「ふーぅむ・・・(ゼーハー)。こんな・・・ところで・・・・(ゼーハー)良いかな・・・。良いよね?」
カマキリ男は、派手に踏み続けてすっかり息が上がってしまったのか、途切れ途切れに言葉を絞り出していた。赤いジャケットの肩が激しく上下している。観客は興奮の絶頂を通り越し幾分熱が冷めたのか、皆陶酔したかのような白い薄ら笑いを浮かべながら、弱々しく拍手をした。
「そうだ、忘れてた。」
カマキリ男は、 . . . 本文を読む
目が明かりに慣れてくると、自分が劇場の舞台に立っていることに気づいた。赤い絨毯は引かれたままだが、壁やドアが今まさにスタッフにより撤収されており、黒い天井から吊るされた白熱灯だけがひとつ残されている。奥のほうにあるライトが、舞台上のカマキリ男と僕を白々と照らしていた。
客席では、黒い燕尾服に蝶ネクタイを締めて紳士然としている男達や、照明の光にギラギラと輝く派手なドレスに身を包んだ女達が、やけに白 . . . 本文を読む
「やあ、フジエタカシ君。」
カマキリ男が再び僕の名前を呼ぶ。こちらの反応を見るようにしばらく黙っていたが、僕が沈黙し、動く気配がないと見て取ると、安心したかのように話し始めた。
「君は驚いている。何でこんなトコにいるのか。そしてこのイカした紳士はだれなのか。何で自分の名前を知っているのか。そうだろう?それは仕方ない。誰だっていきなりこんなトコに連れてこられたら、そりゃあ驚かなきゃいけないだろう . . . 本文を読む
夜気が肌を冷やしていく。
僕は、露に濡れた木の根っこに足を取られたりしながら、月の光を頼りに木々の間を走る。白い道はすでに道ではなくなって、黒い土がヌメヌメと闇を作っていた。深淵に落ちて行くかのように、僕の体は林の奥へと吸い込まれて行く。
いきなり、カバンが木の枝に引っかかって、僕は勢いよく転がり込んでしまった。肩と背中を強く打ち、一瞬、呼吸ができなくなる。引っ張られた肩から腕がジンジンとしび . . . 本文を読む
暗がり森の駅は、チカチカと煩く瞬く蛍光灯と、2つの暗い街灯に照らされた小さな駅だった。電車が完全に止まり、客車のドアが開く。すこし段差があるホームに降りると、秋の虫の音がアフリカの音楽のように広がっていた。駅の明かりと、電車の窓から漏れる光だけが闇との境界を描き、世界の存在を示している。
車掌が運転席から降り、ハンカチで汗を拭きながら、僕の目の前に来た。
「あれ、君一人なの?お父さんとかお母さ . . . 本文を読む
間違った電車に乗ったらしい。
海のほうへ向かうはずが、川の上流に向かっているようだ。
どんどん街が小さくなって、あっという間に川と田んぼしか無くなってしまった。川辺の石達はゴツゴツした険しい表情で空を睨み付けているし、流れだって負けじとガオガオと白い渦を吐き出している。それで僕がどうしたかというと、どうってことはない。さっきから窓に顔を寄せて景色を見ている。元々行く場所なんて何処でも良かったんだ . . . 本文を読む
天気予報の通り、次の日は朝から猛吹雪になった。
夜と朝の間が取っ払われ、8時を過ぎても部屋の中は薄暗い。
刺さるような風が、凍りついた窓をガタリガタリと揺らし、
建物自体が老いた獣のように不穏なうなり声を上げていた。
寿屋の朝食は塩鮭、玉子巻、味付海苔、納豆、お新香、味噌汁と、
いかにも日本の朝食という感じで、僕の好みだ。
「橋はどうなんでしょうかね。」
納豆をかき混ぜながら、女将さん . . . 本文を読む
5限目が終わり、僕は大きく伸びをすると、すぐに教室を後にした。
学校から家まではそれなりの距離があるため、自転車で通学をしている。
割と大きな橋を渡り、古びれた商店や酒の醸造所のある、
ひなびた直線道路をしばらく走ったあと、公園の脇を上る坂道に出る。
土ぼこりで汚れた車と肌色のバスがゆっくりとすれ違い、
東北の田舎町の春を詠うように、桜の花が軒先から薄桃色の顔を出していた。
日が傾きはじめて . . . 本文を読む
その年の春は、いつもより暖かかったことを覚えている。
学年が一年進み、教室が変わった。
それ以外に大きな変化という変化もなく、高校時代は過ぎようとしている。
たぶん、僕らが高校で学んだことと言うのは、
時間通りに始まり、時間通りに終わる規則正しい生活態度や、
学ぶとも無く詰め込まれる機械的な授業でもなく、
社会という、あらゆる場面で破綻した巨大な演劇装置に対して、
自分の役回りを正しく見定め、 . . . 本文を読む
真夜中。
吹雪が世界を風に変える。
雪原の表面を削るように吹く地吹雪に巻き込まれ、
雪はまるで天に向けて降っているようだ。
ゴオォォォォォ。ヒヨゥオォォ。
視界の中には、絶えず抽象的な流動を見せる
グレーの点、点、点・・・、無数のうごめく点と、闇のみが存在している。
それは視覚の音楽のように、我々の感覚を徐々に麻痺させていくのだ。
「・・・ン・・・・・・・・セ、・・・・・。」 . . . 本文を読む
20歳を超えたぐらいだろうか。
特徴のない顔をしている。
眼が大きいわけでもなく、鼻が高いわけでもない。
頬からあごにかけてのラインがふっくらしており、痩せ型とは言えなそうだ。
髪は、しばらく伸ばしっぱなしらしく、手入れがされている感じではない。
不精ひげが伸びている。
背はだいたい175cm程度、逞しいというほど筋肉質ではない。
男性的な肩の張りや、骨格の頑丈さは一般的なレベルだし、
ペニ . . . 本文を読む
コンコンと、襖をたたく音が聞こえた。
「夕食の準備ができましたから、鶴の間に来てください。」
女将さんが呼びにきたということは、18時なのだろう。
部屋はもうすっかり暗くなっている。
「は、あい。」
僕はボーっとした頭でなんとか返事をする。
防寒具すら脱がずに寝てしまったらしい。
眠い目をこすり、あくびをしながらノロノロと脱ぎ捨てる。
手足を伸ばした後、重い足を引きずるようにし . . . 本文を読む
自分。
民宿で眠りに付いた僕は、
自分自身が無くなっていくという、不可思議な感覚に襲われた。
僕は、半透明の、かろうじて人型を保っている不定形の存在になり、
日が落ちて暗くなった部屋の、床の間の方をじっと見ている。
半身を起こした状態で必死に体を動かそうとするのだが、うまく動かない。
立とうと努力をしているのだが、体全体が重くて腕さえ上がらない。
何度か努力をした後、
僕は動こうと思う . . . 本文を読む
僕は「あんまりお勧めできるようなものじゃない」という評価の、
寿屋(ことぶきや)という民宿に泊まることになった。
快適な宿泊施設のある隣街へは、結局行けなかったのである。
こんなことがあった。
雪原から森の中を登る道へ入り、しばらく行ったあたりで、
坂道の上の方から、六、七人がスコップを片手に道を下って来た。
「何かあったんだろうかね。」
軽トラックを運転していた男は、眉間に皺を . . . 本文を読む