アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第8章 原始仏教 ④ 五蘊無我

2018年04月20日 15時37分38秒 | 第8章 原始仏教
 「五蘊皆空」という言葉が般若心経に出てくる。その後、無識、無受想行識と続いていくので、本稿表題の、五蘊無我も、意味するところは同じなのだと筆者は理解しているが、アートマン(即ち漢訳仏典で「我」と翻訳された)の有り無しを論じる関係で、五蘊無我から入る。

 その前に、「五蘊」とは何かを説明しておく必要がある。以下、中村元氏の『ブッダ伝』、「五つの構成要素」からの引用である。

◇◇◇
 当時のインド思想界で用いられていた「名称と形態」あるいは「身体」を、アートマンまたはわがものと看做してはならないと教えていましたが、仏教独自の新しい用語ができると、それらをアートマン、またはわがものと同一視することを戒めるようになります。仏教では、個人の存在ならびにそれと関連する現象世界を、諸々の形成力(諸行)、または五種の構成要素(五蘊)であると解釈しました。それは、(1)物質的な形、(2)感受作用、(3)表象作用、(4)形成作用、(5)識別作用の五種であり、その五種のはたらきが互いに作用しあって個人の存在が成り立っていると考えたのです。
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 以上、中村元氏は、判り易い言葉で説明してくれているのであるが、上記の説明だと誤解を招く虞があるので、改めて仏教独自の言葉である「五蘊」を筆者なりに(もう少し厳密に)説明してみる。これは、般若心経にもある、色、受、想、行、識の五つの機能に対応するものであるから、これらはおおよそ人間を構成している(1)肉体、(2)感受作用、(3)想念、(4)行(形成作用であるサンスカーラ)を含む潜在意識、(5)更にその奥の心霊意識と考えるべきであろう(大乗仏教でいう阿頼耶識に相当するのではないかと思う)。

 引用を続ける。

◇◇◇
前にもふれたように、この五つの構成要素が執着を起こす素材であると考えられました。それが執着をおこさせるものであり、我々を束縛するもとであるというので、神話的表現を借りて、よく悪魔と呼ばれています。ですから、これらの形成力、または構成要素を「アートマンと同一視してはならない、アートマンとは別のものと観るべきだ」と教えているのです。

五種の構成要素(五蘊)を[アートマンとは異なった]他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。毛の先端を矢で射るように。(『テーラガーター』)

前の引用教典に出てくる五種の構成要素を仏教では五蘊(五陰)といいます。この五蘊によって個人の存在が構成され、人々はこの一つひとつに執着をもっているのです。一般には、主観としての私(アートマン)がなにかのものを見て感覚し、甘受し、表象し、認識する。ところが原始仏教では、ただ見て、感覚し、甘受し、表象し、認識する作用がはたらいているだけだと言い、実体としてのアートマンを想定していません。否定も肯定もせず、沈黙しているのです。・・・
初期仏教では、このように「これ」といって具体的に、また対象として客体的に示してみせられるどんなものもアートマン(自己)ではない。それはアートマンとは違い、別のものであり、アートマンに属するものでもないと教えています。・・・
これまで見てきましたように、初期仏教では「アートマンは存在しない」とは説かれていません。ただ、人間の五種の構成要素(五蘊)を問題にし、「アートマンはこれでもない、あれでもない」といっているだけです。・・・
◇◇◇
 
 それでは、逆に「アートマン」とは何を指しているのか? 因みに、当時のインド、特にウパニシャッド哲学の中で考えられていた「アートマン」の定義は第6章②を参照頂きたいが、そのポイントのみ、以下に引用しておく。

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アートマンとは元来「いき」「気息」「呼吸」を意味する語であった。ドイツ語で呼吸することをアートメン(atmen)というが、語源的には同じである。・・・また、英語でアトモスフィア(atomosphere)という場合の「アトモス」というギリシア語とも語源的に関係がある。・・・ ブラーフマナ祭儀書(筆者註:ヴェーダの中で、祭式の執行規定などを収めた部分)においては、アートマンとは、個人に生命または神聖な個人性を授ける原理または実体であると考えられていた。・・・
さらにサンスクリット古典一般においては「自身」という意味にしばしば用いられる。・・・そうして哲学苦的概念としては、「自我」「真実の自己」「霊魂」を意味する述語となった。その場合には身体に対立している場合が多い。そしてアートマンは個我(個人存在)を意味する場合も多いが、しかし心(manas)からは厳密に区別された。・・・
◇◇◇

 上記の後半で、「自我」「真実の自己」「霊魂」を意味する述語となったと記載されているが、この文脈で使われている「自我」はエゴではなく、永遠不滅の「真我」という意味で用いられていると考えるべきであろう。

 ここで、この五蘊無我という問題を、ベックがその著書、『仏教』でどのように説明しているか見て見よう。

◇◇◇
 仏教によれば、人間の実体は五つの主要部分[五蘊]にわかたれる。肉体の現象[色]、感受[受]、知覚意識[想]、潜在意識ないし潜在的構想力[行]、心霊的意識[識]がそれである。これらの五つの主要部分は、いずれもすべて“無我”であると言われている。何度となく死に変わり生まれ変わる間に一貫して本体であるのは識ではあるまいか、という想定は仏陀によってきっぱりと拒否されている(『中部教典』、この場合“不変”という語によく注意を払うべきで、識が不変なる自己という統一体となってさまざまな生涯を結び付けるという点を拒否するのである)。この識という原理が死の際に肉体を去り、そしてその原理が誕生ないし受胎の際に霊体と共に再び母体に入り込むことはしばしば言われているが、その原理それ自体が縁起の法則に従い、かつ無常なものであるのだから、仏教の説によれば“我”ではない。
◇◇◇

 やはりベックも中村元氏と同様、仏陀は「五蘊は“我”ではない」と言っており、内容的にこれは間違い無いと思うのだが、それを「無我」と表現することが適切なのかどうか、よく吟味してみる必要がある。“我”ではない、という言葉を言い換えると、「“我”に非ず」ということば、即ち「非我」になるのだが、仏陀が最初に説教した際、南方仏教では、まさにこの「非我説」と四つの真理(四諦)が説かれたという。再度『ブッダ伝』に戻る。

◇◇◇
 ところが、パーリ文『サンユッタ・ニカーヤ』や『律蔵』には、鹿の園(筆者註:仏陀の初転法輪の場所である所謂鹿野園)で「非我説」を説いたという教典があります。・・・

 そこで世尊は五人の修行僧の集いに説かれた。「修行僧らよ。<物質的なかたち>(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの物質的なかたちが我であるならば、この物質的なかたちは病にかかることはないであろう。また物質的な形について『わが物質的な形はこのようであれ』『わが物質的な形はこうあることがないように』となしうるであろう。しかるに物質的なかたちは我ならざるものであるがゆえに、物質的なかたちは病にかかり、また物質的なかたちについて『わが物質的な形はこのようであれ、わが物質的な形はこうであることがないように』となすことができないのである』。(以下、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用についても同様に繰り返される)・・・中略・・・
 修行僧らよ、このように見做して、教えを聞いたすぐれた弟子は、物質的なかたちを厭うて離れ、・・・貪りから離れるから解脱する。・・・
◇◇◇

 つまり、仏陀は五蘊無我ではなく、より精確に表現すれば、「五蘊非我」ということを説いたということになる。仏典が示すように、仏陀が、五蘊はアートマンではないという趣旨で語ったのであれば、筆者としては「非我」と表記した方が適切だと思うのだが、何故か「無我」と表記されたことから、仏教に関する重大な誤解が生じたようである。その内容は、次稿にて説明したい。
 
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