アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

BKYJ ① 修行の発展段階

2017年06月29日 08時16分38秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
「ババジを求め、ババジになれ」 (クリヤーヨーガジャーナルより)

 我々は任務の途上にある。個人的にも、或いは(クリヤーヨーガの)グループとしても、サーダナ若しくはヨーガの実習に携わる修行者として、人間の性格とエゴを抑制すると同時に、クンダリニという我々の潜在的なパワーと意識を発見しつつある。この道の初期の漠たる段階においては、殆どの生徒は、肉体、生気体若しくは感情体における緊張や苦痛から逃れる目的で、様々な技法やポーズを練習しようとする。ヨーガの叡智に関する書籍の助けを求める者は数少ない。もし練習が規則的になるのであれば、修行者はより健康になり、エネルギーが増し、静けさを楽しむようになりはじめる。深い瞑想の中でマインドが静まった時に、存在の深い次元、即ち霊的なものを一瞥することがあるかも知れない。しかしそのような霊的な気づきが如何に素晴らしいものであったにせよ、恐れ、怒り、欲望、プライドといったものを含むエゴの現れが抑制されない限り、それらは逃げて行く。そこで、そうしたものが存在の苦悩の源泉だという気づきが起こってくる。多くの者はヨーガの本当の目的と約束(成就)を無視して、単に苦しみからの気晴らしを求めるだろう。他の者は、それが職場であれ、伴侶であれ、友人であれ、食事であれ、ライフスタイルであれ、そうしたものを変えることで苦しみから解放されるものと期待し、彼らの苦しみの原因となるものを避けようとするかもしれない。然しながら、賢明にして真摯な者は、エゴを浄化するプロセスを採用するだろう。このプロセスから導かれる変容は、修行者のマインドと生気体がどの程度魂と神霊に忠誠を誓い、エゴから遠ざかるかに依存している。

 エゴはそれ自身を浄化することが出来ない。それを実行できるのは、エゴの現れによって触れることの出来ないわれわれのハイアーセルフ又は魂だけである。しかし、どのようにそれを我々の意識の前面に押し出すのだろうか? 如何にその力がエゴに影響を及ぼすようにするのか? 我々の魂は、その権力の全てを大臣に委任してしまった立憲君主のようなものだ。何時国王である魂により、これらの権力が取り戻せるのか。間違いなく、ババジのクリヤーヨーガの五重の道(原文:Fivefold path即ち重層的に存在する「五体」と言われる、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体すべてに働きかける手法)は、潜在意識を浄め、必要な集中力を養い、肯定的な感情体の心象を作り、叡智を見出す知的な能力を開発する助けとなる多くの技法を提供している。然しながら、我々の魂、または霊的存在は、修行者が内に向かって集中し、内在する超心的な神秘の光、「神性」の甘美な存在、「真理」「善」そして「美」を見出さない限り、マインド、感情、そして激情のヴェールの背後に隠れたままである。「グル」と「神」と「真我」は一つである。第一回目のイニシエーションで、クリヤーヨーガのグルであるババジと対話する技法を教えられる。このババジと交流する技法は、魂、我々のハイアーセルフ、またはシュリオーロビンドが呼ぶところの「神霊的な存在」をして、それと全く同一になるまで、より頻繁にエゴのヴェールの背後から現れることを可能にする。我々の魂との完全な一致は、通常かなり長い期間のサーダナ(ヨーガの修練)の後、初めて生じる。この(魂との)一致は、どんな状況においても存在する非常に大きな歓びによって特徴付けられる。彼(若しくは彼女、以後彼で統一)は、不死或は永遠であると感じる。彼は甘美な「神」の「実在」を感じる。

 しかし一方で、純化と「真我」或いは魂との一致に到る長期に亘る道程が完了するまでは、修行者は繰り返し内に向かい、集中し、その指令に耳を傾け、それらに従わねばならない。それは彼の性格の中にあって純化されるべき全てを表面に現す。あなたがそれである処の真の統治があなたを待っている。ただ単に「心に留めておく」だけでは十分ではない。「至上者」の僕(しもべ)となるよう志しなさい。怒り、プライド、妬みを現わそうとする衝動に耐え、恐れ、欲望、そして旧来の否定的な習性を手放すために「神」の助けを求めなさい。常に、そしてあらゆる場所で(神の)道具となるよう志しなさい。全ての人に「神」の美しい顔を見なさい。愛と歓びをもってあなたのハートを、それに合わせて高鳴らせなさい。マインドと生気体が静まるにつれてあなたの魂は前面に出て、それはあなたの人生を導くだろう。

 私の師(訳注:ヨーギラマイア)は我々に対し、「ババジを求め、ババジになれ」と頻繁に説いた。ババジとは誰なのか? あなたは自分が誰なのかを知る時ババジが誰なのかを知り、エゴの現れと自分を同一視することが止むであろう。ティルマンディラムにおいてこの状態は「トゥリヤティタ(Turiyatita)」即ち「トゥリヤ」を超えた状態として引用され、第三巻に詳しく説明されている。「トゥリヤ」という言葉は四を意味するが、ヨーガの文脈の中では、目が覚めている状態、夢を見ている状態、夢の無い眠りの状態の三つの状態を超えた意識状態を表し、そこにおいて魂は、肉体、生気体そしてマインドを通じて知識と経験を得る。第四の状態において、魂は絶対的な実在、宇宙意識、そして至福との統合もしくは同一性(一体感)を経験する。トゥリヤの中では、瞑想している神格との一体性に気付く。トゥリヤティタの中では、そのような気づきはない。これらの状態は「アヴァスタ」として知られていて、ティルムラル(訳注:ティルマンディラムの著者)はそのことについて第八巻で記述している。   

 パタンジャリはそれをヨーガスートラ(1-24)で、「イシュヴァラ」即ち「如何なる苦悩、行為、行為の果実、または内なる欲望の印象によっても汚されることのない特別な自己」と呼ぶ。苦悩(サンスクリット語でクレーシャ)は、我々の真の同一性に対する無知であり、エゴイズム、執着、反感そして死の恐怖である。行為の果実は我々のカルマだ。禁戒(社会的制約)と勧戒(修行者の遵守事項)を誠実に実行することで、人は苦悩を純化し、これまでに累積したカルマを滅尽する。彼はまた、ヨーガスートラ(1-23)で、「主(訳注:原文はLord)に対する明け渡しによって人はサマーディに成功する」と告げる。この明け渡しは、もしそれが我々の存在の霊的な次元に限定されるのであれば完全なものには成り得ない。それは必然的に、マインド、生気体(感情と欲望の座)、そして肉体と対峙しなければならない。それを如何に行うのか? 観察者の視点をもって永遠ではないものから永遠のものを、真実でないものから真実を、心と生気体と肉体の動きから「真我」を識別しなさい。それらから後ろに引いて立ち、単にそれらを観察していなさい。毎瞬ごとの観察が必要だ。何を手放すべきで、何を残すべきなのか決断しなさい。

 如何なる、そしてあらゆる状況においても「神」への明け渡しが、五体に対する統合ヨーガの手段であり究極の目的だ。「私の神そして私の全て」という言葉は、その心からの表現を集約している。修行者が「神」に対する明け渡しを行う時、「神」はご自身を修行者の人生に介入させ、全ての困難と弱さを取り除く手助けをし、その臨在の意識の中に喜びをもたらす。これが生じるためには、(1)修行者は自身の能力に対して自惚れがあってはならない(2)彼は心の奥底から、実在し、彼を愛し、その叡智によってあらゆることに全能である「神」と呼ばれる者が居ると信じていなければならない(3)修行者は、彼の魂そして究極的な安息の地として「神」だけに向き合わなければならない。この意識の明け渡しの状態においては、完全なる信頼の中で、自身に対する責任を解き放ち、全ての重荷を「神」に手渡すことで、何を行い何を感じようが、全ての行為は「至高の実在」に対する捧げものとしてなされる。修行者の習慣的な意識と性質は、この明け渡しに対する多くの抵抗と障碍を内に含む。人は留保無しで、「神」の唯一の導きに対して自身を放棄する必要がある。人がそのようにした事をどうやって知ることができるのか? シュリオーロビンドは、真に自身を明け渡した修行者の内面の気分を詳細に記述している。

 私は「神」を欲し、それ以外の何物をも欲しない。私は「彼」に自身のすべてを与え、そして私の魂が希む故に、私は「彼」に会って「彼」を悟る他無い。「彼」の御業が秘密であろうと、顕現したものであろうと、隠されていようと明らかであろうと、私はそれと、私の内にあって私を「彼」に到達させる「彼」の御業以外何も求めない。私は自身に都合のよい時や方法に拘らず、「彼」の時と方法ですべてを行うに任せる。私は「彼」を信じ、「彼」の意志を受け容れ、「彼」の光、臨在、そして歓びを絶えず希求し、「彼」に頼り決して諦めることなくすべての困難と遅れの中を歩む。全ては「彼」のものであり、私自身も「彼」のものである。何が起ころうとも、私はこの希みと自己放棄から離れず、それが実現するとの完全な信頼の中で歩み続ける。(オーロビンド 1972 587)

 つまり修行者のサーダナを通じて全てに責任を持つのは「神」御自身なのだ。全ては「神」によって可能となる、即ちハートと信頼と確信をもって自身を神に捧げるのであれば、そして仮にそれを直ちに完全に行うことができなかったとしても、信頼が深まるにつれてより多くの内なる助けと手引きが与えられ、「神性」の経験が彼の内で育まれる。もし疑問を投げかける心が活動を抑えて謙虚になり、明け渡しの意志が成長するのであればこれは完全に実現可能とならざるを得ない。(オーロビンド 1972、586-88)
◇◇◇

 もし自己放棄の力がそれほどまでに強力であるなら、どうして人はそれを果たせないのであろうか?

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 何故それがなされないのか? 人はそれについて考えない、それをすることを忘れる、或いは古い習慣に戻ってしまう。そして取り分け、内心、さらには意識下の隠された場所の裏側に、あなたの耳元で囁くこの内在する疑いがある・・・そしてあなたは、とても愚かしく、はっきりせず、バカなので、あなたはそれに耳を傾け、自分のことに注意を向け、全ては台無しになる(マザー 2004,257)
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 それで個人的な主導権は停止するのだろうか?そのようなことはない。通常の修行者の意識と意志はシッダであるヨギのように神の意識と一体化した状態からはかけ離れている。人は全ての好き嫌いと共に隔離されたエゴの意識の中で生活し続ける。従うべき必須の原則は、行為の果実もしくは結果を「神」に明け渡す(捧げる)ことで、さもなければ、人はただエゴを満足させる為に行為しているだけである。シュリオーロビンドは全ての行為において、人が保持し続けなければならない態度について述べている。

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 「神」は私の唯一の避難所だ。私は「彼」そして「彼」だけを信頼しそして全てのことで「彼」を頼る。私は完全に「彼」の「意志」に身を任せる。私は如何なる行く手の障碍や、絶望の暗いムードによっても、私の絶対的な「神」に対する信頼が決して損なわれることのないようにする(Mukherjee 2003、93)
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 然しながら修行者は、その努力が不必要だと感じたり、「神」が全てを達成してくれるのだと感じたりして、自己満足に陥ってはいけない。これはマザーによって非常に明確に説かれている。

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 然しながら至高の恩寵は、ただ「光」と「真理」の条件においてのみ働き、誤った考え(虚偽)や、無知のもとでは働かない。何故なら、もしそれが誤った考えの要求に屈するのであれば、それはそれ自体の目的を打ち砕くことになるからだ。(マザー 1972,1,3)

 全てのもの一つひとつに条件(訳者註:仏教でいう縁起のようなことか?)がある。もし或る者がヨーガの条件を満たさないなら、「神」の介入を求めることは無駄である。(Nirodbaran 1983,197)

 効果的な明け渡しが必ずしもすべての将来の嵐やストレスに対して修行者を守るものではないが、修行者が人生の嵐の只中にあったとしても、それは彼の精神(スピリチュアル)上の健康の絶対的な安全を約束してくれる。その道筋が、日が照り、バラの花びらがまき散らされていることを保証はしない。然しながら、「彼」が明け渡しを行った修行者を人生のあらゆる不幸にも拘わらず、彼の大切な霊的目標に導くであろう、ということは保障する。明け渡しを行った修行者はまた、不幸や苦悩は無駄ではなく、その意義が適時に明らかにされるところの霊性向上に必要な目的を達成するのに、神によって是認されたものであることを知る。明け渡しは、「神」は遠く離れてはいない、または彼の苦しみの中でもそこにいない訳ではなく、彼のもっと差し迫った困難の中でも修行者が神と一体になるよう導くための環境を整えながら彼のハートの中に坐していることを知り、且つ感じる。明け渡しはまた、全ての困難は、もし勇気、忍耐、そして明け渡しの精神の正しい態度で臨むのであれば、大きな霊的な利益をもたらすであろうことを知る。最後に、明け渡しは、ある将来の霊的な「善」に導く隠れた目的があることを知る。彼のマントラは、「常にそしてどこにおいても、あなたの『意志』がなされますように」から変わることはない。(Mukherjee 2003、101)
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 シュリオーロビンドは、魂または霊的な存在が目覚め、そして信仰、放擲、そして明け渡しによって五体全てにおける自己の変容を指揮するようになる四つの発展段階を示した。

第一段階:
 霊的存在は、内なる存在を覆うヴェールとマインド・生気体の動きの背後に隠れている。我々の存在の低次の部分は、魂が何を欲するのかに関心が無い。それらは欲望と感情、肉体的な安息の必要性、そして些細な好みや嫌悪に対して習慣的に反応する。極く稀に、霊的な影響が前面に出ることがある、それは霊的な生活、愛と「神」への明け渡し、言葉で言い表せない「真理」、「善」そして無条件の愛、やさしさ、共感、「至福」そしてバクティに対する憧れに気持ちが向いた時である。

第二段階:
 内なる存在、マインドそして生気体が、「魂を求めてそれに従うことを決めた時、即ち彼らの回心であり、彼らは霊的で神的な性格を身に付け始める」(Mukherjee 2003、112)。信仰心が徐々に高まり、「神」は恩寵をもって答える。彼(又は彼女だが、以後彼で統一)は内に向かい、徐々に外部の官能的な誘因の昔の「場」に対する興味を失う。信心、放擲、そして明け渡しを実施することは段階的に霊的存在の影響を受け容れ易くする。益々彼は、欲望、怒り、古くからの悪い癖、そしてそれ以外のエゴの現れを克服する力を感じるようになる。彼は既に起きてしまったことに対してくよくよすることを止め、過去を手放す。彼は本能的に正しいことを行うように導かれるが、それは道徳的な命令、しきたりまたは家族や親類の期待からではなく、彼が自分の内で何が真実で何が善であるかを知るからである。彼は抵抗があること、害を及ぼすこと、真実ではなく、誇張されたことを拒絶する。無条件の愛、優しさ、安らぎそして至福が彼の存在の状態となる。しかし彼は過去の思いや感情のパターンに戻るかも知れない、それは内なる存在の動きによって断続的に覆われてしまう。彼は目撃者であり、深く根差し、習性化した内なる動きを表面化させないよう継続的な努力を続けなければならない。

第三段階:
 霊的な存在が内なるマインドと生気体のヴェールの背後から前面に現れ、そこに止まる。それは信心、放擲そして明け渡しの修行(サーダナ)を継続的に指導する。それは何が変容されるべきか、何を手放し、純化すべきかを特定する。彼は常に助けられ、且つ導かれていると感じる。たといカルマによって腐ったトマトが彼の玄関口に置かれていようとも、「神」の至福と無条件の愛が彼の感受性を特徴付ける。彼は感情体、生気体そして肉体の次元において、彼の乗り物の主人である光輝に満ちた真我の気付きとして止まる。彼は、欲望や恐れを含む、内なる存在のより深い層におけるエゴの現れを識別して手放す。彼は自らの神性の無知に抵抗し、それを現わす全てを取り除く外科手術を行っている「神」の手のうちにある道具のように感じる。彼は共同創造者となる。日々の生活は奇跡で溢れかえる。彼は人生を、永遠の新しい喜びとして経験する。

 この段階においてエゴに対するマインド、生気体そして更には肉体の忠誠心は、内なる「神」に対する忠誠心に置き換えられる。彼は「成就」即ちシッディ(悉地)を求める。病んだ肉体または神経症のマインドにおける成就は、(本当の)成就とは言えない。識別智によって、これらの低次の道具を「神」の「御意思」を表現するように変容させる。彼は自己変容のプロセスに対する情熱を発達させる。この過程において、彼はそれまで隠されていたものを発見する。彼は変容のメソッドを経験する。

第四段階:
 この進化した段階において、霊的存在は細胞と潜在意識のレベルを変容させる。1926年から1940年にかけて、シュリオーロビンドとマザーは断食、睡眠、食事、自然の法則そして習慣によって意識下そして細胞レベルで、彼らの体を使った実験を行った。それは、より精妙で霊的な力が神性化を完成させるのに十分なように寿命を延ばす霊薬、カーヤカルパをシッダ達が使った文献に記述された事例とは異なり、時間との競争だった。マザーは言った。「根本的」な問題は、変容に向かってのこの競争(レース)において、この二つの内のどちらが先に到達するのか、即ち「神」の真理のイメージに肉体を変容させようとしている者なのか、それとも徐々に分解して行く(老いた)肉体の中の古い習慣であるのかを知ることだ(Satprem 1975,330)。

 その作業は、オーロビンドが言う処の“細胞のマインド”、“まさに細胞、分子、微粒子の体の奥まったマインド”のレベルで進行した。このボディーマインド(の存在)は明白な真理であるが、(それ自体の)判り難さと、過去の行動に機械的に執着し、そして容易に忘れ去られ、そして新しいことを拒絶する(性癖を有する)ため、我々はその中に超心の力が浸透し、肉体の機能を変容させることにおける、主だった障碍であることを見出す。一方で、一旦効果的に変容すれば、それは物質の「本性」における超心の「光」と「力」で安定した最も貴重な道具の一つとなるだろう(オーロビンド 1969,346)

 細胞の下準備には、肉体と細胞の意識が拡大してそれ自体を普遍化することを許容するための精神的な沈黙、生気体の安らぎそして宇宙意識が必要とされた。私の研究で判ったことだが、ババジ、シッダ達(訳注:18人のシッダを指す)、ラーマリンガそしてシュリオーロビンドのような(人類の)進化を導くリーダーは、人間的な性質が全てのレベルで神の「真理」のイメージに変容するという霊的存在の第四段階を完成させる為には、「人里離れて隠棲すること」(訳注:原文はisolation)を必要としている。このことが、シッダ達において起こったように個人のレベルで生じるにせよ、またはシュリオーロビンドによって予告されたように人類の集合的な魂の飛躍という形で起きるにせよ、超心の下降によるその結果は、未だ解明されていない問題である。

 マーシャル・ゴヴィンダン・サッチダナンダ


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