな種類の壁画が精巧に描かれている。このため多くの調査団が現地でさまざまな発掘調査を行うなど、キジル千仏洞の石窟は専門家から注目されているほど。

クチャの西南、約30kmのところにあるのは、クムトラ千仏洞だ。その昔、玄奘が立ち寄り講演を行ったという場もあるクムトラ千仏洞は、ムザト川の渓谷の東側に位置する。これまでの発掘により、全部で112の石窟が明らかになっているが、石窟には月神、風神などが描かれていて興味深い。また珍しい亀茲文字も見ることができる。

クチャの北方にあるのは、クズルガハ烽火台。砂漠の中の小高い丘の上に立つ土の塔で、漢の時代に造られた狼煙台だ。高さ16mで、上には望楼がある。その昔、約15kmおきに狼煙台が造られ、急を告げる場合にはここから狼煙台が上げられたという。

クズルガハ烽火台の近くには、クズルガハ千仏洞がある。唐の時代に造られたもので、仏殿と僧坊の石窟が確認されているが、なかでも僧坊が多いのがこの石窟の大きな特徴だ。

クチャからほぼ北に車で40分ほど行ったところにあるのは、スバシ故城だ。クチャ川の東西両岸にまたがって造られたもので、新疆最大規模の寺院遺跡として注目を集めている。

創建されたのは3世紀頃とされ、玄奘が各地の仏教の状況のほか文化・風俗などを書き記したインド・中央アジア旅行見聞録の『大唐西域記』には、「川の東、西には二つ伽藍あり昭怙厘と称す。東昭怙厘仏堂中には玉石あり、黄白帯びた海蛤である。また仏の足跡もあり、長さ八寸、広さ六寸・・・・・・」と記載されているが、この記述がスバシ故城ではないかと言われている。

ここからは貨幣や壁画・仏像・銅・鉄・陶器・木器なども出土し、仏塔や千仏洞の跡や壁画なども残り、当時の繁栄ぶりと仏教の広がりを物語っている。

このほかに、クルクダグ山の麓に、センムイム石窟がある。谷川に沿って彫られた石窟で、周囲には寺院や建物跡も残されている。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編②

2009-11-16 12:39:18 | シルクロードの旅
モスクやバザールでイスラム文化に触れる

クチャ市内での主な見どころとなるものに、クチャ大寺がある。この寺は、明代末期から清代初めにかけて創建されたイスラム教寺院で、この地域で最大規模となる。

もしクチャ滞在中に曜日がうまく合うのであれば、金曜日にここを訪れてみたい。金曜日はイスラム教徒にとっては集団礼拝を行う特別の日とされ、イスラム教を国教とする国ではいわば日曜日のように職場が休みとなる国もあるほど。

イスラム教徒にとって、金曜日は重要な日であるから、残念ながらこの日だけはクチャ大寺にイスラム教徒以外が入ることは許されない。しかし寺院内で一心不乱に神に祈るイスラム教徒の熱心さと熱気を、この寺の周囲で直ちに感じられるはずだ。金曜日以外の曜日であれば、寺院内を見学できる。

なお、モスクを象徴するクチャ大寺のミナレットの高さは20mもある。ミナレットとは、モスクの外郭に設けられた細長い尖塔で、ここからイスラム教徒に祈りの時を告げるアザーンが毎日唱えられる。

クチャ大寺は15~16世紀頃、カシュガルから来たイスラム伝道師が活躍した時代に土造の寺院が建設された。やがて木造となったものの焼失し、現在の建物は1929年に再建されたと伝えられる。

ウイグルスタイルと中国スタイルがミックスされたいかにもこの地にふさわしいモスクだが、アザーンを耳にすればアラブ世界にいるような雰囲気につつまれる。この寺は小高い丘の上にあり、市街地を望むこともできる。

また、クチャにイスラム教を布教したエシディンが葬られるモナエシディン・マザールもある。現在の墓は19世紀後半に修復されたものといわれ、大門・庭院・礼拝堂・墓室などがある。

クチャ大寺の近くには、クチャ博物館もある。一般には、文物保護管理所の名称で呼ばれるこの博物館では、民族衣裳館・亀茲壁画館などがあり、興味深い展示物を見学することができる。

ショッピングを兼ねて、クチャの人々の生活習慣などを知るためにもぜひ寄ってみたいのはバザールだ。バザールとはペルシャ語で、インド・中央アジア・中東諸国などでの市場を意味する。

クチャで最大のバザールが開かれるのは団結新橋の両側で、金曜日に開催されるもの。この地の文化を知るうえでも役立つ布地屋を始めとして、さまざまな日々の生活用品が売られる。またシルクロードを実感できる羊などの家畜の市もたつ。

バザールとはいえ、かなり原始的な雰囲気で、かえってこの地の人々の生活スタイルがかいま見られるはず。お祭りのようなにぎやかさだ。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編①

2009-11-10 10:48:12 | シルクロードの旅
天山山脈南麓の都市としてコルラとアクスのほぼ中間に位置する。ウルムチから約630km、バスで20時間弱かかるオアシス都市で、亀茲国と言われた時代には、西域北道の中心都市の役割を果たしていた。

天山南路の中継地点となるクチャ。付近には遺跡が多い。しかもそれらの遺跡は、現在かなりの影響力を持っているイスラム教関連のものではなく、仏教遺跡が中心となる。遺跡は、かつてのクチャの繁栄ぶりとその文化を無言のうちに伝える貴重なものばかりだ。

そもそもクチャは、その昔、亀茲国として栄えた。前漢時代(紀元前206~後8年)には、クチャ付近の鳥塁城に西域都護が置かれるなど、西域の要衝であった。ちなみに、亀茲国とは中国の史書に記された西域諸国の一つ。2世紀以後、亀茲国は、焉耆(カラシャール)・疏勒(カシュガル)・于闐(ホータン)・鄯善(ローラン)とならぶ西域の五大国として周囲に知られていた。やがて時代は後漢の時代に移り、班超が西域都護としてこの地に駐在した。班超とは後漢の将軍で、西域都護とは西域経営の長官を意味する。

亀茲国時代は現在のイスラム教とは異なり、仏教文化が非常に栄えていた。630年頃に亀茲国を訪れた人物の記述が残っている。

訪れたのは、長安を出発し天山南路からインドに入った三蔵法師の名で知られる玄奘だ。その時の模様を玄奘は、伽藍が100ヵ所余り、僧侶が5000人もいる上座部仏教の地、と記している。上座部仏教とは正式には南方上座部仏教と呼ばれ、現在は、スリランカ・タイ・ビルマ・ラオスなどで信奉される戒律を尊ぶ仏教だ。

7世紀に入ると、亀茲国は唐と戦ったものの敗れ、ついに滅亡する。その結果、唐は西州の安西都護府をこの地に移し西域経営の重要拠点とした。亀茲故城がその所在地だったと言われている。

そして9世紀半ばになると、この地に一大変革の兆しがあらわれた。その中心が、現在この地で多数派をしめるウイグル人だった。ウイグル人の勢力が増し始め、彼らは亀茲ウイグルと呼ばれるようになり、いつしかこの地ではイスラム教が仏教を押しのけて中心となり始めた。

その後、遼・モンゴルなどの支配下に置かれた。1758年になりと清は遠征を行い、その時に、現在の地名となる庫車に改めたという。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ