アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ⑦ 運命

2017年04月04日 17時16分45秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 筆者は比較的裕福な家庭に生まれ、両親や周囲の者によって育てられるあいだ、殆ど不自由な思いはしなかったように記憶しているが、小学生の頃、高価なオモチャのライフル銃を買ってもらえなかったことがあり、自分はどうしてもっと金持ちの両親の家に生まれなかったのだろうかと思ったことがある。しかし、改めてこの「小学生の疑問」について良く考えてみると、これは大人にとっても簡単に回答を出すことが難しい深遠なテーマである。

 たとえば、「霊魂不滅」を真理だとする。それでは、私たちがこの世に生まれて来た時、我々の魂は両親を意識的に選んで生まれて来たのだろうか、それ共その両親の元に生まれたのは偶然なのだろうか? この疑問に対する正解は、仮にあったとしても基本的には証明が不可能なので、通常社会人の間で議論されることはないように思うが、非常に重要な問題を含んでいる。筆者が思うに、霊魂がカルマによって輪廻転生を繰り返しているという「真理」に基づき、更に筆者がこれまで読んだ数々のスピリチュアル系の書籍から推測する限りにおいて、恐らくは、より高次の神霊の下で、自身の魂が最も効果的に成長できる環境を(両親も含めて)選んでこの地上に生まれて来たのであろう。

 しかし、それではその先の人生、運命まで決まっているのかとの疑問が当然湧き上がってくる。仮に決まっているのであれば、個人の自由や努力、或いは「祈り」について、どう考えれば良いのだろうか? 「運命は性格の中にある」と喝破したのは芥川龍之介だが、ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーター(以下、ギーター)も、基本的に個人の運命はその人の性格によって決まっているのだと言う(つまり、努力することもその人の運命だということになる)。第3章及び第18章から(以下、上村勝彦氏の訳に基づく)。

◇◇◇
 知識ある人も、自分の本性(プラクリティ)にふさわしく行動する。万物はその本性に従う。制止して何になろうか。(3-33節)
 あなたが我執により、「私は戦わない」と考えても、あなたのその決意は空しい。(武人の)本性があなたを駆り立てるであろう。(18-59節)
 アルジュナよ、あなたは本性から生ずる自己の行為にしばられている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと望まないでも、否応なくそれを行うであろう。(18-60節)
 主は万物の心の中にある。その幻力(マーヤー)により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ(18-61節)
◇◇◇

 これだけでは、少し物足りないと思われるかも知れないので、同じくギーターの11章から「運命」に関連する部分を引用する。ご存知の方も多いと思うが、念の為ギーターのシチュエーションを説明しておくと、日本で言えば関ケ原の戦いのようなもので、古代インドで全諸侯がカウラヴァ軍とパーンダヴァ軍に二手に分かれ、クルクシェートラという場所で骨肉相食む戦いを繰り広げる。その戦いが始まる直前、パーンダヴァ軍の中心となる武将であるアルジュナが、親類と戦うことの無益さを感じ、自らの武器を放り出して戦うことを放棄しようとした時、アルジュナの戦車の御者となったクリシュナが、彼に闘うよう説得するストーリーである。この場面はその中で、クリシュナが至高神としてのその姿をアルジュナの前に現したくだりである。11章第24節から。

◇◇◇
 天空に接し、燃え上がり、多くの色をして、口を開き、燃え上がる大きな眼を持つあなたを見て、私は心から戦慄き、堅固(冷静)さと平安を見出せない。ヴィシュヌよ(クリシュナはヴィシュヌの化身)。
 牙が出て恐ろしいあなたの口、終末の火にも似たその口を見るや、私は方角もわからず、逃げ場も失う。どうかご慈悲を。神々の主よ。世界の住処よ。
 そしてこれらドリタラーシトラの息子たち(以下、カルナまでがアルジュナの敵方の武将)はすべて、王たちの群とともに、また、ビーシュマとドローナと御者の子(カルナ)は、わが軍の指導者たちと共に、
 急いであなたの口に入る。牙が出て恐ろしい、恐怖をもたらす口に。ある者たちが歯の間にくわえられ、頭を砕かれているのが見える。 (途中省略)
 私に告げて下さい。恐ろしい姿をしたあなたは誰なのか。あなたに敬礼します。最高の神よ。お願いです。本初なるあなたを知りたいと思います。私はあなたの活動[の目的]を理解していないので。
 聖バガヴァットは告げた。 私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を回収(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。
 それ故、立ち上がれ。名声を得よ。敵を征服して、繁栄する王国を享受せよ。彼らはまさに私によって、前もって殺されているのだ。あなたは単なる機会(道具)となれ。アルジュナ。・・・
◇◇◇

 因みに人によっては、ギーターは殺人や戦争を容認するものだと言って、聖典として適切ではないと言う人がいるようだが、戦争のような非常事態は現在でも世界中で起きており、そこに行く兵士や司令官は、当然ながら武装した敵方の諸兵を殺すために行くわけであり、昔も今もこれは犯罪に当たらないことは明らかだと思う。また、例えば強盗殺人犯から攻撃を受けた警察官は、拳銃などで応酬することは正当であり、ギーターの主人公たちの置かれた特殊なシチュエーションを勘案すれば、単純に殺人を容認するものだというこの聖典に対する批判は当たらないと思う。

 ここでエックハルトが運命をどのように捉えているか、考察してみたい。彼は「離在」(本章第④話で紹介した「離脱」と同じ概念。訳者が異なる為に別の文字を充てている)と題する説教の中でそれを説明しているが、その前に、「離在」或いは「離脱」の定義を再度明らかにしておこう。以下は田島照久氏の『エックハルト説教集』からの引用である。

◇◇◇
「純粋な離脱」とは、「貧しさの説教」で説かれた「内なる貧しさ」が「何も意志せず(無所求)」、「何も知らず(無知)」、「何も持たず(無所有)」、さらにこのような無所求、無知、無所有であることの自覚からも自由であったように、自己の外に建てられたどんな獲得対象も持たず、更に「私は離脱した心の状態にある」という「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方を語るものである。「一切の被造物及び自己自身から離れること」が「離脱」と名付けられ、「離脱」とはこの意味で「この世界と自己とに死すること」であるが、ただしここで注意を要することは、それが外的な「隠遁生活」を必ずしも意味するものではなく、むしろ、活動的で豊かな中世都市生活の只中に生きて、しかもそれらの豊かさに捉われず、不動にして神とひとつとなり、さらにはその神とひとつであるという自覚からも離脱した真に自由で主体的な人間の在り方を説いているものであるということである。またシャーマニズム的な「脱魂状態」、つまり「霊魂離脱」という意味はエックハルトの説く「離脱」とは無縁である。
◇◇◇

 次に『神の慰めの書』(相原信作氏訳)から「離在」と「運命」関連する部分を抜粋し引用していく。

◇◇◇
 アヴィケンナという師は、「離在せる精神の高貴性はきわめて大であって、その観るところは真であり、その欲するところは与えられ、その命ずるところは人必ずこれに従う」といっている。まことに、自由な精神が真の離在においてあるならば、彼は神を強いて己の本質に来たらしめるものなることを、あなた方はとくと知る必要がある。・・・そしてかくも全き離在においてある人間はこのようにして永遠の中に運び去られ、いかなる消滅的事物も彼を動かし得ず、肉体的なる何ものも感覚しないのである。すなわち、もはや地上的存在は彼を喜ばせない故に彼はこの世界に死せるものと言われる。聖ポーロが「われ生きてあれどもしかも生けるにあらず、キリスト我に在りて生けるなり」(ガラテヤ所第二章二十節参照)。
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 このような境地こそ、ヨーガにおいても理想とする処であり、筆者も死ぬまでに何とか辿りつきたいと思っている。それはさておき、この先を続けよう。

◇◇◇
 お前は尋ねるだろう、そのような大きな高貴性をもつとは一体離在とはどのようなものであるのか、と。お前は知らなければならない、真正の離在とは、丁度、広大な山がささやかな風に対して不動であるように、精神が一切の偶発的な愛や悲しみや名誉や恥辱や誹謗に対して不動であることに他ならぬことを。・・・いやしくも人間が神に等しくなる - 一個の被造物が神との等しさを持ち得るかぎりにおいて - べきであるなら、それは離在によってでなければならない。・・・
 そしてこの等しさは恩寵において生起するものでなければならない。恩寵こそ人間を一切の時間的事物から引き離し、全ての消滅的事物から彼を清めるものであるからである。是非とも知らなければならない、一切の被造物に乏しくあることは神に満ちてあることであり、一切の被造物に満ちてあることは神に乏しくあることであるということを。・・・
◇◇◇

続いて、離在と「祈り」との関係である。

◇◇◇
 なお私はいいたい、人間が時間の中においてなすであろう如何なる祈り、いかなる善行も時間の中において生起しないかのごとくである、そして神は、人間がそのような祈りや善行をなしたからといって、彼が祈りや善行をなさない場合に比して、その人間に対し少しでもより優しくより好意的になり給うことはないのである、と。・・・
 ここでお前はいうかも知れない、もしそのように祈りや善行を神が受け入れ給わず、何人もかくのごときものをもって神を動かし得ないとすれば、一切の祈りも善行もすべて無益なものになると了解される。しかもなお、神は万(よろず)のことにつけて祈りを欲し給う、と言われるのはどうしたわけかと。
◇◇◇

 次にいよいよ、「運命」についての説明がなされる。

◇◇◇
 この問題についてはお前はよくよく私の言うところに注意し、正しく次のことを理解し(もしお前にその能力があるならば)なければならない、すなわち神はその最初の永遠の展望において(もし我々が最初の展望なるものを仮定するならば)万物を、その生起すべき姿において直観し給い、その同じ展望において何時いかにして万物を創造すべきかを直観し給うた。彼は何人かのなすであろう最もささやかな祈り、最も些細な善行をももれなく観給い、この祈祷、どの祈念を聞き入れるべきかを直観し給うた。・・・
 かくのごとく神はその最初の永遠の展望において万物を直観し了っていられるのであって、何事といえども今さら何らかの理由でなされるというものはない。すべてはすでにあらかじめなされてしまっていることなのである。それ故神はつねにつねにその不動の離在において存立し給い、しかもそのために人々の祈りと善行が無益になることはない。善く行う人は善く報われるからである。フィリッポスは言う、「創造主たる神は万物を、彼がそれに最初より与え給うた軌道と秩序とに従って維持し給う」と。なぜなら神においては何ものといえども過ぎ去ったものはなく、未来のものもまたない、神はすべての聖者たちを、彼が世界のでき上がる以前に彼らを予見し給いしそのままの姿において愛し給うている。 
◇◇◇

 このようにエックハルトの観るところでも我々の運命はすでに決まっているようだ。ラマナマハルシもいったように、「全ての人の運命は定まっており、我々のもつ唯一の自由は『解脱』(或いはエックハルトの言葉を借りれば『離在』に置き換えても良いかもしれない)に向かって努力を続けることだけ」なのかも知れない。但し、その努力をしようと決意すること、さらにその努力を続けること自体も「運命」なのであろう。

PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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