アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ⑥ カルマヨーガ

2017年03月28日 16時15分30秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 聖書の中で、カルマヨーガに就いて語られている部分が果たして本当にあるのか、殆どの読者が不思議に思われるかも知れないが、筆者もエックハルトの解釈を知り、驚いた次第である。先ずはルカ第10章38/39節から引用する。

◇◇◇
 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村に入られた。するとマルタという名の女がイエスを家に向かえ入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足元に坐って、御言葉に聞き入っていた。
◇◇◇

 この部分に就いて、エックハルトは『神の慰めの書』(相原信作氏訳)で次のように説明している(但し、冒頭部分は省略する)。

◇◇◇
 師たちの教える処によれば、神は精神的方面において、或いはまた感性的方面において、各人の欲望をその極限までも満足せしむべく準備し給うところのものである。神が精神的方面において満足を与え給うことと、感性的方面において満足を与え給うこととは、神を愛する同朋たちにとって、決して同一事ではない。
 感性的方面における満足とは、神が我々に慰藉と歓喜と飽満とを与え給うことであって、これに甘えることは内面的な感性によるところの神を愛する同朋たちの敢えてなさないところである。これに反し、精神的方面における満足は精神に従って生じる。いかなる歓楽によるも魂の最高の部分が歪曲せられず、その歓楽に陥没してしまうことなく毅然としてその上にそそり立っているとき、私はこれを精神的満足と呼ぶのである。けだし被造物に関わる愛と悩みとが魂の最高部分を歪曲せしめえないならば、その部分は精神的満足の状態に在るからである。私は、およそ、それについて感覚が持たれるようなすべてのもの - 神を除いて - を被造物と呼ぶ。
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 多少判りづらいかもしれないが、「感性的」満足とは、五感を通して感じられる感覚的な満足と捉えれば間違いないと思われ、前稿にても触れた「五感」による満足に惑わされ、これに耽ってしまうようなことは、信仰を持つ者が厳に慎むべきことであるが、仮に饗宴などでもてなされることがあったにせよ、五感を超えた、もてなしの気持ち(つまり精神)に対して喜びを見出すようにとの戒めであろう。

 更にここで重要なことは、被造物を「(神を除き、)およそ、それについて感覚が持たれるようなすべてのもの」と定義していることであり、これをヨーガ的な言葉に言い換えれば、「プラクリティ」と言ってよいかと思う。 先を続けよう。

◇◇◇
 さてマルタは言ったのである、「主よ、彼女に命じて我を助けしめ給え」と。憎しみからマルタはこのように言ったのではない。むしろ彼女は愛情からの行為に駆られてそう言ったのである。あるいはまた愛情からの叱責からと言ってもいいである。
 どうしてそうなのか。
 良く聞かれよ。彼女はマリヤが全く歓喜の中に心魂を奪われ、溺れているのを見て取った。マルタはマリヤを、マリヤがマルタを知っているよりもよりよく知っていたのである。何故なら、彼女は十分に生活というものを経歴しているからであり、生活というものはもっとも貴重な認識を与えるからである。生活こそわれわれがこの肉の体の中において受容する一切のもの - 神を除いて - にもまして、歓楽と光明とをよく認識するものなのであり、どうかすると永遠の光明にもまして、より透明な認識を与えるものなのである。・・・
 マルタは実にこのような段階に立っていたのであった。それだからこそ、「主よ、彼女に命じて我を助けしめ給え」といったのである。それは、「私の妹は、あなた様の御傍に坐って御慰めを受け、恍惚としているだけで、もうすでに自分の欲する処を実行しうる能力を得たかの如く思っております。さあ! 一体そんなものかどうか彼女を悟らせてやって下さい、彼女に、立ってあなた様の御傍から離れるように言ってやって下さい」という意味である。・・・ 彼女は、マリヤが陶酔の中にとどまってより高きものに進まないことを恐れたのであった。
 そこでキリストは彼女に答えて言い給うた。「マルタよマルタよ、汝様々なことにより、思い煩いて心労す、されどなくてならぬものは多からず、ただ一つのみ、マリヤは善きかたを択びたり。此は彼女より奪うべからざるものなり」と。
 この言葉をキリストはマルタに対し叱責の調子で言われたのではない、むしろ、彼女に答えて、マリヤは彼女の望むようなものになるはずだと慰め給うたのである。
◇◇◇

 ここでエックハルトは我々の普段の「生活」に関して極めて重要な見解を述べている。繰り返しになるが、「・・・彼女は十分に生活というものを経歴しているからであり、生活というものはもっとも貴重な認識を与えるからである。生活こそわれわれがこの肉の体の中において受容する一切のもの - 神を除いて - にもまして、歓楽と光明とをよく認識するものなのであり、どうかすると永遠の光明にもまして、より透明な認識を与えるものなのである。」

 次にエックハルトは、キリストがマルタを実名で二度呼んだことを次のように説明する。

◇◇◇
 ところでなぜキリストはマルタの名を呼ばれ、しかも二度も彼女の名を呼ばれたのであろうか。イシドルスによれば、神が子となり給うてから彼がいやしくも名をもって呼び給うた人間にして失われし者は、確かに一人もないのである。・・・ 従って、キリストが名をもって呼び給うたことは、ある人間が万物創造以前に父と子と精霊の命の書のなかに、普遍的にその名を記載されていることを、彼が永遠的に知り給うていることを意味すると私は思う。・・・

 次に何故にキリストは「マルタよ、マルタよ」と二度もマルタの名を呼び給うたのであろうか。それは、一切の時間的な善及び永遠的な善にして、いやしくも被造物に与えられ得べきものはことごとくマルタに帰属することを言わんがためである。最初の「マルタ」によって彼女の時間的業作における完全性が示され、次の「マルタ」によって、永遠の祝福に必要なるいかなるものも彼女に欠けてはいないことが示されたのである。
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 つまりキリストはマルタに会う前から、彼女が「十分なる生活の経歴」によって、それなりの境地に達していたことを知っていたことになる。そして次の段落に続く。

◇◇◇
 したがって次の「汝思い煩う」という御言葉は、「お前はさまざまな事物の傍らに立っているが、それらの事物はお前の中にまで入り込んでいるのではない」という意味である。思い煩いをもって立っている者、それはそのすべての活動において少しも惑乱せしめられることなく立つ処の者である。すべての事を秩序正しく永遠の光の模範によってなす物こそ、惑乱せしめられることなき者である。受動的な仕事というものは、人間が外から動かされてするものであるが、能動的な活動といいうるようなものは、彼が理性の命をうけて内部から実践するときにのみありうる。このような人こそ事物の傍にたって事物の中にまで入り込んでいないひとである。彼は事物に密着してはいる、しかも彼ははるかに高く天外に永遠と境を接してたっているかのごとく振舞うのみである。何故ならば、一切の被造物は手段に過ぎないからである。
◇◇◇

 ここの「一切の被造物は手段に過ぎない」という言葉に注目して頂きたい。「被造物」というのは、ヨーガ的な言葉を用いると、プラクリティに相当する。これは、プルシャ即ち真我に対する概念であり、物質や個人の想念、感情、五感までも含まれる。更に、「事物の傍に立っている」ということは、要するに、マルタはプルシャ即ち真我に留まっており、「被造物」即ちプラクリティ(感情や仕事なども含む)に巻き込まれていないということを言っている。これは、ヨーガにおいてもかなり高度な境地であり、或る意味で、「成就」に達していると言ってもよいのではないかと思う。
エックハルトは続いて、「手段」の意味を説明している。

◇◇◇
 手段は二つの意味をもつ。一つはそれなくしては私が神に到達することができない必要欠くべからざるものという意味であって、前述のごとき時間的世界における業作・活動がそれにあたる。かくこのごときものは、我々の永遠の浄福を豪も害しないのである。
 次に第二の意味においては、手段とは、我々がそれから脱却しなければならないものの謂いである。我々が時間的世界の中に於かれたのは、そこにおける理性的な活動によって神に近付き、漸次神に等しくならんがために他ならない。聖ポーロが「時間を脱せよ、日は悪し」(エペソ書第五章十六節参照)と言ったのはこの意味である。「時間を脱する」とは、間断なく神の中へと上昇しゆくことであり、しかも理性的存在たるにふさわしく、即ち決して表象的な差別性においてではなく理性的な賛美すべき真理性においてそうすることである。「日は悪し」とは、日は夜を暗示するのであり、夜というものがなく全然光のみであるならば、日なるものもありえず、無意味である故に、光の生活なる者も、それが夜の暗黒を予想するかぎりはなはだ心細いものであるとの謂いである。・・・
 愛するマルタは実にこのような段階に立っていたのである。さればこそ、「なくてならぬものは唯一つのみ」というキリストの御言葉があったわけである。私とお前とは、時として永遠の光によって包まれ一つとなり、二にして一なるものとなっているとの意である。
◇◇◇

 筆者は上記を読み、これはバガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)で説いているカルマヨーガの内容と極めて類似しているとの感想を持った次第であるが、それは本稿末尾で引用するとして、エックハルトの所説を更に確認しておこう。

◇◇◇
 さて再び元の話に還ろう。それは、愛するマルタ及びすべての神を友とする人々が「思い煩いをもって」(mit deru sorge)- 「思い煩いにとらわれて」 (in deru sorge)ではなく - 生きているということであった。その場合、時間的世界に属する業作はその高貴なること神への没入に劣らないのである。なぜならそれは、我々をば我々の与り得べき最高の恍惚 - ただ神をその赤裸々の本性において直観する場合は除く - にも負けない程度に神にかたく結びつけるからである。さればこそキリストはマルタに、「お前は世間的事物の側に、思い煩いをもって立っている」と言われ、彼女が彼女の卑近な能力をもって煩わしき仕事に立ち向かうことを賞揚し給うたのである。まさに彼女は精神的陶酔の中に己を甘やかせることがなかった、彼女は享楽から遠ざかって立っていたのである。
 我々は我々の業作において三つの点を注意しなければならない。即ち秩序正しく、合理的に、そして意識的に働くようにつとめなければならない。・・・
◇◇◇

 続いて、エックハルトの総括或いは結論めいた部分を引用しよう。

◇◇◇
多くの人々は働くことから解放されるような境地に至り得ることを願っている。私はあえていうが、そのようなことはあり得ないのである。キリストの弟子たちは、精霊を感得し終わって後初めて徳行を実現すべくやっと働きだしたのであった。それ故、マリヤが主の足元に跪いていた時はまだ彼女が学んでいた時であり、まだやっと学校に上がって生活を学び始めた時である。そしていよいよキリストが昇天し給い、彼女が精霊を受けた後において、彼女は初めて奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅し、説教して民を教え、使徒たちに仕えたのである。これをみれば、聖者たちは、真の聖者となる時初めて働きだすのであり、その時こそ彼らが永遠の祝福の城塞をいや堅めに堅めるときなのである。
◇◇◇

 バガヴァッド・ギーターも、その結果に期待することなく、或いはエックハルトの言葉を借りれば「思い煩いにとらわれることなく」定められた行為に専念することで成就に達することが出来ると説く。そこで最後に、ギーターから、カルマヨーガに関連する章句を(その一部であるが)引用して本稿を締め括りたい。 第三章と第四章から。上村勝彦氏の訳に基づく。

◇◇◇
 人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。また単なる[行為の]放擲のみによって、成就に達することはない(3-4節)
 実に、一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、全ての人は、プラクリティ(根本原質)から生ずる要素(グナ)により、否応なく行為をさせられるから。(3-5節)

 諸々の行為は私(訳者註:以下、クリシュナ、至高神を指す)を汚すことはない。私には行為の結果に対する願望はない。このように私を理解する人は諸行為により束縛されない。(4-14節)
 解脱を求めた先人たちは、このように理解して行為をなした。それ故、かつて先人たちが行為したように、あなたも行為をせよ(4-15節)
 行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る人、彼は人間のうちの知者であり、専心してすべての行為をなす者である。(4-18節)
 彼の企てがすべて欲望と意図(願望)を離れ、彼の行為が知識の火により焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ(4-19節)
 行為の結果への執着を捨て、常に充足し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していても、何も行為をしていない。(4-20節)
 願望なく、心身を制御し、すべての所有を捨てた人は、ただ身体的行為をなしつつ、罪に至ることはない。(4-21節)
 たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。(4-22節)
 執着を離れ、[束縛から]解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為する人にとって、その行為は完全に解消する。(4-23節)
◇◇◇

ギーターは「無執着」或いは結果の「放擲」を強調しているので無論エックハルトの所説と全く同じとは言えないが、筆者は相通ずるものがあるように思う。読者諸賢はどのように感じただろうか? 

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