アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第3章 アウグスティヌスと告白 ⑤ 宗教遍歴 (1)

2016年03月26日 20時39分05秒 | 第3章 アウグスティヌスと告白
 『告白』によると、アウグスティヌスはローマ時代の哲学者で雄弁家としても著名なキケロの『ホルテンシウス』を読んで、哲学、愛知の精神に目覚めたと書かれている。彼は、真理とは何か、知恵とは何かを問い続ける。キリスト教徒の母、モニカが「真理」という言葉を口にしていたことを思い出し、聖書を読み始めるが、どこに真理が書いてあるのか良く判らない。 そこで、彼は、当時北アフリカでキリスト教と並んで大きな組織を持ち、人々の間に広く普及していたマニ教に近付く。

 この辺りのくだりを、宮谷宣史氏の『アウグスティヌス』(以下、同書)から引用する。

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 聖書の中に真理がないとすれば、何処に求めたらいいのか。アウグスティヌスは当惑し、早くも船を暗礁へ乗り上げたような心地であった。そこで彼は、当時北アフリカでキリスト教と並び、大きな組織を有し、広く人々の間に普及していたマニ教に近付く。マニ教は特に、若者や知識階級のなかに多くの信奉者を得ていた。マニ教徒たちは、キリスト教が教会の権威を重んじるのに対し、理性を尊ぶような印象を人々に与えており、巧妙な話術を得意とし、美しい文章などを用いて真理について語っていた。いくつかの宗教や哲学思想を利用して一つの体系を組み立てて、自分らこそ真理の所有者であると誇り、真理こそ一番大切だと力説するのが彼らの口ぐせで、この点にまずアウグスティヌスの心は動かされた。そして、これ以後九年近くにわたり、マニ教と関わることになった。
 マニ教は書物の宗教、宣教の宗教、組織の宗教と言われた。信者同志はきわめて親密な人間関係で互いに結ばれていた。アウグスティヌス自身もカルタゴで、またローマでもマニ教徒たちの支援を受け、その友情のあたたかさを味わった。
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ここで、一旦マニ教とはどんなものか、ウィキからも簡潔に引用しておく。
 
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マニ教は、ササーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)を開祖とする二元論的な宗教である。ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲んでおり、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者のいない、消滅した宗教と見なされてきたが、今日でも、中華人民共和国の福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられている。
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 アウグスティヌスが修辞学教師となるため、カルタゴに留学していたことは前稿にても触れたが、家庭教師として身を立てる為に一旦故郷の町、タガステに戻るが、そこで親友が熱病で病死する。その親友は病床で洗礼を受けてキリスト者になったので、アウグスティヌスは病床の彼を非難し、マニ教を勧める。しかし、死の床にあって、その親友はアウグスティヌスの軽率な言葉を諫めたという。アウグスティヌスは、親友の言葉と死にショックを受けた。

 その後アウグスティヌスは修辞学教師として再度カルタゴに戻る。22歳の時である。そこで、彼は残してきた女性と妻子、更に母モニカとお新しい生活を始めるのだが、彼は早く有名になることを密かに期待していた。以下、同書からの引用である。

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 古代においては、詩のコンクールがしばしば催された。・・・アウグスティヌスは何度か応募し、競技に挑戦した。彼は人々の注目と称賛を受けることに憧れ、懸賞付きの作詩に優勝を狙い、また弁論のコンテストで入賞の栄誉を目当てに競うことを好んだ。そして実際アウグスティヌスは幾度か勝利の冠を手中にすることができ、その度にますます、名声獲得への欲望を駆り立てられた。
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 アウグスティヌスは、勝利の美酒に酔いながらも、しばしば死んだ友のことを思い起した。善良な人間が何故死んだのか、この問いには誰も答えてくれず、自分で思索しても判らなかった。そんな時、カルタゴの町の占星家が彼の興味を惹いた。彼らによると、人間の吉凶、幸不幸は、その人の生れ落ちたときから、ある星の運行により定められており、人生の個々の出来事も星によって占いうるというのである。又、これはマニ教との教えとも共通した要素を持っていた。しかし・・・

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さてアウグスティヌスは占星術を通して天体に興味を抱き、ギリシアの天文学を学ぶ。そこには彼が今まで知らなかった多くの新しいことが見出された。そしてそのことにより、彼は皮肉にも占星術は人間の思い付きや偶然に基づく、あいまいな教えであることに気付く。・・・彼はもう一度問い始める。友情とは、愛とは、真理とは何か、確実なものはないのか・・・と。少なくともこのような経験を通して、アウグスティヌスは深く考えることをせず、何気なく日々を過ごしたり、思い付きや単純な思考で物事を捉えていては、本当のもの、確実なことなど理解し得ない、と反省し、もっと深く多く学ぶ必要を痛感し、今一度新たに愛知の情熱を燃やした。
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 ここで再度アウグスティヌスは、マニ教への疑問に突き当たる。

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 天文学の知識を深めていくうちに、アウグスティヌスは天体に関するマニ教の教理が占星術家の主張と同様、不確かなものであることに気付く。マニ教の教師たちに質問したが答えは与えれなかった。・・・彼らは言った。我々は納得のいく返事ができない。だがまもなく此処に来る有名なマニ教の指導者、ファウストゥスなら、あらゆる疑問を解決し、納得いく説明をしてくれるにちがいない。・・・
 アウグスティヌスは彼に直接会う機会を得、疑問を打ち明けた。質問を聞き終えたファウストゥスは、「私にはこたえられない」と答えた。アウグスティヌスは落胆したものの、自己の無知をごまかさず、素直に認める、その飾らない謙虚な姿勢に感心した。そして二人は互いに学び、語り合うため、いろいろな本を一緒に読むような仲になった。
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 参考までに、『告白』の中で、アウグスティヌスがマニ教に就いて疑問に思った理由を一つだけ挙げてみる。第三巻、第七章からである。

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 わたしは、また慣習によるのではなく、全能な神のもっとも正しい法によって裁く内心の真の義を知らなかった。この法によって各地方および各時代の風習はそれぞれの地方や時代においてつくられるのであるが、しかもこの法そのものはつねにいたるところにおいて同一であり、時と処に応じて異なることはない。・・・ところが彼らは、人間の審判によって裁き、自己の習俗を基準として、人類のあらゆる習俗を評価する浅慮な人たちによって不義と定められた。・・・
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 その後、アウグスティヌスはローマに向かい、そこで懐疑主義に共鳴する。以下同書から。

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 当時ローマでは、キリスト教よりもヘレニズムの哲学が親しまれていた。アウグスティヌスもそのような雰囲気のなかで、再びキケロに接した。・・・このたび手にしたのは『アカデミア』という書物で、会議思想を説いたものであった。それは新アカデミア派とも呼ばれ、人間は賢く生きなければならない。賢者は全てのものをそのまま信じないで疑う。人は自己の感覚に基づいてものを見て、考え、判断するゆえに、それは主観的、個人的、相対的、不確実であり、普遍性、絶対性をもたない。したがって人間が真理を確実に知ることは不可能である、と主張する。これはストア哲学、つまり神玄は宇宙の原理を知り得るし、それに従って生きる時に幸福であるという教えや、真理を既製品のように唱えるマニ教などに対立するものであった。懐疑主義によると、人間は幸福になるために真理を獲得したり、確実な知識を所有しようとする思いを捨て、途中で思考を停止し、実際的には蓋然性に満足して生きるべきである。この教えが、キリスト教はもちろんマニ教にも失望していたアウグスティヌスに共感を呼び起こしたことはある意味で当然と言えよう。
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 以上は、彼が29歳頃の話である。その後32歳になって、ふとした機会にプラトン派の書物を入手してそれを読む。プロティノスとポルフュリオスなど、所謂新プラトン主義者の作品である。

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 アウグスティヌスはこれまでマニ教の影響で、形ある物体的な存在しか信じることができなかったが、新プラトン主義は彼に、不可視的なものの存在を教えた。人間は肉体を所有しているがゆえに、物質的存在であるが、同時に理性や霊魂をももっているゆえに、物体を超越したものについても思惟することができる。例えば、真とか善とか美とか価値、幸福に就いて。物質的なものは変化するが非物質的なものは不変である。変化しないものは変化するものよりすぐれている、と真プラトン派は説く。真の存在はしたがって変わらないもの、永遠で完全なものである。そのようなものの存在する世界をイデア界と呼び、そのなかで最高善、美そのもの、永遠、存在自体、万物の根源は神と見なされる。神は一者とも呼ばれ、この世の創造者であり、そして霊的存在者としてこの世に流出してゆき、人間の魂と交流する。物質的世界に関わっている人間は神からもたらされる光に照射され、霊的世界に目を開かれ、その魂は英知界へと上昇し、最後は一者と神秘的な結合をするに至る。この結合は人間が真の自己に帰ることを意味する。この結合は人間にとって最高の喜びであり、また幸福である。
 アウグスティヌスは新プラトン主義によってマニ教の唯物観を克服し、霊的世界と神の存在についての新しい認識を与えられた。しかもそれは教会で聞いていたキリスト教の教え、聖書の内容とも類似していたので、彼の関心を自然に呼び起こした。
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 そしてこの新プラトン主義との出会いが、彼を回心に導くことになるが、それは別途詳述して見たい。

 アウグスティヌスと比べると筆者の若い頃の人生観や宗教に対する考え方は余りにも浅薄で恥ずかしい限りだが、筆者の宗教遍歴についてもここで少し触れておきたい。

 以前にも少し触れたが、筆者は商家に生まれ、特に信仰について小さい頃から教育を受けた記憶は殆ど無いが、幼稚園がキリスト教系であり、キリストのエピソードを園長先生から聞いたことと、学芸会で聖書に由来する劇を演じたことだけはおぼろげながら記憶している。又家族は商家だけあって、どちらかと言えば実利優先であり、何か重要な節目には、清水から東京まで汽車に乗り、中央線沿線にある「或る教会」(以後、某教会)に相談に行って、修業を積んだ霊能者の先生から、どの神様にどのような方法でお願いしたら良いのか、「お告げ」を頂くのを常としていた。そのお告げの効力たるや抜群で、筆者は静岡の附属小学校、附属中学、静岡高校と順調にその地区の名門校に合格していった。
 高校2年の春の頃だったと記憶している。清水から静高に通っていた顔見知りの先輩が、AFSの海外留学の試験にパスして、一年間米国の高校で過ごすことになったとの話を偶々耳にした。それを聞いて、自分もその留学の試験を受けて見たくなり、暫くの間キリスト教の宣教師のお嬢さんに、英語の発音を見て貰ったりしていた。というのも、筆者は英語の文法や読解は比較的得意としていたが、生来(音感も含め聞き取りの)耳は余り良い方ではなく、発音も余り得意ではなかった為である。因みに、筆者は30代に商社マンとして数年間にわたる米国転勤を経験したが、依然として発音・聞き取りとも余り得意ではない。それでも某教会に行って、お願いし、それなりのご作法をしたり護符を焼いて飲んだりした上で、留学試験に臨んだら、奇跡的にその試験に受かり、1年間米国の高校に留学することになった。
 米国留学を終えて1年後に日本に戻ると、既に7月であり、受験まであと半年強しか残っていない。一方AFSに留学した先輩は、帰国後東大の法学部に受かったという。その先輩に助言を頂くべく、話を聞きに行くと、東大の法学部は最難関との先入観を皆が持っているので、結構倍率が低く、穴場なのだと言う。そこで筆者は、大学で何を勉強したいのか、又将来何になりたいのか、自分の適性も含め深く考えもせず、非常に安易に東大法学部を受験することに決めてしまった。ここでも某教会の「神頼み」で、東大一本に絞って受験したら、又合格してしまった。 この後の展開は次稿に譲ることにした。

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